第十四話《殻の下》
その瞳は、まだ私を捉えていた。
深淵航鯨の心臓は止まっている。
本来の頭部へ向かう血流もない。
胸鰭にも尾部にも、航鯨自身の意思で動いている筋肉は残っていなかった。
航鯨は死んでいる。
けれど、その胸部では別の循環が始まっていた。
胸鱗に浮いた黒い斑点が互いにつながり、一つの領域へ変わっていく。
《血液感知》を絞ると、航鯨の全身へ伸びた黒い筋の中を、死んだ血が移動しているのが分かった。
本来の血管も、止まった心臓も通っていない。
血は胸部の奥に生まれた別の中枢から押し出され、航鯨の頭ではない場所へ戻っていた。
これは航鯨の生命活動ではない。
胸部に根を張った黒い組織が、死体を内側から取り込んでいる。
裂けた胸鱗の間から現れた頭部が、わずかに持ち上がった。
角に似た突起。
鱗のない頬。
光を返さない皮膚。
その中で、開いた瞳だけが私を追っている。
胸鱗の内側から、骨の軋む音が響いた。
死んだ肉を押し分け、まだつながりきっていない骨が位置を変えていく。
地面へ小さな振動が伝わった。
航鯨の尾が跳ねた。
死後の痙攣ではない。
尾へ続く筋肉の中にも、黒い筋が入り込んでいる。
管理者接続を通して、白夜の右肩側へ荷重が返った。
右腕を失った白夜は、欠損部の近くに残った胸部装甲を崩落壁へ押し当てている。
膝と腰を固定し、救助口へ落ちてくる岩盤を受け止めていた。
搭乗者のいない白夜が姿勢を保てるのは、私との接続が切れておらず、こちらから魔力を送り続けているからだ。
航鯨の尾が地面を削った衝撃で、白夜の装甲がわずかに沈む。
右膝の下で岩が割れた。
兵士が槍を構えた。
別の兵士も、胸部から覗く頭へ剣を向ける。
「待って」
隊長格の兵士が振り返った。
「動いたぞ」
「分かってる。でも、まだ攻撃してない」
どこを壊せば止まるのか分からない。
頭を落とせば死ぬのか。
航鯨の胸部ごと焼けば止まるのか。
それとも、刺激した瞬間に死体の下までまとめて潰されるのか。
今ここにある戦力で、仕留めきれる保証はなかった。
その間にも、地下に埋もれた鼓動は弱くなっている。
呼吸のできる空間が狭まっているのだろう。
優先するものを決める。
「二人は周りの兵士を集めて、白夜の後ろにいる避難民を都外まで連れていって。残りは救助を続ける。私たちも終わり次第離れる」
隊長格の兵士が、開いた瞳と私を交互に見た。
「あれを残したままか」
「今は、埋まってる人を出す」
「……分かった。救助完了と同時に離脱する」
頬に残っていた涙を手の甲で拭った。
次の涙は落ちなかった。
「聞いたな!」
隊長格の兵士が武器を下ろした。
「第一班だけ残れ! ほかは負傷者を連れて離脱! 都外へ出るまで止まるな!」
兵士たちが動き出す。
これまで白夜の背後は、瓦礫から引き出した者へ応急処置を行う場所だった。
だが、胸部で変化が続いている以上、ここへ留めてはおけない。
航鯨の死体に近すぎる。
「重傷者は担架へ。歩けない人と子供には一人ずつつけて。歩ける人は避難路へ誘導して」
治療兵が頷いた。
担架が持ち上げられる。
動ける者が、動けない者の肩を支えた。
片腕を布で吊った兵士が子供を背負い、治療兵が先頭に立って既存の避難路へ向かう。
父親は娘の手を握っていた。
娘は担架へ載せられている。
父親は私を見なかった。
妻が残っている換気路へ一度だけ顔を向け、それから娘の担架について歩き始めた。
私の手を振り払った女も、別の治療兵へ支えられていた。
閉じた傷から血は漏れていない。
両脚も動いている。
女も私とは目を合わせなかった。
それでも、避難路へ向かっている。
今はそれでいい。
最初の集団が現場を離れる。
兵士が前後につき、担架同士の間隔を空けて進んでいく。
航鯨から遠ざかる背中を確認してから、頭上へ意識を戻した。
胸部に別の頭が現れてから、死体の上空へ翼鰭魚が集まっている。
群れは高度を下げ、航鯨を中心に狭い円を描いていた。
放電クラゲも胸部の上へ寄り、青白い光を同じ間隔で明滅させている。
こちらへは来ない。
けれど、いつ動くかは分からない。
見張りを残した分だけ、救助へ回せる人数は減った。
