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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第五部《大崩落》

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第十一話《血衝角》

最初に落ちてきたのは、片方の翼鰭を折られた魚だった。


深淵航鯨の咆哮に吹き飛ばされ、回転しながら救護所の上空へ落ちてくる。


弓兵が矢をつがえた。


「待て!」


レオンの声が飛ぶ。


翼鰭魚は、残った翼鰭を大きく広げた。


地面へ叩きつけられる寸前、身体を傾けて落下の向きを変える。


そのまま処置幕の上を滑るように通り過ぎ、深淵航鯨のもとへ戻っていった。


人間を襲おうとしていたわけではない。


次に流されてきたのは、半透明のクラゲだった。


咆哮に押し潰された傘が風を受け、救護所へ向かって落ちてくる。


長い触手の間を、青白い電光が走った。


「風を使えるやつ!」


二人の魔術師が杖を向ける。


放たれた風が、クラゲの傘を横から押した。


触手が岩盤へ触れる寸前、クラゲの身体が救護所の外側へ流される。


岩盤へ落ちた瞬間、触手から青白い電撃が放たれた。


電撃は砕けた石の隙間を走り、乾いた音を立てて消える。


あれが担架のそばへ落ちていれば、何人が巻き込まれたか分からない。


深淵航鯨の周囲では、咆哮で散らされた生物たちが再び集まり始めていた。


翼鰭魚が巨体に沿って泳ぐ。


放電クラゲが傘を脈打たせ、青白い光を明滅させながら浮かび上がる。


そのほとんどは、救護所を見ていなかった。


白夜にも、人間たちにも興味を示さない。


ただ深淵航鯨のそばへ戻ろうとしている。


しかし、傷ついた個体や、咆哮の余波に押し流された個体は、自力で戻れず地上へ落ちてくる。


深淵航鯨が奈落から上がり続ける限り、救護所へ流される生物も増えていく。


「奈落姫!」


バルガスが処置幕の間から走ってきた。


倒れた器具や担架を避け、白夜の足元まで来る。


「レオンも来い! 今のうちに決めるぞ!」


レオンは兵士たちへ振り返った。


「航鯨へ戻ろうとしているやつは撃つな! 救護所へ落ちてくる個体だけ、進路を外へ逸らせ!」


兵士たちの返事を聞き、こちらへ走ってくる。


私は白夜の頭部から飛び降りた。


黒い翼を一度打ち、二人の前へ降りる。


背後では、深淵航鯨の前半身が奈落の縁を押し広げていた。


地上へ現れているのは、まだ頭部と胸部の一部だけだった。


残る長大な身体は、奈落の暗闇へ続いている。


相談に使える時間は長くない。


「自分で歩けねえ患者が三十二人いる」


バルガスが先に口を開いた。


「そのうち十一人は、運んでる最中も治療を続けなきゃならねえ。担架を増やして、歩ける患者と避難民にも運搬を手伝わせる」


「どこへ運ぶの?」


「第二救護地点だ。ここから王都側へ進み、第二防衛線を越えた先にある」


奈落から離れる方角だった。


けれど、深淵航鯨が王都側へ進めば、移動先も安全ではなくなる。


「全員を移し終えるまで、どのくらいかかる?」


「二十分だ」


バルガスは迷わず答えた。


「処置幕も器材も置いていく。命を運ぶことだけを優先して、それで二十分だ」


レオンが空を見上げた。


深淵航鯨のもとへ戻ろうとする群れとは別に、十数体の生物が救護所の上空へ流されている。


「患者の移動路は、俺たちが守る」


レオンが周囲の兵士たちを見回した。


「弓兵と魔術師を主体としつつ、近接戦闘要員も確保する。」


「流されてきた生物を、全部倒すの?」


「航鯨についていくだけの個体は無視する」


レオンが、地面近くを横切る翼鰭魚を指した。


「あいつらの目的は俺たちじゃない。患者の移動路へ入ってきた個体だけ排除する」


続いて、触手の間に電光を走らせる放電クラゲへ目を向ける。


「クラゲは地面へ落とすな。風か衝撃で、移動路の外へ押し出す」


二人の視線が、私へ向いた。


残っている最大の問題は、深淵航鯨だった。


《血液感知》を深淵航鯨へ伸ばす。


巨体の内部には、想像もできないほど大量の血が巡っていた。


太い血流がいくつにも枝分かれし、頭部や胸鰭、腹部へ流れている。


さらにその先は、まだ奈落の底に残っている長大な胴体へ続いていた。


その膨大な血の中に、別の性質を持つ血が混じっている。


深淵天竜の血統だった。


深淵航鯨が天竜を呑み込んだことで、体内へ取り込まれた血。


私の中にも、同じ血統がある。血統顕装で装甲としてまとうこともできる。


「試したいことがある」


「何だ?」


バルガスが尋ねた。


「航鯨の中に、白夜の赤黒い装甲と近い性質の血が混じってる」


バルガスが眉を寄せた。


「同じ血が流れてるってことか?」


「完全に同じではないけど、血統の根は近い。《血液感知》で分かる」


私は白夜を見上げた。


白い機械装甲の前面を、赤黒い竜血装甲が部分的に覆っている。


咆哮によって浮き上がった鱗の隙間から、白い装甲が露出していた。


「白夜から、航鯨の中にある血と近い気配を、もっと強く出せる」」


レオンが私を見た。


一瞬だけ、視線が重なる。


深淵航鯨が何を呑み込んだのか。


白夜の赤黒い装甲が、何を再現しているのか。


その両方を知っているのは、ここでは私とレオンだけだった。


