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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第五部《大崩落》

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第十三話《救う資格》

耳の奥に、高い音だけが残っていた。


白夜の視界は、土煙に塗り潰されている。


地面も空も見えない。


衝突で弾き飛ばされた白夜は、地表へ向かって斜めに落ち続けていた。


白夜の姿勢を起こし、竜翼の角度を変える。


飛ぶためではない。


白夜の機体軸を地面へ揃える。


破裂した左脚推進器は動かない。


背部推進器も一基が停止している。


残る姿勢制御を右脚へ集める。


右腕の欠損部へ、残っていた竜血を寄せる。


赤黒い血を刃状に固める。


《血刃》


白夜の右膝が岩盤へ落ちた。


同時に、右腕の欠損部から伸びた《血刃》が地面へ突き立つ。


岩盤が砕けた。


右膝と赤黒い刃が、地面を長く削る。


七十八・四メートルの機体が、片膝をついたまま前へ滑った。


左脚が外へ流れる。


機械関節だけで岩盤を掻き、横倒しになるのを防ぐ。


右膝が地面を抉った。


《血刃》が砕けながら、残った速度を削る。


白夜は右膝をつき、右肩を低く落とした姿勢で止まった。


《血刃》と竜翼を解除する。


赤黒い血が右肩の欠損部と背部装甲へ戻っていく。


すぐさま、胸部搭乗槽を緊急開放する。


固定具が胸と腹から外れた。


身体を起こした瞬間、右肩に痛みが走る。


構わず、開いた胸部装甲の間から外へ飛び出した。


白夜との接続は切らない。


私は地上へ降りた。


着地した足が滑る。


素足の先を地面へつき、無理やり身体を支えた。


そのまま、《血液感知》を土煙の向こうへ伸ばす。


深淵航鯨の巨大な血の塊が、旧地下貯水区の上へ横たわっている。


けれど、循環はない。


心臓は止まっている。


頭部へ向かう血流もない。


自分の意思で収縮している筋肉も残っていない。


仮死ではない。


戻るための循環そのものが失われている。


深淵航鯨は完全に沈黙していた。


原因は分からない。


今は、それだけ分かればよかった。


確認を終える。


白夜との接続へ意識を戻す。


片膝をついた機体を、崩れた換気路へ寄せる。


左脛を旧水路の壁の基部へ当てさせ、右肩と胸部を崩落しかけた旧地下貯水区の外壁へ押し当てる。


瓦礫を持ち上げるのではない。


崩落したときに白夜の身体で受けさせ、救助口が完全に閉じるのを防ぐ。


「そこを保って」


白夜の右膝が、さらに深く岩盤を捉えた。


私は走った。


平衡感覚は戻っていない。


一歩目で身体が左へ傾く。《飛行》を起動し、翼の先を地面へ擦らせ、姿勢を戻す。


止まっている時間はない。


航鯨が墜落した土煙の向こうで、人が動いていた。


旧地下貯水区にいた兵士と治療兵だった。


外から来た救助隊ではない。


避難民と一緒に、航鯨の墜落へ巻き込まれた兵士たちだ。


動ける兵士と治療兵もいる。


けれど、誰も無傷ではなかった。


頭から血を流した兵士が、素手で瓦礫を掘っている。


片腕を布で吊った兵士が、歩けない避難民を背負っている。


足を引きずる治療兵が、引き出された負傷者の止血を続けていた。


その中央で、隊長格の兵士が短い指示を飛ばしている。


何を言っているのかは聞き取れない。


耳鳴りの奥で、声が細かく割れていた。


浅い場所は、兵士たちが掘っている。


けれど、厚い瓦礫の下に誰がいるのかは分かっていない。


《血液感知》を広げる。


人間の反応が多すぎる。


鼓動が続いているもの。


もう途切れたもの。


瓦礫に圧迫され、血流が細くなっているもの。


身体の外へ血を失い続けているもの。


近い反応も、遠い反応も重なっている。


一人ずつ詳しく確かめる時間はない。


近いか。


助けられるか。


瀕死か。


この基準で絞る。


感覚の中で、一人分の鼓動が途切れた。


その場所へ感覚を戻す。


もう動いていない。


別の場所でも途切れる。


一つ。


その奥でも、また一つ。


数えない。


数えている間にまだ続いている鼓動が弱くなる。


止まった鼓動を数えない。


今から届く鼓動を探す。


一つ。


かなり近い。


速い。


