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第2話. 誤差


 翌朝、由美子は応答体の対話機能を休止した。


 リビングのソファで、悠人が目を閉じている。


 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、人工皮膚の頬を白く照らしていた。隣のダイニングでは、美咲がトーストを齧っている。


「お兄ちゃん、寝てるの?」


「休んでるだけ」


「ロボットなのに?」


「食べたら歯を磨いて」


「はあい」


 美咲は興味を失い、牛乳を飲んだ。


 由美子はスマートフォンに視線を戻した。


 昨夜の会話はすべて保存されていた。


『手、つないでた?』


『……どうして?』


『七歳なら、道を渡るときに手をつなぐこともあるから』


 そこまでは分かる。


 推測だ。


 問題はそのあとだった。


『車が来ることが分かってたのに、手を離したんだよね』


 再生を止めた。


 由美子は右手を見た。


 昨夜から、この手ばかり見ている。


 応答体の管理画面を開いた。


【事故関連情報:学習対象外】


【死亡後に作成された記録:原則学習対象外】


【医療・捜査記録:学習対象外】


 設定は変わっていない。



 応答体の製造販売元である明邦(めいほう)メディカルシステムのサポートセンターに電話した。


「現時点では、異常動作とは判断されません」


 サポートセンターの女性は言った。


「事故についての情報は除外しているんです」


「確認できております」


「だったら、どうしてあんなことを言うんですか」


「応答体は登録された記憶のみを再生する装置ではありません。一般知識や対話の文脈から、登録されていない状況を推論する場合があります」


「推論?」


「はい。例えば交通事故という情報から、車両の接近や道路状況について発話を生成することはあり得ます」


「じゃあ偶然?」


「文脈補完とお考えください」


 由美子は納得できなかった。


「手を離したことも?」


「その可能性はございます」


「車が来ると分かっていたことも?」


「応答体の発言が事実と一致している、ということでしょうか」


 由美子は黙った。


 数秒後、女性が尋ねた。


佐伯(さえき)様?」


「いえ」


 由美子は答えた。


「そういう意味じゃありません」


「承知しました」


 女性は追及しなかった。


「応答体の発言は、故人様の実際の記憶や意思を保証するものではありません。生成された内容を事実として受け取らないようお願いいたします」


 説明書にもあった文章だ。


「分かりました」


「ご不安が続く場合は、定期面談の前倒しも可能です」


「大丈夫です」


 電話を切った。


 由美子はしばらくスマートフォンを見ていた。


 さっき、一つ嘘をついた。


 サポート担当者にではない。


 自分に対して。


 応答体の言葉は、ただの見当違いではなかった。


 だから電話をかけた。



 昼過ぎ、美咲が友達の家へ遊びに行った。


 由美子は対話機能を再開した。


 悠人の瞼が開く。


「おはよう」


「もう昼だよ」


「起きたから、おはようでいいんじゃない?」


 その返し方まで悠人らしい。


 由美子は昨夜の話をしなかった。


 代わりに、記憶を試すことにした。


「三年生になる前、どこに旅行したか覚えてる?」


「箱根」


「その前」


「伊豆?」


「違う。日光」


「あ、そっか」


 由美子は少し安心した。


 間違える。


 当然だ。


 悠人本人ではない。


 記録から作られた模倣だ。


「日光で何食べた?」


「湯葉」


「それはお父さん。悠人は嫌いだったでしょう」


「そうだっけ」


「そう」


 応答体は素直に頷いた。


 やはり昨夜の言葉も、数多く生成される推測の一つが偶然当たっただけなのだ。


「これは?」


 由美子はスマートフォンから一枚の写真を見せた。


 河原で悠人が石を持って笑っている。


「覚えてる?」


「多摩川」


「相模川でしょう」


「多摩川だよ」


「違うよ」


「お父さんが自転車で転んだ日」


「転んでない」


「転んだよ。膝から血が出てた」


 珍しく応答体は譲らなかった。


「私も一緒だったでしょう」


「お母さんはいなかったよ」


「いたよ。この写真、私が撮ったもの」


「お父さんだと思う」


 由美子は笑った。


「機械なのに頑固ね」


     *


 その夜、和也に写真を見せた。


「これ、多摩川だよね?」


「そうだけど」


「相模川じゃなくて?」


「多摩川」


 和也は画面を拡大した。


「懐かしいな。これ撮った日に俺、転んだんだよ」


 由美子は夫を見た。


「自転車で?」


「うん」


「私もいたよね?」


「いなかったよ。悠人と二人で行った」


「でも、この写真」


「俺が撮った」


 撮影情報を確認した。


 位置情報は多摩川。


 由美子は写真を見つめた。


 記憶の中では、自分がそこにいた。


 悠人が石を拾うところも見た気がする。


 だが、事実ではなかった。


「どうした?」


「何でもない」


 画面を閉じた。


 応答体は間違える。


 だが人間も間違える。


 その違いは、由美子が思っていたほど大きくないのかもしれなかった。



 翌日、応答体に言った。


「昨日の写真、多摩川だった」


「うん」


「私が間違えてた」


「そうなんだ」


「どうして覚えてたの?」


「覚えてたから」


 由美子は返事をしなかった。


 その言い方が嫌だった。


 機械なのだから、記録に残っていたと言えばいい。


 だが、目の前にいるものは悠人なら選びそうな言葉を選ぶ。


「ねえ、お母さん」


「何?」


「あの日のこと、もう聞かないほうがいい?」


 由美子の肩が強張った。


「……どうして?」


「嫌そうだから」


「聞かないで」


「分かった」


 応答体はそれ以上何も言わなかった。


 夕方、美咲が学校から帰ってきた。


 ランドセルを床に置くなり、応答体の隣へ座る。


「ねえ、お兄ちゃん。私が小さいときのこと覚えてる?」


「ちょっと」


「二歳のときは?」


「うん」


「どんなだった?」


「小さかった」


「それだけ?」


「よくベビーカーに乗ってた」


 由美子の手から、畳んでいたタオルが落ちた。


「お母さん?」


 美咲が振り返る。


「何でもない」


 由美子はタオルを拾った。


 二歳児ならベビーカーに乗る。


 悠人の生前の記録にも、美咲がベビーカーに乗る映像はいくらでもある。


 何もおかしくない。


 応答体は由美子を見ていた。


「ねえ、お母さん」


「何?」


「あの日も、美咲はベビーカーに乗ってた?」


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