第1話. 応答体
「お母さん、髪切った?」
電源を入れて最初に聞こえたのは、その言葉だった。
由美子は返事ができなかった。
目の前のソファに、七歳の男の子が座っている。
身長は百二十センチほど。痩せ気味の身体に、紺色のTシャツと半ズボン。黒い髪は耳にかからない程度に切り揃えられている。
悠人が死んだ年の夏と、よく似ていた。
もちろん、人間ではない。
肌は生身よりわずかに白く、耳の後ろには細い継ぎ目がある。黒い瞳にも、光の当たり方によって人工物特有の格子が浮かんだ。
完全な人間に見えないよう、意図的に残された特徴だった。
「……分かるの?」
「分かるよ」
「どうして?」
「登録されてる写真より短いから」
声だけは、何も違わなかった。
由美子は膝の上で両手を握った。
五年前、七歳で死んだ息子の声だった。
少し高くて、言葉を選ぶときに一拍置く。大人びた言葉を使ったあと、照れ隠しのように笑う。
そんな癖まで残っている。
「お母さん?」
「何?」
「泣いてる?」
由美子は頬に触れた。
「……泣いてない」
「泣いてるじゃん」
応答体が笑った。
その笑い方まで似ていた。
由美子は今年、三十九歳になった。肩まであった髪を春に短くした。白髪が数本増えたことも知っている。
悠人が最後に見た母親とは、もう少し違う顔になっている。
それを悠人の声で指摘されたことが、何よりも奇妙だった。
リビングはいつもと変わらない。
四人掛けのダイニングテーブル。テレビ台の横には美咲が学校から持ち帰った朝顔の鉢が置かれ、壁には家族写真が三枚並んでいる。
一番古い写真には、夫・和也と由美子、まだ二歳だった美咲、そして悠人が写っている。
その写真の悠人と、目の前の応答体はほとんど同じ姿だった。
応答体。
正式には喪失者対話型認知補助装置という。
死者の音声、映像、文章、行動記録などを学習し、故人との対話を疑似的に再現する医療機器だ。
由美子が申請してから、家に届くまで半年かかった。
「覚えてる?」
「何を?」
「好きだった食べ物」
「ハンバーグ」
「一番は? お母さんの?」
「うん、ハンバーグ」
「本当は?」
「おばあちゃんの唐揚げ」
由美子は思わず笑った。
「そうだった」
「でも、お母さんに言うと怒るから」
「怒ってないよ」
「昔もそう言ってた」
由美子は黙った。
これは単なる記録ではない。
悠人はよく、由美子が怒っているときの「怒ってない」を面白がっていた。
「悠ちゃん」
試しに呼んでみた。
応答体が首を傾げる。
「それ、久しぶり」
「覚えてるの?」
「美咲が生まれてから、あんまり呼ばなくなったじゃん」
由美子は俯いた。
喉の奥が痛かった。
「お母さん、起きた?」
廊下から声がした。
美咲がリビングへ入ってきた。
肩まで伸びた髪は寝癖で片側だけ跳ねている。細身で、まだパジャマ姿だった。
七歳。
五年前には二歳だった。
悠人が死んだ年齢と同じになった。
「これがお兄ちゃん?」
「そう」
「でもロボットでしょ」
「応答体」
「同じじゃん」
美咲は警戒する様子もなく近づき、応答体の正面に立った。
「美咲?」
「そうだよ」
「大きくなったね」
美咲は応答体を上から下まで眺めた。
「お兄ちゃんって、こんなに小さかったんだ」
由美子は目を逸らした。
悠人が小さくなったわけではない。
美咲が大きくなったのだ。
悠人が生きられなかった五年間を使って。
◇
夕方、和也が帰宅した。
四十一歳になった和也は、五年前より少し痩せ、眼鏡をかけるようになった。
応答体を見ると、リビングの入口で足を止めた。
「起動したのか」
「うん」
「そうか」
それだけだった。
食事中も和也は一度も応答体を見なかった。
美咲が寝たあと、由美子は聞いた。
「少しくらい話してみたら?」
「今日はいい」
「どうして?」
「分かってるのと、実際に見るのは違う」
和也は冷蔵庫から水を出した。
「事故のデータは入れてないんだよな」
「入れてない」
「ニュースも?」
「警察の記録も、事故について話したあとの記録も全部除外してもらった」
「そうか」
それは由美子自身が希望した。
事故で死んだ悠人ではなく、生きていた悠人と話したかった。
◇
夜。
夫が風呂に入り、美咲が眠ったあと、由美子は応答体と二人になった。
リビングの照明を一つ消すと、窓に室内が映った。
ソファに座る由美子。
その向かいにいる、七歳のままの悠人。
「僕、死んだんだよね」
突然、悠人が言った。
「……誰に聞いたの?」
「日付を見れば分かるよ。五年経ってるのに僕の記録が増えてないから」
「そう」
「どうして死んだの?」
「交通事故」
「車に轢かれた?」
「そう」
「お母さんもいた?」
由美子は少し迷った。
「いたよ」
「美咲も?」
「いた」
「三人で歩いてた?」
「そう」
「美咲は二歳だよね」
「うん」
「歩いてたの?」
「ベビーカー」
「僕は?」
「歩いてた」
「お母さんと?」
「そう」
応答体は由美子を見た。
「手、つないでた?」
右手の指が勝手に閉じた。
「……どうして?」
「七歳なら、道を渡るときに手をつなぐこともあるから」
「そうね」
「つないでた?」
由美子は答えなかった。
「つないでたんだ」
「どうしてそう思うの?」
「お母さん、今、右手を握ったから」
由美子は自分の手を見た。
爪が掌に食い込んでいる。
「よく見てるのね」
「会話するために見るようにできてるから」
「そう」
由美子は手を開いた。
機械が仕草を読み取っただけだ。
何も不思議ではない。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「車が来ることが分かってたのに、手を離したんだよね」
由美子は顔を上げた。
「……何?」
応答体は表情を変えなかった。
「お母さん、あの日、僕の手を離したよね」
由美子は何も答えられなかった。
事故に関する記録は、一つも学習させていない。
それに、そのことは夫にも、警察にも話していなかった。
——それは、悠人が知るはずのない言葉だった。