その下にも一つ。


弱い。


けれど、まだ打っている。


生きている。


「北側。浅い場所に三人」


自分の声が聞こえない。


隊長格の兵士へ近づき、腕を掴む。


指で方向を示す。


「北側に三人。二人は浅い。一人は胸を圧迫されてるみたい」


隊長格の兵士が、私の黒い翼を見る。


一瞬だけだった。


すぐに周囲へ向き直る。


「そこの六人は北へ向かえ! 治療兵を一人つけろ!」


兵士が走る。


「東の換気路にも一人。右脚から出血してる」


「……場所は分かるのか?」


「分かる」


私は返事を待たずに走った。


崩れた換気路の入口へ、兵士が二人取りついていた。


横に広い入口を、石板と折れた梁が塞いでいる。


二人で押しても動かない。


「下がって」


兵士たちが離れる。


石板の下へ血糸を潜らせる。


何本も束ねる。


腰を落とす。


翼を開く。


身体を後ろへ引いた。


血糸が張る。


石板の端が浮いた。


兵士たちが隙間へ手を差し込む。


「今」


三人で石板を横へずらした。


人一人が通れる隙間ができる。


私は中へ入った。


男が倒れていた。


右脚を梁に挟まれている。


顔には血と砂がついていた。


意識はある。


太腿の血管が裂け、血が石床へ広がっている。


先に血糸を傷口へ巻く。


出血を絞る。


別の血糸を梁へ回す。


吸血鬼の身体能力と、翼と血糸の力を重ねる。


梁がわずかに浮いた。


男の身体を掴む。


右脚を引き抜く。


傷口から血が増えた。


血糸の圧迫を強める。


入口にいた兵士が男の肩を掴んだ。


二人で換気路の外へ運ぶ。


平らな岩の上へ寝かせた。


治療兵が駆け寄り、布を取り出す。


「固定だけお願い」


男の右脚から流れた血へ意識を伸ばす。


周囲に散った血の中から、男の血だけを選ぶ。


「戻れ」


《返血》


石床へ広がっていた血が動いた。


赤い流れが細くまとまり、傷口から男の身体へ戻っていく。


その光景を見て治療兵の手が止まる。


見ている余裕はない。


戻せる血をすべて戻す。


裂けた血管と筋肉へ魔力を流す。


《血脈再生》


血管がつながる。


裂けた筋肉が内側から閉じる。


ずれた骨を正しい位置へ寄せる。


戻した血が、修復された血管を通って右脚へ巡り始めた。


鼓動の乱れが弱まる。


「治療は終わった。脚は無理に動かさないで」


治療兵が男の右脚を固定する。


私は立ち上がった。


男の手が私の腕を掴んだ。


口が動いている。


耳鳴りの奥へ、低い音が混じる。


「……つま」


顔を近づける。


「妻と……娘がいる」


換気路の奥へ《血液感知》を伸ばす。


二人分の反応がある。


一人の鼓動は弱い。


右脚の血流が乱れている。


もう一人には、鼓動がない。


「一人、生きてる」


「ふたり、いるはずだ」


男が起き上がろうとした。


治療兵が肩を押さえる。


「おれの、妻と、娘がいる」


もう一度確かめる。


弱く続いている鼓動。


完全に途切れた鼓動。


「一人、助けられる」


男の口が開く。


声は出なかった。


私は換気路の先へ進んだ。


崩れた通路の奥で、天井梁が斜めに落ちている。


その下に、小さな身体があった。


胸は潰されていない。


首も折れていない。


右脚が石材に挟まれている。


太腿の血管が裂け、血が周囲へ溜まっていた。


呼吸は浅く、鼓動も弱い。


でもまだ間に合う。


傷口へ血糸を巻く。


出血を止める。


周囲に残る血から、少女の血だけを選ぶ。


「戻って」


《返血》


石のくぼみに溜まっていた血が浮かぶ。


細い流れとなり、少女の傷口へ戻っていく。


戻せる血を戻しながら、傷へ魔力を流す。


《血脈再生》


裂けた血管がつながる。


潰れた筋肉が形を戻す。


戻した血が、修復された血管を通って少女の身体を巡り始めた。


鼓動が少し強くなる。


呼吸も、さっきより深い。


大丈夫。


治療はできた。


だが、少女の上にある梁はすぐには動かせなさそうだった。


梁が天井石を支えている。


無理に動かせば、通路ごと崩れる。


梁と石壁の間へ血糸を通す。


何重にも巻き、沈まないよう固定する。


「ここにいる!」


父親と思われる男がいた方から返事はない。


娘の目も開かない。


それでも、鼓動は続いている。


外へ戻る。


