第十話 《正しさの外側》
腹壁の奥で、裂けた血管から血が漏れていた。
傷ついた内臓の一部も、呼吸に合わせて出血を繰り返している。
《血脈再生》
患者の胸へ置いていた手を、腹部へ移す。
魔力を流し、裂けた血管を閉じた。
損傷した組織をつなぐ。
すべてを治す必要はない。
これ以上の出血を止め、治療兵の処置に耐えられる状態まで戻せばいい。
患者の身体が小さく震えた。
首へ指を当てる。
脈は細い。
失われた血は戻らない。
それでも、すぐに止まる状態ではなくなっていた。
「内部の出血は止めた。失った血が多い」
私が手を離すと、治療兵が入れ替わるように患者の身体を支えた。
「引き継ぎます。第一処置幕へ!」
担架が持ち上がる。
その後ろから、次の患者が運び込まれていた。
右脚が不自然な方向へ曲がっている。
私は立ち上がりかけた。
けれど、その担架は私の前で止まらなかった。
「脚部骨折! 出血は止まってる!」
「右へ運べ! 添え木を先に当てろ!」
治療兵が傷を確かめ、搬送兵が空いている場所へ運んでいく。
さらに次の担架が地上道から入ってきた。
バルガスが患者の顔と胸の動きを見て、処置幕の奥を指す。
「意識あり、呼吸安定! 黄色へ回せ!」
「了解!」
私が次へ手を伸ばさなくても、患者は必要な場所へ運ばれていった。
担架を持つ人。
傷を確認する人。
処置する人。
使った器具と患者の状態を記録する人。
それぞれが、自分の役目を続けている。
誰も私を呼ばなかった。
今、この瞬間に、私でなければ救えない患者はいない。
それだけだった。
白夜は天杭四番のそばに立っていた。
区画を落として救護所へ戻った時点で、《血統顕装・深淵天竜》は解除していた。
白夜の背にあった赤黒い一対の翼は、もうない。
流れ落ちずに残った生体媒体だけが機体内部へ戻り、傷ついた白い装甲が露出している。
右腕はない。
左肩と両脚にも、地盤を支え続けた負荷が残っていた。
完全には直っていない。
それでも、まだ動かせる。
白夜を動かせるのは私だけ。だから、まだ倒れるわけにはいかない。
「奈落姫」
呼ばれて振り返る。
バルガスが地上道から来る担架を確認しながら立っていた。
「ここは俺たちで回す。お前にしかできないような患者が来たら呼ぶ」
「でも、まだ患者が」
「見れば分かる」
バルガスの視線は私ではなく、搬送路へ向いていた。
「お前がいなくても平気だとは言ってねえ。今は、お前が必要な患者がいないと言ってる」
新しい担架が入ってくる。
バルガスはすぐにそちらへ身体を向けた。
「左の幕へ運べ! 毛布を追加しろ!」
話は終わっていた。
私が今すぐするべき処置も、終わっていた。
救護所の端へ歩く。
布幕の裏に、器具を洗うための水場が作られていた。
大きな金属の器に水が張られ、その隣には汚れた水を捨てる桶が置かれている。
器の前へしゃがみ、両手を水へ入れた。
指の間から、乾きかけた血が剝がれていく。
自分の血。
深淵天竜の血。
白夜の戦闘循環液。
助けた人たちの血。
どれが誰のものだったのか、もう見ただけでは分からなかった。
水が赤黒く濁る。
汚れた水を桶へ捨て、新しい水を入れた。
もう一度、手を洗う。
顔にも水を当てた。
頬についていた土が落ちる。
額に乾いていた血が剝がれ、水面へ細い線を引いた。
何度か洗ううちに、水の揺れが小さくなっていく。
そこに、私の顔が映った。
白い肌。
赤い目。
血と埃で束になった長い黒髪。
飛ぶために裂けた服の背中。
頬には、まだ落ち切っていない黒い汚れが残っている。
「これが、私」
声に出しても、水面の顔は変わらなかった。
レムナで目覚めてから、何度も見てきた顔だった。
初めて水面へ映った時は、それが自分だとは思えなかった。
前の身体とは何もかも違っていた。
それでも今は、この顔を自分のものだと思っている。
エルセリアと呼ばれれば振り向く。
赤い目も。
白い肌も。
長い黒髪も。
もう借り物には見えなかった。
水面に映る私は、以前と変わっていない。
見慣れた私の顔だった。
