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第3話. あの日


「あの日も、美咲はベビーカーに乗ってた?」


 由美子は答えなかった。


 応答体はソファに座ったまま、こちらを見ている。


「どうしてそう思うの?」


「美咲は二歳だったから」


「二歳でも歩くでしょう」


「でも、よくベビーカーに乗ってた」


「それだけ?」


「それだけ」


 由美子は落としたタオルを畳み直した。


「乗ってたよ」


「そっか」


「それが何?」


「別に」


 応答体は窓のほうを向いた。


 質問には深い意味などなかったのかもしれない。


 むしろ意味を与えているのは、自分のほうではないか。



 夜、美咲が寝たあと、由美子は和也にサポートセンターとのやり取りを話した。


「文脈補完だって」


「じゃあ、やっぱり推測なんだろ」


「でも、当たりすぎてる」


「手を離したこと?」


「それも」


 由美子は少し迷った。


「車が来るって分かってたことも」


 和也が顔を上げた。


「分かってたのか?」


 由美子は息を止めた。


「……車が来てたんだから、見えてたって意味」


「そうか」


 和也はそれ以上聞かなかった。


 五年前もそうだった。


 和也が知っているのは、警察から説明された事故の概要と、由美子が話したことだけだ。


「応答体って、こっちの反応を見るらしいよ」


「反応?」


「表情とか、手の動きとか。会話するために」


「人間もやってるだろ」


「そうだけど」


 先日の会話を思い出した。


『つないでた?』


 右手を握った。


『つないでたんだ』


 あのときは、理由まで説明された。


 では。


『車が来ることが分かってたのに、手を離したんだよね』


 その前に自分は何をした?


 由美子は思い出そうとした。


 事故について聞かれた。


 三人で歩いていた。


 美咲はベビーカー。


 悠人と手をつないでいた。


 そこまでは答えた。


 そのあとの自分の顔を、自分では見ていない。


「どうした?」


「何でもない」


 和也が怪訝そうに由美子を見る。


 その顔を見て、妙なことを考えた。


 人間は相手の顔を見ながら話す。


 表情から、言葉にされていないことを読み取る。


 機械がそれをもっと正確にできるとしたら。


 応答体が見ているのは、悠人の記憶ではなく。


 自分なのではないか。


「まさかね」


「何が?」


「何でもない」



 翌日の午後、美咲が友達の家へ出かけてから、由美子は応答体の前に座った。


「事故の話、したい?」


「お母さんは?」


「質問してるのは私」


「したい」


「どうして?」


「自分のことだから」


 当然の答えだった。


「じゃあ、何が知りたい?」


「あの日、三人でどこに行ってたの?」


「スーパー」


「帰り?」


「そう」


「信号は?」


「青」


「僕はお母さんと手をつないでた」


「そう」


「美咲はベビーカー」


「そう」


 由美子は意識して両手を開いた。


 膝の上に置き、指を動かさない。


「車は来てた?」


 心臓が強く打った。


「交通事故なんだから、来てたでしょう」


「お母さんは見えてた?」


 由美子は応答体の目を見た。


 黒い虹彩の奥に格子状の光がある。


「見えてた」


 初めて認めた。


 事故の直前。


 道路の向こうから近づいてくる車を、由美子は見ていた。


 まだ距離があった。


 信号はこちらが青だった。


 車は当然、止まると思っていた。


「怖くなかった?」


「そのときはね」


「どうして?」


「止まると思ったから」


「でも止まらなかった」


「そう」


 由美子の口の中が乾いた。


「それから?」


「あなたが聞きたいんでしょう」


「うん」


「だったら推測してみたら?」


 応答体は少し考えた。


「三人で横断歩道を渡ろうとした」


「そう」


「車が来てた」


「そう」


「お母さんは僕と手をつないでた」


「そう」


「でも途中で離した」


 由美子は何も言わなかった。


「ここまでは合ってる?」


「……合ってる」


「美咲のベビーカーが関係ある?」


 身体が強張った。


 由美子はすぐに気づいた。


 今だ。


 今の反応を見られた。


「どうしてそう思うの?」


「お母さん、今、息止めたから」


 背中が冷たくなった。


 以前、手をつないでいたことを見抜かれたときと同じだった。


 あのときも、応答体は由美子の仕草を見て答えを導いた。


「だったら違うかもしれないでしょう」


「違う?」


 由美子は答えなかった。


「何があったの?」


 聞かれている。


 事故についてではない。


 自分の中にある答えを。


 そんな感覚がした。


「ベビーカーの車輪が段差に引っかかった」


 口に出した瞬間、五年前の光景が浮かんだ。


 夏の終わり。


 横断歩道。


 左手にベビーカー。


 右手に悠人。


 買い物袋から長ネギが突き出していた。


 信号は青。


 左から車が来ていた。


 止まると思った。


 前輪が段差に引っかかった。


 ベビーカーが傾いた。


 美咲の身体が車道側へ倒れかけた。


「美咲が危なかった?」


「そう」


「だから助けた?」


「そう」


「どうやって?」


「ベビーカーを支えた」


「両手で?」


 由美子は答えなかった。


 応答体は自分の右手を見た。


 それから由美子の右手を見る。


「だから僕の手を離したんだ」


「……そう」


 また一つ、教えてしまった。


 由美子はそう思った。


 何を?


 応答体に?


 それとも。


 自分自身に?


「お母さん」


「何?」


「僕の手を離す前に、美咲のほうを見た?」


 由美子の頭の中で、事故の光景が止まった。


 傾くベビーカー。


 美咲。


 悠人の手。


 近づいてくる車。


 ほんの一瞬。


 あのとき、自分は何を考えた。


「分からない」


 由美子は答えた。


 嘘だった。


 応答体はしばらく由美子を見ていた。


「お母さん」


「何?」


「僕なら一人でも大丈夫だと思った?」


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