けれど、レオンは詳しい事情には触れなかった。


「その血の反応を目印にして、航鯨の注意を白夜へ向けるのか?」


「うん。でも、本当に反応するかは分からない」


バルガスが、白夜と深淵航鯨を見比べる。


「反応したら、そのまま人のいない場所へ誘導する。そういうことだな」


「うん」


「なら、誘導先を決めるぞ」


バルガスは少し考えてから、足元の砂埃へ指で簡単な地図を描いた。


奈落の縁。


王都の外壁。


そこから西へ延びる、古い水路。


「西側の旧水路帯を抜けた先は岩原だ。街道も集落もなく、避難場所にも指定されていない」


レオンが、地図の西側を指した。


「旧貯水施設は?」


「閉鎖済みだ。今の地図では無人になってる」


「本当に誰もいないと確認できてるのか?」


「西側との通信は途絶えてる」


バルガスの指が地図の上で止まった。


「俺が確実に把握できてる避難民は、この救護所にいる連中だけだ」


指を北側へ動かす。


「北では、外壁沿いを避難民の列が移動しているらしい」


次に南側を示した。


「南には駐屯地と臨時治療所がある」


最後に、東側の王都を指す。


「東へ向ければ、王都の中心部へ戻すことになる」


確実に誰もいない場所は分からない。


西側の情報も途絶えている。


それでも、今ある情報だけで比べれば、西が最も人の少ない方角だった。


地図の上では、誰もいないことになっている土地。


「西へ連れていく」


私が言うと、バルガスは一度だけ頷いた。


「白夜に反応しなかった場合は?」


レオンに尋ねられ、少しだけ考える。


七十八・八メートルの白夜。


右腕は失われている。


左肩と両脚にも、まだ損傷が残っていた。


人間から見れば巨大な機体でも、一キロメートルを超える深淵航鯨と比べれば小さい。


「白夜を、航鯨と救護所の間へ入れる」


「戦うのか?」


「倒すためじゃない」


航鯨の頭部が救護所へ向くたび、白夜を横からぶつけて進路を逸らす。


「患者を逃がすまで、二十分だけ時間を稼ぐ」


「止められるのか?」


「完全に止めるのは無理」


それは最初から分かっている。


「救護所へ向くたびに、白夜で横へ押す。それを二十分間続ける」


白夜が何度まで耐えられるかは分からない。


たった一度の咆哮で、竜血装甲の一部が崩れた。


深淵航鯨が巨体ごと衝突してくれば、先に壊れるのは白夜だった。


それでも、患者を逃がす時間を作らなければならない。


バルガスは何も言わず、白夜と深淵航鯨を見比べた。


やがて、患者たちが移動する地上道を指す。


「最後の担架が第二防衛線を越えたら、青い信号弾を三発上げる」


「分かった」


「移動班が崩れた場合は、赤い信号弾を連続で上げる」


バルガスが私を見る。


「赤が上がったら、誘導を中断して戻ってきてくれ」


「戻っても、間に合わないかもしれない」


「それを決めるのは、俺たちが赤を上げたあとだ」


まだ起きてもいない失敗を理由に、最初から私たちを切り捨てるな。


そう言われている。


私は頷いた。


「分かった」


返事を聞くと、バルガスはすぐに救護所へ戻っていった。


「担架を全部出せ!」


バルガスの声が、処置幕の間へ響く。


「歩けるやつは、自分より重傷の患者へ手を貸せ!」


兵士と避難民が、一斉に動き始めた。


レオンも弓兵たちのもとへ向かおうとした。


二歩進んだところで、足を止める。


「エルセリア」


振り返る。


レオンは深淵航鯨を見上げていた。


「ここからは、お前一人だ」


「うん」


白夜で航鯨を誘導すれば、救護所から離れることになる。


レオンの声も、バルガスの指示も届かなくなる。


航鯨の動きを見て、白夜をどこへ飛ばすのか。


その判断を下すのは私だった。


「だから、何のために戦ってるか忘れるな」


レオンがこちらを見る。


「勝つためじゃない。あれを殺すためでもない」


処置幕の奥から、最初の担架が運び出された。


「患者を逃がす。それから、お前も戻る」


レオンの声は短かった。


「そこまでやったら、終わりだ」


白夜が壊れるまで二十分を稼ぐ。


必要なら、自分自身も使い切る。


私はすでに、そんな答えを考えていた。


「私が戻るより、多く助かる方法があったら?」


「それを探すなとは言わない」


レオンは、すぐには否定しなかった。


「でも、自分が死ぬ答えを、最初から正しいと思って選ぶな」


その言葉が残った。


私は自分の命も、白夜も、使える手段として計算できる。


そうしなければならない場面もある。


けれど、計算できることと、最初から捨てていいことは同じではない。


「分かった」


「本当か?」


「今度は、考えて答えた」


レオンの口元がわずかに動いた。


笑ったのかもしれない。


すぐに背を向ける。


「死ぬなよ」


「レオンも」


レオンは片手だけを上げ、そのまま歩き出した。


三人がそれぞれの持ち場へ分かれる。


バルガスは、患者を運ぶ移動班へ。


レオンは、移動路を守る露払いの部隊へ。


私は白夜へ向かった。


白夜の胸部では、咆哮によって浮き上がった竜血装甲が崩れ始めていた。


赤黒い鱗の隙間から、白い機械装甲が露出している。


左肩では、鱗を固定していた筋束が形を失い、血液へ戻っていた。


赤黒い血が、装甲の表面を流れ落ちていく。


「戻って」


血へ命令を送る。


流れ落ちていた血が持ち上がった。


