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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第五部《大崩落》

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第十二話《竜血の囮》

航鯨を貫いた反動が、白夜の左腕を内側から壊した。


左拳はもうない。


砕けた機械装甲と赤黒い鱗が、深淵航鯨の下顎から離れていく白夜の後ろへ散った。


左前腕を通っていた感覚が、肘の手前で途切れる。


遅れて、左肩の奥で硬いものがずれた。


翼根から背部へ流していた力も乱れる。


七十八・四メートルの白夜が、航鯨の下から弾き出された。


胸部搭乗槽の固定具が、私の胸と腹へ食い込んだ。


身体が座席から浮きかける。


右肩が搭乗槽の内壁へぶつかった。


肺から息が漏れる。


視界が大きく傾いた。


それでも、白夜との接続は切れていない。


「翼、開いて」


一対の竜翼が広がった。


右の翼膜が空気を受ける。


左翼も形は残っている。


けれど、強く打ち下ろすことはできない。


左翼根へ力を通すたび、白夜の左肩で筋束と駆動部が別々に動いた。


羽ばたけば壊れる。


それでも、角度は変えられる。


右翼を立てる。


左翼を伏せる。


白夜の落下が、西へ向かう滑空へ変わった。


背後で、深淵航鯨の巨頭が落ちる。


下顎を貫いた《血衝角》の周囲から、粘りのある暗い血が流れていた。


白夜の左拳を覆っていた竜血装甲の破片が、その血飛沫から弾かれる。


小さな赤黒い欠片だった。


白夜より先へ、西の岩原へ向かって飛んでいく。


深淵航鯨の片側の眼が動いた。


瞳の中心が、白夜から外れる。


眼球の奥へ集まっていた血も、飛んでいく欠片の側へ偏った。


頭部がわずかに持ち上がる。


傷ついた口が開いた。


赤黒い欠片を取り込もうとしている。


私は白夜の胸部と一対の翼を巡る竜血反応を弱めた。


鱗の下へ血管状組織を沈める。


航鯨の視線が、さらに欠片へ寄った。


欠片が失速する。


深淵航鯨の視線も落ちる。


岩原へ消える直前まで追っていた。


私を見ているわけではない。


白夜でなければならないわけでもない。


身体から離れた竜血だけでも追っている。


使える。


白夜を置いて、私だけでさらに西へ飛ぶ。


最初に浮かんだのは、その方法だった。


私の身体からなら、深淵天竜の血統をもっと強く外へ出せる。


黒い翼も動く。


白夜より速く、もっと遠くまで航鯨を引ける。


追いつかれそうになったら避ける。


また追わせる。


翼が動かなくなるまで続ける。


そのあとは。


舌の端に血の味が広がった。


奥歯を噛んでいる。


――自分が死ぬ答えを、最初から正しいものとして選ばない。


レオンの言葉が残っていた。


私だけで飛ぶ方法には、帰る手順がない。


航鯨に追いつかれるまで、自分を使う順番を決めただけだった。


患者を逃がす。


私も戻る。


そこまでやったら終わりだと、レオンは言った。


なら、追わせるものを私から離せばいい。


白夜の左前腕へ意識を向ける。


《血衝角》を撃ち出したあとも、外側には破損した竜血顕装が残っている。


砕けた鱗。


形を失った筋束。


裂けた血管状組織。


白夜内部の戦闘循環液と修復用生体媒体には触れない。


それらは、左肩と両脚を保つために必要だった。


外側で壊れた竜血だけを、白夜から剥がす。


赤黒い血が、裂けた左前腕から浮き上がった。


けれど、足りない。


囮の中心には使える。


外殻と、飛ばすための圧力が必要だった。


深淵航鯨の視線が白夜へ戻る。


赤黒い欠片が岩原へ消えたことで、次に強い竜血反応を捉え直した。


