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HEAT―絶望の再会―  作者: カナタ


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第5話:海馬の奥のシュレッダー



 放課後の校舎裏。


「ねえ、聞いてるのってば!」


 鼓膜を震わせる鋭い声。


 今、この地上で最も顔を合わせたくない女に壁ドンをされている。


 非論理的にもほどがある。


 俺の精密なはずの神経回路は、処理不能の過負荷でショート寸前だった。


 佐久間紗奈。


 呼び出された理由は、世間でいう「甘酸っぱい告白」などという生易しい代物では断じてない。


 彼女が向けてくるのは、修吾には決して見せることのない、絶対零度の殺意を孕んだ眼差しだった。


「は? ……何をだ」


「チッ。相変わらず物分かり悪いわね」


 佐久間が鼻を鳴らし、さらに距離を詰めてくる。


 安物の香水の匂いと、隠しきれない威圧感。


 こいつ、十中八九、元ヤンか何かに違いない。


「いい? 梨亜には絶対に、優しくしなさいよ。アンタみたいなクソ性格の野郎をさ、


――『穂積くん、優しいよ?』なんて、キラキラした目で見てんだからね!」


 佐久間は、東堂の声音を不自然なほど高くして真似た。


 その瞬間、胃の奥で澱が跳ねた。


「あんな良い子を傷つけたら、アタシが容赦しないから。分かった!?」


 理解不能だ。


 なぜ当事者でもない第三者が、ここまで他人の感情に土足で踏み込んでこられるのか。


 その善意が、どれほど俺の秩序を乱しているか。この女には一生理解できないだろう。


(修吾……。頼むから一刻も早く、この女との交際関係を解消してくれ)


 喉元まで出かかった願いを飲み込み、俺は目の前の騒音が過ぎ去るのを待った。


「……ハァ。そもそも、東堂に優しくした覚えなど、これっぽっちもないんだが」


「はぁ? そんなんアタシが知るわけないでしょ。どうせアレじゃないの? 不良が野良猫にエサやってるのを見て、『穂積くん、優しい……(トクン♡)』みたいなヤツ。アンタっていう最悪なフィルタを通したせいで、普通の親切が変にキラキラして見えちゃった系?」


 ……心底、対話を続ける気が失せた。


 一の事実を問えば、十のノイズが返ってくる。


 耳の奥が汚染されていくような感覚に、眩暈すら覚えた。


「あ、いや、ちょい待てよ? そいえば梨亜、転校してきたばかりの頃に『教室が分かんなくて困ってたら、案内してくれた』とか言ってたっけ。


 ……アレ? でも穂積のキャラ的に合わないわね。まさか、梨亜ってば超絶視力悪い疑惑? って、おーいコラ! 人が話してる最中に――ッ! やっぱアンタは救いようのないクソ野郎だわー!!」


 背後で新種の怪獣が咆哮を上げている。


 俺はそれを環境音として処理し、無機質に歩を進めた。


 あれほどの声量を維持できるのは、ある種、称賛に値する。


 防犯ブザーいらずだ。もっとも、あの女を襲うような物好きな暴漢がいるなら、そいつにこそ同情するが。


 しかし。


 歩きながら、俺は自分の中の論理回路を高速で検索した。


 東堂梨亜と、会話を交わした記憶。


 そんなものは、俺の記憶に存在しない。


 自分に必要のない情報は、即座に消去する癖がついている。


 だが、それにしても。


『教室を案内した』なんていう、特筆すべき非効率な親切を、俺がしたはずがない。


(……あいつ、何を言ってるんだ?)


 ――ズキッ。


 鋭い痛みが走った。


 違う。


 いや、待て。そう言えば。


 脳の奥底に押し込めていた記憶が、不意に浮かび上がる。


『……そっち、何もないけど?』


『あの、私、転校したばかりで。音楽室って、どっちだったかな……?』


 震える小動物のような仕草。


 それを見た俺は――。


 そうだ。確か、猛烈に苛ついたんだ。


 あまりにも非効率で、無意味な対話。

 だから、記憶の片隅に追いやった。

 だが、確かにあの時、俺は言葉を交わした。


 鈍臭い女だな、と心の中で吐き捨てながら。


『……別に、次の授業に遅刻しようが俺の知ったことじゃない。


 一応伝えておくと、音楽室は東棟の二階、一番南の突き当たりだ』


 ――その時だ。


 彼女は、何と言った?


『ありがとう、穂積くん』


 穏やかな微笑みを湛えて。


 そうだ。


 その時は、ただの不快なノイズとしか思わなかった。


 だが今、冷徹な論理が警告を発している。

 転校して、まだ一週間も経たない女が。

 名札もろくに見えない距離で。


 大して目立ちもしないクラスメートの名字を、あんな風に、淀みなく口にできるだろうか。


 あたかも、最初から「そこ」に俺がいることを知っていたかのように。


 記憶を手繰り寄せるほど、思考がまとまらなくなる。


 俺が「思い出した」のは、真実なのかどうかも疑わしくなるばかりだった。

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