第十二話《竜血の囮》
航鯨を貫いた反動が、白夜の左腕を内側から壊した。
左拳はもうない。
砕けた機械装甲と赤黒い鱗が、深淵航鯨の下顎から離れていく白夜の後ろへ散った。
左前腕を通っていた感覚が、肘の手前で途切れる。
遅れて、左肩の奥で硬いものがずれた。
翼根から背部へ流していた力も乱れる。
七十八・四メートルの白夜が、航鯨の下から弾き出された。
胸部搭乗槽の固定具が、私の胸と腹へ食い込んだ。
身体が座席から浮きかける。
右肩が搭乗槽の内壁へぶつかった。
肺から息が漏れる。
視界が大きく傾いた。
それでも、白夜との接続は切れていない。
「翼、開いて」
一対の竜翼が広がった。
右の翼膜が空気を受ける。
左翼も形は残っている。
けれど、強く打ち下ろすことはできない。
左翼根へ力を通すたび、白夜の左肩で筋束と駆動部が別々に動いた。
羽ばたけば壊れる。
それでも、角度は変えられる。
右翼を立てる。
左翼を伏せる。
白夜の落下が、西へ向かう滑空へ変わった。
背後で、深淵航鯨の巨頭が落ちる。
下顎を貫いた《血衝角》の周囲から、粘りのある暗い血が流れていた。
白夜の左拳を覆っていた竜血装甲の破片が、その血飛沫から弾かれる。
小さな赤黒い欠片だった。
白夜より先へ、西の岩原へ向かって飛んでいく。
深淵航鯨の片側の眼が動いた。
瞳の中心が、白夜から外れる。
眼球の奥へ集まっていた血も、飛んでいく欠片の側へ偏った。
頭部がわずかに持ち上がる。
傷ついた口が開いた。
赤黒い欠片を取り込もうとしている。
私は白夜の胸部と一対の翼を巡る竜血反応を弱めた。
鱗の下へ血管状組織を沈める。
航鯨の視線が、さらに欠片へ寄った。
欠片が失速する。
深淵航鯨の視線も落ちる。
岩原へ消える直前まで追っていた。
私を見ているわけではない。
白夜でなければならないわけでもない。
身体から離れた竜血だけでも追っている。
使える。
白夜を置いて、私だけでさらに西へ飛ぶ。
最初に浮かんだのは、その方法だった。
私の身体からなら、深淵天竜の血統をもっと強く外へ出せる。
黒い翼も動く。
白夜より速く、もっと遠くまで航鯨を引ける。
追いつかれそうになったら避ける。
また追わせる。
翼が動かなくなるまで続ける。
そのあとは。
舌の端に血の味が広がった。
奥歯を噛んでいる。
――自分が死ぬ答えを、最初から正しいものとして選ばない。
レオンの言葉が残っていた。
私だけで飛ぶ方法には、帰る手順がない。
航鯨に追いつかれるまで、自分を使う順番を決めただけだった。
患者を逃がす。
私も戻る。
そこまでやったら終わりだと、レオンは言った。
なら、追わせるものを私から離せばいい。
白夜の左前腕へ意識を向ける。
《血衝角》を撃ち出したあとも、外側には破損した竜血顕装が残っている。
砕けた鱗。
形を失った筋束。
裂けた血管状組織。
白夜内部の戦闘循環液と修復用生体媒体には触れない。
それらは、左肩と両脚を保つために必要だった。
外側で壊れた竜血だけを、白夜から剥がす。
赤黒い血が、裂けた左前腕から浮き上がった。
けれど、足りない。
囮の中心には使える。
外殻と、飛ばすための圧力が必要だった。
深淵航鯨の視線が白夜へ戻る。
赤黒い欠片が岩原へ消えたことで、次に強い竜血反応を捉え直した。
傷ついた口が開く。
巨頭が距離を詰めてくる。
同時に、白夜の滑空経路へ一体の翼鰭魚が入った。
ほかの個体より遅れている。
片側の翼鰭には、さっきの衝撃で裂けた跡があった。