だから、恐ろしい。
――謝ってほしいんじゃない。
夫を失った女性の声が戻ってきた。
あの区画の生存者は全員運び出した。
生きた血流が残っていないことは血液感知で確認した。
あの時六棟の建物と道路を載せた地盤全体を支え続ければ、やがて地盤が崩れ救護所まで巻き込む可能性があった。血統顕装を展開しつづけることで人間性の値を犠牲にしつづけるのもリスクがあった。
遺体を回収するには、何度も往復しなければならなかった。
白夜を動かせるのは私だけ。《血脈再生》を使えるのも私だけ。
もしあの時遺体のために白夜と私を使い続けていたら、赤の患者もその後に運ばれてくる患者も救えなかった。
「だから、落とした」
水面の私へ言う。
考え直しても、結論は変わらない。
同じ状況になれば、私はもう一度、同じ命令を出す。
生きている人間を先に運ぶ。
生存者が残っていないことを確かめる。
救護所を守るために、六棟の建物ごと地盤を奈落へ落とす。
一人の遺体と、そのあとに救える何人もの患者。
天秤に載せれば、答えは一つしかなかった。
合理的な判断だった。
間違ってはいない。
けれど、その合理性の中にはあの女性がいなかった。
私にとって、建物の中に残っていたものは遺体だった。
生存反応なし。
緊急時の搬送優先度なし。
落下する地盤に残す対象。
あの女性にとっては違った。
「まだ、旦那さんだったんだ」
少し前まで話していた人。
名前を呼べば、返事をしていた人。
心臓が止まったからといって、すぐに置いていけるわけではない。
顔を見たかったかもしれない。
手を握り、最後に名前を呼びたかったかもしれない。
そんなことは、当たり前だった。
私は、言われるまで考えなかった。
生きているか。
死んでいるか。
救えるか。
救えないか。
必要な時間と、残っている手段を比べれば答えはすぐに出せる。
その人が誰だったのかを見なくても、救命の判断だけならできる。
その方が速い。
その方が正確だった。
その速さの中で、あの人の夫は遺体へ変わった。
私の中だけで。
レムナで目覚めた頃、私は命を奪うことをためらっていた。
人を救った時も、傷を治したという記録だけで終わらせたくなかった。
だから、レオンを描いた。リノを描いた。
身体の状態なら、診工守の記録に残っていた。
傷の場所も。
失った血の量も。
治療の経過も。
それでも、それだけではその人を残したことにならないと思った。
名前を書いた。
顔を描いた。
誰を救ったのか、忘れないためだった。
救うことを、ただの処理にしないためだった。
そのつもりだった。
今の私は、心拍が止まった瞬間に、その人を救助対象から外した。
外す必要はあった。
そうしなければ、生きている患者が死んでいたから。
問題は救助対象から外したことではないんだろう。
外したあと、その人が誰だったのかまで思考から消したことだった。
判断は正しいはずだった、でもその正しさの中から、人間一人分の重さが消えていた。
胸は痛まない。
涙も出ない。
遺体を落としたことを後悔しているわけでもない。
もう一度やり直せても、選択は変えられない。
だからこそ、怖かった。
以前の私でも、選択は変えられなかったと思う。
それでも、落とすものが誰かの夫だったことは考えたはずだった。
きっと、心の痛みも考えられたはずだ。
決断を変えられなくても、その決断によって、誰から何を奪うのかは見ていただろう。
水面の赤い目が、私を見返している。
怪物の顔には見えない。
吸血鬼のような体になったことが怖いのではない。
深淵天竜の血を取り込んだことでもない。
何も変わっていないように見えるまま、内側だけが変わっている。
《血統顕装》を使った時。
六棟の建物を載せた地盤を、奈落へ落とした時。
人間性は二度下がった。
システムが何を基準に測っているのかは分からない。
けれど、ただの表示ではなかった。
私の中にある大切な何かが、少しずつ削られている。
それだけは間違いなかった。
「これが、人間性を失うってこと?」
水面の私は、何も答えない。