装甲へ絡みつく筋束を作り、その上へ鱗を形成しようとする。


その時、奈落の深部から低い振動が届いた。


形成途中の筋束が崩れる。


硬くなりかけていた鱗も液体へ戻り、白夜の装甲を伝って流れ落ちた。


作れないわけではない。


作った状態を維持できない。


これから白夜で航鯨を引きつけながら飛ぶ。


巨大な口から逃れ続ける。


竜血装甲と一対の翼を、同時に維持しなければならない。


さらに、白夜は右腕を失っている。


接近してくる生物を排除する手段も、左腕に限られていた。


今のままでは、二十分間を耐え抜くには手札が少なすぎる。


「システム」


《応答》


「判定中のSPを、今確定できるものから全部確定して」


《未確定功績を再判定》


《継続救命・救助判定――確定》


《獲得SP――102》


《保有SP――112》


五時間にわたって続けた救命と救助が、SPとして確定した。


閉じた血管。


つないだ組織。


止めた出血。


救護所まで運び出した患者。


その積み重ねが、今は数字として表示されている。


私は、その結果を白夜へ使う。


「《血液操作》をLv.10まで上げる」


《血液操作 Lv.8からLv.9への上昇》


《必要SP――16》


《実行しますか》


「する」


《血液操作 Lv.9を取得しました》


白夜を覆う血の流れを、これまでより細かく捉えられるようになった。


胸部。


左肩。


左前腕。


右脚。


左脚。


これまでは、白夜を巡る血液を大きな一つの流れとして動かしていた。


Lv.9では、それぞれの部位を独立させて操作できる。


胸部の血液を持ち上げながら、左肩の血流を整える。


両脚の装甲を固定したまま、左前腕へ新しい筋束を形成する。


一か所を動かすために、ほかの部位の操作を止める必要がなくなった。


《血液操作 Lv.9からLv.10への上昇》


《必要SP――18》


《実行しますか》


「する」


《血液操作 Lv.10を取得しました》


今度は、血液の流れだけではなく、その状態まで別々に制御できる。


循環させるための液体。


装甲となる硬い鱗。


力を生み出す柔軟な筋束。


それらをつなぐ血管状組織。


同じ血から作った構造を、それぞれ異なる状態のまま同時に維持できる。


さらに、筋束を収縮させる順番も指定できた。


翼根から背部へ。


背部から胸部へ。


胸部から左肩へ。


一か所で生まれた力を、別の部位へ順番に伝えることができる。


これなら、白夜を飛ばしながら複数の竜血構造を動かせる。


けれど、強い衝撃を受ければ、作った構造そのものは崩れてしまう。


崩れるたびに作り直すことはできる。


それでも飛行中に、翼や装甲の一つ一つへ命令を送り続ける余裕はない。


必要なのは、作った構造を自力で維持させる力だった。


《上位技能の取得条件を達成》


《血液支配 Lv.1》


《必要SP――40》


《取得しますか》


「取得する」


《血液支配 Lv.1を取得しました》


左肩を流れ落ちている血へ意識を向ける。


今度は、その血を直接動かそうとはしなかった。


一つずつ形を作り直すのでもない。


「白夜から離れないで」


流れ落ちていた血が止まった。


完全に静止したわけではない。


白い装甲の表面を巡りながら、白夜の外へこぼれなくなった。


「竜血装甲のままでいて」


血液が筋束へ変わる。


形成された筋束が装甲の隙間へ入り込み、白夜の機体へ絡みついた。


その上へ、赤黒い鱗が重なっていく。


岩盤が震えた。


白夜を覆う鱗も、その振動を受けて揺れる。


それでも、形は崩れなかった。


液体へ戻ることもない。


胸部。


左肩。


左前腕。


両脚。


咆哮によって部分的に解除されていた竜血装甲が、白夜の前面へ戻っていく。


使っている血の量も、生体媒体の量も変わっていない。


変わったのは、作った構造を維持する方法だった。


私が一つずつ操作し続けなくても、命じられた状態を保っている。


これなら、竜血装甲と一対の翼を同時に維持できる。


けれど、航鯨が白夜へ反応したとしても、誘導だけで終わるとは限らない。


白夜は右腕を失っている。


残った左腕だけでは、飛行しながら接近してくる生物をすべて排除するのは難しい。


遠くから使える攻撃手段が必要だった。


その候補なら、以前から持っている。


血を固め、針として射出する《血針》。


今のレベルでは、白夜の武装として使うには威力も規模も足りない。


けれど、十分に強化すれば、白夜の外部構造にも射出機構を組み込めるかもしれない。


「《血針》をLv.6まで上げる」


《血針 Lv.1からLv.2への上昇》


《必要SP――2》


《実行しますか》


「する」


《血針 Lv.2を取得しました》


《血針 Lv.2からLv.3への上昇》


《必要SP――4》


《実行しますか》


「する」


《血針 Lv.3を取得しました》


《血針 Lv.3からLv.4への上昇》


《必要SP――6》


《実行しますか》


「する」


《血針 Lv.4を取得しました》


《血針 Lv.4からLv.5への上昇》


《必要SP――8》


《実行しますか》


「する」


《血針 Lv.5を取得しました》


《血針 Lv.5からLv.6への上昇》


《必要SP――10》


《実行しますか》


「する」