傷ついた口が開く。


巨頭が距離を詰めてくる。


同時に、白夜の滑空経路へ一体の翼鰭魚が入った。


ほかの個体より遅れている。


片側の翼鰭には、さっきの衝撃で裂けた跡があった。


それでも頭部を白夜へ向け、口を開いている。


白夜の左拳はない。


左肩も大きく動かせない。


腕を振って斬ることはできなかった。


裂けた左前腕の残存部へ、破損した竜血顕装の一部を集める。


赤黒い血を細長く伸ばす。


外側だけを硬化させる。


《血刃》


左前腕の残存部から、固定された赤黒い刃が伸びた。


腕で振る武器ではない。


白夜そのものを動かして使う刃だった。


翼鰭魚が正面から迫る。


その後ろでは、深淵航鯨の口がさらに近づいている。


止まる時間はない。


右翼の角度を深くする。


左翼をさらに伏せる。


白夜の巨体が左へ傾いた。


翼鰭魚の牙が、白夜の頭部右側を通過する。


すれ違う瞬間、機体を横へ滑らせた。


左前腕から伸びた《血刃》が、翼鰭魚の腹部を浅く切り開く。


倒すためではない。


白夜の速度を落とさず、必要な傷だけを作る。


傷口から流れた血が、翼鰭魚の身体を離れた。


「止まって」


赤い飛沫が空中に残る。


白夜は止まらない。


そのまま翼鰭魚の横を抜ける。


翼鰭魚は身体を反らし、深淵航鯨の下方へ戻っていった。


追わない。


魚体から完全に離れた血だけを、滑空する白夜の後方から引き寄せる。


白夜の循環系へは入れない。


機体外側へ薄い貯留構造を作り、その中へ収めた。


背後から空気が引かれた。


深淵航鯨の巨口が迫っている。


白夜の頭部を呑み込める距離まで近づいていた。


右翼へ空気を集める。


白夜を斜め下へ滑らせた。


巨大な上顎が頭上を通過する。


上下の硬質組織が噛み合った。


空気が破裂する。


衝撃で白夜の機体が揺れる。


搭乗槽の固定具が、もう一度胸と腹へ食い込んだ。


左翼膜が大きく波打つ。


「保って」


形は崩さない。


羽ばたかない。


残った速度だけで、航鯨の斜め前方へ戻る。


右腕はない。


左拳もない。


左前腕は大破している。


左肩と左翼根は、姿勢を保つだけで限界へ近づいている。


それでも白夜は止まっていない。


航鯨との距離を調整しながら、西へ滑り続けている。


私は搭乗槽の中から接続を深めた。


囮を作る。


指先を切る。


接続用の血管を通し、少量の血を白夜の外側へ送った。


その血を中心に置き、破損した竜血顕装を周囲へ巻きつける。


中心から外へ。


外から中心へ。


閉じた血流を作る。


その周囲へ三つの筋束を置き、順番に収縮させた。


赤黒い塊が脈打つ。


心臓ではない。


生きていない。


決めた順序で、深淵天竜の血を巡らせるだけの構造だった。


翼鰭魚から集めた血を、外殻と射出機構へ回す。


外殻の後部へ、隔膜で分けた二つの圧縮層を組み込んだ。


一段目で射出する。


三度目の脈動で隔膜を破り、二段目を一度だけ解放する。


発射したあとで、私が遠くから動かすわけではない。


あらかじめ決めた形と順番を維持させる。


《血針》と同じだった。


違うのは、放ったあとにもう一度だけ加速すること。


「形を保って」


《血液支配》へ命令する。


赤黒い外殻が固定された。


「三度脈打って。三度目に、後ろの血を解放して」


筋束が順番に収縮する。


血が巡る。


今は射出しない。


作動する順番だけを、構造へ残した。


機体外側の貯留構造を開く。


翼鰭魚から集めた血をすべて流し込んだ。


私の拳ほどだった血塊が膨らんでいく。


やがて、白夜の頭部に近い大きさになった。


深淵航鯨が再び口を開く。


左右の翼角を変え、白夜を顎の下へ滑らせた。


噛み合った硬質組織が、背後で空気を破裂させる。