それでも頭部を白夜へ向け、口を開いている。
白夜の左拳はない。
左肩も大きく動かせない。
腕を振って斬ることはできなかった。
裂けた左前腕の残存部へ、破損した竜血顕装の一部を集める。
赤黒い血を細長く伸ばす。
外側だけを硬化させる。
《血刃》
左前腕の残存部から、固定された赤黒い刃が伸びた。
腕で振る武器ではない。
白夜そのものを動かして使う刃だった。
翼鰭魚が正面から迫る。
その後ろでは、深淵航鯨の口がさらに近づいている。
止まる時間はない。
右翼の角度を深くする。
左翼をさらに伏せる。
白夜の巨体が左へ傾いた。
翼鰭魚の牙が、白夜の頭部右側を通過する。
すれ違う瞬間、機体を横へ滑らせた。
左前腕から伸びた《血刃》が、翼鰭魚の腹部を浅く切り開く。
倒すためではない。
白夜の速度を落とさず、必要な傷だけを作る。
傷口から流れた血が、翼鰭魚の身体を離れた。
「止まって」
赤い飛沫が空中に残る。
白夜は止まらない。
そのまま翼鰭魚の横を抜ける。
翼鰭魚は身体を反らし、深淵航鯨の下方へ戻っていった。
追わない。
魚体から完全に離れた血だけを、滑空する白夜の後方から引き寄せる。
白夜の循環系へは入れない。
機体外側へ薄い貯留構造を作り、その中へ収めた。
背後から空気が引かれた。
深淵航鯨の巨口が迫っている。
白夜の頭部を呑み込める距離まで近づいていた。
右翼へ空気を集める。
白夜を斜め下へ滑らせた。
巨大な上顎が頭上を通過する。
上下の硬質組織が噛み合った。
空気が破裂する。
衝撃で白夜の機体が揺れる。
搭乗槽の固定具が、もう一度胸と腹へ食い込んだ。
左翼膜が大きく波打つ。
「保って」
形は崩さない。
羽ばたかない。
残った速度だけで、航鯨の斜め前方へ戻る。
右腕はない。
左拳もない。
左前腕は大破している。
左肩と左翼根は、姿勢を保つだけで限界へ近づいている。
それでも白夜は止まっていない。
航鯨との距離を調整しながら、西へ滑り続けている。
私は搭乗槽の中から接続を深めた。
囮を作る。
指先を切る。
接続用の血管を通し、少量の血を白夜の外側へ送った。
その血を中心に置き、破損した竜血顕装を周囲へ巻きつける。
中心から外へ。
外から中心へ。
閉じた血流を作る。
その周囲へ三つの筋束を置き、順番に収縮させた。
赤黒い塊が脈打つ。
心臓ではない。
生きていない。
決めた順序で、深淵天竜の血を巡らせるだけの構造だった。
翼鰭魚から集めた血を、外殻と射出機構へ回す。
外殻の後部へ、隔膜で分けた二つの圧縮層を組み込んだ。
一段目で射出する。
三度目の脈動で隔膜を破り、二段目を一度だけ解放する。
発射したあとで、私が遠くから動かすわけではない。
あらかじめ決めた形と順番を維持させる。
《血針》と同じだった。
違うのは、放ったあとにもう一度だけ加速すること。
「形を保って」
《血液支配》へ命令する。
赤黒い外殻が固定された。
「三度脈打って。三度目に、後ろの血を解放して」
筋束が順番に収縮する。
血が巡る。
今は射出しない。
作動する順番だけを、構造へ残した。
機体外側の貯留構造を開く。
翼鰭魚から集めた血をすべて流し込んだ。
私の拳ほどだった血塊が膨らんでいく。
やがて、白夜の頭部に近い大きさになった。
深淵航鯨が再び口を開く。
左右の翼角を変え、白夜を顎の下へ滑らせた。
噛み合った硬質組織が、背後で空気を破裂させる。
振り返らない。
残る速度のまま、さらに西へ抜ける。
眼下を、旧水路帯が後方へ過ぎていく。
崩れた石造水路。
乾いた底。
