第九話《取捨選択》
区画の落下は一時的に止まったが、まだ誰も救えていない。
町の外縁部が、地盤ごと斜面へ落ちてきている。
石造りの建物が六棟。
それらをつなぐ道路と、小さな広場。
建物の基礎を載せた地盤まで、すべてが一つの塊となっていた。
区画の上半分は、まだ崩れた斜面に引っかかっている。
下半分は地面を失い、白夜の前へ大きく張り出していた。
奈落の縁に沿って続く地上道も、その区画によって塞がれている。
区画の向こう側には、まだ道が続いている。
けれど今は、人も担架も通れない。
白夜は、天杭四番によって固定された岩盤へ両脚を食い込ませていた。
斜面へ向けて上体を倒し、残された左腕を地盤の先端へ押し当てている。
《血統顕装・深淵天竜》によって生じた赤黒い翼は、二枚。
下側の一対は、地面から外れた地盤の下へ差し込まれていた。
残る一対は、白夜の背後にある岩壁へ押しつけられ、機体が地盤と一緒に倒れないよう支えている。
白夜の背後には、天杭四番がある。
そこから搬送路を下れば、臨時救護所へ着く。
白夜が支えを失えば、町の一画は白夜を押し流すだろう。
天杭四番も搬送路も、その先にある救護所も潰れる。それだけは止めなければいけなかった。
接続の向こうで、翼の付け根が軋んだ。
生体組織が裂ける。
白夜に《血脈再生》を流す。
裂けた筋肉をつなぎ、潰れかけた血管を修復する。
翼骨の亀裂も、生きた組織が残っている部分から塞いでいく。
けれど、流れ落ちた生体媒体までは戻らない。
傷を閉じることはできる。
失われた量を増やすことはできない。
白夜は治っているのではない。
壊れるまでの時間を、少しずつ引き延ばしているだけだった。
「中に何人いる!」
バルガスの声が飛んだ。
傾いた建物へ意識を向ける。
血の流れを探る。
壁の向こう。
瓦礫の下。
崩れた床の隙間。
細かな傷までは分からない。
それでも、生きて動いている血と、すでに止まった血は区別できる。
複数の血流が返ってきた。
白夜の肩より高い建物にもいる。
さらに上、白夜の頭を越えた場所にも残っている。
「まだ生きてる人がいる。数はよく分からない」
「入れる場所はあるのか?」
工兵たちは地盤の断面を見上げていた。
建物をつないでいた道路は折れている。
階段も途中で崩れていた。
白夜の足元から道を作っていたら、先に白夜が保たなくなる。
全員が同じ場所から出る必要はない。
私が、それぞれの建物へ行けばいい。
白夜へ流していた《血脈再生》を止めた。
今つないだ組織は、すぐには裂けない。
背中から翼を生やす。
バルガスが私を見る。
「飛べるのか、流石だな。その状態で何人運べる?」
「動ける人なら二人。重傷なら一人ってとこ」
バルガスはすぐに振り返った。
「天杭四番の周りを空けろ! 担架と治療兵を上へ回せ!」
搬送兵たちが走る。
天杭四番の固定岩盤へ担架が並べられた。
私が運んだ人間を、そこで救護所の人間へ渡す。
その先は、搬送兵と治療兵に託す。
「奈落姫が連れてきたら、こっちで受け取る。頼んだぞ」
「うん」
バルガスの指揮でここまでスムーズに救助の流れが完成されていた。
まず区画に向かうために《飛行》を起動した。天竜の血で汚れていた服が裂け、黒い翼が生える。
白夜の脚を越え、最も低い位置にある建物へ向かう。
三階建てだったらしい建物は、地盤と一緒に大きく傾いていた。
一階は瓦礫に埋まり、三階の外壁が崩れて室内をさらしている。
崩れた壁を越え、そのまま部屋へ降りた。
元は床だった場所が斜面になっていた。
家具と石材が、下側の壁へ積み重なっている。
生きた血流は二つ。止まった血が一つ。血液感知で反応があった。
一人は傾いた建物の中でどうにか立っている女。
一人は、倒れた棚に脚を挟まれた男。
もう一人は、崩れた梁の下で動いていなかった。
女が私を見た。
「もしかして、救助…?」
「うん」
先に梁の下へ近づく。
男の首へ触れる。
心拍はない。
呼吸もない。
梁の周囲には、まだ新しい岩粉が積もっていた。
女が私の顔を見る。
「夫はどうなったの?」
「死んでる」
女の唇が動いた。
声は出なかった。
棚に脚を挟まれている男へ移る。
呼吸はある。
脚の骨が折れ、裂けた血管から血を失っていた。
