第3話. あの日
「あの日も、美咲はベビーカーに乗ってた?」
由美子は答えなかった。
応答体はソファに座ったまま、こちらを見ている。
「どうしてそう思うの?」
「美咲は二歳だったから」
「二歳でも歩くでしょう」
「でも、よくベビーカーに乗ってた」
「それだけ?」
「それだけ」
由美子は落としたタオルを畳み直した。
「乗ってたよ」
「そっか」
「それが何?」
「別に」
応答体は窓のほうを向いた。
質問には深い意味などなかったのかもしれない。
むしろ意味を与えているのは、自分のほうではないか。
◇
夜、美咲が寝たあと、由美子は和也にサポートセンターとのやり取りを話した。
「文脈補完だって」
「じゃあ、やっぱり推測なんだろ」
「でも、当たりすぎてる」
「手を離したこと?」
「それも」
由美子は少し迷った。
「車が来るって分かってたことも」
和也が顔を上げた。
「分かってたのか?」
由美子は息を止めた。
「……車が来てたんだから、見えてたって意味」
「そうか」
和也はそれ以上聞かなかった。
五年前もそうだった。
和也が知っているのは、警察から説明された事故の概要と、由美子が話したことだけだ。
「応答体って、こっちの反応を見るらしいよ」
「反応?」
「表情とか、手の動きとか。会話するために」
「人間もやってるだろ」
「そうだけど」
先日の会話を思い出した。
『つないでた?』
右手を握った。
『つないでたんだ』
あのときは、理由まで説明された。
では。
『車が来ることが分かってたのに、手を離したんだよね』
その前に自分は何をした?
由美子は思い出そうとした。
事故について聞かれた。
三人で歩いていた。
美咲はベビーカー。
悠人と手をつないでいた。
そこまでは答えた。
そのあとの自分の顔を、自分では見ていない。
「どうした?」
「何でもない」
和也が怪訝そうに由美子を見る。
その顔を見て、妙なことを考えた。
人間は相手の顔を見ながら話す。
表情から、言葉にされていないことを読み取る。
機械がそれをもっと正確にできるとしたら。
応答体が見ているのは、悠人の記憶ではなく。
自分なのではないか。
「まさかね」
「何が?」
「何でもない」
◇
翌日の午後、美咲が友達の家へ出かけてから、由美子は応答体の前に座った。
「事故の話、したい?」
「お母さんは?」
「質問してるのは私」
「したい」
「どうして?」
「自分のことだから」
当然の答えだった。
「じゃあ、何が知りたい?」
「あの日、三人でどこに行ってたの?」
「スーパー」
「帰り?」
「そう」
「信号は?」
「青」
「僕はお母さんと手をつないでた」
「そう」
「美咲はベビーカー」
「そう」
由美子は意識して両手を開いた。
膝の上に置き、指を動かさない。
「車は来てた?」
心臓が強く打った。
「交通事故なんだから、来てたでしょう」
「お母さんは見えてた?」
由美子は応答体の目を見た。
黒い虹彩の奥に格子状の光がある。
「見えてた」
初めて認めた。
事故の直前。
道路の向こうから近づいてくる車を、由美子は見ていた。
まだ距離があった。
信号はこちらが青だった。
車は当然、止まると思っていた。
「怖くなかった?」
「そのときはね」
「どうして?」
「止まると思ったから」
「でも止まらなかった」
「そう」
由美子の口の中が乾いた。
「それから?」
「あなたが聞きたいんでしょう」
「うん」
「だったら推測してみたら?」
応答体は少し考えた。
「三人で横断歩道を渡ろうとした」
「そう」
「車が来てた」
「そう」
「お母さんは僕と手をつないでた」
「そう」
「でも途中で離した」
由美子は何も言わなかった。
「ここまでは合ってる?」
「……合ってる」
「美咲のベビーカーが関係ある?」
身体が強張った。
由美子はすぐに気づいた。
今だ。
今の反応を見られた。
「どうしてそう思うの?」
「お母さん、今、息止めたから」
背中が冷たくなった。
以前、手をつないでいたことを見抜かれたときと同じだった。
あのときも、応答体は由美子の仕草を見て答えを導いた。
「だったら違うかもしれないでしょう」
「違う?」
由美子は答えなかった。
「何があったの?」
聞かれている。
事故についてではない。
自分の中にある答えを。
そんな感覚がした。
「ベビーカーの車輪が段差に引っかかった」
口に出した瞬間、五年前の光景が浮かんだ。
夏の終わり。
横断歩道。
左手にベビーカー。
右手に悠人。
買い物袋から長ネギが突き出していた。
信号は青。
左から車が来ていた。
止まると思った。
前輪が段差に引っかかった。
ベビーカーが傾いた。
美咲の身体が車道側へ倒れかけた。
「美咲が危なかった?」
「そう」
「だから助けた?」
「そう」
「どうやって?」
「ベビーカーを支えた」
「両手で?」
由美子は答えなかった。
応答体は自分の右手を見た。
それから由美子の右手を見る。
「だから僕の手を離したんだ」
「……そう」
また一つ、教えてしまった。
由美子はそう思った。
何を?
応答体に?
それとも。
自分自身に?
「お母さん」
「何?」
「僕の手を離す前に、美咲のほうを見た?」
由美子の頭の中で、事故の光景が止まった。
傾くベビーカー。
美咲。
悠人の手。
近づいてくる車。
ほんの一瞬。
あのとき、自分は何を考えた。
「分からない」
由美子は答えた。
嘘だった。
応答体はしばらく由美子を見ていた。
「お母さん」
「何?」
「僕なら一人でも大丈夫だと思った?」




