1. 泥を啜る金曜日
午前二時十七分。
西新宿のコンビニエンスストアの蛍光灯は、閉店のない時間の中で、人間の目には感知できない速度で瞬き続けている。瑛太はレジの内側に立ち、陳列棚の「本日のおすすめ」というポップが斜めに傾いていることに気づいていたが、直す気になれなかった。
客は今、一人もいない。
深夜から朝六時までのシフト。時給千百円。一ヶ月働いて手取りにすれば、利息の半分にも届かない。
佐藤瑛太、二十三歳。
この年齢の人間がどこにいるべきかを考えると、頭の中が白くなる。大学の同期たちは今頃、どこかの会社で名刺を作っているか、あるいは合コンで笑っているか。そのどちらでもない場所に瑛太はいる。ガラスケースの向こう側で、温かく保たれたフライドチキンが、誰にも買われないまま回転している。
ドアが開いた。
入ってきたのは、スーツの上着をだらしなく脱いだ中年の男だった。ネクタイは緩み、頬は赤く、歩き方が定まっていない。
「おい」
男はレジカウンターに肘をついた。酒の匂いが漂ってくる。
「から揚げ棒、ひとつ」
「申し訳ございません、ただいま揚げ中でして、あと五分ほど——」
「五分? 何のためにお前らいるんだよ。二十四時間営業じゃねえのか」
「いいから早くしろよ。俺は客だぞ」
瑛太は「少々お待ちください」と言い、揚げ物の機械に向かった。背後で男が舌打ちをする音が聞こえた。
こういう夜が、週に三回ある。怒鳴られ、急かされ、時に悪態をつかれる。それでもレジを打ち、零時を過ぎた惣菜に値引きシールを貼り、トイレを磨き、朝六時に店を出る。
電車の中で眠り、十一時に目が覚め、引っ越し会社の日雇い現場へ向かう。重い家具を運び、腰が悲鳴を上げる中で荷物を積み、夕方に解散する。支払いは手渡しの現金で、その日の夕食代を引いた残りを封筒に入れる。中身は今月分の利息の半額にも満たない。
午前三時。客が途切れた。
瑛太はカウンターの下から、折り畳んだ紙を取り出した。三ヶ月前に届いた、法律事務所からの通知書だ。読み飽きるほど読んだが、また読む。
父の名前が書いてある。佐藤善造。瑛太が十三歳の時に失踪した男の名前が、いまだに瑛太の生活を縛り続けている。父が蒸発する三年前に、知人の事業の連帯保証人になっていた。その知人は会社を畳んで逃げた。父も逃げた。残ったのは、母と、中学生の瑛太と、四百万円の債務だった。
母は五年前に死んだ。病気だった。入院費が重なり、保険では足りず、瑛太は大学を二年で辞めた。それからずっと、この繰り返しだ。
紙を折り畳んで、元の場所に戻した。
瑛太が十歳の夏のことを、今でも細部まで覚えている。
あの夜、父は夕食の途中で箸を置いた。母が「どうしたの」と聞いた。父は答えなかった。ただ、自分の手のひらを見ていた。卓袱台の上に、鯖の味噌煮と、切り干し大根と、買ってきたばかりの缶ビールが並んでいた。
翌朝、父はいなかった。玄関の靴が一足消えていた。それだけだった。書き置きも、電話も、何もなかった。
母は台所で、流しに手をついて泣いていた。瑛太は声をかけられなかった。代わりに、学校の支度を一人でした。ランドセルを背負って、「行ってきます」と言った。母は振り向かなかった。
三日後、最初の督促状が届いた。封筒の差出人を見た時、母の顔が変わった。それまで泣いていた顔が、泣くことすら忘れたような顔になった。テーブルに座って、封筒を開けて、中の紙を読んで、また封筒に戻した。そして立ち上がって、夕食の支度を始めた。
その日の夕食は、卵焼きとご飯だけだった。母は何も言わなかった。瑛太も何も聞かなかった。
それから、母は毎日働いた。工場のパートと、スーパーのレジと、週末は清掃のアルバイト。瑛太は放課後に図書館へ行き、夕方に帰り、母が帰るまでの時間に米を炊いた。父のことは、二人とも口にしなかった。
ある夜、瑛太は押し入れの中で、父の古いジャンパーを見つけた。においを嗅いだ。煙草とオイルの匂いがした。父が自動車整備工場で働いていた時の匂いだ。瑛太はそのジャンパーを押し入れの奥に押し込んで、二度と取り出さなかった。
朝六時、シフトが終わった。店を出ると、十二月の冷気が頬を刺した。自販機の裏に溜まった雨水が、街灯を受けて淀んだ虹色に光っていた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。Xの裏アカウントに、見知らぬ送信者からDMが届いていた。
『佐藤様。現状を打破する用意はありますか。仕事内容は清掃。未経験可。日給10万円。場所は港区。今夜、面接可能です』
闇バイト。
最近よく耳にするこの言葉。明らかにその類だろう。しかし昨日から何も食っていない。三日後に家賃の振込期限がある。口座の残高では五千円足りない。分かりきったことではあるが、蜘蛛の糸を辿るかのように、震える指で、返信を打った。