ここから先は、残った者だけで続けるしかない。
《血液感知》を地下へ沈める。
航鯨の死んだ血が、感知範囲の大部分を埋めていた。
黒い筋へ引かれる血。
地面へ染み込んだ血。
崩れた地下区画へ流れ落ちた血。
その中に、人間の細い循環が埋もれている。
一つへ意識を絞った。
場所は航鯨の胸部の下。
崩れた旧水路の奥だった。
「胸部の下に一人いる」
隊長格の兵士が救助口を見る。
胸鱗の一部が岩盤へ斜めに食い込み、その隣に人が通れるだけの隙間を残していた。
「入れるのか」
「入るしかない。二人来て」
隊長格が一人を指した。
「俺たちが行く。残りは搬送を続けろ」
崩れた胸鱗へ近づく。
隙間へ入る前に、入口へ一本の血糸を残した。
帰る方向を示すための糸だった。
さらに二本を胸鱗と航鯨の肋骨へ回し、落ちかけた鱗が内側へ倒れないよう張る。
亀裂へ入った。
内部は暗い。
暗視の中に、崩れた石と梁が浮かんでいる。
「足元、段差」
後ろの二人が速度を落とした。
天井は低い。
航鯨の死体が岩盤を押し下げている。
弱い鼓動は右前方にあった。
瓦礫を一つずつ外す。
その奥に、折れた梁が斜めに残っていた。
「これは動かせない」
梁が天井を受けている。
外せば、その上に積もった石まで落ちる。
血の反応は梁の下から届いていた。
下を掘るしかない。
血刃の先を平たく変形させ、土砂へ差し入れた。
岩へ当たるたびに刃先を薄くし、隙間から砂を掻き出す。
右肩の痛みが強くなった。
呼吸が浅くなる。
けれど、この下の鼓動は続いている。
外で航鯨の死体が動いた。
天井から砂が落ちる。
入口へ張った血糸の一本が軋んだ。
手は止めない。
瓦礫の下から腕が見えた。
指がわずかに動いている。
「いた」
周囲の土砂を掻き出す。
男だった。
腰から下を瓦礫に挟まれ、意識はない。
呼吸は浅く、左脚の血管が裂けていた。
まず血糸を左脚へ巻き、裂けた血管の両側を押さえる。
その上から手を置いた。
《血脈再生》
生きている血管の端をつなぐ。
裂けた筋肉を寄せる。
すべては治さない。
出血を止め、搬出に耐えられる状態まで戻す。
周囲へ流れた血にも意識を伸ばした。
地面へ深く染みた分までは回収できない。
手の届く血だけを引く。
《返血》
床に残った赤い流れが傷口へ戻った。
男の循環が少し強くなる。
呼吸も続いている。
「引くよ」
二人が上体を持ち、私が腰の周りの石を浮かせる。
右脚が引っかかった。
「もう少し上」
隊長格が石を支え、もう一人が脚を外した。
男の身体を引き出す。
兵士が背負った。
入口へ残した血糸をたどって戻る。
外から低い振動が伝わった。
胸鱗の内側で、別の骨が伸びている。
支えに使った糸が張った。
一本が切れる。
天井から石の欠片が落ちた。
兵士を先へ出し、残った糸を引いて胸鱗の位置を保つ。
管理者接続の向こうでは、白夜の右膝がさらに岩盤へ沈んでいた。
左脛が崩落壁の基部へ押しつけられ、腰部固定の一つが警告を返している。
それでも、人が通れる隙間は残っていた。
男を外へ運び出す。
治療兵が駆け寄り、地面へ寝かせた。
首筋へ触れる。
「呼吸はある」
「左脚の血管は閉じた。戻せる血は戻してある」
「こっちで見る」
任せる。
治療兵は状態を確かめると、次の避難集団へ担架を回した。
白夜の後ろには留めない。
歩ける負傷者が担架の横につき、兵士が前後を固める。
二つ目の集団が現場から離れていった。
先に出た者たちは、もう避難路の先で小さくなっている。
航鯨の胸部へ視線を戻した。
翼に似た骨が、死体の内側から現れていた。
《深淵天竜》の翼に似ている。
けれど、同じではない。
骨の長さは揃わず、関節もつながりきっていない。
翼膜は途中までしか張られていなかった。
黒い組織が航鯨の血と肉を引き込み、生まれかけの輪郭へ送り続けている。
死体から血が減る。
筋肉が薄くなる。
その分だけ、胸部から現れた頭と翼骨が大きくなっていた。
何が生まれようとしているのか。
どこまで形を変えるのか。
分からない。
ただ、この変化は止まっていない。
頭は動かない。
瞳も閉じない。
私を見ているのか。
背後にある白夜を見ているのか。