上半分を失った導水塔。
バルガスが地図で示した、西外縁の旧地下貯水区だった。
かつては、地下の貯水区画の一部が災害時の緊急避難所として使われていた。
けれど、現在の地図では閉鎖済み。
避難指定区域からも外されている。
地上に人影はない。
煙もない。
使用されている様子も見えない。
西側の通信は死んでいる。
確実に誰もいないとは言えない。
それでも、北には避難列がある。
南には駐屯地と臨時治療所。
東は王都。
把握している人間を避けるなら、西しかなかった。
白夜を止めない。
旧地下貯水区の上を越え、さらに西の岩原へ進む。
深淵航鯨の頭部が続く。
胸部が奈落の縁を越えた。
巨大な胸鰭が空を覆う。
家屋ほどの翼鰭魚が、その下を泳いでいる。
放電クラゲの青白い光が、航鯨の腹側を断続的に照らした。
地上から見上げれば、赤黒い一対の翼を持つ白夜が前を飛び、深淵航鯨がその後を追っている。
王都外壁の上には、こちらを見上げる兵士がいた。
避難路でも、運び終えた者たちが西の空へ顔を向けている。
魔術師たちの観測光が、白夜と航鯨の間を何度か横切った。
多くの人間が見ていた。
白夜が進む方向へ、航鯨も進路を変えているところを。
航鯨の腹部が奈落から現れる。
黒い斑点は、頭部と胸部だけではなかった。
腹側にもある。
背にもある。
一つの黒い領域が縮むたび、航鯨の身体が白夜とは違う方向へ引かれた。
そのたびに正常な血流が黒い部分を避ける。
別の筋肉へ迂回する。
航鯨自身が、残った身体を動かして西へ向かおうとしていた。
低く濁った声が空を震わせる。
苦しんでいる。
身体が、自分の命令に従わない。
それでも、深淵天竜の血を求めて白夜を追っている。
私は操っていない。
選ぶ先を見せているだけだった。
長い腹部が岩盤を削る。
太い尾柄が奈落の縁へ現れた。
最後に、巨大な尾鰭が暗闇から持ち上がる。
岩の縁を削り、地上へ抜けた。
頭部。
胸部。
腹部。
尾部。
一キロメートルを超える身体のすべてが、奈落の外へ出た。
巨体の軸も、西へ向いている。
王都と航鯨をつないでいた線が消えた。
今なら、白夜を追わせ続けなくていい。
壊れた左前腕の残存部を、西へ向ける。
腕で投げるのではない。
射出方向を決めるだけだった。
竜血の囮を、その前へ置く。
第一圧縮層を解放した。
赤黒い血塊が西へ撃ち出される。
外殻の後方から噴き出した赤い霧が、岩原の上へ細い線を引いた。
白夜の左肩へ返る反動を、最小限に抑える。
それでも、壊れた肩の奥で駆動部が軋んだ。
囮の中心が脈打つ。
一度。
二度。
三度。
三度目の収縮で隔膜が破れた。
第二圧縮層が、後方へ一度だけ噴き出す。
赤黒い血塊が、もう一度加速した。
それ以降は動かさない。
慣性のまま、旧地下貯水区の西端を越えて岩原へ飛んでいく。
白夜側の竜血反応を弱める。
深淵航鯨の瞳が囮へ移った。
頭部が西へ向く。
胸部も続く。
巨大な口が開いた。
航鯨が囮を追う。
白夜から離れる。
旧地下貯水区の西端からさらに離れたところで、赤黒い血塊が失速した。
深淵航鯨の口が、その下から持ち上がる。
囮が暗い口腔へ消えた。
顎が閉じる。
頭部は、すでに旧地下貯水区の西側へ出ていた。
けれど、一キロメートルを超える長大な胸部と腹部は、まだ地下区画の上空に残っている。
外壁の兵士も、避難路の住民も、遠距離部隊の魔術師も、その瞬間を見ていた。
白夜が赤黒い塊を放ち、深淵航鯨がそれを呑み込んだ。
遠目にも、そうとしか見えなかった。
