第十六話《東を向く》
白夜が左足を出す。
壊れた右脚を引き寄せる。
腰部の軸がずれ、胸部が右へ傾く。
背部推進器を一瞬だけ噴かせ、姿勢を戻す。
その繰り返しで東へ進んだ。
速くはない。
背後の歩みも、こちらへ合わせるように一定だった。
走れば追いつけるはずなのに、距離を詰めてこない。
瞳だけを私へ向け、白夜が一歩進むたびに一歩ついてくる。
通過した場所へ《血液感知》を戻す。
足跡そのものに血の反応はない。
けれど、圧痕から沈んだ黒い筋が、崩れた排水路と旧水路を伝っている。
途切れて見える足跡が、地下では一本につながっていた。
追っているのに、追いつこうとしていない。
私を追うことと、別の何かを同時に進めている。
旧地下貯水区から離れるにつれ、地面から貯水施設の残骸が減っていった。
崩れた壁。
潰れた水路。
折れた柱。
それらが背後へ流れていく。
深淵都西外縁の崩落岩盤区へ入ると、地表には建物ではなく、割れた岩と古い水路の断面だけが残っていた。
《血液感知》を後方へ広げた。
初めは、避難路を進む多くの循環が見えていた。
負傷者の弱い血。
担架を運ぶ兵士の速い血。
娘の細い循環。
距離が開くたび、一つずつ感知の外へ消えていく。
追う足は向きを変えない。
最後の一つが見えなくなった。
周囲に残った人間の血は、搭乗槽の中にある私のものだけだった。
ここなら、巻き込まない。
前方には、戦うための広さを持つ平らな岩盤が続いている。
そのさらに東では地面が斜めに落ち、大崩落で旧水路ごと断ち切られた裂谷へ続いていた。
《血液感知》を下へ伸ばしても、底には届かない。
奈落深部へ連結した空洞が、岩盤の下で口を開けている。
裂谷までの地表に、逃げ遅れた者の血はない。
白夜の左足を止めた。
背後の足音も止まった。
新しい圧痕は作られない。
地面へ沈んでいた黒い筋の伸びも、そこで途切れた。
引きずってきた右脚が横へ流れる。
背部推進器を短く使い、腰を回した。
白夜が振り返る。
航鯨の骨と鱗をまとった姿が、正面に立った。
航鯨の鱗を腰と肩に残し、背中には未完成の翼骨を畳んでいる。
胸には傷も継ぎ目もなく、黒い皮膚の下で複数の血流だけが動いていた。
息はしていない。
口も閉じたまま。
産声を上げたあと、その胸は一度も膨らんでいなかった。
黒いものが一歩近づく。
白夜より少し低い頭が、搭乗槽の位置へ向いた。
胸部装甲を透かして、私を見ている。
「ここで止める」
応答はない。
白夜の状態表示を開く。
右腕部は欠損。
左前腕部は駆動不能。
右膝の支持部は破損。
腰部固定は不完全。
胸部装甲には複数の亀裂。
背部推進器は一基だけ。
連続使用はできない。
機体に残る通常の機構だけでは、攻撃の形を作れない。
別の循環を開いた。
白夜の内部に残していた《深淵天竜》の血が動く。
航鯨との戦いで失い、救助で使い、残量は大きく減っている。
増やすことはできない。
私の魔力が残っていても、材料になる竜血そのものは戻らない。
一度の攻撃へ集める。
最初に、右肩の欠損部へ送った。
装甲の切断面から赤黒い血があふれ、骨格に沿って伸びる。
上腕。
肘。
前腕。
ただし、失った機構を直しているわけではない。
白夜の右腕とはつながらない。
外側に組み上げた、血だけの腕。
その先端を、白夜の全高に見合う巨大な鉤爪へ変える。
残りの竜血を右膝へ回した。
折れた支持部の外側を囲み、腿と脛を一時的に固定する。
最後の一部は背中へ。
左右に広げる量はない。
左側だけに薄い翼を作り、傾いた上体を支える面にした。
三つを同時に保つ。
管理者接続へ入ってくる情報が増えた。
左脚の荷重。
外側から固めた右膝の角度。
翼が受ける空気。
鉤爪の一節ごとの形。
別々の場所へ命令を送りながら、正面から視線を外さない。
歩みは止まらない。
腕を上げない。
身構えもしない。
私が何を作っているのか、見えていないように進んでくる。
「白夜、前へ」
左脚が岩盤を蹴った。
竜血の支えで、右膝へ一瞬だけ荷重を移す。