《血針 Lv.6を取得しました》


《形成硬度――上昇》


《射出圧――上昇》


《複数形成――可能》


《発射待機状態の維持――可能》


《大型血液構造への射出機構転用――可能》


《保有SP――8》


血を固め、狙った方向へ撃ち出す。


最初に《血針》を覚えた時から、原理そのものは変わっていない。


変わったのは、扱える血の量と、蓄えられる圧力だった。


複数の血針を同時に形成できる。


作った血針を、発射せずに保持しておくこともできる。


さらに、射出の仕組みを白夜の竜血構造へ組み込める。


人間の身体から小さな針を撃つだけの技能ではなくなった。


白夜の腕を砲身として使い、巨大な血の杭を撃ち出すこともできる。


必要な手段はそろった。


私は黒い翼を広げ、白夜の頭部へ戻った。


浅くつながっていた意識を、もう一度深く接続する。


私の視界へ、白夜が見ている景色が重なった。


救護所では、すでに患者の搬送が始まっていた。


歩ける患者が、担架の前方を持っている。


片腕を布で吊った避難民も、後ろから担架を支えていた。


治療兵は担架と並んで歩きながら、患者への処置を続けている。


バルガスは搬送の列を二つに分け、順番に地上道へ送り出していた。


その上空では、レオンが弓兵と魔術師を配置している。


飛行生物を追い回すための陣形ではない。


患者の移動路を守れるよう、戦力を道に沿って細長く展開させていた。


二人とも、すでに自分の役目を始めている。


私も始めなければならない。


白夜の前面を覆っている竜血装甲を、必要な厚さまで薄くする。


そこで余った生体媒体と戦闘循環液を、背部へ移動させた。


《血統顕装・深淵天竜》


白夜の背部装甲が開く。


その隙間から、赤黒い翼骨が左右へ一本ずつ伸びた。


一対の翼骨が枝分かれし、その間を赤黒い翼膜が埋めていく。


内部には、翼を動かすための太い血管状組織を巡らせた。


完成した一対の翼が、白夜の背中で大きく開く。


翼が押し出した風によって、咆哮の余波で舞っていた砂埃が後方へ流された。


続いて、白夜の左手にも顕装を加える。


残された三本の指先から、深淵天竜の爪を伸ばした。


白い指先を覆うように、赤黒い鉤爪が一本ずつ形成される。


これで飛行と近接戦闘に必要な構造はそろった。


深淵航鯨は、まだ奈落の底を見ている。


白夜へ目を向けてはいない。


救護所にも、人間たちにも反応していなかった。


私は白夜の胸部と頭頸部を巡る竜血の流れを強める。


赤黒い鱗の隙間に浮かぶ血管が、大きく脈打った。


白夜の両脚が、ゆっくりと岩盤から離れる。


背中の一対の翼が空気を打った。


巨体が地上から浮かび上がる。


十メートル。


二十メートル。


それでも、深淵航鯨に変化はなかった。


白夜を救護所の正面から西側へ移動させる。


三十メートル。


さらに五十メートル。


深淵航鯨の巨大な眼は、奈落の底へ向いたままだった。


考えていた仮説が、間違っている可能性もある。


深淵天竜を呑み込んだからといって、同じ血統を求めるとは限らない。


私は一度、白夜を空中で停止させた。


深淵航鯨にも動きはない。


このまま反応しなければ、次の手段へ移る。


白夜を深淵航鯨と救護所の間へ入れ、力ずくで進路を逸らす。


右腕を失った白夜で、一キロメートルを超える巨体を二十分間押し返し続ける。


成功する保証はない。


それでも、やるしかない。


私は胸部を巡る竜血の流れを、さらに強めた。


白夜の外側へ現れている深淵天竜の性質を、もっと強く押し出す。


頭部から首を覆う鱗が厚くなる。


一対の翼を巡る血も、先ほどより激しく脈打った。


その瞬間、深淵航鯨の内部で血流が変化した。


巨大な眼球の奥へ、血が集まり始める。


少し遅れて、片側の眼が奈落の底から離れた。


深淵航鯨の視線が、白夜の胸部で止まる。


私は息を止めた。


すぐには白夜を動かさない。


一度見ただけでは、白夜へ反応したとは断定できない。


深淵航鯨にも、それ以上の動きはなかった。


私は白夜を西へ十メートルだけ移動させる。


巨大な瞳の中心が、白夜と同じ方向へずれた。


さらに西へ動かす。


今度は、深淵航鯨の頭部側面を覆う筋肉が収縮した。


遅れて、巨大な頭部がゆっくりと西へ傾く。


偶然ではない。


白夜の位置に合わせて、視線だけでなく頭部まで動いている。


次は白夜を上昇させる。


深淵航鯨の顎が持ち上がった。


首に相当する筋肉へ、膨大な血が流れ込む。


頭部の動きに押され、周囲を旋回していた翼鰭魚たちが軌道を乱した。


「反応してる」


深淵航鯨が白夜を追う理由までは分からない。


餌として求めているのかもしれない。


強い血統の反応に引き寄せられているのかもしれない。


自分の中へ取り込んだ血と、近い性質を感じ取った可能性もある。


理由が何であれ、白夜の竜血顕装へ反応していることは確認できた。


仮説は成立した。


白夜を西へ向ける。


ただし、すぐに航鯨から距離を取るわけにはいかない。


頭部だけを西へ向けて飛び去れば、奈落に残っている胴体が救護所側の岩盤を押し潰す恐れがある。


まずは、航鯨の前半身すべてを王都とは反対側へ向けなければならない。


私は白夜を、航鯨の斜め前方へゆっくりと移動させた。


真正面には入らない。


航鯨が口を開けば、そのまま呑み込まれてしまう。


一定の距離を保ちながら、白夜に大きな弧を描かせる。