実際に、そのとおりだった。
深淵航鯨の全身は、もう奈落の外へ出ている。
巨体の軸も、王都から外れた。
患者の移動は終わった。
航鯨を王都から引き離した。
倒す必要はない。
殺す必要もない。
目的は、患者を逃がすこと。
航鯨を王都の外へ誘導すること。
それから、私も戻ること。
最初の二つは終わった。
残っているのは、最後の一つだけだった。
「白夜、戻るよ」
一対の翼の角度を変える。
東へ向く。
左翼根はもう羽ばたけない。
それでも、今の高度と速度なら、地上へ降りながら王都側へ戻れる。
自分を使い切るまで戦う必要はない。
囮は白夜から離れた。
航鯨も、もうこちらを追っていない。
今なら帰れる。
白夜が帰還を始めた。
その直後だった。
深淵航鯨の内部で、血流が乱れた。
囮を呑み込んだ喉側からではない。
以前から黒い斑点がつながっていた胸部で、正常な血流が一斉に細くなる。
黒い領域が、片側の胸鰭の付け根へ伸びた。
太い血管を避けていた血が、さらに外側へ迂回する。
飛行器官へ入る流れが足りない。
左の胸鰭が止まった。
深淵航鯨の巨体が傾く。
右の胸鰭が大きく空気を押した。
尾部も振られる。
残った飛行器官と筋肉だけで、身体を戻そうとしている。
そのための血が、胸部の残る太い流れへ集中した。
黒い領域を避けて作られていた、最後の代償循環だった。
血圧が上がる。
主脈の壁が大きく広がる。
黒い組織に侵された筋肉が、姿勢を戻す動きとは別の方向へ縮んだ。
一つの身体の中で、姿勢を戻そうとする力と、それを妨げる収縮がぶつかる。
胸部全体が歪んだ。
高度が落ちる。
私は、その順序を記憶した。
囮を呑み込んだ直後に、黒い領域が広がった。
理由は分からない。
竜血が侵食を刺激したのか。
航鯨の身体が、囮を取り込むために血流を変えたのか。
それとも、最初からここが限界だったのか。
分かるのは、深淵因子が飛行器官を奪ったことだけ。
白夜を止める。
落下の軌道を読む。
深淵航鯨の胸部が向いている先。
旧地下貯水区。
地図では、閉鎖された無人区域。
航鯨内部へ向けていた《血液感知》の一部を外す。
落下先へ伸ばす。
距離が縮まったことで、地中の奥まで感覚が届く。
地表には人影がない。
煙もない。
けれど、岩盤の下で何かの血が流れていた。
人間と同じ速さ。
人間と同じ細さ。
一つ。
十。
五十。
百。
「嘘」
その先で反応が重なった。
厚い地下区画の中に、人間と同じ血流が密集している。
同じ反応を二度数えた。
最初へ戻る。
また途中で分からなくなる。
百を超えている。
二百を超えている。
さらに奥にもいる。
数百。
閉鎖されたはずの旧避難区画に、人がいる。
航鯨の真下にいる。
「人がいる」
喉から出た声が、自分のものに聞こえなかった。
白夜から警告が返る。
《落下予測範囲――旧地下貯水区中央部》
「下に人がいる!」
返事をする相手はいない。
レオンにも。
バルガスにも。
地下にいる人たちにも届かない。
白夜側の竜血反応を強める。
胸部と頭部へ、残る竜血を集めた。
白夜を旧地下貯水区の中心線から北西へ外す。
「こっち!」
深淵航鯨の眼が動いた。
瞳は白夜を捉える。
頭部側面の筋肉も収縮した。
航鯨自身が、もう一度こちらを追おうとしている。
けれど、左の胸鰭は動かない。
右の胸鰭が空気を押すたび、巨体はさらに回転した。
尾部を振っても、落下方向は変わらない。
白夜へ向こうとする頭部だけが、わずかに北西へ動く。
胸部と腹部は、旧地下貯水区へ落ち続ける。
