第十五話《産声》
胸鱗の縁を掴んだ指が閉じる。
厚い鱗が砕けた。
両腕へ力が入り、航鯨の胸部が左右へ引き裂かれる。
死体の中に残っていた空気が、肉と骨の隙間から吹き出した。
血は飛び散らない。
黒い筋へ集められ、すでに別の身体へ移されている。
肩が抜けた。
胸が現れる。
腰が外殻の縁を越えた。
最後に二本の脚が、航鯨の肋骨を踏み折って外へ出た。
人型だった。
頭と胴。
二本の腕。
二本の脚。
形だけなら、人間と同じ部位で構成されている。
けれど、大きさも比率も違う。
腕は膝より下まで届き、指は胸鱗を一本ずつ掴めるほど長い。
背中には不揃いな翼骨が折り畳まれ、腰から腿にかけて、航鯨の肋骨が外側から巻きついている。
鯨の骨と鱗を、脱ぎ残した殻のようにまとっていた。
足を死体の上へ下ろす。
一キロメートルを超える航鯨の胴体が沈んだ。
岩盤の下で空洞が潰れる。
《血液感知》の奥に残っていた細い循環が、一度だけ強く押し出された。
止まった。
位置は変わらない。
別の経路へ移ったわけでもない。
もう一度探す。
動きはなかった。
救助する対象から、その反応を外す。
上へ意識を戻した。
大きな胸にも、鼓動はない。
黒い血は流れている。
ただし、心臓から押し出されてはいなかった。
首、両腕、背中、脚へ分かれた流れが、途中で向きを変えながら、同じ間隔で動いている。
どこを止めれば全身の循環が止まるのか、感知だけでは判別できない。
瞳が動いた。
白夜を見ない。
背後へ逃げる人々へ、瞳を向けることもない。
白夜の横に立つ私へ向く。
見えていないようには思えない。
見なくてもよいように、別のことを続けている。
頭がわずかに傾いた。
こちらの位置を確かめるような動きだった。
「避難を続けて」
隊長格の兵士へ言う。
「あれはどうする」
「私を見てる。離せるかもしれない」
「一人で残る気か」
答える前に、死体の上に立つ脚が動いた。
航鯨の鱗が砕ける。
一歩で、胸部の端から地面へ下りた。
着地の衝撃は小さい。
あれだけの大きさがありながら、岩盤はわずかに沈んだだけだった。
重さがないわけではない。
足首と膝が着地と同時に曲がり、衝撃を全身へ逃がしていた。
足が持ち上がる。
浅い圧痕の底に、黒い粉が残っていた。
航鯨の肉片でも、砕けた鱗でもない。
粉は風へ舞わない。
岩盤の細い亀裂へ沈み、見えなくなった。
次の一歩が私へ向く。
足が離れた場所にも、同じ黒が残った。
今度は亀裂から、崩れた排水溝の奥へ流れていく。
航鯨の中に残っていたものか。
あの身体を流れる黒い血の一部か。
《血液感知》を向けても、血としての流れは返らなかった。
「行って」
隊長格が剣を構えた。
「避難民を先へやる。俺は最後尾につく」
「ここに残る必要はない」
「担架がまだ動いていない」
振り返る。
娘を載せた担架の片側が、崩れた石に挟まっていた。
治療兵は、ほかの重傷者を先へ送っている。
父親が一人で持ち上げようとしているが、脚が震え、担架の端を浮かせられない。
隊長格が走った。
「そっちを持て!」
父親が頷き、二人で左右を掴む。
私も血糸を四隅へ伸ばした。
背後の一歩が止まる。
振り向く。
頭は私へ向いたまま。
瞳を向けたまま、右腕だけが上がっていた。
長い指が開く。
白夜の右腕が失われた側には、遮るものがない。
そのまま伸ばせば、私の後ろにある担架まで届く。
狙っているのは白夜ではない。
掌の中心は、私の立つ位置へ向いていた。
「担架を離して!」
血糸を引く。
父親は手を離さない。
娘を載せたまま急に引けば、身体を落とすと思ったのだろう。
隊長格も担架を持ち上げ、石から外そうとしている。
腕が伸びた。
速くはない。
避けられる。
けれど、掌は私一人より大きい。
後ろにいる二人まで範囲に入る。
私は左へ跳び、同時に担架だけを血糸で持ち上げた。
父親の指が外れる。
隊長格の手から木枠が抜ける。
担架が地面を離れた。
掌が落ちる。
娘を避難路側へ引いた。
木枠が岩へぶつかり、横向きに滑る。
その後ろで、地面が一度だけ沈んだ。
音は小さかった。
血の反応は、二つとも同じ瞬間に消えた。
掌が持ち上がる。
父親と隊長格がいた場所には、砕けた岩と大きな圧痕が残った。
娘の担架を引き寄せる。
胸は上下している。
衝撃で傷口が開き、包帯へ血がにじんでいた。
致命的な出血ではない。
「担架を!」
避難路から兵士が一人戻ってくる。
「この子を連れていって」
「父親は」
「もう動かない。止まらないで」
兵士の顔が固まった。
それでも担架を受け取り、治療兵のいる方へ走り出す。
娘は意識を取り戻さない。
父親を呼ぶこともなかった。
遠ざかる血流を確認する。
次に伸びてくる手は、もう避難路へ届かせない。
周囲へ《血液感知》を広げた。
北には避難集団がいる。
西にも、崩れた住居区画から逃げる人間の血が残っている。
南は、既存の避難路と都外へ続く通路が重なっていた。
東。
旧地下貯水区の東側。
深淵都西外縁に、大崩落で残った岩盤区がある。
崩れた水路と外縁区画を越えた先には、旧水路ごと断ち切られた裂谷が走っている。
その手前までなら、今の白夜でも進める。
感知できる範囲に、人間の血はない。
避難路から引き離すなら、そこしかない。
一歩下がる。
瞳がついてくる。
もう一歩、東へ動く。
足の向きが変わった。
やはり私を追っている。
その足が地面を離れるたび、圧痕の底へ黒い粉が残る。
追う動きと、足元で続けている動きは別だった。
白夜を見る。
右膝の支持部は折れている。
右腕はない。
左拳もない。
残った左前腕は内部まで砕け、支えには使えない。
胸部装甲には、産声で走った亀裂がある。
腰部固定もずれている。
動かせるのは左脚と、短時間だけ使える背部推進器が一基。
戦える状態ではない。
それでも、私一人で走るより速い。
何より、追いつかれた時に一度は受け止められる。
胸部へ血糸を伸ばした。
亀裂の脇に残る取っ手へ巻きつけ、身体を引き上げる。
背後で指が地面を掻いた。
さっき私がいた場所の岩が剥がれる。
白夜の搭乗槽へ滑り込んだ。
固定帯を閉じる。
管理者接続が、遠隔操作から搭乗状態へ切り替わる。
《搭乗者を確認》
《右膝支持部、破損》
《右腕部、応答なし》
《左前腕部、駆動不能》
《腰部固定、不完全》
警告が重なる。
「分かってる」
左脚へ魔力を送る。
白夜の胸部が上がった。
折れた右脚が岩盤を削る。
腰が傾く。
背部推進器を短く噴かせ、上体を左脚の上へ戻した。
立ち上がる。
完全には伸びない。
右側を低くしたまま、白夜が一歩を出す。
左足を前へ。
壊れた右脚を引きずる。
もう一歩。
背後の歩みも東へ向きを変えた。
避難路へは向かわない。
担架を追わない。
私だけについてくる。