振り返らない。


残る速度のまま、さらに西へ抜ける。


眼下を、旧水路帯が後方へ過ぎていく。


崩れた石造水路。


乾いた底。


上半分を失った導水塔。


バルガスが地図で示した、西外縁の旧地下貯水区だった。


かつては、地下の貯水区画の一部が災害時の緊急避難所として使われていた。


けれど、現在の地図では閉鎖済み。


避難指定区域からも外されている。


地上に人影はない。


煙もない。


使用されている様子も見えない。


西側の通信は死んでいる。


確実に誰もいないとは言えない。


それでも、北には避難列がある。


南には駐屯地と臨時治療所。


東は王都。


把握している人間を避けるなら、西しかなかった。


白夜を止めない。


旧地下貯水区の上を越え、さらに西の岩原へ進む。


深淵航鯨の頭部が続く。


胸部が奈落の縁を越えた。


巨大な胸鰭が空を覆う。


家屋ほどの翼鰭魚が、その下を泳いでいる。


放電クラゲの青白い光が、航鯨の腹側を断続的に照らした。


地上から見上げれば、赤黒い一対の翼を持つ白夜が前を飛び、深淵航鯨がその後を追っている。


王都外壁の上には、こちらを見上げる兵士がいた。


避難路でも、運び終えた者たちが西の空へ顔を向けている。


魔術師たちの観測光が、白夜と航鯨の間を何度か横切った。


多くの人間が見ていた。


白夜が進む方向へ、航鯨も進路を変えているところを。


航鯨の腹部が奈落から現れる。


黒い斑点は、頭部と胸部だけではなかった。


腹側にもある。


背にもある。


一つの黒い領域が縮むたび、航鯨の身体が白夜とは違う方向へ引かれた。


そのたびに正常な血流が黒い部分を避ける。


別の筋肉へ迂回する。


航鯨自身が、残った身体を動かして西へ向かおうとしていた。


低く濁った声が空を震わせる。


苦しんでいる。


身体が、自分の命令に従わない。


それでも、深淵天竜の血を求めて白夜を追っている。


私は操っていない。


選ぶ先を見せているだけだった。


長い腹部が岩盤を削る。


太い尾柄が奈落の縁へ現れた。


最後に、巨大な尾鰭が暗闇から持ち上がる。


岩の縁を削り、地上へ抜けた。


頭部。


胸部。


腹部。


尾部。


一キロメートルを超える身体のすべてが、奈落の外へ出た。


巨体の軸も、西へ向いている。


王都と航鯨をつないでいた線が消えた。


今なら、白夜を追わせ続けなくていい。


壊れた左前腕の残存部を、西へ向ける。


腕で投げるのではない。


射出方向を決めるだけだった。


竜血の囮を、その前へ置く。


第一圧縮層を解放した。


赤黒い血塊が西へ撃ち出される。


外殻の後方から噴き出した赤い霧が、岩原の上へ細い線を引いた。


白夜の左肩へ返る反動を、最小限に抑える。


それでも、壊れた肩の奥で駆動部が軋んだ。


囮の中心が脈打つ。


一度。


二度。


三度。


三度目の収縮で隔膜が破れた。


第二圧縮層が、後方へ一度だけ噴き出す。


赤黒い血塊が、もう一度加速した。


それ以降は動かさない。


慣性のまま、旧地下貯水区の西端を越えて岩原へ飛んでいく。


白夜側の竜血反応を弱める。


深淵航鯨の瞳が囮へ移った。


頭部が西へ向く。


胸部も続く。


巨大な口が開いた。


航鯨が囮を追う。


白夜から離れる。


旧地下貯水区の西端からさらに離れたところで、赤黒い血塊が失速した。


深淵航鯨の口が、その下から持ち上がる。


囮が暗い口腔へ消えた。


顎が閉じる。


頭部は、すでに旧地下貯水区の西側へ出ていた。


けれど、一キロメートルを超える長大な胸部と腹部は、まだ地下区画の上空に残っている。


外壁の兵士も、避難路の住民も、遠距離部隊の魔術師も、その瞬間を見ていた。


白夜が赤黒い塊を放ち、深淵航鯨がそれを呑み込んだ。


