第97話 遺された愛
近くの岩場に腰を下ろした女は、スラリと伸びた足を組み、ブライトを見つめてふわりと微笑んだ。
その顔は、彼の心に深く刻まれたラティマへの渇愛を呼び覚ます。
「私は、そうねぇ……
今はメリルとでも呼んでちょうだい。
あなた、もう気づいているんでしょぉ?
私はラティマと同じティリスで、彼女の姉よ。よろしくねぇ。」
ブライトは、ラティマを思い起こさせる“メリル”と名乗った女の顔から視線を逸らす。
上着からタバコを取り出して火をつけると、少しイラついた声で言い放った。
「御託はいい。質問に答えてくれ。」
込み上げる不安を振り払うような乱暴な素振りを見せるブライトだったが、握られた拳は、微かに震えていた。
「せっかちねぇ……
じゃあまずは、お礼を言わなくちゃぁ。
妹を幸せにしてくれてありがとう。ふふ。」
そう言ってメリルは柔らかく笑い、ブライトは顔を顰めて俯いた。
「自分は本当にラティマを幸せにできたのか」と、そんな答えの出ない疑問が彼の胸に広がっていく。
「それで、本題なんだけど……」
メリルの笑顔は消え、淡々と告げられた言葉が渓谷の静寂にそっと響く。
その冷えた視線は、愚かに足掻く男の心を容赦なく射抜くようだった。
「仮に都に戻れたとしても……
ラティマは生き返らないわよぉ。」
やはり──
その言葉がブライトの脳裏を掠めた。
そんなことはとっくに分かっていた。
だが、未知の物質なら可能なのではないかという、蜘蛛の糸のような期待に縋らなければ生きていられなかった。
「なら……なぜお前は……?」
ブライトは再び初めの質問に戻る。
確かにメリルは、何事もないように平然とそこにいる。
「ナノマギアが生命力を消費するって聞いたでしょぉ?
それって……自分の身体だけとは限らないって思わなかったかしらぁ?」
メリルは再び柔らかい笑みを浮かべた。
だがその言葉は、ブライトの背筋を不快に撫でる恐ろしく冷たいものだった。
「お前たちは……
ティリスは、他人の命を喰ってるのか……?」
冷えた汗を額に浮かべながら、ブライトはメリルを鋭く睨みつけた。
そんな彼を嘲笑うように、彼女は口元に手を添えて告げる。
「やだぁ。そんなことするの私だけよぉ?
私はティリスの中でも、少し異質だったみたいなのよぉ。」
「ラティマも……それを……
他人の命を使えば、生きられることを知っていたのか?」
ブライトの問いかけに、渓谷の空気が一瞬で張り詰めた。
メリルの目は笑っていたが、纏うその気配は肌を刺すほどに冷ややかだった。
「知っていたとして……
あなたは、あの子がそうすると思うのぉ?」
その問いかけに、ブライトは試されているような感覚を覚えた。
返答次第では、自分の命はここで潰えるだろうという悪寒が、彼の指先を震えさせる。
「……しないな。
あいつは、他人の命を軽んじるような女じゃない。」
その答えを聞いたメリルは、そっと温かく微笑んだ。
先ほどまでの張り詰めた空気から、冷たさが消える。
「ふふ。わかってるならいいわぁ。
あと、もう分かってると思うけど……
今さら要石の余波や他人の命を使っても無駄よぉ?
宿主の生命力が尽きた時点で、外から補っても無様な肉塊になるだけよぉ。」
ブライトは驚かなかった。
仮に器が治せたとしても、そこに失われたらラティマの魂が宿るはずがない。
頭の片隅にあった、しかし認めたくなかった現実を突きつけられたブライトは、弱々しく細い声で呟いた。
「……俺にはもう何もない。
ここで……さっさと殺してくれ。」
すべてを諦めたような言葉とともに、彼は視線を落としてタバコの煙を深く吐き出す。
その姿を見つめながら、メリルはどこか楽しげに笑って見せた。
「ダァメ。あなたには生きてもらうわぁ。
私は、あなたの研究に期待してるのよぉ。
……それにね、妹からの伝言もあるわぁ。」
メリルがふわりと立ち上がった瞬間──
気づけば、ブライトの懐に彼女はいた。
瞬く間もなく目の前に立つメリルに、ブライトは目を見開いて立ち竦む。
メリルはそんな彼の胸にそっと手を触れた。
ほのかな淡い翡翠の光が、彼の全身を包む。
そして、懐かしい温もりとともに脳裏に流れてきたのは、ラティマの優しい声だった。
『どうせあなたは、私がいなくて泣いているのでしょう?いい男が台無しねぇ。
私は先に行ってしまうけれど、あなたとアストを見守っているわ。
いつか生まれ変わったとしても、私はあなたを見つけるの。
愛してるわ、ブライト。だからどうか、強く生きて。
精一杯生きたあなたがいつかこちらにきたら、私を心ゆくまで抱きしめてね。ふふ。』
頭に響くその声は、彼の胸を優しく締めつける。
ブライトの瞳からは涙があふれて止まらなかった。
ラティマは最後まで、彼女らしく生きた。
そして抱えきれない愛を、ブライトの胸にそっと残していった。
たった一つの愛──
ラティマが遺したその愛だけが、彼の胸を蝕んでいた後悔をそっと癒してくれた。




