7. 脱出
十二月十日。
佐伯から追加の現場を指示された。世田谷区の古いビル。現場の中は、本当に何もなかった。磨くべき汚れが、ない。
瑛太は床に這いつくばって、頭の中で計算していた。あと二週間で、父の清掃日が来る。弁護士への資料提出は来週中に終わる。記事が出るのは、早くて二十日前後。計算が合わない。もしかすると、合わせる必要があるのは計算ではなく、行動の方かもしれない。
「二十四日を待たない」
「記事が出る前に、親父のところへ行く。清掃が来る前に、親父を動かす」
「組織に気づかれれば、全部終わりになる可能性がある」「分かってる」「それでも?」「ああ」
真希はしばらく黙っていた。「……私も、行く」「危険だと言った」「一緒に動いてきたから」
それだけだった。理由としては、小さかった。しかし真希の声には、揺らぎがなかった。
三
十二月十五日。弁護士に残りの資料を届けた。「これで全部です」
「田中誠一の件、村上健司の件、善造さんの件。三つが同じ構造から来ていることを示す資料が揃いました。記事が出るのは、早くても二十日。二十四日の清掃には間に合わない可能性があります」
「分かっています。だから、二十日に記事が出る前に、父を動かします」
「……分かりました。動く場合は、事前に連絡を入れてください」
十二月二十四日の前夜。瑛太は一人でアパートにいた。眠れなかった。
明日が終わったら、何か一枚、壁に掛けようと思った。湖ではないものを。動いているものを。
出発する二時間前に、真希から電話があった。「今夜、私も行く」
「危険だ」「嫌。行く」
「なんで」「あなたが叫んでいるところを見たい」「……何?」
「今夜、お父さんに会ったら、きっと叫ぶでしょ。怒鳴るか、泣くか、どちらかだと思う。それを見たい。私は長いあいだ、誰かが誰かのために叫ぶところを見ていなかった」
「分かった。でも、合図を出したらすぐ動いてくれ」「合図は?」「俺が叫んだら」
真希は少し笑ったようだった。「……行ってきます」「行ってきます」
北沢の路地。世田谷区の古い住宅街。クリスマスイブの街は、遠くで賑やかだったが、ここまでは届かなかった。
目の前のアパートは、昭和の残滓をそのまま固めたような木造二階建てだった。外壁のモルタルはひび割れ、窓に光のない二〇五号室。
瑛太は階段を上った。一段ずつ、軋む音が静寂の中に響いた。二〇五号室の前。ドアをノックした。反応がない。もう一度、強く。
奥で、何かが床を擦るような音がした。「……誰だ」
その声を聞いた瞬間、瑛太は動いた。ドアを押した。
万年床の上に、一人の男が丸まっていた。白髪混じりの髪は伸び放題。頬は削げ落ち、その瞳には濁った膜が張っている。
細い。ジャンパーの袖が余っている。顔の皮膚が骨に貼り付くように薄くなっている。かつて瑛太を殴りつけ「お前はゴミだ」と怒鳴り散らした肩が、冬の枯れ木のように細く震えていた。
「瑛太……なのか?」
瑛太は入口に立ったまま、動けなかった。怪物はいなかった。ただの、使い果たされた老いた男がいた。
「……どうして、こんなところに」 出てきた声は、怒りではなかった。
「清掃、だ」 善造が、歯の抜けた口元を歪めて言った。
「俺も、掃除されていたんだよ。名前を消され、過去を消され、ここで誰でもない誰かとして飼われていた」
「いつから」「……十年前から、だよ。失踪した時から」
瑛太は部屋の中に入り、畳の上に膝をついた。「なんで。なんで、そんなことになった」
「……借金の話は、知ってるか」「知ってる。連帯保証の債務」「それが、嘘だ。俺は保証人になっていない。署名を偽造された」
「証拠もあった。弁護士に相談した。その弁護士が、相手側についていた。そのうち、脅しが来た。家族に何かあっても知らないぞ、と」
「それで、消えた」「お前と、お母さんを守ろうとした。少なくとも、その時はそう思っていた。……今は違う。逃げたかっただけだと思う」
「お母さんが死んだのを、知ってるか」「……知らなかった」「五年前だ。病気で。入院費が払えなかった」
善造の目が、初めて揺れた。「そうか……。そうか」
「……すまなかった"」
瑛太はその言葉を受け取った。受け取ったが、何も言わなかった。
「封筒がある。枕の下だ」
古びた封筒が出てきた。厚みがある。十年分の、何かが入っている。
「佐伯の、本当のことが入ってる。組織の記録だ。資金の動き、依頼者の名前、清掃された人間のリスト。……俺が十年かけて、少しずつ集めた」
「これを、まっとうな人間に渡せ。俺には誰もいないから」
「逃げるぞ、親父。今すぐ」「無駄だ。俺の足は——」「引きずってでも連れていく」
「瑛太」「何だ」「……お前は、なぜここへ来た」
「リストにお前の名前があったから」「それだけか」「……それだけじゃないかもしれない。でも、今はそれだけしか言えない」
善造は頷いた。その時、階下で車のドアが閉まる音がした。
高級車の重厚な音。瑛太は窓から外を見た。暗闇の中に、銀縁の眼鏡を光らせた佐伯が静かに立っていた。
「早い。予定より三時間早い」
善造の腕を掴んだ。「立てるか」「……少しなら」「少しで十分だ」
ドアが蹴破られた。ガスマスクを装着した男たちが飛び込んでくる。先頭の男が注射器を構えている。
「やめろ!」
瑛太が叫んだ。その瞬間、クローゼットが開いた。真希がスタンガンを先頭の男の首筋に当てた。男が崩れ落ちる。発煙筒を床に投げる。激しい白煙が部屋を満たす。
「走って!」
善造の腕を肩に回して、引きずるようにして立たせた。廊下へ出る。善造の体が重い。しかし動く。足が動く。
「痛いか」「……平気だ」「嘘をつくな」「うるさい」
踊り場で男が一人待ち構えていた。真希がスタンガンを向ける。男が後退する。駆け下りた。外へ。冷たい雨が三人を打った。
路地を走った。善造を支えながら走るのは、これまでのどんな引っ越し現場より重かった。
五分走って、商店街の軒下に飛び込んだ。シャッターの下りた店の陰に三人で息を殺した。善造の呼吸が荒い。
「……大丈夫か」「……走ったのは、久しぶりだ」「走れただろ」「お前が引きずったんだろう」「引きずったけど、足も動いてた」
善造は何も言わなかった。しかし少しだけ、肩の力が抜けた。
「弁護士に電話する。今夜中に動いてもらう」と真希が言った。
「……寒いか」「ああ」「もう少しで暖かいところへ行ける」
「……瑛太」「何だ」
善造は少し間を置いた。「ありがとう」
瑛太は返事をしなかった。雨が、善造の白髪を濡らしていた。
代わりに、善造の肩を少しだけ強く支えた。