深淵航鯨の頭部が、白夜の動きに合わせて西へ傾いた。


続いて、首に相当する筋肉が収縮する。


胸鰭の付け根を巡る血流も、西側へ偏り始めた。


巨大な胸鰭が、ゆっくりと向きを変える。


奈落の縁に触れていた身体が横へずれ、岩盤を削った。


建物ほどの岩塊が砕け、奈落の暗闇へ落ちていく。


深淵航鯨は、頭部だけではなく、前半身全体を白夜のいる方角へ向けようとしている。


白夜の一対の翼を打つ。


機体が弧の外側へ進んだ。


航鯨の頭部が、その軌道をなぞるように動く。


けれど、まだ胸部の向きが追いついていない。


ここで白夜だけが先へ進めば、長い胴体が救護所側へ振られる可能性がある。


私は白夜の速度を落とした。


航鯨の前半身が、完全に西へ向くまで待つ。


やがて胸鰭が、王都とは反対方向へ開いた。


腹部へ続く血流も、少しずつ西側へ寄っていく。


航鯨の周囲を飛んでいた生物たちも動き始めた。


翼鰭魚の群れが、巨体に沿って西へ流れる。


放電クラゲも傘を脈打たせ、青白い光の列を作りながら航鯨についていく。


大部分の生物は、航鯨とともに進路を変えた。


動きについていけなかった個体だけが、救護所側へ取り残されている。


翼鰭を傷つけた一体が、患者を運ぶ列へ向かって落下していた。


白夜の視界の端で、レオンが腕を上げる。


三本の矢が放たれた。


一射目が、残っていた翼鰭を貫く。


続く二本が魚体の側面へ当たり、落下する方向を地上道の外へずらした。


「右上、三秒後!」


レオンが叫ぶ。


弓兵たちが、すぐに狙いを変えた。


まだ何も見えない空間へ、二人の魔術師が風を放つ。


その直後、深淵航鯨の陰から放電クラゲが流れてきた。


クラゲの傘が、先に放たれていた風を受ける。


進路を押し曲げられ、患者の移動路から外へ弾かれた。


レオンに見えているのは、未来のすべてではない。


数秒後に、どこへ危険が現れるのか。


その断片だけだった。


けれど、患者を守るには十分だった。


深淵航鯨の前半身が、さらに奈落から抜け出す。


巨大な胸鰭が地表より高く持ち上がった。


それだけで、西側の空が暗くなる。


胸鰭の下を、家屋ほどの大きさを持つ翼鰭魚が何体も泳いでいた。


放電クラゲの青白い光が、航鯨の表皮を断続的に照らす。


赤黒い竜血装甲をまとった白夜も、その光の中へ浮かび上がった。


私は白夜をさらに西へ進ませる。


救護所との距離が開いていく。


深淵航鯨の頭部から胸部へ続く身体の軸も、白夜の進路へ沿い始めた。


その時、航鯨の口が大きく開いた。


周囲の空気が、巨大な口の中へ吸い込まれる。


白夜の一対の翼が、航鯨側へ引かれた。


開いた口の奥には、白夜の全身が収まるほどの暗闇が広がっている。


頭部へ大量の血が集まる。


ただ白夜についてきているのではない。


呑み込もうとしている。


私は白夜を斜め上へ逃がした。


航鯨の顎も、それを追って持ち上がる。


距離が一気に縮まった。


速い。


一キロメートルを超える巨体が動けば、一度に進む距離が違う。


一対の翼を強く打たせる。


それでも、開いた口が背後へ迫ってくる。


正面へ逃げ続ければ、いずれ追いつかれる。


航鯨の視線が白夜を正面に捉えた瞬間、左右の翼の角度を変えた。


白夜の巨体が、空中を左へ滑る。


右腕を失っているため、機体が大きく傾いた。


左肩と両脚の竜血装甲へ力を集中させる。


崩れた姿勢を支えながら、航鯨の正面から横へ抜けた。


巨大な口が、白夜の右側を通過する。


上下の硬質組織が激しく噛み合った。


押し出された空気が破裂し、衝撃となって白夜を横から叩く。


右翼が大きくしなった。


翼膜の一部が、翼骨から剥がれかける。


「保って」


《血液支配》を通して命じる。


裂けかけた場所へ血が集まった。


翼膜は形を失わず、翼骨との接続を維持する。


一対の翼が再び空気を捉えた。


深淵航鯨は、すぐには進行方向を変えられない。


巨大な頭部が白夜の横を通り過ぎる間に、機体を斜め前方へ回り込ませる。


翼根で生まれた力が、背部の筋束へ伝わった。


背部から胸部へ。


胸部から左肩へ。


別々に作った竜血構造が連動し、一つの身体として白夜の姿勢を変えている。


翼から背中へ。


背中から胸へ。


胸から左肩へ。


今は、その力を逃げるために使った。


航鯨の頭部側面へ血が集まり始める。


通り過ぎた白夜へ向き直ろうと、筋肉が収縮していた。


近づきすぎれば呑み込まれる。


離れすぎれば、白夜への関心を失うかもしれない。


私は白夜の胸部を巡る竜血の反応を弱めた。


表面に浮かんでいた血管状組織を、鱗の下へ沈める。


それに合わせて、航鯨の加速が緩んだ。


今度は一対の翼へ巡る血を強める。


航鯨の眼球の奥で血流が偏り、翼へ注意が向く。


再び、白夜との距離が縮まり始めた。


竜血顕装の反応を調節すれば、航鯨との間隔をある程度制御できる。


王都の外壁が、少しずつ遠ざかっていく。


それでも、航鯨の長大な胴体は、まだ奈落の中へ残っていた。


私は白夜を急がせず、さらに大きな弧を描かせる。


頭部。


胸部。


胸鰭。


順番に向きが変わっていく。


奈落の縁に触れていた腹部も、岩盤を削りながら西側へ引かれた。


その時、家屋ほどの翼鰭魚が一体、航鯨の腹部から離れた。


ほかの個体とは動きが違う。


赤黒い白夜へ頭部を向けている。