遠目にも、そうとしか見えなかった。


実際に、そのとおりだった。


深淵航鯨の全身は、もう奈落の外へ出ている。


巨体の軸も、王都から外れた。


患者の移動は終わった。


航鯨を王都から引き離した。


倒す必要はない。


殺す必要もない。


目的は、患者を逃がすこと。


航鯨を王都の外へ誘導すること。


それから、私も戻ること。


最初の二つは終わった。


残っているのは、最後の一つだけだった。


「白夜、戻るよ」


一対の翼の角度を変える。


東へ向く。


左翼根はもう羽ばたけない。


それでも、今の高度と速度なら、地上へ降りながら王都側へ戻れる。


自分を使い切るまで戦う必要はない。


囮は白夜から離れた。


航鯨も、もうこちらを追っていない。


今なら帰れる。


白夜が帰還を始めた。


その直後だった。


深淵航鯨の内部で、血流が乱れた。


囮を呑み込んだ喉側からではない。


以前から黒い斑点がつながっていた胸部で、正常な血流が一斉に細くなる。


黒い領域が、片側の胸鰭の付け根へ伸びた。


太い血管を避けていた血が、さらに外側へ迂回する。


飛行器官へ入る流れが足りない。


左の胸鰭が止まった。


深淵航鯨の巨体が傾く。


右の胸鰭が大きく空気を押した。


尾部も振られる。


残った飛行器官と筋肉だけで、身体を戻そうとしている。


そのための血が、胸部の残る太い流れへ集中した。


黒い領域を避けて作られていた、最後の代償循環だった。


血圧が上がる。


主脈の壁が大きく広がる。


黒い組織に侵された筋肉が、姿勢を戻す動きとは別の方向へ縮んだ。


一つの身体の中で、姿勢を戻そうとする力と、それを妨げる収縮がぶつかる。


胸部全体が歪んだ。


高度が落ちる。


私は、その順序を記憶した。


囮を呑み込んだ直後に、黒い領域が広がった。


理由は分からない。


竜血が侵食を刺激したのか。


航鯨の身体が、囮を取り込むために血流を変えたのか。


それとも、最初からここが限界だったのか。


分かるのは、深淵因子が飛行器官を奪ったことだけ。


白夜を止める。


落下の軌道を読む。


深淵航鯨の胸部が向いている先。


旧地下貯水区。


地図では、閉鎖された無人区域。


航鯨内部へ向けていた《血液感知》の一部を外す。


落下先へ伸ばす。


距離が縮まったことで、地中の奥まで感覚が届く。


地表には人影がない。


煙もない。


けれど、岩盤の下で何かの血が流れていた。


人間と同じ速さ。


人間と同じ細さ。


一つ。


十。


五十。


百。


「嘘」


その先で反応が重なった。


厚い地下区画の中に、人間と同じ血流が密集している。


同じ反応を二度数えた。


最初へ戻る。


また途中で分からなくなる。


百を超えている。


二百を超えている。


さらに奥にもいる。


数百。


閉鎖されたはずの旧避難区画に、人がいる。


航鯨の真下にいる。


「人がいる」


喉から出た声が、自分のものに聞こえなかった。


白夜から警告が返る。


《落下予測範囲――旧地下貯水区中央部》


「下に人がいる!」


返事をする相手はいない。


レオンにも。


バルガスにも。


地下にいる人たちにも届かない。


白夜側の竜血反応を強める。


胸部と頭部へ、残る竜血を集めた。


白夜を旧地下貯水区の中心線から北西へ外す。


「こっち!」


深淵航鯨の眼が動いた。


瞳は白夜を捉える。


頭部側面の筋肉も収縮した。


航鯨自身が、もう一度こちらを追おうとしている。


けれど、左の胸鰭は動かない。


右の胸鰭が空気を押すたび、巨体はさらに回転した。


尾部を振っても、落下方向は変わらない。


白夜へ向こうとする頭部だけが、わずかに北西へ動く。


胸部と腹部は、旧地下貯水区へ落ち続ける。