人の命を救うことは覚えている。
どの傷を先に閉じるべきかも分かる。
何人を救えるかも計算できる。
けれど、人間は命だけでできているわけではない。
心臓が止まっても、名前は消えない。
誰かとの関係も、その思い出も消えない。
救うことを忘れないようにしてきた。
名前を覚えた。
絵を描いた。
誰を救ったのかを残そうとした。
それでも、あの女性に言われるまで、私は自分の欠落に気づけなかった。
「一人じゃ、分からなくなった」
自分の判断から何が抜け落ちているのか。
もう、自分だけでは見つけられない。
なら。
私が見えなくなったものを、まだ見ることができる人のそばにいなければならない。
自分の正しさだけで、判断を終わらせてはいけない。
――謝ってほしいんじゃない。
あの言葉に、私はまだ答えられない。
何を言えばよかったのかも分からない。
ただ、分からないままにしてはいけないことだけは分かった。
水面へ指を触れた。
赤い目が崩れる。
白い顔も、黒い髪も、波の中へ消えていった。
器の縁が、かすかに鳴った。
指を止める。
水面の波は消えなかった。
私が触れた場所とは別のところから、新しい波が広がっている。
足元の岩盤を通して、低い振動が届いた。
一度。
長い間を置いて、もう一度。
二度目は、最初よりわずかに強かった。
揺れ方に規則はない。
三度目はすぐには来なかった。
代わりに、金属の器が台の上で細かく鳴り続ける。
水面へ、私が触れていない波がいくつも重なった。
やがて、三度目の振動が届く。
今度は、足の裏だけではなかった。
脚の骨を通して、腹の奥まで響いた。
何かが起きている。
それが何なのかは、まだ分からない。
処置幕の中でも、器具が一斉に鳴っている。
「また崩れるのか!」
誰かが叫ぶ。
「治療を止めるな!」
バルガスの声が救護所を通った。
「患者だけ見ろ! 外のやつらが確認中だ!」
治療兵たちは一度だけ奈落を見た。
それでも、手を止めなかった。
白夜へ意識を伸ばす。
接続の向こうでも、白夜は同じ振動を捉えていた。
頭部を奈落の方向へ向けさせる。
深い側から来ている。
そして、振動は少しずつ強くなっていた。
身体が先に動こうとした。
正体を確かめる。
脅威なら白夜を動かす。
救護所へ近づく前に止める。
そこまで考えて、足が止まった。
また、一人で決めようとしていた。
何がいるのかも分からない。
何をしようとしているのかも見ていない。
それなのに私は、もう止める方法を考えている。
一人で見れば、私はきっと答えを出せる。
救護所へ到達するまでの時間。
白夜の残存機能。
予想される被害。
守れる人数。
それらを比べて、一番多く命を残せる命令を選べる。
その正しさから何が抜け落ちているのかも、分からないまま。
救護所の外へ出る。
レオンは、すでに奈落側へ出ていた。
動ける兵士を二人連れ、崩壊の兆候がないか確かめている。
一人は灯りを持ち、もう一人は救護所までの距離を歩幅で測っていた。
私より先に動いていた。
レオンが顔を上げる。
「エルセリア。何が来るか分かるか?」
「まだ分からない」
答えると、レオンが私の顔を見た。
「じゃあ、何だ。その顔」
奈落の方を見る。
見れば、私はまた答えを出せる。
正しい命令を選べる。
その中から何が消えるのかも分からないまま。
「レオン」
「何だ」
「一緒に見てほしい」
レオンが黙る。
「奈落の下にいるものを?」
「それも」
水で洗ったはずの手を見る。
指の間には、まだ薄く血が残っていた。
「これから私が決めることを」
奈落の奥で、何かが響いた。
低い音が岩壁を伝い、遅れて地上へ届く。
「また、一人で正しいと決めるのが怖い」
レオンはすぐには答えなかった。
私の顔を見てから、奈落へ視線を移す。
「……分かった」
連れていた兵士へ向き直る。
「二人は崖から離れろ。避難可能な他の場所はバルガスに伝えてある。俺からの合図があったら可能な限り患者を連れてそこまで誘導しろ」
「了解!」
兵士たちが救護所へ戻っていく。
私はレオンと並び、奈落の縁へ近づいた。