それさえ判別できなかった。
見張りの兵士が、槍を構えたまま言った。
「あれは、出てくるのか」
「分からない」
「出てきたら?」
《血液感知》をさらに下へ伸ばす。
「その前に、残ってる人を出す」
航鯨の血が胸部へ集まったことで、それまで埋もれていた小さな循環が見えた。
さっき救出した男よりも深い場所。
厚い岩盤と、崩れた地下区画の向こう。
そこに、人間の血がある。
弱い。
一度、細く流れる。
止まりかける。
もう一度。
「いる」
隊長格の兵士がこちらを向いた。
「どこだ」
「もっと下。死体の真下」
避難集団は既存の避難路を進んでいる。
治療兵に支えられた女。
娘の担架から離れない父親。
兵士に背負われた子供。
さっき救出した男を運ぶ者たち。
少しずつ間隔を空けながら、航鯨の死体から遠ざかっていく。
ここへ残せば、胸部が動いた時に巻き込まれる。
動かせる者から離す。
まだ動いている血から救う。
ほかに選べる手順はなかった。
航鯨の胸部全体が内側へ沈んだ。
頭が動いたわけではない。
翼骨が胸鱗へ触れたわけでもない。
一キロメートルを超える死体の胸部が、一度に窪んだ。
周囲の空気が動く。
足元の灰が胸部へ向かって流れた。
砂が岩盤の上を走り、崩れた水路の隙間から細い風が吸い出される。
白夜の装甲表面を、土埃が一方向へ滑った。
管理者接続へ、周囲の圧力が急に抜ける感覚が返る。
翼鰭魚の群れが旋回をやめた。
すべての頭が、同じ瞬間に航鯨の胸部へ向く。
放電クラゲが一斉に青白く光った。
死んだ航鯨の胸腔が、ゆっくりと膨らみ始める。
本来の心臓は止まったまま。
本来の血流も動いていない。
それでも、胸部の中で動く別の中枢が、航鯨の巨大な胸腔へ空気を満たしていく。
息を吸った。
避難路を進む人々の背中が見える。
地下では、見つけたばかりの細い血が流れている。
私は胸部ではなく、その下を見た。
まだ、生きている。
吸い込まれた空気が、航鯨の胸部へ集まり続ける。
地面を走っていた砂が胸鱗の隙間へ消えた。
灰が舞い上がり、翼骨の周囲を渦巻く。
それだけの空気を取り込んでも、航鯨の肺は動いていない。
膨らんでいるのは、死体の中に作られた別の空洞だった。
《血液感知》には、黒い筋が一斉に縮む様子が映っている。
全身から集めた血と肉を、胸部の一点へ押し固めていた。
その下で、人間の血がまた細く流れた。
まだ止まっていない。
「下へ入る道は?」
隊長格の兵士が、さっき使った亀裂を覗き込む。
胸鱗が沈み、入口は半分まで潰れていた。
あの隙間から入っても、弱い循環までは届かない。
間にある地下区画ごと掘り抜く必要がある。
しかも、航鯨の胸部は今も形を変えている。
「今の入口からは無理」
「別の水路を探すか」
感知範囲を広げる。
東側の旧水路は崩落している。
西側は航鯨の腹部に押し潰されていた。
残る経路は死体の下を通る一本だけだが、途中で血の反応が途切れるほど岩盤が重なっている。
たどり着くまで、鼓動がもつとは思えない。
それでも、止まったわけではない。
「入口を広げる。白夜に――」
胸部の膨張が止まった。
空気の流れも止まる。
翼鰭魚が一斉に高度を上げた。
放電クラゲの明滅が消えた。
音がなくなった。
航鯨の外殻を支えていた骨が、内側から一本ずつ押し広げられる。
胸鱗の亀裂が伸びた。
白夜が受け止めている崩落壁まで振動が届く。
管理者接続へ複数の警告が返った。
右膝の支持限界。
腰部固定のずれ。
胸部装甲への圧力上昇。
避難路を見る。
先頭はすでに遠い。
だが、最後尾にはまだ担架が残っている。
負傷者を運ぶ兵士たちは、白夜の背後を抜けきっていない。
父親と娘もそこにいた。
隊長格の兵士が私の視線を追った。
「何が来る」
「分からない。でも、ここにいたら受ける」
「下の一人は」
細い血が一度だけ流れた。
私は白夜へ魔力を送る。
「残ってる兵士を避難路へ。走って」
「お前はどうする」
「白夜を動かす」
白夜は崩落壁を支えている。
ここから離せば、救助口は潰れる。
地下へ入るための道もなくなる。
けれど、このままなら、避難路の最後尾が何を受けるか分からない。