「頭だけじゃない!」


もっと強く竜血反応を外へ出す。


深淵天竜の血を、胸部装甲の表面まで押し上げる。


「身体ごと、こっちへ来て!」


航鯨の正常な筋肉は動いている。


求める血へ向かおうとしている。


黒い組織へ逆らっている。


それでも足りない。


飛行器官を失った一キロメートルの巨体を、視線だけでは曲げられない。


落下予測範囲が縮まる。


旧地下貯水区中央部。


人間の反応が最も密集している場所だった。


白夜を反転させる。


帰還進路を捨てる。


残った右翼を強く傾けた。


左翼根から異音が響く。


《警告――左翼根損傷率上昇》


背部推進器を開く。


両脚の推進器も起動する。


機体内部から甲高い振動が上がった。


《警告――継続飛行不能》


白夜の視界の中で、深淵航鯨の胸部が急速に大きくなる。


落ちている。


止まらない。


その下には人間がいる。


「白夜!」


私が命じるより先に、背部推進器の安全弁が開いた。


腰部。


右脚。


左脚。


残っている推進器が、次々と起動状態へ入る。


《機体保全制御――解除》


白夜自身が、安全制御を切った。


搭乗槽を通して、低い振動が身体へ伝わる。


言葉はない。


それでも、白夜も止めようとしていることだけは分かった。


「全部回して!」


戦闘循環液と魔力を、残る推進器へ叩き込む。


損傷した一対の竜翼を開く。


飛ぶためではない。


推進方向を一つへ揃えるために使う。


全推進器が噴射した。


爆発に近い加速が、搭乗槽の中の身体を座席へ押しつける。


固定具が肋骨へ食い込んだ。


白夜が航鯨へ向かって飛ぶ。


左翼膜の一部が血へ戻る。


構わない。


航鯨の左胸部へ回り込む。


地表へ向いている腹側ではない。


横倒しになる巨体の上側へ出る。


右腕はない。


左前腕も使えない。


白夜の右肩と胸部を、航鯨の上側面へ向けた。


白夜が深淵航鯨へ激突した。


白い機械装甲が鳴った。


胸部を覆う竜血装甲が潰れる。


搭乗槽全体が揺れ、視界の端が白く弾けた。


それでも推進器を止めない。


白夜の右肩を航鯨の表皮へ押し込む。


背部推進器の出力を最大まで上げる。


両脚の噴射を重ねる。


残った竜翼を広げ、白夜の軸を固定する。


航鯨の鱗が一枚沈んだ。


その下の脂肪と筋肉が歪む。


けれど、巨体は動かなかった。


七十八・四メートルの白夜が全身で押している。


一キロメートルを超える深淵航鯨は、落下の向きを変えない。


表皮が沈むだけ。


鱗が割れるだけ。


その下にある質量は、白夜の推進力を受け止めたまま落ち続けている。


《落下予測時間――六秒》


竜血装甲を白夜の右肩へ集める。


筋束を何重にも巻きつける。


押し潰される胸部装甲を、外側から補強する。


《落下予測時間――五秒》


地下の血が動いている。


走っている。


誰かが誰かを抱えている。


壁際へ集まる反応。


上を見上げているように止まる反応。


何が起きているのか分からず、動けない反応。


「そこから逃げて!」


届かない。


搭乗槽の中で叫ぶ。


白夜の外へは、推進器の轟音しか出ていない。


地下にいる人間には届かない。


《落下予測時間――四秒》


左翼膜が大きく裂けた。


赤黒い血が、白夜の背後へ流れる。


それでも軸を外さない。


白夜の右肩を押しつけ続ける。


《落下予測時間――三秒》


背部推進器の一基が停止した。


残った推進器へ出力を移す。


航鯨の頭部は白夜を見ていた。


眼球の奥には、まだ正常な血が流れている。


こちらへ向かおうとしている。


生きようとしている。


それでも、身体は動かない。


「そっちには人がいるの!」


声が搭乗槽の中で反響した。


