3. 湖畔の沈黙
雨だった。
新宿のネオンが濡れたアスファルトに滲み、原色の光が路面を汚している。瑛太はその雑踏の中を、先週より少し背筋を伸ばして歩いていた。口座残高は四十万を超えた。しかしその金には触れていない。
「……ここよ」
雑居ビルの軒下で、真希が待っていた。今日はトレンチコートを着ている。その違いに気づいてから、瑛太は自分がこの女の服装を気にしていたことに気づいて、驚いた。
エレベーターは「調整中」の札が揺れていた。非常階段を五階まで上がる。踊り場の電球がチカチカと点滅し、壁には剥がれかけたサラ金の広告が何枚も重なっていた。
現場は、かつて小規模な編集プロダクションが入っていたというオフィスだった。
「今日はここを『原状回復』していただきます。物がないからこそ、難しいのです。ここには声が残っている。かつてここで交わされた不都合な約束、逃げ場を失った者たちの溜息。それらを壁の奥から、床の隙間から、根こそぎ引き抜いてください」
これまでよりさらに強力な、酸の匂いが漂う洗剤のセットを渡された。佐伯は「例のものは彼女に渡してありますね」と真希に確認して、いつものように姿を消した。
瑛太は床に這いつくばり、特殊なスクレイパーで古い糊の跡を削り取った。削るたびに白い粉が舞い上がる。かつてここで働いていた人間たちが踏み締めた床だ、と思った。
真希が窓際で、小型のデバイスを壁に押し当てていた。
「何してるんだ、それ」
「電波の掃除。盗聴器とか発信機を検知して焼き切ってる。でも、それだけじゃない。熱源も探知できる。……壁の向こう側にある、冷たくなった肉体の場所まで」
瑛太の動きが止まった。
「このビル、一年前まで競売で揉めてた。反対してたオーナーが、ある日突然行方不明になった。……たぶん私たちは今、その人の墓の上に立ってる」
この床の下に、誰かが埋まっている。自分はその事実を覆い隠す仕上げをしている。吐き気が込み上げた。しかし真希は淡々と作業を続けている。
「佐藤君。これ、見て」
真希が作業服の内ポケットから、くしゃくしゃの紙を取り出した。「昨日の夜、佐伯さんの車から盗んだ。……私たちの清掃リスト」
受け取って広げる。住所と名前と、不可解な記号が並んでいた。一軒目の白金のマンション。二軒目の大田区の部屋。三軒目、ここ。まだ処理されていない欄に、目が止まった。
十二月二十四日。世田谷区北沢。佐藤 善造。
その五文字を、三度読んだ。三度目に読んでも、同じ五文字だった。
「……どうしたの、佐藤君。顔が真っ白だよ」
「これ……俺の、親父だ」
真希の目が、わずかに揺れた。「お父さん? 蒸発したんじゃなかったの?」
「ああ。十年前、借金だけ残して消えた。……生きてたのか」
名前の横に、他のターゲットにはない赤い丸印が付いていた。
「この赤丸、何の意味だ」
「……たぶん、組織が直接身柄を確保する対象。まだ生きていて、利用価値があるってこと」
瑛太は、持っていた洗剤のボトルを強く握った。プラスチックが軋む音がした。父が生きている。そして自分が所属するこの組織が、次にその父を消そうとしている。
「九条さん。俺、ここを抜ける」
「無理よ。逃げられない。……見て」
真希が指したのは、廃オフィスの壁に掛かった「青い湖」の風景画だった。殺風景な部屋の中で、その絵だけが異様な鮮やかさを放っている。
「佐伯さんは最初から知ってたんだよ。君を雇ったのも、このリストを君が見ることになるのも。全部、最初から描いていた」
「佐藤君。このバイトを始めてから、一度でも鏡をちゃんと見た?」
反射的に、壁に立てかけられた古い姿見を見た。頬がこけ、目が落ち窪んでいる。生活費のために働いていた頃の自分には、まだ何かあった。今の目には、それがない。
「私たちは磨けば磨くほど、自分の存在を削り取ってるの」
階下で車のドアが閉まる音がした。重い、高級車の音。
瑛太は震える手で、「佐藤 善造」の名前が書かれたリストをポケットに押し込んだ。
父への憎しみは、十年間ずっとそこにあった。腐らず、薄れず、ただそこにあり続けた。その憎しみが今、初めて別の形に変わろうとしていた。憎しみは救いたいという気持ちとは違う。しかしこの感情の塊は、少なくとも、消えることを拒否していた。
「佐藤君、九条さん。捗っていますか?」
ドアが開く。佐伯が静かな微笑みで立っていた。眼鏡の奥の瞳が、瑛太のポケットの膨らみをわずかに捉えたように見えた。
「……はい。完璧に、空白を磨いています」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。その瞬間、瑛太は決めた。父を救う。そのためにこの組織を壊す。