別の場所で鼓動が乱れたのを感じた。


「娘は!」


父親がこちらへ来て叫んだ。


「生きてる。傷も治した」


「なら、出してくれ!」


「梁を動かしたら潰れる。必ず後で助けに来る」


父親の顔が歪む。


私はもう走り出していた。


北側では、兵士たちが瓦礫を掘っている。


一人の腕が見えた。


その下にも反応がある。


「上の人から出す」


血糸を梁の裏へ回す。


兵士たちが石を退ける。


私は梁を持ち上げる。


一人目を引き出した。


肩が外れている。


背中に深い裂傷がある。


周囲へ散った本人の血を選ぶ。


《返血》


《血脈再生》


肩を戻す。


血管と筋肉をつなぐ。


治療兵へ渡す。


「固定して。次」


同じ場所へ戻る。


二人目は胸部を圧迫されている。


瓦礫を動かす前に、肺と心臓の周囲の流れを確かめる。


大丈夫、まだ助けられる。


血糸で身体を固定する。


「右から。ゆっくり動かして」


兵士が瓦礫をずらす。


潰されていた胸が広がった。


男が息を吸う。


口から血が溢れる。


肺に入った血を吐き出せている。


《返血》


肋骨と肺の傷へ魔力を流す。


《血脈再生》


肋骨が正しい位置へ戻っていく。


裂けた肺と血管を閉じる。


乱れていた鼓動が整った。


あとは兵士に任せられる。


「次」


治療兵へ引き渡す。


浅い瓦礫は兵士が掘る。


私は位置と状態を伝える。


重い瓦礫は血糸と身体で動かす。


引き出した人間の血を戻す。


傷を治す。


治療を終えた者から、治療兵が運ぶ。


一人。


《返血》


《血脈再生》


次。


二人。


《返血》


《血脈再生》


次。


瓦礫を退ける。


引き出す。


血を戻す。


傷を閉じる。


治療兵へ渡す。


四人目の治療を終えた直後、視界の端に表示が開いた。


《血脈再生 Lv.4への上昇が可能です》


「上げる」


《血脈再生 Lv.4を取得しました》


次の反応へ走る。


治療に入る。


血管をつないでから、周囲の筋肉を閉じるまでが速い。


傷の奥へ魔力が届くまでの時間も短くなっている。


一人に使う時間が減った。


その分だけ、次へ行ける。


「南側に二人!」


隊長格の兵士の声が、耳鳴りの奥でも聞こえた。


「どっちが先だ!」


感覚を伸ばす。


一人は腹部から出血している。


もう一人は脚を圧迫されているだけ。


「腹部。先に出して」


兵士が動く。


私は瓦礫を跳び越えた。


血糸を壁へ刺し、身体を引く。


倒れた石柱の上へ降りる。


そのまま下へ飛び降りた。


腹部を挟まれた女のそばへ着く。


「石を動かす。出血が増える。私が言うまで引かないで」


「分かった」


兵士が答える。


瓦礫を少し持ち上げる。


腹部から血が溢れた。


同時に血糸で出血点を締める。


「引いて」


兵士が女を引き出した。


流れ出した本人の血を戻す。


《返血》


腹部の傷へ《血脈再生》を流す。


裂けた臓器と血管がつながる。


腹腔へ漏れた血も、本来の流れへ戻していく。


鼓動と血流から状態を確かめる。


問題ない。


「治療兵へ」


兵士が女を抱える。


私は次の反応へ向かった。


治せる。


血を戻せる。


傷も閉じられる。


手が届けば。


生きている間に、そこへ行く。


そのためには、時間が要る。


すべての場所へ同時には行けない。


それでも、間に合いそうな人間のために、治療の途中で別の場所へ向かうこともあった。


より多くを助けるために。


《血液感知》の奥で、弱い鼓動が一つ途切れた。


場所は分かっている。


後回しにした、かなり深い瓦礫の下。


なぜ死んだのか。


誰が殺したのかも、分かっている。


足は止めない。


止まれば、今目の前にいる大勢が死ぬ。


脚を挟まれた男を引き出す。


骨折を戻す。


周囲へ流れた血を返す。


《血脈再生》


治療兵へ渡す。


「次は」


「東だ!」


隊長格の兵士が答えた。


私が指示した位置を、もう覚えている。


「浅い二人は出した! 一人は意識がない!」


「連れてきて」


二人の兵士が負傷者を運んでくる。


頭部から出血している。


頭蓋骨は割れているが、脳への血流は残っている。


なら、助けられる。


戻せる血を戻す。


割れた骨を寄せる。


傷ついた血管と組織、そして穴の開いている肺へ《血脈再生》を流す。