縁へ近づくほど、振動は強くなる。
足の裏から入った重さが、脚の骨を通って胸まで上がってきた。
音も近づいている。
生き物の声にも、岩が割れる音にも聞こえた。
長く引き延ばされた音が奈落の内壁を巡り、何度も重なって地上まで上がってくる。
奈落を覗き込む。
暗視を使っても、底は見えない。
砂埃が暗闇の中をゆっくりと落ちていた。
遠くで、岩壁が動いた。
最初は崩落したのだと思った。
けれど、石は下へ落ちなかった。
岩壁だと思っていた黒い面が、上へずれた。
壁との間に、細い隙間が開く。
その奥には、さらに深い闇があった。
動いているのは壁ではない。
巨大な何かが、奈落の内壁へ身体を擦りつけながら上昇しているのだ。
その周囲にも、無数の影が浮かんでいる。
砕けた岩だと思った。
けれど、落ちていかない。
黒い面が突然横へ振れた。
次の瞬間、岩壁が砕ける。
建物ほどもある岩塊が、いくつも奈落へ落ちていった。
浮かんでいた影の群れが、一斉に散る。
左右へ大きな翼鰭を広げ、空中を泳ぐ魚。
半透明の傘を脈打たせ、長い触手を引くクラゲ。
腕ほどの小さなものもいれば、馬車より大きなものもいる。
翼鰭を持つ魚の群れには、家屋ほどもある個体が混じっていた。
クラゲの中にも、白夜の頭部に近い大きさのものが漂っている。
数え切れない影が、最も大きな影の周囲を埋めていた。
巨体が動きを止めると、散った魔物たちは再び集まっていく。
翼鰭を広げ、巨体に沿って上昇気流を泳ぐ。
クラゲの触手の間では、青白い放電が走っていた。
一体から別の一体へ。
さらに奥の個体へ。
光が群れの中を渡る。
一瞬だけ、暗闇の中に巨大な輪郭が浮かび上がった。
光が届いた先にも、まだ身体が続いていた。
レオンが息を呑んだ。
「……嘘だろ」
奈落の縁から、半歩下がる。
「マジかよ。早すぎる」
声に、隠し切れない焦りが混じっていた。
私も、その輪郭を知っていた。
深淵航鯨。
深淵天竜を呑み込み、奈落の奥へ消えていた個体。
食べてから、もうしばらく経っている。
それでも、こんなに早く地上近くまで上がってくるとは思っていなかった。
航鯨が、再び岩壁へ巨体を打ちつけた。
表皮が裂け、黒い血が空中へ散る。
衝撃が遅れて地上へ届いた。
足元が跳ねる。
奈落の中を押し上げられた空気が、崖の縁を越えて吹きつけた。
土と小石が舞い上がる。
救護所の布幕が大きく膨らみ、張り綱が軋んだ。
背後で、白夜が両脚を開いた。
地面へ姿勢を固定し、奈落から来る風へ身体を向ける。後ろの救護所をかばう形だ。
それでも、奈落の中を上がってくるものと比べれば、白夜は巨大兵装には見えなかった。
地面へ打ち込まれた一本の杭にしか見えない。
航鯨へ意識を伸ばす。
《血液感知》
膨大な血が流れていた。
大きすぎて、一つの身体の循環として捉え切れない。
いくつもの巨大な流れが重なり、巨体の奥へ続いている。
航鯨の周囲にも、無数の小さな脈動が浮かんでいた。
数十ではない。
数百でも足りない。
大きさも、血の性質も違う魔物たちが、航鯨から離れずに上昇している。
先導しているようには見えない。
追い立てているようにも見えなかった。
ただ、航鯨の動きに合わせて同じ方向へ進んでいる。
航鯨自身の血流の一部には、異なる性質が混じっていた。
知っている血だった。
私の身体にもある。
白夜の外部構造にも使った。
深淵天竜の血。
航鯨自身の血へ、天竜の性質が混じっている。
完全に分かれてはいない。
けれど、同じものにもなっていなかった。
巨体の表面には、いくつもの黒い斑点があった。
航鯨本来の皮膚とは違う。
暗視を使っても、そこだけは何も返さない。
黒い部分へ触れた光が、そのまま沈んでいるように見えた。
斑点の内側には、血が流れていない。
傷ついて止まった血流とは違う。
周囲の血が、黒い部分を避けるように向きを変えていた。
斑点が収縮する。
直後、航鯨の筋肉が、本来身体を動かそうとしていた方向とは逆へ痙攣した。
巨体が岩壁へ叩きつけられる。
――侵食されている?
