第4話:既視感の足音
「イオリン♡ 宿題見せてー!」
朝の気だるい空気を切り裂く、粘り気のある声。
葛城修吾。
幼馴染という名の腐れ縁であるコイツは、俺の性格が「クソ」だの「都市伝説級の冷徹」だのと囁く外野の声を、鼻歌混じりに踏み越えてやってくる。
俺は深い溜息を一つ、吐き出した。
「修吾、その呼び方はやめろと何度言えば……」
「あー? 俺とお前の仲だろ。
どんな呼び方だって潔く受け止めろよ!」
両手を広げ、ハグでも求めるような厚かましいポーズ。
視界に入れるだけで精神の清潔度が下がる。だが、それ以上に耐え難い「事実」が、追い打ちをかけるように現れた。
「修吾ー! おーはーよー♡
……ってゲッ! また穂積。シッシッ、離れなさいよ!」
佐久間紗奈だ。
驚くべきことに、修吾はこの「騒音の権化」のような女と交際しているらしい。
俺には到底理解し得ない神経回路だ。
フェルマーの最終定理を独力で証明するか、この女と一日過ごすかという選択を迫られたなら、俺は迷わず前者を選ぶだろう。
そして。
この場にそぐわない、大人しい声がした。
「……おはよう、紗奈ちゃん」
「あー、おっはよぅ、梨亜ー!」
音量の格差が酷い。
佐久間にボリュームのツマミがついているなら、俺は迷わず最小――いや、オフにする。
「お、おはよう、穂積くん。……昨日は、ありがとう」
東堂梨亜が、控えめに、けれど真っ直ぐに俺を見た。
そう言えば、昨日。
コイツは中庭でゴミを撒き散らしていた。
秩序を乱す存在には近づきたくない。
――はずなのだが。
昨日、あの手洗い場で感じた「懐かしさ」。
泥のように重く、けれど甘い、澱のような感覚。
何かを思い出しかけたような――。
――ガラッ。
「席に着け。ホームルームを始めるぞ」
担任の無機質な声と、引き戸の乾いた音が、思考を強制終了させた。
俺は一瞬だけ東堂の背中を見つめ、それから自分の中の「論理」という名の殻に、再び閉じこもった。
◆
選択制の体育。
俺と修吾はサッカーの出番を待ちながら、無機質に準備体操をこなしていた。
春の陽光が、土埃の舞うグラウンドを無遠慮に照らしている。
「なーんかさ」
修吾が屈伸をしながら、唐突に口を開いた。
「ん?」
「めっずらしいねぇ、イオリンが女子と絡むの。なんだっけ、サナの連れの『リアちゃん』だっけ? あの大人しいコ」
俺は硬い身体を横に振りながら、鼻を鳴らした。
「何でもかんでも色恋沙汰に結びつけるのは、お前の悪い癖だぞ」
釘を刺すつもりで、修吾の顔を覗き込んだ。
だが、言葉が喉の奥で凍りつく。
「……いや、そうじゃなくてさ」
修吾の瞳の奥が、全く笑っていなかった。
狂ったように鳴り響くホイッスルも、他人の喚声も、遠い世界のノイズに変わった。
俺たちの周りだけ、時間が止まったようだった。
「修吾。……それ、どういう意味だ」
修吾は目を合わせない。
「……あ、いや。別に深い意味はねえよ」
すぐに、いつもの締まりのない笑みを顔に貼り付ける。
「でもな、なーんかさ。
あの転校生、……どっかで見たことある気がしてな。
ま、気のせいか! お、次、出番だぞ伊織! パス回せよ!」
「あ……ああ」
修吾が駆け出していく。
俺だけが感じていたあの「手触り」を、この男も共有していた。
その事実が、指先からじわりと血の気を奪っていく。
――俺たちは、彼女を知っている。
けれど、
その「記憶の引き出し」にだけ、どうしても手が届かない。
逡巡する間もなく、俺は思考を停止したまま、目の前のグラウンドへと走り出した。