背部推進器を点火。
薄い翼が、姿勢の崩れを押さえる。
白夜の巨体が前へ出た。
右肩から伸びた鉤爪を振り抜く。
これが今作れる、最も強い一撃だった。
その胸は開いたまま。
避けない。
腕で受けようともしない。
鉤爪の先端が皮膚へ届く。
その直前で止まった。
黒い胸の内部で、複数の循環が同時に向きを変える。
爪先へ集まったのではない。
右肩から鉤爪へ通した竜血の流れを、外側からなぞるように動いている。
接触していない。
岩に当たった感触もない。
私が止めたわけでもない。
「進んで」
竜血へ命令を送る。
鉤爪は動かない。
《血液支配》
流れを強める。
右肩から爪先まで圧力をかけ、形を前へ押し出す。
一滴も応じなかった。
瞳は鉤爪ではなく、私を見ている。
「私の血。動いて」
さらに深く命令を通す。
白夜の中にある竜血の位置は分かる。
形も、流れも、すべて感じ取れる。
なのに、私へつながっていたはずの感覚だけが消えていく。
最初に爪先。
次に指。
手首。
命令の届かない範囲が、右肩へ向かって戻ってくる。
所有していた血を奪われたという感触さえなかった。
初めから私のものではなかったように、命令するための接点が消える。
巨大な鉤爪が輪郭を失った。
赤黒い血が、傷一つない胸へ引かれる。
皮膚へ触れる前に細い筋へ分かれ、そのまま内部へ沈んでいった。
攻撃を防いだだけではない。
白夜の中から外へ伸びた血の経路を見つけ、命令の届く場所から順に奪っている。
「戻って」
反応はない。
背中の翼が崩れた。
膜が液体へ戻り、空中へ落ちる前に前方へ流れる。
右膝を囲んでいた支えも外れた。
折れた支持部へ、白夜の全荷重が戻る。
推進の勢いが残ったまま、右脚が潰れた。
腰部の軸が落ちる。
白夜の右膝が岩盤へついた。
左脚だけでは、前へ出た白夜の上体を起こせない。
胸部が低くなる。
その足元に、白夜が跪いた。
竜血で作った構造が、すべて崩れていく。
爪も。
翼も。
膝の支えも。
装甲の窪みに薄く残った深淵天竜の血も、私の命令を聞かなかった。
搭乗槽の中へ意識を戻す。
私の血は動く。
傷口から流れた血。
固定帯に残った血。
胸部装甲の亀裂へつながる細い血糸。
すべて、まだ私へ応じる。
長い腕が上がった。
白夜の胸部へ手が伸びる。
人差し指が、装甲の亀裂へ近づく。
自分の血を一本に集めた。
《血針》
亀裂の奥から射出する。
赤い針が、黒い指先へ当たった。
硬い皮膚を貫けない。
さらに細くする。
力を一点へ絞る。
針の先が、指の表面へ小さな穴を開けた。
一滴だけ血が浮いた。
指は止まらない。
けれど、傷はついた。
流れ出た一滴の周囲で、黒い粉がわずかにほどけた。
空中へ広がらず、指の表面と白夜の亀裂へ薄く張りつく。
一滴が、白夜の胸部へ落ちた。
装甲の亀裂へ入り、外板の内側で止まる。
熱は伝わってこない。
周囲へ残った深淵天竜の血が、そこへ触れないよう薄く沈んだ。
私の命令を拒んだ竜血が、その一滴より低い場所へ伏せている。
掌が白夜の胸部へ触れた。
強く叩かれたわけではない。
ただ、前から押された。
左足が岩盤を滑る。
右膝の残った支持材が折れた。
腰部固定が外れ、上体の軸が右へずれる。
「推進器、点火」
背部で、最後の一基が噴いた。
熱の警告が瞬時に上がる。
それでも、押し込まれる力の方が強い。
胸部装甲の亀裂が広がった。
外板の固定具が連続して弾ける。
推進器の音が途切れた。
白夜が後ろへ倒れる。
背中が岩盤へ衝突した。
搭乗槽が揺れ、固定帯が胸へ食い込む。
視界が一度暗くなった。
管理者接続は切れていない。
呼びかけると、左脚から遅れて細い反応が返った。
腰部にも、わずかな固定が残っている。
起き上がれない。
それでも、白夜はまだ完全には止まっていなかった。
足音が近づく。
胸部装甲に残った黒い一滴のそばへ、傷のついた指が下りてくる。
指先が亀裂へ入った。
浮いた外板へ引っかかる。
胸部装甲が、ゆっくりと持ち上がり始めた。