翼鰭を大きく広げ、正面から加速してきた。


口が開く。


細かな牙が何列も並んでいた。


深淵航鯨を守ろうとしているのか。


それとも、白夜の深淵天竜の血に反応したのか。


理由を考えている時間はない。


横へ避ければ、翼鰭魚が白夜と航鯨の間へ入り込む。


航鯨が白夜を見失う可能性がある。


私は白夜の左手を開いた。


三本の天竜爪を、正面へ向ける。


翼鰭魚が噛みついてくる。


白夜の上半身だけを沈めた。


牙が頭上を通過する。


すれ違う瞬間、左腕を横へ振り抜く。


三本の鉤爪が、翼鰭魚の腹部を切り裂いた。


鱗が割れる。


傷口から、大量の血が噴き出した。


赤い飛沫が、空中へ広がっていく。


「止まって」


航鯨の随伴生物からこぼれた血が、空中で止まった。


まだ身体の中を流れている血ではない。


すでに傷口から離れ、宙へ散った血。


その血が、《血液支配》の感覚へ触れている。


一滴ずつ動かす必要はなかった。


「散らないで」


赤い飛沫が互いに寄り集まる。


一本の細長い帯へ変わった。


「白夜の左腕へ」


血の帯が白夜を追い、天竜の爪へ絡みついた。


爪の表面を伝い、手首へ流れる。


私は白い機械装甲と竜血装甲の間に、血を溜めるための袋状組織を作った。


集めた血を、その中へ流し込む。


白夜の循環系には混ぜない。


外から集めた血のまま、左前腕へ保持する。


切り裂かれた翼鰭魚は身体を反らし、航鯨の下方へ落ちていった。


追う必要はない。


航鯨についていくだけの生物を倒すことが目的ではない。


白夜へ襲いかかってくる個体だけを排除する。


左前腕の貯留層には、回収した血が残った。


《血針》で固めれば、射撃に使える。


けれど、それだけではない。


大量の血を一方向へ押し出せば、もっと大きな構造を撃ち出すこともできる。


その考えを形にする前に、深淵航鯨の表面で黒い斑点が脈打った。


生き物のように膨らみ、収縮する。


航鯨の巨体が跳ねた。


西へ向いていた頭部が、突然王都側へ引かれる。


頭部の筋肉は、白夜のいる西側へ向かって収縮している。


眼球の奥の血流も、白夜を捉えたままだった。


それなのに、黒い斑点の周囲だけが反対方向へ縮んでいる。


一つの身体の中で、相反する二つの動きが衝突していた。


航鯨の急な動きに押され、周囲の群れが大きく散る。


このまま王都側へ戻れば、救護所へ近づいてしまう。


私は白夜をさらに西へ移動させた。


胸部と一対の翼へ、竜血の反応を集中させる。


航鯨の巨大な瞳は白夜を捉え続けている。


けれど、頭部は黒い斑点に引かれたまま動かない。


低い鳴き声が、周囲の空気を震わせた。


先ほどの咆哮とは違う。


口の奥から押し出された、長く濁った音だった。


航鯨自身の筋肉が大きく膨らむ。


黒い斑点の周囲で血流がせき止められた。


残された筋肉が、強引に頭部を西へ引き戻そうとしている。


航鯨も苦しんでいる。


自分の身体が、自分の命令に従わない。


私は白夜を、もう少しだけ遠ざけた。


求めている深淵天竜の血が離れていく。


航鯨の頭部側面へ、さらに大量の血が流れ込んだ。


王都側へ引かれていた頭部が止まる。


黒い斑点が、再び強く脈打った。


航鯨の全身が震える。


それでも今度は、王都側へ振られなかった。


巨大な頭部が、ゆっくりと西へ向き直る。


続いて、胸鰭が動く。


遅れて、長大な胴体が岩盤を削りながら西へ引かれていった。


私は深淵航鯨を押していない。


身体を操っているわけでもない。


航鯨は、自分の身体を奪おうとする黒いものへ逆らいながら、自分の意思で深淵天竜の血を求めていた。


その巨体の周囲から、二体の翼鰭魚が離れた。


先ほどの個体よりは小さい。


それでも、それぞれが白夜の頭部に近い大きさを持っている。


二体は左右へ分かれ、白夜を挟むように接近してきた。


左腕の爪だけで、同時に両方を切るのは難しい。


私は左前腕へ溜めた血へ意識を向けた。


回収した血の一部を、装甲の外へ押し出す。


二つに分ける。


細長く伸ばす。


先端を鋭く固める。


《血針》


白夜の左前腕から、二本の赤い杭が撃ち出された。


一本目が、右側から迫る翼鰭魚の翼鰭を貫いた。


もう一本は、左側の個体の頭部を外れ、肩口へ突き刺さる。


白夜の武装としても、十分な威力があった。


けれど、深淵航鯨の表皮を貫くには細すぎる。


傷ついた二体の軌道が崩れた。


私は白夜を前へ進ませる。


二体とすれ違う瞬間、左手の鉤爪を振るった。


翼鰭を失った個体の側面を切り開く。


もう一体の喉元へ、三本の爪を走らせた。


二つの傷口から血が噴き出す。


「白夜の左腕へ」


身体から離れた血が、二本の帯となって白夜へ集まった。


天竜爪から手首へ。


手首から左前腕へ。


血は貯留層の中へ流れ込んでいく。


先ほど血針として消費した量を差し引いても、残っている血は増えていた。


左前腕を覆う竜血装甲が、内側からわずかに膨らむ。


血を溜めている袋状組織の圧力が高まっていた。


この血を、すべて針へ変える必要はない。


撃ち出すための力として使える。


では、何を撃ち出すのか。


普通の血で作った杭では、深淵航鯨の表皮へ当たった瞬間に砕ける。


白夜には、それよりも硬い構造がある。


左手を覆っている、深淵天竜の爪。


けれど、指先の爪をそのまま撃っても短すぎる。


