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空白の清掃人  作者: れさぱんだ
第1章 清掃
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2. 無菌室の亡霊

 百万円が口座にあっても、食欲は戻らなかった。

 正確には十万円だが、瑛太には百万円でも同じことに思えた。これまで縁のなかった桁の金が、自分の口座に存在している。布団の中で、スマートフォンの画面を何度も更新した。数字は消えない。幻ではない。しかし金を使う気になれない。

 ATMの前まで行って、カードを入れて、暗証番号を入力して、画面を見つめた。引き出すボタンを押せなかった。取り消しを押して、カードを抜いて、出口へ向かった。あの部屋で何かを消すたびに、自分の輪郭も薄れていくような気がした。

 午前十時。大田区の高層マンション。エレベーターで十五階へ。廊下に敷かれた深い絨毯が、瑛太の足音を無音に変えた。

「遅かったわね」

 指定された部屋の前に、小柄な女性が立っていた。黒いパーカーのフードを深く被り、白いマスクで顔の下半分を覆っている。剥き出しの目が瑛太を一瞥した。感情の読めない目だった。

「……九条さん?」

「九条真希。挨拶はいいから早く入って」 声は乾いていた。冬の枯れ枝が折れるような響き。


 室内は昨夜と対照的だった。白を基調としたインテリア。無駄な家具はない。デスクの上に最新型のノートパソコン。一輪挿しの花瓶にガーベラ。花はまだ瑞々しく開いていた。

「佐藤君、時間厳守ですよ。今日の任務は繊細さが求められます。九条さんはベテランですから、彼女の指示に従いなさい」

 佐伯はそれだけ言い残して立ち去った。残されたのは、静寂と、ガーベラの微かな香りと、瑛太と真希の二人だけだった。

 真希は無言でキッチンへ歩き、冷蔵庫を開けた。半分ほど残った牛乳パック。数個の卵。大手デパートのシールが貼られた惣菜のパック。

 牛乳パックの賞味期限を確認する。一週間先だった。

「昨日の現場は死んだのがいつか分からなかった。でもここは違う。この部屋の住人は、つい数時間前まで普通に生活していた」

 真希は牛乳をシンクに捨てた。白い液体が排水溝に消えていく。

「孤独死でも夜逃げでもない。生きて生活していた人間が、ある瞬間から『いなかったこと』にされる。それが私たちの仕事」

「じゃあ、この住人は今どこに?」

「知らない。知らなくていい。この部屋にある生活の温度を零度にするだけ。佐藤君、あなたは寝室。私はリビング」


 寝室のクローゼットを開けると、アイロンの効いたシャツが整然と並んでいた。棚にはブランド物の腕時計が数本、ケースに収められている。消去用の溶剤を布に含ませ、壁を、棚を、ケースを磨いた。指紋を消し、DNAを分解する。

 ベッドの下に、一冊のノートが落ちていた。開くと日記帳だった。

 十二月七日。ようやくプロジェクトが落ち着いた。来週は娘の誕生日だ。プレゼントは何がいいだろう。

 十一月二十八日。娘が風邪をひいた。保育園から電話があった時、会議中だった。妻が迎えに行ってくれた。申し訳なかった。

 瑛太の指が止まった。来週の約束。それを書いた人間は今、どこにいるのか。

 日記は、真希が持ってきたシュレッダーに吸い込まれた。紙が細断される乾いた音が、狭い寝室に響いた。


「ねえ、佐藤君」

 真希が作業の手を止めた。壁の一点を見ている。昨夜と同じ「青い湖」の風景画が掛かっていた。どの現場にも、この絵がある。

「この絵のこと、佐伯さんからなんて聞いた?」

「……過去も痛みもない聖域だって。俺たち、人を救ってるんだって」

 真希はマスク越しに短く笑った。自嘲の音だった。

「嘘よ。この絵はね、掃除される側の人にとっては墓標なの。自分たちがもう死んだことを悟らせるための」

「……どういう意味だよ」

「私たちは片付けてるんじゃない。その人の『社会的な存在』を殺してるのよ。肉体じゃなくて」

 真希の目に、初めて別の色が混じった。

「私ね、このバイトを始めてから、自分の部屋の壁が怖くて仕方ない。帰った時にあの絵が掛かっていたらどうしようって思ったら、夜眠れない」

 瑛太は返事ができなかった。十万円の価値が、急激に薄れていく。


 作業が終わる頃、部屋は完璧な「無」になっていた。ガーベラはゴミ袋の中で萎れ、日記は粉々になり、冷蔵庫は電源を抜かれて静かだった。

 佐伯が戻ってきた。出来栄えを検分し、満足げに頷く。

「素晴らしい。完璧な空白だ。次は三日後。新宿の古いビルです。君にとって非常に興味深いものがあるかもしれません」

 マンションを出る際、瑛太は一度だけ振り返った。十五階の窓が、夕焼けを受けて赤く染まっていた。

 来週、誕生日を祝ってもらえるはずだった娘も、その父親も、最初から存在しなかったことになった。

 瑛太は自分の手のひらを見た。溶解液で荒れて、皮が浮いている。もし今、自分が消されたら。自分を証明できるものは、何が残るだろう。

 地下鉄の階段を下りながら、その問いの答えを、瑛太はついに見つけられなかった。

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