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第66話 静かな影の前触れ

 宿の広間では、ミアがお湯を沸かしながら、そっと胸に手を添えていた。

 湯気が、不安げな彼女の表情を隠すように立ちのぼる。

 

 「アスト……怯えてた。

  どうしちゃったんだろ……」


 小さく呟きながら、茶葉をカップに移す。

 ただ心配なだけではない──

 胸の奥に、言い表せない“不安”がじわりと広がっていた。


 「確かに最近、変な夢を見るって言ってたけど……

  あんな風に取り乱すのは初めてだし……それに、あの名前……」


 その時──


 「こんにちは、ミア様。」

 包み込むような柔らかな声。


 リリアの補佐であるアローナが、宿の広間に姿を見せた。


 「あ、こんにちは。」


 ミアは軽くお辞儀を返す。

 アローナはミアの表情を見て、すぐに問いかけた。


 「急にすみません。

  少しお聞きしたいことが……あれ?

  顔色が優れませんが、どうかされたのですか?」


 その優しい声に、ミアは少し迷った末、アストの異変を打ち明けた──


 「……恐ろしい夢、ですか。

  どういった内容かは分かりますか?」


 「細かいことは私も知らないんです。

  ただ、なんか……すごく苦しそうで……」


 ミアは小さく首を振る。

 アローナは少し考え、静かに言った。


 「少しなら体調を整える魔術も扱えます。

  私でよければ、一度診てみましょうか?」


 「ほんとですか!?ありがとうございます!」

 ミアの顔に、いつもの明るさが戻る。


 二人はお茶を淹れ終えると、アストの部屋へ向かった。


 ミアが戸を軽く叩き、声をかける。

 「アスト、起きてる?

  アローナさんが来てるんだけど……入って大丈夫?」


 「……ああ。大丈夫だよ。」


 返事を聞き、二人は部屋に入った。

 アストはベッドに腰掛けていたが、まだどこか落ち着かない表情をしていた。


 「アローナさん、こんにちは。

  こんな格好ですみません。何かありましたか?」


 アストの問いに、アローナは優しく微笑む。

 「ミア様から事情をお聞きしました。

  簡単なものですが、癒しの魔術をと思いまして。」


 「えっ……わざわざすみません。」


 「いえ。ちなみに……

  どのような夢だったのか、少し聞いても?」


 アストは迷ったが、ゆっくりと語り始めた。


 真っ暗な空間に、崩れ去った街。

 転がる無数の焼け焦げた遺体──

 そして、自分のものじゃない声で“ディアナ”という名を叫ぶ自分。


 アストが語り終えると、アローナは一瞬、険しい表情を浮かべた。


 「……どうかしました?」


 アストが首を傾げ、尋ねる。

 はっとした表情を浮かべ、アローナは静かに口を開いた。


 「すみません。つい聞き入ってしまって。

  確かに怖い夢だな、と……

  失礼いたしました。では、癒しの魔術をかけますね。」


 「はい。お願いします。」


 アローナは両手を静かにかざす。

 そして、優しく響かせるような呪文を紡ぐ。


 「我らを抱きし星の導きよ──

  この者に、邪を払う癒しの灯火を与えたまえ。」


 淡い翡翠色の光がアストを包み込む。

 その光は優しく揺らぎ、アストの強張っていた表情を徐々に和らげてくれた。


 「……すごい。

  少し身体が軽くなった気がする。

  助かりました。ありがとうございます。」


 「ふふ。簡単なものですが、お役に立てて良かったです。」


 アローナはふわりと微笑んだ。

 隣で見ていたミアも、ほっと胸を撫で下ろす。


 「アローナさん、ありがとう!

  また、何かあったらお願いしちゃおうかな。ふふ。

  あっ!そういえば、アストに何かお話があったんじゃ?」


 「ええ。そうでした。」

 アローナは姿勢を正し、静かに切り出した。


 「お二人が出会った時や、その後の状況を……

  少し詳しく、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 「なぜですか?」

 アストは少し不思議に思い、問いかけた。


 「ええ。今後の調査に向けて、参考にと思いまして。」


 アストとミアは顔を見合わせ、快く頷いた。


 そして──

 二人の出会い、紋章が発現した瞬間のこと。

 その時の感情や状況を、二人は丁寧に語り始める。


 アローナは一言も漏らすまいと、静かに聞き入っていた。

 やがて話が終わると、アローナは小さく息を呑み、独り言のように声を漏らす。


 「……出会いと紋章の発露……

  それに、彼の夢……まさか……」


 「え?なんて?」


 アストが聞き返すと、彼女は少し慌てたように首を振った。


 「い、いえ。何でもありません。

  貴重なお話を、ありがとうございました。」


 「とんでもない。

  お役に立てれば嬉しいです。」


 「ふふ。それでは、私は失礼いたします。」


 そう言って微笑むと、アローナは足早に部屋を後にした。


 ミアは不思議そうに首を傾げる。

 「どうしたんだろうね……?」


 アストは肩をすくめた。

 「調べものや、聖王国の仕事……

  いっぱい任されて、大変なんじゃないかな。」


 「そっか……そうだよね。

  リリアさんも人使いが荒いなぁ。」


 「あはは。そうかもね。」


 ミアがそう言うと、先ほどまでの気怠さを忘れたように、アストは明るい笑みを浮かべた。


 「あ、そうだ。

  これ広間にあったハーブのお茶だよ。」


 「ありがとう。良い香りだね。

  ミアが淹れたお茶なら、何にでも効きそうだ。」


 「当然でしょ?ふふふ。」


 ──だが。


 この時の二人は、何も分かっていなかった。

 その些細な違和感が、やがて聖王国全体を揺るがす混乱の一部だということを。


 和やかに流れる二人の時間──

 そんな時間を蝕むように、混乱の前触れは、静かにその足元へ忍び寄っていた。



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