ならば、左腕の内部で作ればいい。


真っ直ぐに。


血針と同じ形に。


ただし、再現する構造は深淵天竜の爪。


白夜を航鯨の斜め前方へ飛ばしながら、自分の血を左前腕内部へ移動させる。


回収した血とは混ぜない。


中心に、細長い爪の骨格を作る。


硬度を上げる。


さらに前腕の中で伸ばしていく。


拳の内側から、肘の近くまで。


外からは見えない左腕の内部で、一本の長大な天竜爪が形を持ち始めた。


回収した血の一部を、その周囲へ重ねる。


凝固させ、爪の芯を包む厚い外殻に変える。


残った血は、爪の根元へ集めた。


まだ圧縮はしない。


患者の搬送が終わるまでは、白夜を飛ばし続ける必要がある。


左前腕へ溜めたまま、形だけを維持する。


「そのままでいて」


《血液支配》が、二種類の血を左腕へ固定した。


救護所は、すでに遠く小さく見えている。


私は白夜の視界を救護所側へ絞った。


地上道を、担架の列が進んでいる。


列の先頭は、すでに第一防衛線を越えていた。


最後尾にはバルガスがいる。


担架を持つ者が足を滑らせるたび、バルガスが列を止め、体勢を立て直させていた。


その上空では、レオンたちが移動路を守っている。


矢と魔法が、途切れることなく放たれていた。


何体倒したのかは分からない。


倒すことが目的ではない。


患者の移動路は、まだ確保されている。


深淵航鯨が再び口を開いた。


今度は接近される前に、白夜を横へ滑らせる。


巨大な顎が、直前まで白夜のいた空間を通過した。


頭部と首の筋肉が白夜へ向き直ろうとする。


けれど、巨大な胸部まではすぐに方向を変えられない。


その遅れを利用し、白夜を斜め前方へ戻す。


最初の時よりも早く回避できた。


けれど、白夜の左肩へ負荷が積み重なっている。


一対の翼を動かすたび、機体内部の修復用生体媒体も減っていく。


竜血装甲が形を保っていても、白夜本来の損傷まで消えたわけではない。


右腕を失っているため、空中での姿勢も崩れやすい。


戦いが長引くほど、白夜が不利になる。


それでも、退避完了を示す青い信号弾はまだ上がらない。


私は深淵航鯨を西へ導き続けた。


王都外縁の旧水路帯が、白夜の下を通り過ぎる。


崩れた石造りの水路。


使われなくなった導水塔。


水のない、乾いた水路の底。


閉鎖された旧貯水施設の上には、いくつもの土砂崩れの跡が残っていた。


その向こうには、低い丘と岩だけが続いている。


バルガスが誘導先として示した方角。


街道も集落もないと、地図に記録されていた岩原。


白夜を岩原側へ向ける。


深淵航鯨の頭部側面を巡る血も、同じ方角へ偏った。


胸鰭が西へ開く。


航鯨の前半身は、王都から完全に外れた。


随伴する生物の群れが、空を埋めている。


翼鰭魚の鱗が光を反射する。


放電クラゲの青白い明滅が、航鯨の巨大な影の中へ何本もの線を引いた。


深淵航鯨の身体は、その光のさらに奥へ続いている。


一キロメートルを超える生命が、白夜一機を求めて王都の外を進んでいた。


怖くないわけではない。


背後で口が開くたび、白夜との接続を通して、私の意識まで震えた。


一度判断を間違えれば、白夜ごと呑み込まれる。


一対の翼が崩れれば、空から落ちる。


白夜への反応を失わせれば、航鯨がどこへ向かうか分からない。


そのたびに、レオンの言葉を思い出す。


何のために戦っているのか。


深淵航鯨を倒すためではない。


自分を使い切るためでもない。


患者を逃がす。


そして、私も戻る。


白夜を横へ滑らせる。


航鯨の口を避ける。


斜め前方へ回り、距離を調整する。


翼根。


背部。


胸部。


左肩。


白夜の姿勢を変えるたび、力が同じ順番で竜血筋束を通っていく。


これまでは、左肩まで伝わった力を機体の姿勢制御へ使っていた。


その力を、左肩から左腕へ通せばいい。


左腕の中には、すでに撃ち出すものがある。


天竜爪の芯。


その周囲を覆う血の外殻。


そして、射出に使うための大量の血。


残っているのは、発射に必要な圧力を加えることだけだった。


その時、王都側の空へ青い光が上がった。


一発。


王都側の空へ、一発目の青い信号弾が上がった。


最後尾の患者が、第一防衛線を越えた合図だった。


搬送は順調に進んでいる。


その直後、深淵航鯨の胸鰭近くから、大型の翼鰭魚が一体離れた。


家屋よりも大きい。


白夜の進路へ回り込み、身体を縦に起こして巨大な口を開く。


横へ避ければ、白夜は深淵航鯨の真正面へ押し戻される。


私は白夜を加速させた。


翼鰭魚も、正面から速度を上げる。


互いの距離が一気に縮まった。


衝突する寸前、白夜の左腕を大きく振り上げる。


三本の天竜爪が、翼鰭魚の下顎へ食い込んだ。


そのまま腕を振り抜き、腹部まで一気に切り上げる。


鱗が砕けた。


その下の肉が裂け、大量の血が白夜の周囲へ噴き出す。


「散らないで」


宙へ広がろうとしていた赤い飛沫が止まった。


「左腕へ」


血が一本の帯へまとまり、白夜の左拳へ絡みつく。


三本の鉤爪の表面を伝い、手首から前腕内部の貯留層へ流れ込んだ。


集まった血によって、貯留層が満たされていく。


左前腕を覆う竜血装甲の隙間から、内部の赤い脈動が透けて見えた。


貯められる容量は、もう限界に近い。


《血衝角》に必要な血は集まった。


遠くで、二発目の青い信号弾が上がる。