呼吸が整う。


「動かさないで。次」


治療兵が頷く。


「どこへ運ぶ」


「白い巨人の後ろ。崩落から離して」


「分かった」


短いやり取りだけで、人が動く。


兵士が掘る。


治療兵が受け取る。


隊長格の兵士が人を振り分ける。


白夜はずっと救助口を支えている。


私は走り、瓦礫を退け、血を戻し、傷を治す。


初めから一緒にいたわけではない。


私が何者かも、おそらく分かっていない。


それでも今は、救助のために動きがつながっていた。


土煙が少し薄くなり、視界が晴れてきた。


旧地下貯水区の上へ、深淵航鯨が横倒しになっている。


その外側で、白夜が片膝をつき、旧地下貯水区の入口を支えていた。


白い機械装甲は土と血に汚れている。


右腕はない。


左拳もない。


左前腕は大破している。


胸部の竜血装甲も潰れていた。


残った赤黒い装甲が人々の目に入る。


隊長格の兵士も、航鯨の死体を見上げていた。


次に、白夜を見る。


最後に、私へ視線を向けた。


「なぁ、何が起きたんだ」


耳鳴りの奥でも、その言葉は聞き取れた。


「……奈落が開いて、巨大な魔物が現れて、ここに墜落した」


「なぜ、ここなんだ」


答えなければならない。


私が連れてきた。


私が血を呑ませた。


そのあとに落ちた。


人が死んだ。


「私が、西へ誘導した」


周囲で瓦礫を掘っていた兵士の手が、いくつか止まった。


治療兵が顔を上げる。


「囮となる強大な魔物の血を呑ませた」


白夜の赤黒い装甲を見る。


「その直後に、落ちた」


誰も、白夜と航鯨がここへ来るまでを見ていない。


けれど、今は二つともここにある。


私の言葉だけで、ここへ来た順序が伝わった。


先ほど治療した父親が、白夜と航鯨を見比べる。


「あれを連れてきたのは……お前か」


「西へ誘導したのは、私」


男の顔が歪んだ。


その場にいた人々が口を開く。


「俺たちを代わりにしたのか」


「嘘だろ」


「なんで、ここなんだ」


「ここに人がいるって、知らなかったのか」


「知らなかった」


口にした瞬間、それが何の答えにもならないことが分かった。


知らなかったという言葉は、換気路の奥で止まっている妻の鼓動を戻さない。


囮と侵食が無関係だったとは証明できない。


関係していたとも分からない。


分からないことは、答えにならない。


ここから離れた所で、最初に助けた父親の娘の鼓動が乱れた。


一度、弱くなる。


私は男から視線を外す。


換気路へ戻ろうとする。


隊長格の兵士は私を庇わなかった。


問い詰めることもしなかった。


「手を止めるな。北側を続けろ。治療兵は負傷者を運べ」


兵士たちが動き出す。


隊長格の兵士が私を見て問いかける。


「まだ治せるのか」


「生きてれば」


「なら、次はどこだ」


《血液感知》を広げる。


「換気路の右。浅い一人。その下に二人。北側の貯水路にもいる」


「四人、右へ! 二人は北側だ!」


救助が再び動き出した。


私は近い反応へ走る。


「娘は!」


後ろで最初の父親が叫んだ。足を止める。


「治療はした。梁が動かなければ生きられる」


「なら、出してくれよ!」


「今、一人死んだ。そっちにはいけない」


それだけを答えた。


目の前の瓦礫の隙間に、小さな手が見えた。


子供の鼓動は速い。


胸部は圧迫されていない。


脚が挟まれている。


兵士が二人、石へ手をかける。だが動かない。


私は血糸で子供の脚を固定する。


兵士に変わって石を退かす。


身体を慎重に引き出す。


足首に深い傷があるようだった。


周囲に残る本人の血を戻す。


《返血》


《血脈再生》


裂けた血管と筋肉を閉じる。


その時、初めて顔を見た。


子供は泣いていた。


「おかあさんが、おかあさんが」


子供が見ている先に、もう一つの反応がある。


かなり深い。


二メートルほど下だった。


心臓の鼓動は弱い。


今から助け出しても、間に合うかは怪しい。


「あとで来る」


治療を終えた子供を兵士へ渡す。


「歩かせないで」


兵士が子供を岩陰へ運ぶ。


岩陰には、別の子供がいた。


兵士に引き出された子供だった。


瓦礫から伸びた大人の手のそばに座っている。


その手へ続く身体には、もう鼓動がない。


子供は手を握りながら、父親を呼び続けていた。


