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空白の清掃人  作者: れさぱんだ
第3章 汚れ
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9. 佐伯の手紙

 手紙が届いたのは、四月だった。封筒の差出人の名前はなかった。消印は、拘置所のある区のものだった。

 三日間、机の引き出しに入れておいた。四日目に、真希が「開けないの?」と言った。

「六対四で、開ける方」「開けたら」

 瑛太は封筒を取り出した。文字は小さく、几帳面に書かれていた。


 佐藤瑛太様

 この手紙を読むかどうか、あなたに任せます。読まなくてもいい。ただ、書かずにはいられなかった。

 二十三年前、私は四十二日間、名前を持たなかった。保証人詐欺に遭い、戸籍を失った時、私が最初に感じたのは安堵だった。自分が消えることへの、奇妙な安堵。何も持っていなければ、何も奪われない。

 しかし、それは間違いだった。何も持たない人間は、誰にでも使われる。三年後に元の名前を取り戻せた時、私は誓った。同じ思いをする人間を出さないと。その誓いが、どこで歪んだのか。今も分からない。

 私には、見つけに来てくれる人間がいなかった。それが正しかったのか、間違いだったのかも、今では分からない。


 あなたの父親、善造さんについて。

 彼が最初に組織に来た時、私は彼に「空白」を与えた。しかし十年は長すぎた。彼は証人でした。しかし証人である前に、あなたの父親でした。私はその二つを、別のこととして扱わなかった。それが、私の誤りでした。

 あなたが計算の外にいたことは、事実です。憎しみと行動が、私の予測の中で一致していなかった。

 以上です。返事は不要です。

 佐伯 拓也


 瑛太は便箋を折り畳んで、封筒に戻した。真希に見せると、真希は二回読んだ。

「返事、書く?」「書かない」「捨てる?」「捨てない」

 瑛太は封筒を引き出しの奥にしまった。

「なんで捨てないの」「……捨てていい理由がない。ただ、ここにあっていい」

「ただ置いておく、という選択肢がある」

「真希さんは、佐伯に書くって言ってたな」「病棟にいた元教師の話。八十四歳で、誰にも看取られずに死んだ先生の話。途中まで読んでいた文庫本の話」


 佐伯への手紙を書くのに、真希は一週間かけた。便箋三枚。書き出しには「佐伯拓也」という名前だけ。

 私は元看護師です。あなたに関係のない話を書きます。

 病棟に、山田という患者がいました。八十四歳。元小学校の教師。面会者は、一度もありませんでした。

 彼が死んだ朝、私は回診していました。呼吸が止まっていた。病室を片付けた。ベッドのそばに、文庫本が一冊ありました。栞が挟まれていた。途中まで読んでいた。

 私はその本を、ナースステーションの棚に置きました。二ヶ月後、その本は廃棄されていました。私はその時、何も感じませんでした。それが怖くて、病棟を辞めました。

 あなたが消した人たちの中に、山田さんのような人がいたと思います。その人たちの書きかけのものは、今どこにありますか。

 私は今、少しずつ感情が戻っています。山田さんのことを、今は悲しいと思えます。あなたが消した人たちのことも、悲しいと思えます。それを書きたかった。それだけです。

 九条真希


「……送るのか」「送る」「返事が来るかもしれない」「来たら、読む」「来なかったら」「来なかったら、それでいい」

 瑛太は窓の外を見た。四月の空は、高かった。冬とは違う高さがある。

「また摩耗することが怖くないか」「怖い。でも、摩耗するならまた戻せばいい」「俺は何もしていない」「叫んだ」「あれは……」「あれで十分だよ」


 田中誠一は、四月の終わりに北関東の工場で確認された。「田中修」という名前で、二年間その工場で働かされていた。

 田中麻衣が父と再会したのは、五月の初めだった。

 その夜、瑛太と真希は居酒屋で二人でビールを飲んだ。「よかったな」「ああ"」

 来なかった誕生日プレゼントは、戻ってこない。しかし父が戻った。


 村上健司が確認されたのは、六月だった。秋田の農場にいた。後から、村上の後輩だった男性から短いメッセージが届いた。

 先輩が帰ってきました。本当に、ありがとうございました。

 瑛太はその文章を三回読んだ。礼を言われることに、まだ慣れていない。


 善造が退院したのは、六月の初めだった。退院の日、瑛太は病院まで迎えに行った。善造は車椅子で出てきた。顔色は入院時よりずっとよかった。

「……お前、髪が伸びたな」「そうか」「切らないのか」「面倒くさくて」「俺に似たな」「似てない"」

 善造は少し笑った。

 グループホームまでの車の中、善造はずっと窓の外を見ていた。十年ぶりに見る東京の景色を、声を出さずに眺めていた。

「コンビニが増えたな」「ああ」

 他愛ない会話だった。しかし車の中で、二人でその会話をしていた。

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