生きている二つの血流へ、同時に手を伸ばす時間は残っていなかった。
「白夜、接続を確認」
《管理者接続、継続中》
細い応答が返る。
「魔力供給を維持。崩落壁から離れて」
白夜の胸部が軋んだ。
右腕を失った側の装甲が、押しつけていた岩から剥がれる。
壁が沈む。
残った兵士たちが亀裂から飛び出した。
「全員出た!」
隊長格の声を聞き、白夜をさらに下げる。
支えを失った岩盤が崩れた。
さっきまで人が通れた隙間へ、胸鱗と石が落ちていく。
地下に残る鼓動は消えていない。
それでも、もう見えない。
白夜の右足を引く。
膝の支持部が震えた。
左脚へ荷重を移し、腰を回す。
搭乗者のいない巨体が、私から送る魔力と管理者接続の指示だけで向きを変えた。
一歩。
右脚が地面を擦る。
二歩目は出ない。
背部に残った推進器の一基を短く噴かせ、姿勢を前へ押し出す。
白夜が避難路と航鯨の間へ滑り込んだ。
「白い騎士の後ろへ!」
隊長格の兵士が走りながら叫ぶ。
担架を運ぶ者たちが白夜の陰へ入る。
父親が娘の頭へ覆いかぶさった。
治療兵が担架の脚を押さえる。
私は白夜の胸部を沈めた。
右腕はない。
左の拳も失っている。
残った左前腕を地面へつくこともできない。
左脚で立ち、壊れかけた右膝を外へ開き、胸部そのものを盾にする。
外側へ向けられる装甲を、すべて航鯨へ向けた。
その時、開いた口の奥が震えた。
喉があるようには見えない。
声帯も、肺につながる気道もない。
それでも、吸い込まれた空気が一点から押し出された。
最初に来たのは、音ではなかった。
圧力だった。
空間そのものが前へ押し出される。
航鯨の周囲を飛んでいた翼鰭魚が、弾けるように散った。
何体かは翼を折られ、岩盤へ叩きつけられる。
放電クラゲが潰れ、青白い光が線となって流れた。
地面の灰が壁になって迫る。
「伏せて!」
白夜の胸部へ衝撃が届いた。
管理者接続が白く染まる。
装甲の表面を砂と石が削り、亀裂へ入り込む。
白夜の背後で、人の身体が地面から浮いた。
血糸を伸ばす。
担架の四隅。
治療兵の腰。
子供を抱えた兵士の脚。
避難路の壁へ結び、流される身体を引き止める。
父親が娘の担架へしがみついた。
隊長格の兵士が二人の上へ盾を重ねる。
白夜の右膝から、硬い音が返った。
支持部が折れた。
右脚が外へ崩れる。
胸部を支えていた一点が消え、巨体が傾いた。
「左へ倒れないで」
残った左脚へ、すべての荷重を集める。
背部推進器を一度だけ噴かせた。
白夜の胸部が半歩分前へ戻る。
直後、装甲の中央に新しい亀裂が走った。
外板が一枚浮き、固定具が弾ける。
それでも白夜は倒れない。
背後にいる人々の血流も、散らされずに残っている。
遅れて音が来た。
高くも低くもない。
大きすぎて、耳では一つの音として拾えない。
岩盤が震え、胸骨の内側が揺さぶられる。
生まれたばかりの口から吐き出された声が、深淵都の崩れた区画を満たした。
産声だった。
音が続く間、航鯨の胸部は裂け続ける。
肩が現れた。
次に、二本の腕が外殻を押し分けた。
左右の長さは同じ。
関節の位置も揃っている。
さっきまで未完成だった翼骨とは違い、腕はすでに一つの身体として動いていた。
片方の手が胸鱗を押す。
指は五本あった。
人間と同じ数。
けれど、一節ごとに長すぎる。
黒い皮膚の下を、航鯨から奪った血が流れている。
もう片方の腕も外へ出た。
下半身はまだ死体の中に埋まっている。
肩から先だけで外殻を広げ、生まれかけの身体を引き上げようとしていた。
産声が途切れた。
圧力が抜ける。
白夜の背後で、咳と泣き声が戻ってきた。
父親が担架の横で顔を上げる。
娘の胸は上下している。
隊長格の兵士も立ち上がった。
全員、生きている。
私は血糸を解かず、白夜の姿勢を保った。
左脚だけが荷重を受けている。
右膝は折れたまま。
背部推進器からは熱の警告が返る。
胸部装甲の亀裂は、搭乗槽の外壁近くまで伸びていた。
次に同じ衝撃を受ければ、今の形では守れない。
航鯨の胸から突き出た頭がこちらを向いた。
開いた瞳は、群れも避難民も見なかった。
私の位置で止まる。
静寂の中、長い指が曲がった。
五本の指が、胸鱗の縁を掴んだ。




