第3話 正直者のシーアと、隣国の美しき救世主
夜の荒野は、ただただ寒かった。
遮るもののない風が、ペラペラの白いドレスを容赦なく震わせる。
一歩歩くたびに、地面の小石が素足の裏を痛めつけた。
——死ぬかもしれない。
ふと、そんな実感が頭をよぎる。
いくらバカ王子から解放されて清々したとはいえ、私はただの平民の娘だ。水も食料もない夜の荒野で、朝を迎える前に力尽きてもおかしくはない。
ぐうぅぅぅ。
「……ま、死ぬにしても、あいつのドヤ顔を見ながらよりは、ずっとマシだけどね」
私は強がりを口に吐き出し、凍える両腕を抱きしめた。
その時だった。
地響きのような音が、遠くから聞こえてきた。
風の音じゃない。
馬の蹄の音。
それも、一頭や二頭ではない。
闇の向こうから、一筋の光が差し込んできた。
目を細めて光源を凝視する。
現れたのは、数台の魔導ランプで周囲を昼間のように照らし出す、一台の豪華な馬車だった。
白銀の装飾が施されたその佇まいは、我が国のバカ王子が乗っていたものとは比べ物にならないほど洗練されている。
馬車は、私のすぐ目の前で静かにその動きを止めた。
呆然と立ち尽くす私。
やがて、御者席の騎士が恭しく扉を開ける。
中から姿を現したのは、一人の青年だった。
「——見つけた」
夜の静寂に溶け込むような、低く心地よい声。
月光を溶かし込んだような美しい白銀の髪。
そして、夜空の星を閉じ込めたかのような、深い藍色の瞳。
仕立ての良い漆黒の外套を羽織ったその姿は、あまりにも絵になりすぎていて、私は一瞬、寒さも忘れて見惚れてしまった。
青年は馬車から降りると、泥まみれでボロボロの私に向かって、真っ直ぐに歩いてくる。
その瞳に宿っているのは、侮蔑でも憐れみでもない。
深い海のような、どこまでも優しい慈愛の光だった。
「唐突な非礼を許してほしい。私は隣国、リザリア帝国の王太子、アストル・ヴァン・リザリア。アルカディア王国が『聖女』を国外追放したと聞き、国境で待っていたんだ」
隣国の、王太子様。
バカ王子とは比較にならないほどの雲の上の偉い人が、なぜ私なんかの前に跪かんばかりの距離にいるのだろう。
脳が処理を拒否して、私の思考は完全にフリーズした。
アストル様は、そっと私の凍える手を取り、包み込むように握った。
彼の掌から伝わる確かな熱に、私の心臓が大きく跳ねる。
「……冷え切っているね。よく耐えた。諜報員から火急の連絡が入り、急いで駆け付けたんだ。――君が、我が国が求めていた聖女様だね?」
聖女様。
その言葉が、私の冷え切った頭を冷徹に覚醒させた。
アストル様の瞳は、本当に綺麗だった。
まっすぐで、嘘偽りのない、救いを求めるような瞳。
だからこそ。
私は、彼に嘘をつくことなんて、絶対にできなかった。
もしここで「そうです、私が聖女です」と言えば、この温かい馬車に乗せてもらえるかもしれない。
美味しいご飯だって食べられるかもしれない。
銀貨三枚の商品として扱われることもないだろう。
でも、私は聖女じゃない。
ただの八百屋の娘だ。
期待させておいて、後から「奇跡なんて使えません」なんて言えば、その先には破滅が待っている。
私はアストル様の温かい手を、そっと握り返し、そして静かに首を振った。
「いいえ、アストル殿下。私は聖女ではありません」
「……え?」
アストル様が、驚いたように目を見張る。
「私は貴族でもなければ、特別な力を持った聖女でもありません。実家はただの平民の露店商で……私は、ただの八百屋の娘です。あのバカ王子に、国のメンツのために無理やり聖女に仕立て上げられて、役に立たないからって捨てられただけの、ただの人間です。だから、私を連れて行っても、あなたを救うような奇跡は何も起こせません」
一気に告げると、視界が少しだけ潤んだ。
せっかく差し伸べられた救いの手を、自分の手で振り払ってしまった。これで私は、またあの暗く寒い荒野に一人ぼっちだ。
けれど、後悔はなかった。
嘘をついて騙すよりは、凍え死んだ方がマシだ。
そう思った、次の瞬間。
——世界が、白銀の光に包まれた。
「……え?」
今度は、私が声を漏らす番だった。
夜空を覆っていた厚い雲が割れ、満月の光を何百倍にも強くしたような、神聖な光の柱が天から真っ直ぐに私へと降り注いだのだ。
温かい。
凍えそうだった身体が、まるでお日様に抱かれているかのように、芯からじんわりと温められていく。
ドレスの汚れも、足の傷も、瞬く間に消え去っていくのが分かった。
そして。
私の頭上に、きらきらと輝く純白の光の粒子が集まり、繊細な百合の形をした「冠」となって静かに頭へと収まった。
『——地位に固執せず、己の無力を恥じず、ただ真実のみを述べた誠実なる娘よ』
頭の中に、鈴の音のような、優しくも厳かな声が響く。
『お前のその清き心に、我が加護を授けよう。今日よりお前こそが、地上における我が代理人——真なる聖女である』
「……嘘、でしょ……?」
呆然と呟き、自分の頭に手をやる。
確かに、そこには物理的な質量を持った光の冠が存在していた。
神様は、地位や名誉のために聖女をでっち上げた前の国ではなく、ただ正直に「自分は八百屋の娘だ」と真実を述べた私に、本物の聖女の力を与えたのだ。
光が収まり、再び静寂が戻った荒野。
私が混乱の極みに達していると、目の前で衣擦れの音がした。
見上げると——隣国の高貴なる王太子アストル様が、泥の浮いた大地の上一面に、躊躇なく片膝を突き、私を見上げていた。
その表情は、深い感動と、確かな熱情に満ち溢れている。
「神の託宣は下った。……やはり、君が私の聖女だ。偽りの肩書きに溺れず、真実を語るその誠実な心こそが、神に選ばれた証だ」
アストル様は、私の右手をそっと両手で包み込み、その甲に ──
誓いを立てるように、深く、熱い口付けを落とした。
「我が国、リザリア帝国は、君を最高の貴賓として……いや、我が命に代えても守るべき、最愛の存在としてお迎えします。行こう、シーア」
差し出された、大きな手。
私はもう、その手を拒む理由を持たなかった。
「……はい。よろしくお願いします、アストル殿下」
私がその手を握ると、アストル様はひときわ優しく微笑み、私を抱き上げるようにして豪華な馬車へと導いてくれた。
バカ王子に銀貨三枚で買われた娘の運命が、今、最高の輝きを放ちながら動き出した瞬間だった。




