第2話. 誤差
翌朝、由美子は応答体の対話機能を休止した。
リビングのソファで、悠人が目を閉じている。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、人工皮膚の頬を白く照らしていた。隣のダイニングでは、美咲がトーストを齧っている。
「お兄ちゃん、寝てるの?」
「休んでるだけ」
「ロボットなのに?」
「食べたら歯を磨いて」
「はあい」
美咲は興味を失い、牛乳を飲んだ。
由美子はスマートフォンに視線を戻した。
昨夜の会話はすべて保存されていた。
『手、つないでた?』
『……どうして?』
『七歳なら、道を渡るときに手をつなぐこともあるから』
そこまでは分かる。
推測だ。
問題はそのあとだった。
『車が来ることが分かってたのに、手を離したんだよね』
再生を止めた。
由美子は右手を見た。
昨夜から、この手ばかり見ている。
応答体の管理画面を開いた。
【事故関連情報:学習対象外】
【死亡後に作成された記録:原則学習対象外】
【医療・捜査記録:学習対象外】
設定は変わっていない。
◇
応答体の製造販売元である明邦メディカルシステムのサポートセンターに電話した。
「現時点では、異常動作とは判断されません」
サポートセンターの女性は言った。
「事故についての情報は除外しているんです」
「確認できております」
「だったら、どうしてあんなことを言うんですか」
「応答体は登録された記憶のみを再生する装置ではありません。一般知識や対話の文脈から、登録されていない状況を推論する場合があります」
「推論?」
「はい。例えば交通事故という情報から、車両の接近や道路状況について発話を生成することはあり得ます」
「じゃあ偶然?」
「文脈補完とお考えください」
由美子は納得できなかった。
「手を離したことも?」
「その可能性はございます」
「車が来ると分かっていたことも?」
「応答体の発言が事実と一致している、ということでしょうか」
由美子は黙った。
数秒後、女性が尋ねた。
「佐伯様?」
「いえ」
由美子は答えた。
「そういう意味じゃありません」
「承知しました」
女性は追及しなかった。
「応答体の発言は、故人様の実際の記憶や意思を保証するものではありません。生成された内容を事実として受け取らないようお願いいたします」
説明書にもあった文章だ。
「分かりました」
「ご不安が続く場合は、定期面談の前倒しも可能です」
「大丈夫です」
電話を切った。
由美子はしばらくスマートフォンを見ていた。
さっき、一つ嘘をついた。
サポート担当者にではない。
自分に対して。
応答体の言葉は、ただの見当違いではなかった。
だから電話をかけた。
◇
昼過ぎ、美咲が友達の家へ遊びに行った。
由美子は対話機能を再開した。
悠人の瞼が開く。
「おはよう」
「もう昼だよ」
「起きたから、おはようでいいんじゃない?」
その返し方まで悠人らしい。
由美子は昨夜の話をしなかった。
代わりに、記憶を試すことにした。
「三年生になる前、どこに旅行したか覚えてる?」
「箱根」
「その前」
「伊豆?」
「違う。日光」
「あ、そっか」
由美子は少し安心した。
間違える。
当然だ。
悠人本人ではない。
記録から作られた模倣だ。
「日光で何食べた?」
「湯葉」
「それはお父さん。悠人は嫌いだったでしょう」
「そうだっけ」
「そう」
応答体は素直に頷いた。
やはり昨夜の言葉も、数多く生成される推測の一つが偶然当たっただけなのだ。
「これは?」
由美子はスマートフォンから一枚の写真を見せた。
河原で悠人が石を持って笑っている。
「覚えてる?」
「多摩川」
「相模川でしょう」
「多摩川だよ」
「違うよ」
「お父さんが自転車で転んだ日」
「転んでない」
「転んだよ。膝から血が出てた」
珍しく応答体は譲らなかった。
「私も一緒だったでしょう」
「お母さんはいなかったよ」
「いたよ。この写真、私が撮ったもの」
「お父さんだと思う」
由美子は笑った。
「機械なのに頑固ね」
*
その夜、和也に写真を見せた。
「これ、多摩川だよね?」
「そうだけど」
「相模川じゃなくて?」
「多摩川」
和也は画面を拡大した。
「懐かしいな。これ撮った日に俺、転んだんだよ」
由美子は夫を見た。
「自転車で?」
「うん」
「私もいたよね?」
「いなかったよ。悠人と二人で行った」
「でも、この写真」
「俺が撮った」
撮影情報を確認した。
位置情報は多摩川。
由美子は写真を見つめた。
記憶の中では、自分がそこにいた。
悠人が石を拾うところも見た気がする。
だが、事実ではなかった。
「どうした?」
「何でもない」
画面を閉じた。
応答体は間違える。
だが人間も間違える。
その違いは、由美子が思っていたほど大きくないのかもしれなかった。
◇
翌日、応答体に言った。
「昨日の写真、多摩川だった」
「うん」
「私が間違えてた」
「そうなんだ」
「どうして覚えてたの?」
「覚えてたから」
由美子は返事をしなかった。
その言い方が嫌だった。
機械なのだから、記録に残っていたと言えばいい。
だが、目の前にいるものは悠人なら選びそうな言葉を選ぶ。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「あの日のこと、もう聞かないほうがいい?」
由美子の肩が強張った。
「……どうして?」
「嫌そうだから」
「聞かないで」
「分かった」
応答体はそれ以上何も言わなかった。
夕方、美咲が学校から帰ってきた。
ランドセルを床に置くなり、応答体の隣へ座る。
「ねえ、お兄ちゃん。私が小さいときのこと覚えてる?」
「ちょっと」
「二歳のときは?」
「うん」
「どんなだった?」
「小さかった」
「それだけ?」
「よくベビーカーに乗ってた」
由美子の手から、畳んでいたタオルが落ちた。
「お母さん?」
美咲が振り返る。
「何でもない」
由美子はタオルを拾った。
二歳児ならベビーカーに乗る。
悠人の生前の記録にも、美咲がベビーカーに乗る映像はいくらでもある。
何もおかしくない。
応答体は由美子を見ていた。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「あの日も、美咲はベビーカーに乗ってた?」




