第3話:放課後の共謀者
東堂の表札。
閑静な住宅街。
小綺麗に整えられた庭では、季節の移ろいを引き受けた春の花々が、残酷なほど鮮やかに咲き誇っていた。
ビオラ、クレマチス、撫子。
そして、燃えるような朱色のチューリップ。
(……あの人の好きな花。毎年この季節になると、玄関に飾っていた)
梨亜は、一瞬だけその花びらに目を留めた。
好きな花。
その認識を、過去形に書き換える。
好きだった花。
今の自分に、純粋な追憶に浸る贅沢など許されていない。
重い玄関扉を開ける。
「お帰りなさい、梨亜ちゃん」
リビングから、継母の志津子が穏やかな声をかけてきた。
鼻腔をくすぐるのは、醤油と砂糖の焦げる、甘辛い家庭の匂い。
「ただいま、志津子さん」
実母と離婚した父が、婿入りによって手に入れたこの家。
「お母さん」と呼べないまま、時間だけが過ぎていった。
志津子は細心の注意を払って「理想の母」を演じ、梨亜はそれに応えて「素直な娘」を演じる。
互いに相手を傷つけないよう気を遣いながら、必要以上に踏み込まない。
血の繋がりという泥臭い感情のぶつけ合いがない分、この家には凪いだ湖面のような、完璧で、空虚な秩序が保たれていた。
「わぁ! このブリ大根、美味しそう」
梨亜はわざとらしく声を弾ませ、鍋を覗き込む。
「うふふ、梨亜ちゃんの好物だもの。今晩、楽しみにしててね」
「はーい」
「あ、そうそう。もう来られてるわよ。乃木先生。二階にお通ししてるから」
志津子の言葉に、梨亜の心臓がわずかに跳ねた。
「あ、今日、火曜日だった……。ちょっと遅れちゃった。先生、怒ってないといいんだけど……」
「ふふ、あんなに穏やかな方が怒るわけないじゃない」
志津子は銀のトレイを差し出した。
「……はい、これ。ケーキと紅茶、お出ししてね」
「ありがとう、志津子さん」
梨亜は、甘い香りの漂うトレイを受け取った。
縁を、爪が白くなるほど強く握りしめて。
静かに、一段ずつ階段を上がる。
この階段の先は、東堂家の「日常」ではない。
カチャリ、とドアを開けた。
夕陽の差し込む部屋。
机に向かい、今日の課題を見つめている背中があった。
窓からの光が、猫っ毛の明るい茶髪を透かしている。
大学生の家庭教師。
――乃木誉。
「ごめんなさい、誉くん。遅くなっちゃった」
「……五分ほどの遅刻かな?」
誉がゆっくりと振り返る。
逆光の中で、端正な輪郭だけが浮かび上がった。細いフレームの眼鏡の奥で、視線が梨亜に落ちる。
梨亜に向けた視線だけ、温度が違った。
「おかえりなさい、梨亜ちゃん」
その声の響きだけが、梨亜の喉の奥にこびりついた「あの日」の渇きを、一瞬だけ癒やしてくれるような気がした。
「学校はどう? 新しい友達はできたかな」
どこまでも穏やかな、家庭教師の声。
梨亜はトレイを机に置き、湯気の向こうで目を伏せた。
「うん。みんな結構、フレンドリーにしてくれてるよ」
「それは何よりだ」
誉はテーブルの上のケーキを、一口サイズに切り分けていく。
ミリ単位の狂いもない、几帳面な手つき。
その動きが、ふと止まった。
「……例の彼とは?」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「うん、……会えたよ」
紅茶を啜ろうとした梨亜の手が、見る間に冷えていく。
「そう。上手いことやれたみたいだね。顔に書いてあるよ」
誉の視線が、梨亜の表情に浮かんだ微かな揺らぎを逃さない。
その視線が、愛おしそうに梨亜をなぞった。
「……うん。多分ね」
「辛くない?」
「分からないよ。……本当に」
「梨亜ちゃん。無理はしないで」
誉は椅子を寄せ、梨亜の瞳の奥をじっと覗き込んだ。そこには梨亜の姿だけが、歪なほど鮮明に映し出されていた。
「俺はね、君まで失いたくないんだ」
嘘ではないのだろう。
けれど、その言葉は梨亜の退路を断つ呪文のように重かった。
「分かってる。ありがとう。……誉くん」
「さぁ、課題を始めるよ。ここ、次のテストに出る大事なところだから、しっかりね」
「うぇっ、急にスパルタじゃん」
梨亜は頬を膨らませた。
「……でも、そのギャップが好きだけどね?」
冗談めかして微笑む梨亜に、誉は細いフレームを押し上げた。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
その掌が、梨亜の頭に置かれた。
壊れ物に触れるように、そっと。
梨亜は、その手を避けなかった。
「俺もだよ、梨亜」