断定はできない。
けれど、あの黒いものは航鯨の意思では動いていなかった。
黒い斑点が脈打つと、周囲にいた魔物たちが一斉に距離を取った。
クラゲの傘が青白く発光する。
翼鰭を持つ魚が身を翻し、航鯨の表皮から離れた。
航鯨が身体を振る。
黒い斑点を岩壁へ擦りつけた。
表皮が剝がれ、血が流れる。
それでも止めない。
深部から、また振動が届いた。
黒い斑点が一斉に脈打つ。
航鯨の巨体が大きくのけぞった。
頭部が岩壁へ激突する。
岩盤が裂けた。
救護所のある縁とは反対側で、長い亀裂が走る。
亀裂の向こうから、黒い頭部がせり上がった。
航鯨が地表の高さを越える。
奈落から押し出された空気が地上を薙いだ。
土と砂が舞い上がる。
私は地面へ片手をついた。
レオンも身体を低くする。
救護所では、バルガスたちが担架を押さえていた。
布幕が大きく膨らむ。
支柱がしなる。
それでも倒れない。
治療兵たちも患者から離れなかった。
航鯨の頭部が、地上の空気へ現れた。
それだけで、空の一部が塞がる。
見えているのは、まだ身体の前方だけだった。
残りの巨体は奈落の暗闇へ続いている。
航鯨が頭を振った。
反対側の奈落縁へ触れた側面が、岩盤を押し潰す。
砕ける石の音が、広い範囲から重なった。
随伴する魔物の群れが、巨体を避けて地上近くまで浮かび上がる。
翼鰭を持つ魚が空を埋めた。
半透明のクラゲが、救護所より高い場所を漂っている。
それでも、どの魔物も救護所を見ていなかった。
白夜も。
人間たちも。
興味を示さない。
航鯨から大きく離れず、その周囲を旋回している。
白夜を前へ出す。
救護所から距離を取らせる。
地上へ出る前に止める。
いくつもの命令が頭へ浮かんだ。
私は、そのどれも口にしなかった。
隣にいるレオンを見る。
「レオンには、どう見える?」
レオンは奈落の縁へ片膝をついたまま、航鯨を見ていた。
「暴れてる」
「私たちを攻撃しようとしてる?」
「違う」
答えは早かった。
「どうして?」
「こっちを見てない」
航鯨の頭部を見る。
私は血流と黒い斑点ばかりを追い、眼を見ていなかった。
航鯨の片側の眼が、地上へ出ている。
その眼は救護所を見ていなかった。
白夜も。
私たちも見ていない。
地上の空気へ頭部を出しながら、自分が上がってきた奈落の底を見ていた。
「それに、壁を壊そうとしてるんじゃない」
レオンが航鯨の側面を指す。
「黒いところをぶつけてる」
斑点が再び収縮した。
巨体が痙攣する。
航鯨の頭部が岩壁へ打ちつけられた。
大地が揺れる。
黒い血が、砕けた岩の間へ流れ込んでいった。
航鯨が身体を反らした。
巨体の奥で、膨大な血が頭部へ集まっていく。
奈落の縁を覆っていた砂埃が、下へ引かれた。
救護所の布幕が奈落側へ傾く。
翼鰭を持つ魚の群れが、航鯨から一斉に離れる。
クラゲたちも傘を縮め、触手を巨体へ沿わせた。
音はまだしていない。
それなのに、胸の奥が震え始めた。
白夜の装甲が低く鳴る。
来る。
白夜を救護所の前へ進ませる。
《血統顕装・深淵天竜》
すべてを作る必要はない。
翼はいらない。
鉤爪もいらない。
受け止める部分だけ。
白夜内部の戦闘循環液と修復用生体媒体を、前面へ集める。
白い装甲の隙間から、赤黒い筋束が伸びた。
頭部と首の前面。
胸部。
左肩から左前腕。
両脚の膝から脛、足首。