胸と腹に致命傷はない。
けれど、このまま抱えて飛べば出血が続く。
「この人を先に出す」
棚を持ち上げた。
男の脚を引き抜く。
傷口へ手を当てる。
《血脈再生》
折れた骨をつなぐ。
裂けた血管と筋肉を修復する。
傷は閉じた。
失った血は戻らない。
男を右腕で抱え上げる。
女へ左腕を伸ばした。
「あなたも来て」
声を掛けたが、それでも女は梁の下に残された夫を見ていた。
「夫も運んで」
こうしている間にも白夜の翼骨が軋んだ音が聞こえる。
接続の向こうで、治したばかりの組織へ新しい負荷がかかるようだった。
「今は、生きてる人を運ぶ」
「あとで戻ってくれる?」
答えられなかった。
戻ることはできる。
けれど、遺体を運ぶ時間まで白夜が保つとは言えない。それに救護所にはまだ治療が必要な生きている患者が沢山いる。
「…今は来て」
女が私の腕につかまる。
二人を抱え、崩れた外壁から飛び出す。
下では、白夜が町の一画を支えている。
左腕は地盤へ押し当てられたまま。
張り出した地盤の下では、一対の翼が重さを受けている。
白夜の背後へ回り、天杭四番の固定岩盤へ降りた。
搬送兵が駆け寄る。
男を担架へ移す。
女を地面へ下ろす。
治療兵が男の顔色と呼吸を確認した。
「出血は止まっています!」
「血が足りない。赤の所へ運んで」
「分かりました!」
男を載せた担架が、救護所へ続く搬送路を下っていく。
女は動かなかった。
傾いた建物を見上げている。
私は白夜へ意識を戻した。
止めていた《血脈再生》を、接続の向こうへ流す。
建物へ入っていた間に、翼の付け根の裂け目が広がっていた。
筋肉をつなぐ。
血管を修復する。
また時間を作る。
翼を開いた。
その後も建物を回った。
四つの生きた血流と、一つの止まった血が残る建物。
崩れた壁へしがみつく親子。
傾いた階段から動けなくなった三人。
道路の下に埋まった貯蔵室。
歩ける者なら二人ずつ。
重傷者なら一人。
抱えて飛ぶことに耐えられない傷だけを、その場で閉じた。
残る治療は、天杭四番で待つ救護所の人間へ託す。
戻るたびに白夜を治した。
けれど、修復した場所とは別の場所が裂けていく。
翼を構成する生体媒体は、少しずつ減り続けていた。
患者を載せた担架が搬送路を下る。
空になった担架が上がってくる。
天杭四番で治療兵が容体を確認し、重傷者から救護所へ送る。
処置幕を中心に作られた搬送の流れが、白夜の足元まで伸びていた。
私が患者を治している間にも、救護所は止まらない。
白夜への治癒を止めている間は、翼と左肩の損傷が広がる。
白夜を治している間は、建物の人間を運べない。
魔力は足りていた。
足りないのは時間だった。
次に誰を運ぶべきか。
先に傷を閉じる必要があるか。
救護所へ託しても保つか。
人間の顔より先に、血流と傷の位置を捉えてしまう。
次の建物へ降りた時、奥の部屋から声がした。
「子どもを先に!」
崩れた壁を越える。
子どもは床へ座って泣いていた。
呼吸は速い。
身体に大きな傷はない。
その隣で、男が腹部を押さえて倒れていた。
指の隙間から血が流れている。
腹部の血流が弱くなっていた。このままでは5分と持たないだろう。
「この人を先に運ぶ」
「子どもを置いていくのか!」
「この子は待てる」
「本当に戻るんだな!」
男の腹部へ手を当てる。
血管が裂けている。
このままでは、次の往復までもたない。
《血脈再生》
裂けた血管をつなぐ。
出血を止める。
飛行に耐えられるところまで、傷ついた組織を修復する。
「その子を、ここから動かさないで」
残っていた女へ伝える。
男を抱えて飛ぶ。
天杭四番へ運ぶ。
救護所の人間へ託す。
白夜を治す。
すぐに同じ部屋へ戻った。
子どもは、言われた場所にいた。
女と子どもを一人ずつ抱え、天杭四番へ降ろす。
治療兵が子どもを受け取る。
心拍は乱れているが、傷はない。
間に合った。
その時、白夜の左肩が沈んだ。
町の一画が、斜面をわずかに滑る。
建物の中で、家具と石材が崩れる音が重なった。
天杭四番の地面まで揺れた。
何も抱えずに白夜へ戻る。
《血脈再生》
翼の付け根へ治癒を集中する。
裂けた筋肉をつなぐ。
翼骨の亀裂を塞ぐ。
治した端から、別の箇所が裂けていく。