《落下予測時間――二秒》


左脚推進器が破裂した。


機体が傾く。


右翼を開き、姿勢を戻す。


右肩を航鯨から離さない。


推進器の熱が搭乗槽まで伝わってくる。


空気が焦げた臭いに変わる。


航鯨の胸部の軸が、ほんのわずかにずれた。


それだけだった。


落下予測範囲から、地下区画は外れない。


数百の反応が、まだ真下にある。


胸部搭乗槽の周囲で警告音が重なる。


背部推進器。


右脚駆動部。


胸部装甲。


管理者接続。


全部が限界を告げている。


「やめて!」


深淵航鯨の胸部が地表へ触れた。


最初は、低い丘が一つ消えたように見えた。


胸鱗が岩原へ沈む。


地表は、一瞬だけ形を保った。


接触地点から亀裂が走る。


一本。


二本。


そこから枝分かれし、航鯨の胸部より外側まで広がった。


亀裂が旧水路を横切る。


乾いた水路底が持ち上がる。


石組みが継ぎ目から外れる。


岩盤が耐えきれなくなった。


接触地点が沈む。


地表の沈下が、旧地下貯水区の天井を上から押した。


天井石がずれる。


石壁が内側へ折れる。


一つの区画が沈み、その重さが隣の石組みを引き崩した。


崩壊が地下を伝わっていく。


その反力が、航鯨の胸部を通って白夜へ返った。


白夜の右肩を覆っていた竜血装甲が潰れる。


機械装甲の奥まで硬い振動が突き抜けた。


押しつけていた右肩が外れる。


七十八・四メートルの白夜が、航鯨の上側から外へ弾き飛ばされた。


胸部の落下は、それでも止まらない。


地表へさらに沈み込む。


わずかに遅れて、腹部が岩原を叩いた。


次に尾柄。


その後ろから、長大な尾部が落ちる。


接触は一度では終わらなかった。


航鯨の身体が新しい場所へ触れるたび、別の岩盤が沈んだ。


一キロメートルを超える巨体が、旧地下貯水区の上へ横倒しになる。


地表が航鯨の形に沿って陥没した。


地下区画の天井が連続して落ちる。


石壁が外側へ押し出される。


導水塔が、根元の地盤ごと傾いた。


残っていた塔身が途中から折れる。


旧地下貯水区全体が、長大な巨体の下へ沈んでいく。


押し出された土砂が岩原を走った。


圧縮された空気が、土煙と砕石を外側へ吹き飛ばす。


外へ弾かれた白夜へ、その圧力が追いついた。


機体が横へ回る。


視界の中で、地面と空が入れ替わった。


白夜との接続を通して、全身の骨格が軋む感覚が返ってくる。


その直後、生身の身体も座席から浮いた。


搭乗槽の固定具が外れかける。


胸と腹が強く締めつけられる。


右肩が内壁へ叩きつけられた。


視界の端が白く弾ける。


遅れて、音が来た。


最初に、地中を走った低い振動。


続いて、岩盤が割れる音。


石壁が崩れる音。


航鯨の腹部と尾部が地表を叩く音。


押し潰された空気が破裂する音。


すべてが重なった。


一つずつ聞き分けることができない。


耳の奥に高い音だけが残った。


白夜の視界へ土煙が追いつく。


赤黒い竜血装甲も。


深淵航鯨の輪郭も。


旧地下貯水区があった場所も。


何も見えなくなった。


崩壊音も遠のいていく。


それでも、《血液感知》だけは切れなかった。


地表が沈んだ瞬間、地下にあった数百の鼓動が一斉に跳ねた。


速くなる。


不規則になる。


弱くなる。


乱れた反応の中から、一つが途切れた。


少し離れた場所で、また一つ。


さらに奥でも止まる。


数えようとする。


どこまで数えたのか分からなくなる。


止まった場所へ感覚を戻す。


血は残っている。


けれど、脈動は戻ってこない。


私に届いていたのは、土煙の中で次々と途切れていく鼓動だけだった。

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