第78話 憎悪の終わり
ゼルドアは初めて体勢を崩した。
ハンスの一撃はそれほどに重かった。
その一撃は、怒りに任せたものではない。
大切なものを目の前で傷つけられた底知れない怒りが、ただ目の前の敵を屠るという純然たる本能に火をつけていた。
「リリア、二人を任せるぞ。
カンナ、お前もルシアナたちの手当てを頼む。」
「任せろ!こちらの心配はするな!」
「りょ、了解しました!」
リリアはレイナードを抱えて下がり、カンナは急いでルシアナの元へ駆け寄り止血を始める。
そして、ハンスはゼルドアと同じく濃い魔蒸気を纏いながら低く、重く身構えた。
「俺も……人であることを捨てよう。」
静かに告げ、怒りに震える拳を握り込む。
その瞳はただ、目の前の命を狩ることだけに全てを賭ける獣のようだった。
「ほお……いい眼だ。」
ゼルドアは不敵に笑い、ハンスと同様に身構える。
彼の身体からは再び、濃霧のような魔蒸気が噴き上がった。
「避ければ仲間に向けて放つ。
……その身で、凌いでみせろ。」
その声は何かに期待しているようだった。
ゼルドアはもう片方の義腕に装填された《グングニル》をハンスへ向ける。
「……来い。」
低く呟くハンスの声に応じるように、分解された周囲の瓦礫が彼の腕へと収束していく。
そして瞬く間に、槍のように鋭い漆黒の拳が形成された。
「グングニルも貴様の憎悪も
──俺が、全て潰してやる。」
その言葉に応じるように、ゼルドアは《グングニル》を撃ち放った。
灼光が一直線にハンスへ向かう。
迎え撃つは、漆黒の岩槍を纏った拳。
その瞬間──
まるで時が止まったかのように、空間が白く染まる。
響き渡る轟音とともに、激しい爆風が倉庫全体を揺らす。
そして色が戻った時──
ハンスの姿はゼルドアの視界から消えていた。
「なに……?」
彼が呟いた瞬間、脇腹に鋭い痛みが走る。
視線を落とすと──
片腕を破壊されたハンスの残った拳が、ゼルドアの脇腹に深々と突き刺さっていた。
「ぐうううッ!!」
ゼルドアは苦悶の表情を浮かべ、大きく弾き飛ばされる。
それでもなお、その拳は致命傷には届いていなかった。
「……ぐふ……ふはは。惜しかったな。」
ゼルドアは重心を落とし、再び低く身構えると岩槍を装填する。
ハンスはトドメを刺すため、構わず瞬時に間合いを詰めた。
ゼルドアの胸を貫くべく、漆黒の鋭い拳を振り抜く。
ゼルドアが迎え撃とうとした。
──その時だった。
「……ぐふ……ぅふふ……はは。
き、さまも……報いを……う、けろ……」
かろうじて息を吹き返したアローナが、ゼルドアの足を掴んで離さなかった。
その腕は震え、全身が血にまみれながらも、死に物狂いで絡みついたまま絶命していた。
「……最後まで……邪魔をしおって……」
ゼルドアが憂うように声を漏らした瞬間、ハンスの静かな怒りを乗せた漆黒の拳が、ゼルドアの胸を貫いた。
その巨体を大きく揺らし、そのまま崩れ落ちるゼルドア。
胸から溢れる血が床へ薄く広がり、辺りを赤く染め上げた。
ゼルドアは天を仰ぎ微かに笑った。
その顔には憎しみから解放されたような、言葉にできない表情を浮かべていた。
「……やっと……だ。
やっと──お前の、元に……いける……」
その声は、ただ普通の幸せを願っただけの、優しい男の声だった。
そしてゼルドアの瞳から光が消え、濃霧のような魔蒸気が静かに霧散していく。
それは、憎悪に心を焼かれ鬼神となった男が、最後に人の姿を取り戻した瞬間だった──




