第98話 世界を担う賭け
ラティマの声に身を預けていたブライトは、やがて拳を固く握りしめ、そっと顔を上げた。
その瞳には、彼女と出会った頃のような光が宿っていた。
「……わかった。生きてやるよ。
あいつに会うのは、やるだけやったって胸を張れるようになってからだ。」
それを聞いたメリルは、慈しむような微笑みを浮かべる。
そして彼のそばから軽やかに離れると、再び岩肌に腰掛けた。
渓谷の隙間を流れる冷ややかな風が、二人の頰を優しく撫でる。
風に揺られた髪をかき上げた彼女は、これまでとは違う温かみを帯びた笑顔のまま、軽く両手を合わせてふわりと告げた。
「ふふ。じゃあ一つ賭けをしましょう?」
メリルは楽しげに声を弾ませる。
そんな彼女に、ブライトは眉を寄せて鋭い視線を向ける。
「賭け……?」
メリルは薄く瞬く星空を見上げながら、ゆっくりと語り始めた。
「ええ。私はねぇ……
ティリスを狭い籠に閉じ込めて我が物顔で過ごすあなたたちを……
少しずつ争わせて、ジワジワと駆除するつもりだったのよぉ。ふふ。」
衝撃的な想いを淡々と語るメリル。
ブライトは身を乗り出し、声を荒げた。
「なんだと……!?」
メリルは視線を戻し、不敵な笑みを浮かべる。
「落ち着いてぇ?
アストが生きている間は、それを待ってあげる。
そしてね、あなたと彼がティリスを解放して……
エルフやドワーフたちを変えられたら、あなたたちの勝ちよぉ。」
「……ふんっ、やってやるよ。」
再び楽しげな笑みを浮かべるメリルに、ブライトは鼻で笑いながら力強く告げた。
ラティマを失い、弱々しく死を願った先ほどまでの彼は、もうそこにはいなかった。
「ふふ。楽しみだわぁ。
じゃあ、とりあえずあなたには死んでもらうわないとねぇ?」
「はっ!?」
ブライトは目を見開き、身構えた。
「だってこのままあなたが生きてたら……
私とは別の、本物の刺客がきちゃうわよぉ?
だからあなたを、“死んだことにする”しかないのよぉ。」
「くそっ、脅かすな……」
不機嫌そうに呟くブライト。
メリルは口元に手を添え、クスクスと肩を震わせて笑った。
「よかったぁ。ちゃんと死にたくないみたいねぇ。
じゃあ、一年くらいは待ってあげるから、アストに色々遺してあげるといいわぁ。」
その言葉を聞いたブライトは、改めて当たり前のことに気づく。
自分は、父親としてもうアストのそばにはいられないという事実が現実味を帯びた。
ラティマに執着した自分は、父親として何もしてやれていない。
彼にいつか、家族の愛を与えてくれる大切な人ができる日が来ることを願い、ブライトはアストの元へと帰っていった。
「……ふふ。ラティマは幸せねぇ。」
メリルは彼の背中を見送りながら、悲しみを滲ませたような声を響かせた。
涙で瞳を揺らすその顔には、それまで見せていた余裕の笑みはなく、ただ大切な妹を失った喪失感だけが宿っていた。
「私が見届けてあげるわぁ。
あなたは、安心して眠りなさいね、ラティマ。」
その声は渓谷の闇に薄く響き、やがて彼女はその闇の中に溶けて消えた。
こうしてブライトは“死んだこと”になり、アストには御伽話や様々な研究資料、そして世界の命運が託されたのだった。
◆◆◆
語り終えたブライトは静かに俯き、苦笑いを浮かべて呆れた声で呟いた。
眉を吊り上げて薄く笑うその表情には、失った時間への哀惜を滲ませていた。
「俺が重いもんを背負わせたってのに……
まさか、救済者まで背負っちまうとはなぁ。
我が息子ながら、つくづく運のないやつだ。はは。」
同じくハンスも呆れたように腕を組み、苦笑しながら椅子の背に身を預けた。
「はっ。まったくだな。
それにしても……薄紫の髪に鮮やかな青い瞳か……」
そう言って眉間に皺を寄せるハンスに、ブライトは怪訝な顔で問いかけた。
「……どうした?
もしかして、心当たりでもあるのか?」
「ああ。救済者──
ミアが、アストの母と同じ容姿をしている……」
「やはりか……。おそらくだが……
これまでにその子が見せた奇跡もナノマギアによるものだろう。」
ブライトの推論に、ハンスは目を見開いて言葉を返す。
「いや、だが……
紋章が現れるまでは普通の少女だったと聞いているぞ?」
「眠ってたんだろうな。そして……
救済者の目覚めとともに、ナノマギアも目覚めたんだろう。
星の救済者と呼ばれるからには……
ナノマギアの活動程度で、命を脅かされることもないだろうしな。」
「そうか……
これも、アストたちに知らせんとな。」
ハンスがそう言うと、ブライトはタバコに火をつけた。
深く息を吸い込むと、少し残念そうに視線を落として煙を吐く。
「俺のことなんだが……
アストには黙っておいてくれ。」
「なぜだ……?」
ハンスは眉を寄せて首を傾げた。
ブライトは、そんな彼の目を見据えて優しい笑みを浮かべて言った。
「俺はどこまでいっても、結局ラティマしか愛せないらしい。
お前たちがいてくれるなら、今さら俺が出る幕もないだろうからな。」
ゼルドアの影がハンスの脳裏をよぎる。
彼は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んで静かに言った。
「……気が向いたら会ってやってくれ。
あいつは……アストはきっと喜ぶはずだ。」
「……ああ。気が向いたらな。」
再び吸い込んだ煙を吐き出すブライト。
彼は、ハンスから視線を逸らして微笑んだ。
その声は、そんな日が来ることはないと、そう告げているようだった。




