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空白の清掃人  作者: れさぱんだ
第2章 痕跡
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5. 九条真希

 真希の一日は、午前五時に始まる。

 目覚ましが鳴る前に目が覚める。天井を見る。白い天井。染みも模様もない。毎朝、その白さを確認してから起き上がる。確認するのは、「青い湖」の絵が掛かっていないことだ。絵がない。今日も絵がない。それを確認してから、布団を出る。

 シャワーを浴びる。歯を磨く。コーヒーを淹れる。真希の部屋は四階にある。窓から見える景色は、向かいのマンションの外壁と、その隙間から見える空の一部だけだ。今日は曇りだった。

 コーヒーを飲みながら、真希は手のひらを見る。傷がある。指先に、細かい傷。清掃の仕事では、消毒剤や溶解液を使う。長時間の作業で皮膚が荒れる。この傷が、自分がここに生きているということの証拠だ、と真希は思っている。


 真希が看護師になったのは、二十二歳の時だった。人の役に立ちたいという漠然とした気持ちと、手に職をつけたいという現実的な計算と、その両方が混ざっていた。最初に配属されたのは、内科病棟だった。仕事は好きだった。

 しかし三年目に、部署異動があった。長期療養病棟。身寄りのない、あるいは家族に引き取ってもらえない高齢者が、長期間入院する病棟だ。

 最初の一ヶ月で、三人の患者が死んだ。一人目は、八十四歳の男性だった。元小学校の教師だったと、カルテに書いてあった。面会者は一度もなかった。ある朝、真希が回診すると、呼吸が止まっていた。

 ベッドのそばの棚に、一冊の文庫本が置いてあった。栞が挟まれていた。途中まで読んでいた。真希はその本を、ナースステーションの棚に置いた。遺族がいないので、引き取り手がない。二ヶ月後、その本は廃棄されていた。


 慣れるまでに、半年かかった。患者が死ぬことに、ではない。それには三ヶ月で慣れた。慣れるのに半年かかったのは、「悲しめなくなること」に慣れることだった。

 ある朝、山田という患者が死んだ。七十八歳。肺炎だった。真希は死亡確認の後、ベッドのシーツを交換しながら、今日の昼食は何にしようかと考えていた。その自分に気づいた瞬間、手が止まった。

 廊下に出て、窓の外を見た。秋の午後の光が、駐車場のアスファルトを照らしていた。自分は今、何も感じていない。その事実が、悲しいとも思えなかった。


 病院を辞めたのは、五年目の冬だった。退職後、三ヶ月間は何もしなかった。朝に起きて、食事をして、昼間は図書館へ行き、夜に帰って眠る。それを繰り返した。感情は戻らなかった。

 ある夜、テレビのニュースで孤独死の特集を見た。高齢者が、誰にも知られずに自宅で死んでいる。真希はそれを見て、泣いた。久しぶりに泣いた。

 泣きながら、真希は思った。自分はまだ、完全には壊れていない。その夜、スマートフォンに一通のDMが届いた。


 佐伯のDMは、真希の状況を正確に把握した文面だった。職歴。退職の理由。現在の生活状況。それらに言及せず、しかし知っていることが分かる書き方だった。

 九条様。あなたには、まだ感じる力が残っています。私たちの仕事は、その力を必要としています。

 真希は翌日、指定された場所へ行った。佐伯と初めて会った時の印象は、「静かな人」だった。怒鳴らない。急かさない。ただ、静かに、精確に話す。

「九条さん。あなたは、人の死に慣れてしまった。それは、あなたのせいではない。しかし、あなたの中の何かが、それを悔しいと思っている」

「……どうして分かるんですか」「あなたが、ここへ来たからです」

 真希は仕事を引き受けた。最初の現場で、久しぶりに手が震えた。病棟では、患者はすでに死んでいた。しかしここでは、消される人間はまだ生きている。怖い、と思った。久しぶりに、ちゃんと怖いと思った。


 しかし、その感覚も半年で摩耗した。清掃の現場に慣れるのは、病棟に慣れるより早かった。

 瑛太と組むようになって、真希の仕事のやり方が少し変わった。瑛太は現場で、消えた人間のことを考えていた。書類を溶解液に落とす前に、一瞬だけ止まる。処方箋を読もうとする。日記を開く。

 その一瞬の躊躇が、真希の中の何かを揺さぶった。消える前の自分が、そこにいるような気がした。


 真希が初めて瑛太の家族のことを知ったのは、三軒目の現場の後だった。「家族は?」と聞いた。

「母が五年前に死んだ。父は十年前に蒸発」「一人?」「ああ」

 瑛太はコーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。その横顔に、真希は何かを見た。孤独ではあるが、諦めていない顔。擦り切れているが、まだ何かを持っている顔。

「……瑛太。一つだけ言っていい?」「何」「あなたは、清掃員じゃない方がいい」

「どういう意味だ」「消す側の人間じゃない。……なんとなく、そう思う」

 清掃リストを盗んだのは、その翌週のことだった。

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