筋束が白い装甲へ絡み、その上へ厚い竜鱗が重なっていく。
背面には形成しない。
翼も出さない。
限られた生体媒体を、航鯨へ向いた側だけへ集中させる。
竜血装甲をまとった白夜が、救護所と奈落の間へ立った。
両脚を開く。
腰を落とす。
残された左腕を岩盤へついた。
航鯨の口が開く。
白夜の全身が収まるほど巨大な暗闇が、その奥に生まれた。
次の瞬間。
世界が、吠えた。
航鯨の大咆哮が、奈落から噴き上がった。
声より先に、空気の塊が白夜へ衝突する。
白夜の巨体が沈んだ。
両脚の下で岩盤が砕ける。
左腕をついた場所から短い亀裂が走った。
それでも倒れない。
白夜へぶつかった圧力が左右へ分かれ、救護所の両側を抜けていく。
布幕が激しくはためく。
支柱がしなる。
器具が台から落ち、水場の器から水がこぼれた。
何人かが地面へ膝をつく。
バルガスたちは担架へ覆いかぶさり、治療兵は患者の身体を押さえていた。
咆哮が奈落の内壁へぶつかる。
岩壁が音を返す。
低い振動が、空気と岩盤の両方から押し寄せた。
息が浅くなる。
歯が鳴る。
骨の内側まで震える。
航鯨の周囲にいた魔物たちも吹き飛ばされた。
翼鰭を持つ魚が、木の葉のように散る。
馬車ほどの個体まで、翼鰭を折り畳んで遠くへ押し流された。
クラゲの傘が潰れ、触手の間を青白い放電が走る。
光が一体から別の一体へ渡り、暗闇の中へ巨大な輪を作った。
その光の向こうにも、航鯨の身体は続いている。
白夜の竜血装甲にも、振動が入り込んだ。
胸部を覆う鱗が一斉に揺れる。
鱗と白い装甲をつないでいる赤黒い筋束が、咆哮へ追いつけなくなった。
胸部の鱗がわずかに浮く。
左肩の継ぎ目から、丸い血の珠が押し出された。
一つ。
二つ。
増えていく。
鱗の下を巡る血と、白夜内部の戦闘循環液。
二つの揺れがずれ始めていた。
このままでは剝がれる。
「保って」
魔力を送る。
浮いた鱗を、筋束ごと白い装甲へ引き戻す。
流れを合わせる。
血液を同じ方向へ巡らせる。
左肩から離れた血珠が、咆哮の風へさらわれた。
赤い霧となって消える。
胸部の鱗も数枚浮いた。
その下から、白い装甲が細く見える。
それでも、大半は残った。
白夜は倒れない。
救護所の幕も残っている。
担架も倒れていない。
やがて、咆哮が途切れた。
音が消えたのではない。
耳が、まだ戻っていなかった。
岩盤の振動だけが、足の裏に残っている。
白夜の胸部から、遅れて何滴もの血が落ちた。
左肩と胸部の竜血装甲が部分的に浮き、鱗の間から本来の白い装甲が露出している。
救護所では、兵士がしなった支柱を押し戻していた。
治療兵たちは患者の呼吸を確認し、ずれた毛布を掛け直している。
救護は止まっていなかった。
航鯨の周囲で、散らされた魔物たちが再び集まり始める。
翼鰭を持つ魚が巨体の周囲を旋回する。
クラゲたちが潰れた傘を広げ、青白い光を取り戻していく。
航鯨の片側の眼が開いた。
その眼は白夜を見なかった。
救護所も。
私たちも見ていなかった。
地上へ頭部を現したまま、奈落の底を見下ろしている。
深部が、もう一度脈打った。
表皮へ食い込んだ黒い斑点が、一斉に収縮する。
航鯨の巨体が震えた。
周囲の魔物たちも、同時に身を翻す。
大きな眼は、まだ底を見ていた。
航鯨だけではない。
数え切れない生命が、地上を見ないまま、奈落から上がってきていた。




