8. 残された汚れの理由
善造の体は、その夜のうちに病院へ移った。栄養失調に加え長期間の運動不足による筋力低下により、入院が必要だった。
善造を病室に残して、瑛太は廊下のベンチに座った。時刻は午前二時を過ぎていた。真希が自動販売機のコーヒーを持ってきた。温かい缶を受け取って、両手で包んだ。
「……ありがとう」「寝てないから、カフェインを入れて」「お前も寝てない」「私は平気」
真希は隣に座った。二人で廊下の壁を見ていた。
「怒鳴れた?」「……怒鳴れなかった」
「情けなくなった。あんなに憎んでたのに………」
廊下の奥から、看護師が通り過ぎた。革底の靴が床に響く。
「お父さんは、あなたを殴ったんでしょ」「ああ」
「それは許さなくていい。でも、あの四畳半にいた人は、もうあなたを殴れない」
「……ありがとうって言われた」「聞こえた」「どう答えればよかったのか」
「今は何も答えなくていいんじゃないかな」
弁護士に封筒の中身を届けたのは、翌朝だった。
「これは……」 弁護士の声が、初めて緊張の色を帯びた。
「資金の流れだけでなく、依頼者の名前と依頼内容が記録されている。政治家の名前、企業の名前。これがあれば、動けます」
「あなたたち二人は、自首する意思がありますか」
「はい、そのつもりでした。記事が出た後、弁護士立ち会いのもとで」「分かりました。それで動きましょう」
一週間を身を潜めて過ごした。真希の知人のアパートを借りた。二人でそこにいた。
一日目。鍋を作って、食べた。「うまいな」「鍋くらい誰でも作れる」
二日目。「お茶碗蒸しが食べたい」「材料がない」「知ってる」
「俺が作る。材料が揃えば」「作れるの?」「一度だけ作ったことがある。母に習った」「うまかった?」「べつに」「正直だね」
これまでになかったただの何気ない会話だけで、その夜は過ぎた。
三日目の夜、瑛太は眠れなかった。
父を引きずりながら路地を走った時の、肩に伝わった体温。あの重さが、まだ残っていた。憎しみが消えたわけではない。しかし憎しみと一緒に、何か別のものも、今夜から運ぶことになったような気がした。
五日目の朝、弁護士から連絡が来た。「記事の準備が整いました。明日の夕刊に出ます」
夜中の三時頃、真希が淹れたお茶を飲みながら、二人でテーブルを挟んで座っていた。
「怖いか」「ああ」「私も怖い」「そうか」
「怖いって感じるの、久しぶりだから。……悪くない」
「終わったら、何がしたい?」「普通のことがしたい。普通の仕事をして、普通に寝て、普通に食事する」
翌日の夕方。コンビニのスタンドに、その記事があった。「社会的殺人」組織を摘発へ 戸籍売買・人身売買の疑い、捜索令状請求。
新聞を買った。記事を読んだ。末尾に一行あった。内部告発者が存在するとみられ、警察は保護を検討している。
「終わりじゃないけど、始まりだ」 真希は頷いた。
田中麻衣に、短いメッセージを送った。記事が出ました。動いています。必ず、見つけます。
返信は、五分後に来た。ありがとうございます。待っています。
佐伯が逮捕されたのは、記事から三日後だった。弁護士の事務所で事情聴取を受けた後、二人は外に出た。夜だった。冬の夜気が頬を刺した。
「終わった」「ああ"」
「どんな気持ち?」「重いまま。ただ、重さの種類が変わった」
真希は空を見上げた。雲の切れ間から、星が見えた。
「あなたが、お父さんに向かって叫んだ時。あの時、久しぶりに心臓が動いた気がした」
「……ありがとう」「来てくれたことが」 真希は少し黙った。「どういたしまして」
善造の入院は、二ヶ月続いた。
瑛太は週に二回、病院へ行った。最初の数回は、何を話せばいいか分からなかった。二人で、冬の空を黙って見ていた。
かつての家での沈黙は、触れれば爆発するものを抱えた沈黙だった。今の沈黙は違った。爆発するものが、もうない。
「……仕事は?」「清掃だ。ただし、今は別の会社で」
「俺も昔、油まみれの部品がぴかぴかになるのを見るのが好きだった」「知らなかった」「お前が生まれる前だ」
「俺は、わざと残す」「汚れを?」「ああ。完璧に磨かない。磨きすぎると、誰も住んでいないみたいになるから」
「変な仕事だな」「そうかもしれない」「でも、お前らしい」
善造が、わずかに笑った。歯の抜けた、整っていない笑い方だった。瑛太はこれまで見たことがなかった、というよりも記憶に父の笑顔を、ただじっと眺めた。