「頭だけじゃない!」
もっと強く竜血反応を外へ出す。
深淵天竜の血を、胸部装甲の表面まで押し上げる。
「身体ごと、こっちへ来て!」
航鯨の正常な筋肉は動いている。
求める血へ向かおうとしている。
黒い組織へ逆らっている。
それでも足りない。
飛行器官を失った一キロメートルの巨体を、視線だけでは曲げられない。
落下予測範囲が縮まる。
旧地下貯水区中央部。
人間の反応が最も密集している場所だった。
白夜を反転させる。
帰還進路を捨てる。
残った右翼を強く傾けた。
左翼根から異音が響く。
《警告――左翼根損傷率上昇》
背部推進器を開く。
両脚の推進器も起動する。
機体内部から甲高い振動が上がった。
《警告――継続飛行不能》
白夜の視界の中で、深淵航鯨の胸部が急速に大きくなる。
落ちている。
止まらない。
その下には人間がいる。
「白夜!」
私が命じるより先に、背部推進器の安全弁が開いた。
腰部。
右脚。
左脚。
残っている推進器が、次々と起動状態へ入る。
《機体保全制御――解除》
白夜自身が、安全制御を切った。
搭乗槽を通して、低い振動が身体へ伝わる。
言葉はない。
それでも、白夜も止めようとしていることだけは分かった。
「全部回して!」
戦闘循環液と魔力を、残る推進器へ叩き込む。
損傷した一対の竜翼を開く。
飛ぶためではない。
推進方向を一つへ揃えるために使う。
全推進器が噴射した。
爆発に近い加速が、搭乗槽の中の身体を座席へ押しつける。
固定具が肋骨へ食い込んだ。
白夜が航鯨へ向かって飛ぶ。
左翼膜の一部が血へ戻る。
構わない。
航鯨の左胸部へ回り込む。
地表へ向いている腹側ではない。
横倒しになる巨体の上側へ出る。
右腕はない。
左前腕も使えない。
白夜の右肩と胸部を、航鯨の上側面へ向けた。
白夜が深淵航鯨へ激突した。
白い機械装甲が鳴った。
胸部を覆う竜血装甲が潰れる。
搭乗槽全体が揺れ、視界の端が白く弾けた。
それでも推進器を止めない。
白夜の右肩を航鯨の表皮へ押し込む。
背部推進器の出力を最大まで上げる。
両脚の噴射を重ねる。
残った竜翼を広げ、白夜の軸を固定する。
航鯨の鱗が一枚沈んだ。
その下の脂肪と筋肉が歪む。
けれど、巨体は動かなかった。
七十八・四メートルの白夜が全身で押している。
一キロメートルを超える深淵航鯨は、落下の向きを変えない。
表皮が沈むだけ。
鱗が割れるだけ。
その下にある質量は、白夜の推進力を受け止めたまま落ち続けている。
《落下予測時間――六秒》
竜血装甲を白夜の右肩へ集める。
筋束を何重にも巻きつける。
押し潰される胸部装甲を、外側から補強する。
《落下予測時間――五秒》
地下の血が動いている。
走っている。
誰かが誰かを抱えている。
壁際へ集まる反応。
上を見上げているように止まる反応。
何が起きているのか分からず、動けない反応。
「そこから逃げて!」
届かない。
搭乗槽の中で叫ぶ。
白夜の外へは、推進器の轟音しか出ていない。
地下にいる人間には届かない。
《落下予測時間――四秒》
左翼膜が大きく裂けた。
赤黒い血が、白夜の背後へ流れる。
それでも軸を外さない。
白夜の右肩を押しつけ続ける。
《落下予測時間――三秒》
背部推進器の一基が停止した。
残った推進器へ出力を移す。
航鯨の頭部は白夜を見ていた。
眼球の奥には、まだ正常な血が流れている。
こちらへ向かおうとしている。
生きようとしている。
それでも、身体は動かない。
「そっちには人がいるの!」