その子供が私を見る。


泣き声が止まる。


私の黒い翼へ目を向ける。


その向こうにいる白夜を見上げる。


赤黒い装甲が見えた瞬間、身体を縮めた。


近くにいた兵士が、子供を自分の背中へ隠した。


子供ではない、誰かの声が小さく聞こえる。


「こいつが」


誰が言ったのかは分からない。


振り返らない。


次の反応へ向かう。


貯水路の下に、二人の成人の男女が挟まれていた。


一人は腹部から出血している。


けれど、損傷は血管だけではない。


腹部の一部が瓦礫に押し潰され、生きた組織のつながりが途中で消えている。


その隣の一人は、脚を圧迫されているだけだった。


先に重傷者へ血糸を伸ばす。


外へ流れた本人の血を戻す。


《返血》


生きた血管と組織へ《血脈再生》を流す。


残っている部分はつなげられる。


けれど、押し潰されて失われた構造までは戻らない。


瓦礫を退かせば、残った腹部が崩れる。


退かさなくても、鼓動は弱くなり続ける。


「この石を動かす。下を支えて」


兵士たちが瓦礫へ手をかける。


四人でも動かない。重すぎる。


血糸を石の裏へ回し、翼を広げる。


身体を後ろへ引く。


石が少しだけ浮いた。


別の瓦礫が、その下にある。


重傷者の下半身を押し潰している。


すぐには出せない。


隣の強い鼓動が急に乱れた。


天井から小石が落ちる。


「隣を先に出して」


そう判断した。


兵士たちが隣の成人へ移る。


脚の瓦礫を退ける。


身体を引き出す。


《血脈再生》


治療兵へ渡す。


その間に、先に処置した重傷者の鼓動が弱くなる。


戻る。


もう一度、残る組織へ《血脈再生》を流す。


反応しない部分が増えている。


「もう少し」


誰に言ったのか分からない。


血糸を増やす。


瓦礫を引く。


動かない。


兵士が二人、加わる。


石が軋む。


その時、動かないはずの航鯨の心臓が収縮した。


地面が揺れた。


天井から瓦礫が落ちる。


兵士たちが身を引く。


重傷者の上へ、さらに石が沈んだ。


──鼓動が途切れた。


その人へ感覚を戻す。


心臓は動いていない。


残っていた血が、傷口から細く流れ続けている。


周囲の血から、その人のものだけを選ぶ。


「戻って」


《返血》


血は動いた。


赤い流れが石の斜面を逆に上る。


傷口から、止まった身体の中へ戻っていく。


戻せる血を全部戻す。


《血脈再生》


魔力を流す。


生きた組織から返ってくるはずの反応がない。


血管も。


筋肉も。


心臓も。


何も治癒を受け取らない。


間に合わなかった。


航鯨の体内へ意識が引かれる。


黒い領域を避けていた太い血流が潰れている。


右の胸鰭と尾部へ送られた血が戻れなくなっている。


航鯨の心臓が収縮する。


押し出された血が途中で止まる。


頭部へ向かう最後の流れが消えた。


航鯨の眼球の奥を流れていた血も止まる。


意思による筋肉の収縮が途切れた。


胸部の太い流れが、一度だけ逆向きへ押し戻された。


次の脈動は来なかった。


深淵航鯨はもう一度死んだ。


心臓は止まった。


頭部への血流もない。


自分の意思で動く筋肉も残っていない。


最初の反応も仮死ではない。


二度死んでいることは確かだった。


考えている暇はない。


私は人間の死体へ感覚を戻す。


血は身体へ戻っている。


それでも鼓動はない。


耳鳴りの向こうで、子供が母親を呼んでいる。


別の場所では、父親が子供を呼んでいる。


名前は聞き取れない。


何度も。


同じ名前を繰り返している。


どちらにも向かえない。


今、私の近くで動いている鼓動を選ばなければならない。


視界が歪んだ。


白夜との接続異常かと思った。


瞬きをする。


また歪む。


頬へ何かが流れた。


指で触れる。


赤くない。


血ではない。


涙だった。


泣いている。


「いつから?」


血は戻せる。


傷も治せる。


生きている間に触れられれば、多くの人間を助けられる。


それでも、すべての場所へ同時には行けない。


あの人のところへ先に戻っていれば。


もっと速く石を動かせていれば。


航鯨がもう一度動かなければ。


考えている間にも、次の鼓動が弱くなる。


「次に、行く」


声が震えた。


《血液感知》を広げる。


北西。


浅層。


