第95話 軋む心
そこから数年──
ブライトはティリスの都や伝承の研究にさらにのめり込んでいった。
アストを知人の家に預けた彼は、ラティマの看病をしながら、雲を掴むような噂話にも縋りつく。
ブライトは狂ったように遺物や文献を読み漁り、すべての時間を研究に費やした。
そんなある日──
彼の元に、当時ルベリオス家の当主であったアイリスが訪ねてきた。
「初めまして。
私はルベリオス家当主、アイリスと申します。」
丁寧に頭を下げるアイリスだったが、今のブライトにとってはすべてが煩わしかった。
アストのことでさえ彼の頭にはなく、ラティマ以外はどうでもいいと思ってしまうほどだった。
「……聖王国の貴族が俺に何の用だ?
今忙しいんだ、くだらん用ならさっさと帰れ。」
何もかもを拒絶するような瞳と声。
その態度に、護衛の神官が声を荒げた。
「貴様!無礼だぞッ!!」
「やめなさい──
控えの者が、失礼いたしました。」
アイリスは護衛を制して再び丁寧に頭を下げると、そのまま本題へと移った。
「無礼を承知で申し上げます。
あなたの研究資料を破棄し、これ以上ティリスについての研究をおやめください。」
その言葉に、ブライトの顔色が一変した。
彼は眉間に深い皺を刻むと、あからさまに怒りを露わにする。
「貴様らには関係ないだろう!失せろ!!」
「お、お待ちくだ──!」
アイリスが言い終える前に、ブライトは勢いよく扉を閉めた。
扉を叩く音が響く中、ブライトはラティマの眠る奥の部屋へ向かい、ドアをそっと閉める。
「……何かあったの?」
ラティマが重い身体を起こし、細い声で問いかける。
ブライトは首を振り、そっと彼女をベッドに寝かせた。
「何でもない……いいから寝てろ。」
「今日は気分がいいから大丈夫よ。
ふふ。そういえば、アストは元気かしら。」
辛そうな表情を隠すように微笑むラティマ。
痩せこけた顔や身体は、そばにいられる時間は残り少ないと、ブライトに告げているようにも見えた。
「やめろ、頼むから……
無理をしないでくれ、ラティマ。」
眉を寄せて、涙で瞳を揺らすブライト。
彼は俯いたまま、今まで聞きそびれていたことをそっと切り出した。
「……なんで、お前は都から出た?
ずっとそこにいれば、こんな思いをせずに済んだはずだ。」
彼の思わぬ問いに、ラティマは目を見開いた。
彼女は珍しく悲しげに俯くと、弱々しい声で語り始めた。
「私ね、姉さんがいたのよ。でも……
都の生活にうんざりしていた姉さんは、じっとしていられなかったの。
“ここを出て行った人たちが誰も帰ってこないのは、外が魅力的だからだ”って言って、都を飛び出してしまったわ。」
それを聞いたブライトは息を呑んだ。
ラティマの言うことが本当なら、ティリスの民は過去にもこの世界に現れていたことになる。
誰も知ることのない事実に、黙ったまま聞き入るブライト。
そんな彼を見つめたまま、ラティマは話し続けた。
「でも違ったの……
姉さんを追って外に出てわかったわ。
“帰らないんじゃない”……“帰れないんだ”って。」
「……どういうことだ?」
ブライトは眉間に皺を寄せて問いかける。
ラティマは静かに告げた。
「都には結界が施されていたわ。
そこから出た瞬間に、訳のわからない場所に飛ばされる。
そして出たら最後……都がある場所がどこかもわからない……」
ブライトは愕然とした。
本人にもわからず、数百年生きる彼らでさえ誰一人辿り着けていない。
そんな場所に、寿命の短いただの人間である自分が辿り着けるのか。
──恐らく無理だ。
ブライトは、心が静かに軋むのを感じた。
そんな彼の姿に、ラティマはいつもの包み込むような優しい笑みを浮かべて言った。
「でも、そのおかげであなたに会えたわ。
アストにもね。だから私、ちゃんと幸せよ。」
ブライトは顔を背け、眼鏡を外すと目頭を押さえて立ち上がった。
ラティマに背を向けた彼は、優しく囁くように告げた。
「……明日、アストを連れてくる。
だから今日は、ゆっくり休んでおけ。」
「ほんと?ふふ、楽しみだわ。
じゃあちゃんと寝ておかなきゃね。」
「ああ。おやすみ、ラティマ。」
「おやすみなさい、ブライト。」
静かに目を閉じるラティマを見届け、ブライトは玄関まで行くと外の様子をうかがった。
先ほどまでの喧騒はなく、そこにはもう誰もいないようだった。
「……あいつら、諦めたか……」
外へ出たブライトは、ポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出した。
冷たく肌を撫でる夜風の中で、最近は手をつける暇のなかったそれに火をつける。
「くそ、なんで……
なんで、どこにもないんだ……!」
深く息を吐いた彼は小さく呟いた。
揺らめく火と立ち昇る煙は、彼らの行く末のように薄く夜闇に溶けて消えた。