搬送の大部分が、第二防衛線へ到達した合図だった。


私は白夜の左手を覆う鉤爪を解除する。


三本の爪が赤黒い血へ戻り、左前腕の竜血装甲へ吸収されていった。


白夜の拳を固く握らせる。


左前腕の内部で作りかけていた天竜爪へ、完成した形を与える。


真っ直ぐに。


太く。


先端だけを鋭く尖らせる。


拳の内側から肘の近くまで、一本の赤黒い杭が形成された。


その芯は、私自身の血で作った深淵天竜の爪。


切り裂いた翼鰭魚たちから集めた血は、その周囲で幾重にも凝固し、爪を包む外殻となっている。


残った血を、爪の根元へ集める。


少しずつ圧縮する。


まだ足りない。


さらに圧力を加える。


左前腕を覆う竜血筋束が、内側から大きく膨らんだ。


白夜の白い機械装甲が、圧力に耐えきれず軋み始める。


外から集めた血は、白夜の循環系には入れていない。


撃ち尽くしても、白夜自身の血液は失われない。


けれど、射出時の反動までは消せない。


すべての反動は、左前腕から左肩へ返る。


今の白夜の左肩では、一発に耐えるのが限界だった。


撃ったあとは、まともに飛び続けられない可能性が高い。


だから、最後の合図が上がるまでは使えない。


深淵航鯨が、再び口を開いた。


巨大な口が迫るより先に、白夜を横へ滑らせる。


直前まで機体がいた空間を、上下の顎が通過した。


巨大な口が、白夜のすぐ後ろで閉じる。


噛み合った衝撃で空気が破裂し、白夜の背部を激しく叩いた。


私は一対の翼へ意識を集中させる。


翼膜を保つ。


左腕の内部では、圧縮された血が出口を求めて脈打っていた。


その時、深淵航鯨の表皮を覆う黒い斑点が収縮した。


巨体の前半身が大きく傾く。


白夜へ向かおうとしていた頭部が、旧水路帯の方角へ強引に引かれた。


眼球の奥を巡る血は、まだ白夜を捉えている。


航鯨自身の筋肉も、岩原側へ戻ろうとしていた。


けれど、黒い部分の収縮は先ほどよりも強い。


私は白夜の胸部へ、竜血の反応を集中させた。


航鯨の頭部側面を覆う筋肉が大きく膨らむ。


黒い斑点の力へ逆らい、頭部を岩原側へ引き戻した。


低く濁った鳴き声が空を震わせる。


深淵航鯨は、今も自分の身体と戦い続けている。


それでも、黒い侵食が広がれば、いつまで抵抗できるか分からない。


患者の搬送が終わっても、ただ白夜を追わせ続けるだけでは足りない。


王都へすぐには戻れない場所まで、さらに西へ追い出す必要がある。


そのために痛みを与えなければならないとしても、深淵航鯨を殺すことが目的ではない。


患者を逃がす。


そして、私も生きて戻る。


レオンとの約束は変わっていない。


遠くで、三発目の青い信号弾が上がった。


最後の担架が、第二防衛線を越えた。


バルガスは、宣言した二十分で患者全員を運び切った。


レオンたちも、その搬送路を最後まで守り切った。


もう、白夜を二十分先まで保たせる必要はない。


左腕へ集めた血を、すべて一発へ使える。


私は白夜を反転させた。


それまで深淵航鯨から逃れるために使っていた一対の翼を、巨体へ向ける。


深淵航鯨の頭部へ大量の血が流れ込んだ。


巨大な口が開く。


白夜を呑み込もうと、上下の顎が迫ってきた。


今度は逃げない。


一対の翼を畳む。


白夜の巨体を、航鯨の口へ向かって急降下させた。


巨大な上顎が、白夜の頭上を通過する。


私は暗闇のような口の下へ潜り込んだ。


視界いっぱいに、深淵航鯨の下顎が広がる。


白夜の一対の翼を、一気に開いた。


翼根を覆う竜血筋束を、限界まで収縮させる。


翼で生まれた力が、背部へ伝わる。


背部から胸部へ。


胸部から左肩へ。


これまでのように、姿勢を変えるためには使わない。


すべての力を、左肩から左前腕へ送り込む。


七十八・八メートルの白夜が、斜め上へ跳ね上がった。


赤黒い左拳が、深淵航鯨の下顎へ正面から衝突する。


硬い鱗と竜血装甲が激突した。


白夜の左肩から、機械が軋む音が響く。


拳を覆っていた竜血装甲が砕けた。


衝突の力だけでは、航鯨の頭部がわずかに持ち上がっただけだった。


まだ足りない。


けれど、これはただの拳ではない。


拳の内側には、一本の深淵天竜の爪が収められている。


その根元には、周囲の翼鰭魚から集めた大量の血が、限界まで圧縮されていた。


血を硬い爪へ変える。


圧力を蓄える。


狙った方向へ射出する。


原理は《血針》と同じ。


ただし、撃ち出すものは針ではない。


「爪のままでいて」


《血液支配》を通して命じる。


深淵天竜の爪が、衝撃を受けても形を崩さず維持される。


左前腕を覆う筋束を収縮させ、腕全体を砲身として固定した。


白夜の拳は、深淵航鯨の下顎へ押しつけられている。


狙いは外れない。


逃げ場もない。


私は爪の根元に蓄えた血圧だけを、一気に解放した。


白夜の左前腕から、機械装甲が引き裂かれる音が響く。


「《血衝角》」


左拳を覆う装甲が、内側から弾け飛んだ。


圧縮された血が、拳の正面へ向かって爆発的に噴き出す。


その中心を貫き、長大な深淵天竜の爪が零距離から射出された。


赤黒い衝角が、深淵航鯨の下顎を貫く。


拳による衝突。


続いて放たれた、天竜爪の杭打ち。


二つの衝撃が重なり、深淵航鯨の巨大な頭部を跳ね上げた。


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