『行きます。場所を教えてください』
送信してから、十秒も経たないうちに返信が来た。白金台の住所と、マンション名と、部屋番号。そして一行。『スーツでなくて構いません。ただし、清潔な服装で』
いったんアパートに帰り、シャワーを浴びた。清潔な服を選んだ。就職活動の時に買ったシャツと黒いスラックス。袖を通すと、少し大きくなっていた。体が縮んでいた。
白金台へ向かう地下鉄の中で、瑛太は三度、引き返そうとした。一度目は渋谷での乗り換え。二度目は白金台の駅で改札を出た瞬間。三度目はマンションの前に立った時。それでも、インターホンに手を伸ばした。
ドアが開いた。音もなく。インターホンを押す前に。
「お待ちしていました。佐藤瑛太さんですね」
三つ揃えのスーツを着た男が立っていた。年齢は四十代半ば。銀縁の眼鏡。白い手。清潔に整えられた爪。その瞳が、瑛太の全身を一秒で読み取り、静かに細められた。
「……佐伯さん、でしょうか」
「ええ。さあ、中へ。埃っぽい場所ですが、今から綺麗にする予定ですから」
室内に入った瞬間、異様な臭気に顔をしかめた。長年放置された紙の匂い。腐敗した有機物。それと、誰かがこの部屋で何年も、じわじわと追い詰められていった時間の堆積。
足の踏み場もないゴミ屋敷だった。天井まで積み上がった雑誌の山。衣類。食器。床に直接置かれた食品の空き袋。ペットボトル。傘。靴。
しかし佐伯は、その惨状を静かな眼差しで見つめていた。
「佐藤君、掃除とは単に汚れを落とすことではありません。そこにあったはずの『痕跡』を、この宇宙から完全に抹消することです」
白いニトリル手袋を手渡された。薄いゴムが皮膚に張り付く。
「この部屋に住んでいた男は、今日ここを出て行きました。彼の指紋、彼の髪の毛、彼がここにいたというすべての記憶を追い出し、完璧な『空白』を作り上げてください。すぐに口座に10万円が振り込まれます」
「まずは机の上の書類から。シュレッダーではなく、この溶解液に入れてください。名前も筆跡も、すべてが水に溶けて消えます」
瑛太は膝をついた。机の上の書類を手に取る。電気代の督促状。スーパーのレシート。レシートには「半額・おにぎり」の印字がある。この部屋の住人も、瑛太と同じように、食費を削りながら生きていたのかもしれない。
その思考を振り払うように、書類を溶解液に投じた。ジュッという微かな音。インクが黒い液体の中で紫色に揺らめき、数秒で消えた。
処方箋の束が出てきた。精神科の薬の名前。一年分。一枚一枚、溶解液に落としていく。落とすたびに、誰かの一年が消えていく。
三時間が経過した。ふと、デスクの天板と壁の隙間に挟まった一枚のカードに指先が触れた。
診察券だった。
『品川メンタルクリニック 患者番号77241 サトウ ゼンゾウ』
瑛太の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
ありふれた苗字だ。珍しい名前でもない。しかしその7文字は、瑛太が心の奥底に封じ込めていた名前だった。
カードは、見つけやすすぎる場所にあった。隙間に挟まってはいるが、引き出しの中でも床の下でもなく、ちょうど大人が這いつくばって作業すれば目に入る角度で。
「どうしました、佐藤君」
佐伯がいつの間にか背後に立っていた。気配がない。その気配のなさに、肩が震えた。
「……診察券があったので」
「それは重要ですね。診察券や健康保険証は、社会的な存在を証明する強固な鎖です。断ち切るのが私たちの仕事ですよ」
佐伯は診察券を奪い取ると、溶解液に落とした。プラスチックのカードが歪みながら溶けていく。
瑛太は最後に残った壁際へ向かった。そこに一枚の絵が掛かっていた。一辺が一メートルほどの風景画。部屋の他の場所がどれほど荒れていても、その絵の周りだけは清潔に保たれていた。深い青を湛えた湖畔。朝靄に煙る水面。岸辺に並ぶ黒い木立。
「美しいでしょう」
佐伯が隣に立った。「ここは、過去も未来も、痛みも借金も何一つ存在しない聖域です。私たちは、迷える人々をここへ導いているのですよ」
佐伯の言葉は熱を帯びることなく、瑛太の耳の奥に染み込んでいった。
午前四時。作業終了。
あれほどゴミに溢れていた部屋が、最初から誰も住んでいなかったかのように整然としている。壁の「青い湖」の絵だけが、月光を受けて白く浮かんでいた。
スマートフォンが震えた。ネット銀行の残高通知。『100,000円』増加。たった一晩で、一ヶ月分の重労働を上回る金が入った。
「佐藤君、明日もまた別の現場があります。九条というパートナーを向かわせますから、十時に現地へ」
「……はい。お願いします」
マンションを出ると、外は白み始めた冬の朝だった。一番高いプレミアム缶コーヒーを買った。温かい缶を両手で包み、三〇二号室の窓を一度だけ見上げた。かつて誰かが生きていた証拠は、もう何一つない。




