第65話 愛しくも知らぬ名
──どこだ。
「ここは……どこなんだ?」
そう呟く声は、跳ね返る気配もなく遠くへ溶けて消える。
アストは、真っ暗な空間にただひとり立っていた。
足元は土なのか、それとも石か──冷たく、乾いている感触だけが感じられた。
目が慣れてくると、頭上には分厚い雲。
陽の光を完全に遮る仄暗い雲の層が、彼方まで広がっているのが分かった。
「ミア……?リリアさん……?
みんな……どこにいるんだ……?」
声を張り上げたつもりだった。
だが、返ってくるのは沈黙だけ。
アストは、戸惑いつつもゆっくりと歩き出した。
足音すら吸い込まれるような静寂の中、ただひたすらに仲間の気配を探す。
──その時。
雲の隙間から、微かな光が差し込んだ。
淡い陽光が地面を照らし、アストの視界に“それ”が飛び込んできた。
「……っ」
言葉が出ない。
そこに広がっていたのは──
崩れ去った街らしき残骸だった。
瓦礫の山。
焼け焦げた建物の骨組み。
そして──
足元を埋め尽くす、燃え尽きた“何か”。
それはかつて、“人”であったもの。
「な、なんだ……これは……!?」
叫んだつもりだった。
だが、声は出ていない。
喉を押さえ、息を呑む。
その瞬間、視線の先に“少女らしき遺体”が転がっているのが見えた。
年齢は十代であろう、黒焦げた身体。
だが──
その首には、奇妙なほど綺麗なままの首飾りがかかっていた。
琥珀色の宝石が抱かれた、質素な、しかしなぜか目の離せない首飾り。
アストは、その宝石を見た瞬間、胸の奥が締め上げられるような痛みに襲われた。
「……っ……!」
膝が崩れ落ちる。
初めて見るはずの首飾り。
初めて見るはずの少女。
なのに──
なぜこんなにも悲しい。
「……あぁ……うあぁっ……!」
気づけば嗚咽が漏れ出していた。
「……ディアナ……
なぜ……こんな……?
返事をしてくれ!ディアナ……!!」
「この声は誰だ」と心で呟くアストだが──
震える喉の感触が、叫んでいるのは紛れもなく自分だと告げている。
アストはその名を知らない。
知らないはずなのに──
胸が張り裂けそうなほど愛しく心に響く。
アストは少女の遺体を抱きしめた。
刺すような焦げた臭いが鼻の奥へこびりつき、黒焦げた身体は、彼の腕の中でボロボロと崩れ落ちていく。
「ディアナ──っ!!」
絶叫とともに、アストは飛び起きた。
──そこは、聖王国の宿のベッドの上だった。
「アスト、大丈夫!?」
ミアが駆け寄り、心配そうに顔を覗き込む。
アストは荒い呼吸のまま、辺りを見回した。
そして、自分の掌をじっと見つめる。
──震えていた。
「ねえ、アスト……どうしたの……?」
ミアの声に、ようやく意識が戻る。
「ミ、ミア……?
あ、えっと……大丈夫……驚かせてすまない。」
額に手を当て、深く息を吐く。
「なんか……変な夢を……
恐ろしい夢を見てしまって……でも、もう大丈夫だから。」
苦笑いを浮かべるアストの顔には、汗が滲んでいた。
ミアは安堵しつつも、どうしても気になることがあった。
「ねえ……アスト。
“ディアナ”って……誰?」
アストは目を見開いた。
「ディ……アナ……?
誰だろう……なんで……?」
「今、叫んでたよ。
“ディアナ”って。」
アストは頭を振る。
「そ、そうなのか……?
全然分からない……
夢の中で、そんな名前を叫んでた気もするけど……」
ミアは少しだけ不安そうに眉を寄せたが、すぐに微笑んだ。
ただその指先は、笑顔を浮かべながらも僅かに震えていた。
「そっか……
とにかく、もう少し休んだほうがいいよ。
私、落ち着きそうなお茶淹れてくるね!」
彼女の声は微かに震えているようにも聞こえたが、それを隠すように笑顔を崩さなかった。
「……ああ。ありがとう。」
ミアは足早に広間へ向かう。
その姿を眺めながら、アストはベッドの端に座り込み頭を抱えた。
聖王国で凶刃に倒れ、療護室で目を覚ましたあの日──嫌な夢を見た。
そしてあれ以来、似たような夢を何度も見るようになっていた。
だが、今の夢は違う。
あまりにも鮮明で、あまりにも悲しい。
「なんなんだ……あの光景は……
ディアナって……誰なんだ……?」
胸の奥が、まだ痛む。
知らないはずの名前。
知らないはずの少女。
なのに──
夢の中の自分は、その名を呼ぶたびに愛おしく、遺体を抱きしめた時には胸を引き裂かれるような悲しみに襲われた。
「まさか……
世界の終わりの記憶……?」
アストは震える手で胸を押さえた。
その夢が意味するものは──
“知らないはずの少女”に抱いた、あの愛おしさは何なのか。
──今はまだ、知りたくない──
真実を求めるはずの彼の胸には、そんな矛盾した想いが、不気味なほど静かに広がっていった。