声が搭乗槽の中で反響した。
《落下予測時間――二秒》
左脚推進器が破裂した。
機体が傾く。
右翼を開き、姿勢を戻す。
右肩を航鯨から離さない。
推進器の熱が搭乗槽まで伝わってくる。
空気が焦げた臭いに変わる。
航鯨の胸部の軸が、ほんのわずかにずれた。
それだけだった。
落下予測範囲から、地下区画は外れない。
数百の反応が、まだ真下にある。
胸部搭乗槽の周囲で警告音が重なる。
背部推進器。
右脚駆動部。
胸部装甲。
管理者接続。
全部が限界を告げている。
「やめて!」
深淵航鯨の胸部が地表へ触れた。
最初は、低い丘が一つ消えたように見えた。
胸鱗が岩原へ沈む。
地表は、一瞬だけ形を保った。
接触地点から亀裂が走る。
一本。
二本。
そこから枝分かれし、航鯨の胸部より外側まで広がった。
亀裂が旧水路を横切る。
乾いた水路底が持ち上がる。
石組みが継ぎ目から外れる。
岩盤が耐えきれなくなった。
接触地点が沈む。
地表の沈下が、旧地下貯水区の天井を上から押した。
天井石がずれる。
石壁が内側へ折れる。
一つの区画が沈み、その重さが隣の石組みを引き崩した。
崩壊が地下を伝わっていく。
その反力が、航鯨の胸部を通って白夜へ返った。
白夜の右肩を覆っていた竜血装甲が潰れる。
機械装甲の奥まで硬い振動が突き抜けた。
押しつけていた右肩が外れる。
七十八・四メートルの白夜が、航鯨の上側から外へ弾き飛ばされた。
胸部の落下は、それでも止まらない。
地表へさらに沈み込む。
わずかに遅れて、腹部が岩原を叩いた。
次に尾柄。
その後ろから、長大な尾部が落ちる。
接触は一度では終わらなかった。
航鯨の身体が新しい場所へ触れるたび、別の岩盤が沈んだ。
一キロメートルを超える巨体が、旧地下貯水区の上へ横倒しになる。
地表が航鯨の形に沿って陥没した。
地下区画の天井が連続して落ちる。
石壁が外側へ押し出される。
導水塔が、根元の地盤ごと傾いた。
残っていた塔身が途中から折れる。
旧地下貯水区全体が、長大な巨体の下へ沈んでいく。
押し出された土砂が岩原を走った。
圧縮された空気が、土煙と砕石を外側へ吹き飛ばす。
外へ弾かれた白夜へ、その圧力が追いついた。
機体が横へ回る。
視界の中で、地面と空が入れ替わった。
白夜との接続を通して、全身の骨格が軋む感覚が返ってくる。
その直後、生身の身体も座席から浮いた。
搭乗槽の固定具が外れかける。
胸と腹が強く締めつけられる。
右肩が内壁へ叩きつけられた。
視界の端が白く弾ける。
遅れて、音が来た。
最初に、地中を走った低い振動。
続いて、岩盤が割れる音。
石壁が崩れる音。
航鯨の腹部と尾部が地表を叩く音。
押し潰された空気が破裂する音。
すべてが重なった。
一つずつ聞き分けることができない。
耳の奥に高い音だけが残った。
白夜の視界へ土煙が追いつく。
赤黒い竜血装甲も。
深淵航鯨の輪郭も。
旧地下貯水区があった場所も。
何も見えなくなった。
崩壊音も遠のいていく。
それでも、《血液感知》だけは切れなかった。
地表が沈んだ瞬間、地下にあった数百の鼓動が一斉に跳ねた。
速くなる。
不規則になる。
弱くなる。
乱れた反応の中から、一つが途切れた。
少し離れた場所で、また一つ。
さらに奥でも止まる。
数えようとする。
どこまで数えたのか分からなくなる。
止まった場所へ感覚を戻す。
血は残っている。
けれど、脈動は戻ってこない。
私に届いていたのは、土煙の中で次々と途切れていく鼓動だけだった。




