第83話 憂いと責務の狭間で
シルベリアが去った執務室には、静寂が戻る。
リリアは手にした報告書を見つめながら、今後の対応について思案を巡らせていた。
アローナの裏切りと、憎悪に染まり牙を向いたゼルドア。
そして、すぐさま敵にはならなくとも、未だ目的のわからない“死神”の存在。
ひとまずの終結を迎えたとはいえ──
そのどれもが、神官長たるリリアの胸に重く影を落としていた。
しかし、一番の憂いは他でもない。
アストのことだった。
彼が“調停者”かもしれないという事実は、その優しい心に何をもたらすのか。
さらには、この世界にどんな形で影響を及ぼすのか、彼女は計りきれずにいた。
「……どうしたものかな。」
机に肘をつき、両手を額で組んで俯くリリア。
普段弱音を吐くことのない彼女も、この時ばかりは深い溜め息を漏らした。
その時──
執務室のある廊下に慌ただしい足音が響くと、扉を軽く叩く音がリリアの耳に届いた。
「リリアさん、今大丈夫ですか?」
カンナの声が外から伝わる。
「あ、ああ。入って構わんぞ。」
少し疲れたような声で返すリリア。
扉を開けたカンナは、そっと部屋に入り扉を閉めると、リリアに向き直って気遣うように声をかけた。
「失礼します……お疲れのようですね。」
「いや、すまんな……
私もまだまだ精進が足らんようだ。」
そう言って、リリアは苦笑いを浮かべた。
「いえいえ、そんな!お疲れのところすみません……
えっと、急ぎで伝えなければと思って来たんですが……何と言っていいか……」
なぜか気まずそうに視線を揺らすカンナを見て、リリアは不思議そうに首を傾げた。
「どうした?遠慮せず言ってくれ。」
「はい……
アストさんが、目覚めたんです。」
それを聞いたリリアは目を見開き、身を乗り出すように勢いよく立ち上がった。
「なに!?本当か!
やっと……。すぐに行かねば!」
すぐさま療護室へ向かおうとするリリアを、カンナが慌てて制した。
「ちょっとまってください!
あの……それが、一つ問題があって……」
「なんだ……?
アストの身に、何かあったのか?」
リリアの胸に、言葉にできない不安が広がっていく。
アストの存在は、それほどに彼女の中で大きくなっていた。
リリアから顔を背けたカンナは、視線を落とし、拳を震わせながら告げた。
「実は、記憶が……
一部、欠如しているらしくて……」
「記憶が?どういうことだ……!?」
言い淀むカンナの素振りに、詰め寄るように一歩踏み出し、珍しく取り乱すリリア。
すぐに我に返りながらも、自分のその動揺に彼女自身も驚きを隠せなかった。
「いや、すまない……
ゆっくりで構わん。聞かせてくれ。」
リリアはカンナをソファに座らせ、自身も向かい合う椅子に腰を下ろした。
カンナは深呼吸をすると、息を整えて震える声で話し始めた。
「倉庫での一件が、心と脳に相当な負荷だったようで……
ミアちゃんと出会って以降の……
追われたことや、これまでの旅の記憶がないみたいなんです。」
リリアは信じられないと言いたげに、眉間に皺を寄せて目を泳がせた。
「まさか……そんな……
そうだとすると、私たちのことは……?」
「はい……覚えていませんでした……
ルシアナさんに……あなたは誰か、と……」
そう言って俯いたまま、両手の拳を握るカンナ。
目覚めれば元通りになるという自分の浅はかさを悔いるように、リリアも額を押さえて俯いた。
「なんということだ……」
執務室には重い空気が張り詰める。
しばらく沈黙が続いた後、その静寂を破るようにリリアは静かに立ち上がった。
「カンナ、引き続き……
ルシアナたちとアストのケアを頼む。」
「え?それはもちろん構いませんけど……
えっと……リリアさんは顔を出さないんですか?」
カンナが戸惑いながら問いかける。
沈む表情を隠すように、リリアはぎこちない笑みを浮かべた。
「今は、私まで行っても混乱させるだけだろうからな。
遠目から顔だけ見たら、レオン殿の元で今後の話をするとしよう。」
その笑みは、これまでのリリアからは想像もつかないほど優しく、消え入りそうな儚さを帯びていた。
その笑みに隠れて震える指先──
それを見つけたカンナは、胸を締めつけられるような想いで声を漏らす。
「リリアさん……」
「報告感謝する、カンナ。
しばらくしたら私も顔を出すつもりだ。
それまでは、アストたちのことをよろしく頼む。」
そう言って、リリアはカンナの肩に手を添えた。
「はい! 任せてください!」
カンナは、彼女を勇気づけるように胸に手を当て敬礼し、力強く頷いた。
カンナを見送り、少し遅れて執務室を出たリリアは療護室の前で足を止める。
「アスト……」
扉越しに見える彼の姿を、そっと眺めるリリアの瞳は揺れていた。
そこにあるのは──
一国の行く末を担う神官長ではなく、彼を想い、その身を案じる一人の女性としての姿だった。
「……私は、私の仕事をするとしよう。」
しばらくアストたちの様子を見つめた後、リリアは再び神官長としての顔に戻り、レオンがいる大聖堂へと向かった。