循環は強い。


救出可能。


南。


深部。


血流が弱い。


到達に時間がかかる。


東側。


胸部圧迫。


今すぐ解除すれば助かる。


止まった鼓動を、感覚の奥へ沈める。


循環のない反応を消す。


今にも止まりそうでも、到達できない反応を意識から遠ざける。


今、助けられる反応だけを残す。


子供の泣き声は聞こえている。


子供を呼ぶ親の声も聞こえている。


「こいつが」と漏れた声の意味も分かっている。


聞こえなくなったわけではない。


今は、順番へ入れない。


人間の顔は見られない。


名前も聞きたくない。


北西浅層。


東側胸部圧迫。


南深部。


位置。


血流。


到達に必要な時間。


治療に必要な時間。


それだけで順番を決めて、助ける。


涙が止まらない。


それなのに、手の震えが止まった。


判断が速くなる。


胸の奥で、何かが一段だけ遠ざかった。


「東側。胸を押されてる人から出す」


兵士たちへ告げる。


兵士が動く。


瓦礫をずらす。


私は呼吸路を確保する。


外へ流れた血を戻す。


《返血》


《血脈再生》


呼吸が戻る。


治療兵へ渡す。


次。


北西。


血糸を通す。


瓦礫を退かす。


引き出す。


《返血》


《血脈再生》


救出した女が、私の手を振り払った。


「あんたが、こっちに来なければ」


治療は終わっている。


血も戻した。


傷も閉じた。


女は立てない。


それでも、私から身体を離そうとする。


女の背後の瓦礫には、鼓動の止まった人間がいる。


女は航鯨がここに来るまでの過程を見ていたようだった。


「お前が……」


言葉が続かない。


周囲の生存者たちも、私を見ていた。


私が手を伸ばすと、反射的に身を引く者。


白夜の赤黒い装甲を見上げ、何も言わない者。


子供を背中へ隠す者。


助けられても、家族の遺体や、鼓動が止まった場所だけを見ている者。


私は手を引く。


何も言わない。


「運んで」


治療兵へ渡す。


次の反応へ向かう。


南部。


血流がかなり弱い人がいる。


走る。


背後で、翼鰭魚の鳴き声がした。


死んだ航鯨の上を旋回している。


放電クラゲの青白い光が、土煙の中で瞬いた。


一体が救助路へ近づいていく。


兵士たちが武器を構える。


隊長格の兵士が手を上げた。


近づかせない。


白夜が頭部を動かす。


翼鰭魚の進路が救助口へ重なっている。


管理者接続を通して、その位置を捉える。


私は白夜の胸部に残る竜血反応を外へ押し出した。


翼鰭魚が進路を変える。


白夜へ向き直る。


近づききれず、航鯨の死体の周囲へ戻った。


放電クラゲが地表へ放電する。


旧水路の一部が青白い閃光に包まれた。


その経路は使えない。


隊長格の兵士が別の通路へ人を回す。


私は亀裂へ入る。


白夜が左脛の位置を変え、崩れかけてきた石壁へ当てる。


私が指示する前に、次の救助口を保っていた。


深部の男を見つける。


腹部を圧迫されている。


呼吸はある。


体内を巡る血は少ない。


圧迫を一度に外せば、残った血が傷口から流れ出す。


血糸を先に巻く。


流れを絞る。


兵士たちが石を少しずつずらす。


男の身体を引き出す。


流れ出した血を戻す。


《返血》


裂けた血管と内臓へ《血脈再生》を流す。


傷が閉じる。


男の目が開いた。


口が動く。


「俺の子供が……」


「どこ」


男の指が動く。


崩れた壁の向こうを示す。


壁の向こうには二人分の血がある。


どちらにも鼓動はない。


「いない」


男の顔が歪んだ。


「探せ」


「動いてる血がないの」


「探せ!」


男は、鼓動の止まった二人がいる壁の向こうへ手を伸ばした。


子供の名前を呼ぶ。


一度。


もう一度。


返事はない。


男が私を見る。


「もっと早くお前が来ていれば!」


言葉は聞こえた。


意味も分かった。


私は生きていて、翼も動く。


血も流れている。


あの二人の鼓動は止まっていて、動けなかった。


男を兵士へ渡す。


「治療は終わってる」


次へ向かう。


「待て!」


待たない。


別の鼓動が乱れている。


その反応から外せない。


最初の父親の娘がいる換気路へ戻る。


少女の鼓動は保たれている。


傷は治っている。


