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空白の清掃人  作者: れさぱんだ
エピローグ
10/10

磨かれた靴

 一年後。

 新宿の片隅にある、看板のない小さな清掃会社。瑛太は今日も、現場を完璧には磨かなかった。

 子供部屋の壁に、鉛筆で身長を測った跡が残っていた。小さな鉛筆の線が縦に並んでいる。年ごとに、少しずつ上に伸びている。七年分の記録だ。

 瑛太は、その跡を消さなかった。

「佐藤さん、施主さんがね、残しておいてくれてよかったって言ってたんですよ。自分たちの子どもの成長記録だったみたいで」

「なんで分かったの?」「分かったわけじゃないです。ただ、残した方がいい気がしただけで」


 仕事帰りに必ず寄るガード下の居酒屋。真希が先に来ていた。

「主任に褒められた」「珍しい"」

「お父さんのところ、今週行った?」「先週行った。将棋を教えてもらった」「強い?」「滅法強い。五手で詰まされる"」

「楽しそうだね」「ああ。……思ってたより、楽しそうだった」「複雑な顔してる」「喜んでいいのか、怒っていいのか、まだ分からない」「両方でいいんじゃない"」


 瑛太は、父が将棋を指すことを知らなかった。考えてみれば、父のことを知らないことは、まだたくさんあった。知らないことが、まだたくさんある。それが当たり前のことだと、ようやく思えるようになってきた。

「将棋、教えようか」「負けるだけだろ」「最初は負けるもんだ"」

 瑛太は返事をしなかった。返事をしなかったが、次の訪問の時に将棋盤の前に座った。善造は何も言わずに、駒を並べた。五手で詰まされた。

「……もう一回」「いいよ"」 また五手で詰まされた。「お前、負けず嫌いだな」「お前に言われたくない"」

 善造が笑った。その笑い方が、以前より少し自然になっていた。


 母の墓参りは、年に二回行くことにした。春と秋。真希と一緒に行く。最初の春の墓参りで、善造も連れて行った。

 墓の前に立って、善造はしばらく動かなかった。しばらくして、善造がゆっくり手を合わせた。瑛太も手を合わせた。

 帰り道、バス停で善造が言った。「……美人だったな。お前のお母さん」「知ってる」「俺には、もったいなかった"」

 瑛太は返事をしなかった。ただ、その言葉を受け取った。

 バスが来た。三人で乗った。善造が窓側。真希が真ん中。瑛太が通路側。バスが動き出した。窓の外に、春の景色が流れていった。


 秋になった。真希が病院に戻った。非常勤で、週三日から始めた。

「どうだった、初日」「疲れた。でも、やれると思った"」

「今日、患者さんが一人、亡くなった。八十七歳の男性。ご家族が二人、看取ってた。……ちゃんと悲しかった。処置をしながら、悲しいと思えた"」

「それは、いいことか」「いいことだと思う"」

「山田さんのことは、今も悲しいか」「今も、悲しい。むしろ、前より悲しい"」

「誰かが悲しんでいることを、知っている人間が一人いる。それだけで、山田さんの死は少し変わると思うから"」

 真希はしばらく黙っていた。「……そういうことを、さらっと言うんだね」「変だったか」「変じゃない。ありがとう"」


 十二月になった。クリスマスイブ。一年前のこの夜、瑛太は北沢の路地を走っていた。今夜は、居酒屋にいる。

 テレビが今年の十大ニュースを流している。戸籍売買組織の摘発が入っていた。「百人以上の被害者、と言ってる」「まだ全員じゃない。時間がかかる"」

「去年の今夜、ちょうど今頃、私はクローゼットの中にいた」「俺は親父と話していた"」

「すまなかった、って言われた」「受け取れた?」「受け取ったかどうか、今でも分からない。でも、ここにある"」

 瑛太は自分の胸を指した。「捨てていないってことだから"」


 グラスを重ねた。「来年は、何をしたい?」「普通のことがしたい。普通に仕事をして、普通に食事して、普通に眠る"」

「将棋も覚えたい。善造に勝ちたい」「勝てる?」「無理かもしれない"」「何手で詰まされてる?」「五手」「まだまだだね"」

 真希は笑った。声を出して笑った。瑛太も笑った。

 カウンターの隣に、別の客が来た。「お疲れ、乾杯"」という声がした。普通の夜だった。それが今の瑛太には、特別なことだった。


 年が明けた。

 瑛太のアパートの壁には、一枚だけ絵が掛かっている。岸壁から荒波に向かって、一羽の鳥が飛び立つ瞬間を描いた油絵。火葬場からの帰り道に、真希と古道具屋で選んだ。上手い絵ではない。しかし見るたびに、少し息がしやすくなる。

 田中麻衣は大学を卒業し、今春から就職する予定だという。就職先を、父に報告したと弁護士から聞いた。

 佐伯の手紙は、引き出しの奥にある。真希の手紙に、返事は来ていない。


 瑛太は今日も、清掃の仕事に行く。

 朝、玄関で靴を履いた。泥がついている。昨日の現場で、駐車場の隅を掃除した時についた。磨けばきれいになる。しかし磨かなかった。

 磨かなくていい、と決めた。

 汚れは、ここに生きているということの証拠だ。

 玄関を出た。冬の朝の空気が頬を刺した。自販機の前を通った。一番高いコーヒーを買った。

 今日の現場は、品川のオフィスビルだ。しかし瑛太は、完璧には戻さない。少しだけ残す。前の人間がここにいたという痕跡を、少しだけ残す。

 コーヒーを一口飲む。苦かった。

 泥だらけの靴で、歩いていく。

こちらは初めて本サイトに投稿した作品です。

まだまだ拙く、皆様の期待に添えない部分も多いかと思います。


1話でもエピソードをお読みになった方、本当にありがとうございます!

数話だけの方も、全て読んでくださった方も、どうか率直な感想を聞かせて頂けますと今後の励みにもなりますし、私自身の次に繋がります。


どうぞよろしくお願いします。



改めてありがとうございました。

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