第84話 迷わずの大地
大聖堂に着いたリリアは、奥の長机で資料を広げるレオンの姿を見つけた。
彼は眼鏡をつまみ上げながら細かい文字と睨み合い、周囲の音が耳に入っていないようだった。
「レオン殿、精が出るな。」
「ん……?
──ああ、リリアさん。」
レオンはその声に気づくと、肩をほぐすように背伸びをした。
リリアは長机を挟んで向かいの席に腰をかけ、険しい表情を浮かべて口を開いた。
「実は、アストが目覚めたんだ。
だがミアと出会って以降の記憶がなく……
どうやら、我々のことを覚えていないらしい。」
淡々と語られた突然の報告に、レオンは目を見開き、手にしていた資料を落とした。
「な、なんだって……?
記憶がない……?なんてことだ……」
驚愕を隠せず、レオンは溜め息を漏らしながら目頭をつまんで俯いた。
「……安心してくれ。
あなたのことは忘れていないだろうからな。」
リリアは薄く苦笑いを浮かべ、冗談めかして言った。
そんな彼女にレオンは慌てて首を振り、気遣うように口を開く。
「私のことより、みんなが……!
これまでアストを支えてきたのはあなたたちなのに……あんまりだ……」
その言葉に、リリアはふわりとした笑みを浮かべて力強く告げた。
「アストの記憶は必ず取り戻す──
だが今は、ひとまず先へ進もうと思ってな。
私も調べ物に付き合いたいのだが、構わないか?」
常にアストを気に掛けてきた彼女には、言葉にできないほど辛い状況のはず。
しかし、こんな時でも後ろを向かないその姿勢に、レオンは胸を熱くした。
「ええ。ぜひお願いします。
ああ、そうだ。ちょうど気になっていることがあって──」
レオンはこれまでの遺跡探索や、アストの父、ブライトの研究資料について話し始めた。
「私もアストも、人生が一変する出来事ばかりで余裕がなくて……
今思えば、もっと早く気づくべきだったんですが、よく考えたらおかしいんですよ。」
そう言って再び資料を手にしたレオンに、リリアは怪訝な顔で問いかけた。
「おかしい……とは?」
「彼の父であるブライトは、変わり者だが優秀だ。
短刀を見つけた遺跡にあった壁画……
ミアしか開けられない扉の奥なら仕方ないが……
扉の外に描かれていた“ティリス”の記述を、彼が放っておくはずがないんです。」
レオンはアストが書き留めた資料と、ブライトの研究資料を見比べながら続けた。
「第三の種族に関するものが何もないのは、どう考えても不自然なんですよ。
研究者なら誰でも飛びつくような発見を、彼が何も調べないなんてあり得ない……」
リリアは深く頷き、唸るように呟いた。
「確かに、それは妙だな……
聖王国の真実に迫らずとも、何かしらの情報があってよさそうなものだ……」
「ええ。それともう一つ……
彼はある時期から熱心に、大陸最北端にある秘境を調べていたようなんです。」
それは、研究者や旅をする者の間では知れ渡る場所だった。
険しい山々と入り組んだ渓谷に囲まれ、空も陸路も人を拒む秘境。
「それは……
“深部に辿り着いた者はいない”と言われる、あの……?」
「そうです。通称、“迷わずの大地”。
険しい渓谷に囲まれた広大な場所でありながら……
いつの間にか、“最初に立ち入った場所に戻ってしまう”と噂される秘境です。」
レオンは眉を寄せ、静かに、しかし確信めいた声で告げた。
「私は、ブライトがそこで……
何かを、掴んでいたのではないかと思っています。」
リリアは深く頷きながらも、一つ疑問を投げかけた。
「なるほど……しかし、レオン殿。
なぜブライト殿の資料は、ティリスに関するものが抜けているのだろうか……」
リリアの純粋な興味を吐露したような質問に、レオンは少し気まずそうに口を開いた。
「……ここからは、私の憶測です。
もし、気分を害されたらすみません……」
「……なんだ?遠慮なく言ってくれ。」
リリアはそう言って、少し身を乗り出す。
「もしかしたら、聖王国の起源に迫りつつあった彼に……
それを重要視していた、ルベリオス家の方が接触したのではないかと……」
「ほお、それつまり……
我々が彼に何かをした、と……?」
眉間に皺を寄せ、考え込むように口元に手を添えるリリア。
「いや、そこまでは……!
ただ、他国の人間に影響を及ぼせるとなると……」
慌てながら言い淀むレオンに、リリアは目を見開き声をかけた。
「ん……?ああ、いや、すまんな。
決して怒っているわけではないんだ。
あり得ない話ではないと思ってな……
先代の当主──私の母なら何かご存知かもしれん。」
リリアは椅子から立ち上がり、どこか確信めいたものを感じているように告げた。
「少し気は引けるが……
すぐに屋敷に向かい、母に話を聞いてこよう。
レオン殿は引き続き秘境について調べてくれ。」
そのままその場を後にしようとしたリリアは、すぐに立ち止まりレオンに声をかけた。
「そうだ、アストに顔を見せてやって欲しい。
あなたの顔を見れば、彼も少しは落ち着くだろう。」
少し悲しげに微笑むリリア。
レオンはそんな彼女の表情を憂うように頷いた。
「……はい。後で顔を出します。
秘境の件も、私に任せてください。」
その言葉を聞いたリリアは、満足げな表情を浮かべて大聖堂を後にした。
彼女の背中を見送り、レオンは再び資料を眺めながら静かに呟いた。
「アストは以前、御伽話と言っていたが……
もう一度、確認してみる必要があるな……」
その声は静かな大聖堂に薄く響く。
再び資料へ視線を落とした彼の胸には、未だ見ぬ真実への期待が膨らんでいた。