けれど、梁の荷重が変わっていた。


管理者接続を通して、白夜の右肩と腰部にかかる負荷が返ってくる。


白夜なら、外側の崩落壁をさらに押せる。


ただし、左脚へ負荷を移せない。


姿勢を変えられるのは、一度だけ。


「梁を動かす。四人、中へ」


隊長格の兵士が兵士を送る。


白夜へ梁の位置を伝える。


白夜の右肩が動いた。


胸部が崩落壁へ深く沈む。


右膝が岩盤を削り、崩落壁を押し出す。


隣接する梁へかかる重さの偏りが変わった。


今。


血糸を梁へ何重にも巻く。


持ち上げるのではない。


沈まないよう保つ。


兵士たちが少女の周囲の石を退ける。


少女の身体を引く。


右脚が瓦礫へ引っかかる。


石を退かす。


もう一度引く。


少女が梁の下から抜けた。


天井石が沈む。


血糸が切れる。


白夜の右肩へ衝撃が返る。


兵士たちが崩落する換気路から飛び出す。


白夜は重量に耐え、救助口を閉じさせなかった。


少女を抱える。


軽い。


けれど、返した血は身体を巡っている。


呼吸もある。


鼓動も続いている。


安全な岩陰へ運ぶ。


治療した父親が、足を引きずりながら近づいた。


兵士が肩を支えている。


「娘」


少女を父親の前へ寝かせる。


治療兵が身体を布で包む。


「傷は治してある。動かさないで」


父親が娘の手を握る。


私を見る。


口が開く。


何も言わなかった。


感謝ではない。


許しでもない。


妻は奥に残っている。


娘だけがここにいる。


父親の視線が、私の肩越しに白夜へ向いた。


赤黒い竜血装甲を見る。


そのあと、航鯨を見る。


何も言わず、娘の手へ視線を戻した。


私は反応を待たない。


次の生存反応へ向かう。


その間に、航鯨の死体が変わり始めていた。


黒い斑点の近くにある血だけが固まらない。


航鯨の心臓は止まっている。


航鯨自身の意思による筋肉の収縮もない。


それでも、航鯨の死んだ血が移動している。


血管に沿っていない。


胸部の一点へ引かれている。


下顎の傷から流れ出した血が、岩の斜面を上っていた。


重力に逆らい、死体の中へ戻っていく。


人間の血は、私が命じたから戻った。


戻せるだけの血を戻しても、その人の鼓動は戻らなかった。


航鯨の血は、誰にも命じられていない。


それなのに、死体の中へ戻っていく。


黒い領域同士が、細い線でつながった。


肋骨の一本が軋む。


筋肉が縮んだのではない。


骨の周囲へ広がった黒い組織が、骨を内側へ引いている。


胸鱗の一枚が浮いた。


内側から押されている。


隊長格の兵士も異変に気づいた。


航鯨の胸部を見る。


「動いたのか」


「航鯨は死んでる」


鼓動は戻っていない。


頭部への血流もない。


意思による動きもない。


「何が、起きてるの?」


それでも、別の何かが死体を動かしている。


正式な名前は分からない。


三度目の蘇生が起きようとしている。


白夜との接続を通して、機体側の観測を拾う。


航鯨の生体魔力反応は戻っていない。


代わりに、黒い領域から別の反応が増えている。


航鯨の中にあった深淵天竜の血統反応。


私が白夜へまとわせた竜血に近い。


けれど、形が違う。


深淵天竜由来の組織が、黒い領域によって胸部へ運ばれている。


骨。


血。


筋肉。


魔力を通していた組織。


全部が一つの場所へ集まっている。


何かが作られている。


逃げるべきだった。


白夜を救助口から離すべきだった。


救出した人間を、もっと遠くへ運ぶべきだった。


けれど、まだ生存反応がある。


感覚の中に残っている限り、救助対象から外せない。


「救出した人を白夜の後ろへ」


隊長格の兵士が指示を出す。


兵士と治療兵が、動かせる負傷者を白夜の背後へ集め始める。


航鯨に何が起きていようと、救助は止められない。


瓦礫を退かす。


血を戻す。


傷を治す。


兵士と一緒に一人を引き出す。


航鯨の肋骨が内側へ動く。


次。


胸部を圧迫している石をずらす。


《返血》


《血脈再生》


黒い線が、時間をかけて胸部へ集まっている。


次。


崩れた水路の奥へ入る。


弱い血流を探す。


翼鰭魚の動きが同時に変わる。


次。


血糸を伸ばす。


身体を引く。


放電クラゲの発光間隔が同じになる。


《血脈再生》の上昇が可能になるたび、表示が開いた。


「上げる」


確認を待たず、すぐに取得する。


治療に必要な時間が少しずつ縮まる。


一人を治している間にも、航鯨の中では何かが一つずつ完成していく。


確認できる生存反応は減った。


治療を終え、安全な場所へ移した反応。


到達する前に止まった反応。


身体の構造を失い、《血脈再生》でも戻せなかった反応。


航鯨の大量の血に隠れ、判別できなくなった反応。


死体直下にあるもの。


最深部にあるもの。


正確な数は分からない。


最後に鮮明に残った反応は、航鯨の胸部に近い亀裂の奥だった。


弱い。


今にも止まりそうだった。


周囲では、死んだ航鯨の血が胸部へ集まり続けている。


管理者接続を通して、白夜にかかる強い負荷が返る。


白夜の右膝が限界へ近づいている。


救助口も長くは保たない。


それでも、生存反応として残っている。


外せない。


「奥に一人」


隊長格の兵士が私を見る。


「崩れるぞ」


「まだ生きてる」


それだけ答える。


兵士が二人、私の後ろへつく。


亀裂へ入る。


石が背中へ落ちる。


翼で弾く。


奥に一人いた。


若い男。


胸部を瓦礫に挟まれている。


血糸を入れる。


圧迫された血流を保つ。


兵士たちが石へ手をかける。


航鯨の胸部から、低い軋みが響いた。


今度は耳にも聞こえた。


男を引く。


動かない。


石をさらにずらす。


右肩の痛みが強くなる。


私自身の血も減っている。


魔力も薄い。


それでも、もう一度引く。


男の身体が瓦礫から抜けた。


流れ出した血を戻す。


《返血》


胸部の傷へ《血脈再生》を流す。


兵士が男を背負う。


亀裂から出る。


白夜が胸部を下げた。


落ちてきた石を右肩で受ける。


私たちが外へ出る隙間だけを残す。


兵士が男を岩陰へ運ぶ。


治療兵が状態を確かめる。


男は目を開けた。


意識はあるようだった。


確認できる生存反応の多くは外へ出した。


けれど、救助が終わったわけではない。


航鯨の血に遮られた区画。


厚い瓦礫の向こう。


死体の真下。


感知できない場所が残っている。


その時、翼鰭魚が一斉に動きを止めた。


死体の上を回っていた群れが、同時に胸部を向く。


放電クラゲの発光が止まる。


一瞬だけ、土煙の中から青白い光が消えた。


次の瞬間。


すべてが同時に発光した。


航鯨の元の心臓を確かめる。


動いていない。


血流も戻っていない。


頭部にも何も流れていない。


深淵航鯨は死んだままだ。


「……何が起きてるの?」


胸部の別の場所で、黒い組織が収縮した。


一度。


心臓ではない。


血管でもない。


それでも、集められた死んだ血が押し出された。


黒い線の中を巡る。


新しい中枢が、自分の力で動いている。


航鯨の胸部が内側から盛り上がった。


胸鱗の間に亀裂が走る。


「全員、白い騎士の後ろへ退避しろ!」


隊長格の兵士が叫んだ。


兵士と治療兵が負傷者を引く。


歩ける者が子供を抱える。


父親が娘を抱き寄せる。


白夜が頭部を上げた。


右膝も、崩落壁へ押し当てた右肩も動かさない。


そのまま上体をさらに沈める。


救出した人間たちを、白い胸部の陰へ入れる。


亀裂が広がる。


血は噴き出さない。


周囲にあった航鯨の血は、すでに内側へ集められている。


黒い角のような輪郭が現れた。


航鯨の骨ではない。


その下から、別の頭部が胸鱗を押し開く。


深淵天竜に似ている。


けれど、深淵天竜そのものではない。


航鯨の組織をまとい、鯨の鱗を殻のように残している。


黒い膜の下に、折り畳まれた翼の輪郭が見えた。


胸鱗がさらに裂ける。


地面が揺れる。


未確認区画の奥で、石が崩れた。


涙はまだ止まっていなかった。


子供の泣き声も聞こえている。


子供を呼ぶ親の声も残っている。


私へ向けられた言葉も、全部分かっている。


それでも、私は生存反応を探し続ける。


止まった鼓動を除外する。


まだ続いている鼓動だけを拾う。


頭部の眼が開いた。


元の航鯨の眼ではない。


その瞳が、最初に私を捉えた。


動いている。


けれど、これは航鯨ではない。


死んだ航鯨を殻として、別の何かが孵った。

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