地盤の下へ差し込まれた翼の一枚が、展開した時よりも明らかに薄くなっていた。
「あと何人だ!」
レオンが叫ぶ。
血の流れを探る。
まだ調べていない最も高い建物から、二つの血流が返ってきた。
それ以外の場所にも、弱い流れが一つある。
「三人」
「空の担架を上へ!」
レオンが搬送路へ叫ぶ。
私は再び飛び立った。
最後の建物は、白夜の頭より高い場所に残っていた。
屋根が崩れ、最上階の部屋が外へ開いている。
中へ降りる。
生きているのは二人。
老人と、若い女だった。
老人は胸を押さえている。
胸へ触れた。
肋骨が折れ、肺を傷つけていた。
このまま抱えて飛べば、途中で呼吸が止まる。
《血脈再生》
肺から漏れている空気を止める。
傷ついた血管を閉じる。
骨は、肺を傷つけない位置へ戻すだけにした。
完全に治す時間はない。
老人を右腕で抱える。
女へ左腕を伸ばした。
「つかまって」
二人を抱え、崩れた屋根から飛び出す。
下では、赤黒い二対の翼を広げた白夜が、町の一画を止めていた。
その背後を、患者を載せた担架が救護所へ向かって下っていく。
天杭四番にいたレオンが、こちらを見上げた。
斜面を塞ぐ、大きな翼。
その脇を運ばれていく人間。
二人を抱え、そこへ降りていく私。
レオンの動きが、一瞬だけ止まった。
何も言わなかった。
私が二人を降ろすと、空になった担架を引き寄せる。
「あと一人だ! 止まるな!」
残る血流は、崩れた道路の下にあった。
再び飛ぶ。
道路の亀裂から地下の物置へ入る。
男が一人、倒れた石材の下に挟まれていた。
意識はない。
血流は弱い。
石材をどかせば、圧迫されていた血管から一気に出血する。
指先を切った。
流れ出した血を、数本の糸へ変える。
石材の隙間から男の傷へ回し、裂けた血管を外側から縛る。
血の流れが弱まったことを確かめる。
石材を持ち上げた。
男の身体を引き出す。
傷口へ手を当てる。
《血脈再生》
裂けた血管を閉じる。
潰れた内臓のうち、出血している部分だけを修復する。
男を一人で抱え、外へ飛び出した。
天杭四番へ降りる。
治療兵が担架を押してくる。
「内臓が潰れてる。出血は止めた」
「引き継ぎます!」
男が搬送路を下っていく。
もう一度飛び上がった。
町の一画を低く回る。
血の流れを探す。
傾いた建物。
崩れた道路。
広場の下。
瓦礫に埋まった部屋。
天杭四番へ運んだ人間以外に、動いている血はない。
地盤の外周を一周する。
反応はなかった。
生きている人間は、全員こちら側へ運んだ。
死者は残っている。
最初の建物で梁の下にいた男も。
崩れた柱に押し潰された者も。
血が止まったまま、瓦礫の中に残された身体も。
天杭四番へ戻った。
「生きてる人は、もういない」
バルガスが周囲へ叫ぶ。
「全員、白夜の後ろへ下がれ!」
区画へ近づいていた兵士と工兵が戻ってくる。
天杭四番の固定岩盤を通り、白夜の背後へ退避する。
最後の一人が戻ったことを確認した。
白夜の背後には、天杭四番と臨時救護所がある。
片側には岩壁。
反対側には、奈落へ続く大きな崖口が開いている。
今のまま白夜がすべての支えを外せば、町の一画は正面へ滑る。
天杭四番と救護所を巻き込む。
崖口へ近い側から傾けなければならない。
「白夜」
接続の向こうで、命令を待つ反応が返る。
「救護所には落とさないで」
《命令受諾》
白夜は左腕を地盤へ押し当てたままにした。
正面へ滑ろうとする動きを止め続ける。
地盤の下へ差し込まれた一対の翼。
そのうち、崖口に近い一枚がゆっくりと畳まれる。
支えを失った地盤の端が沈んだ。
上に残された建物が傾く。
割れた窓から、家具と石材が落ちていく。
白夜は左腕と、残る一枚の翼で地盤を支え続けた。
沈んだ側が、斜面の端から外れる。
地盤全体が、崖口へ向かって回り始めた。
岩壁へ突っ張った一対の翼が白夜の姿勢を支え、残された左腕が地盤を押さえ続けていた。
地盤の傾きが戻らなくなる。
重さの中心が、崖の外へ移った。
「残りも抜いて」
地盤の下に残っていた一枚の翼が畳まれる。
町の一画が崖口へ倒れ込んだ。
白夜が左腕を引く。
六棟の建物。
道路。
小さな広場。
残された死者。
すべてが地盤ごと奈落へ落ちていく。
建物が崖壁へぶつかる。
地盤が割れる。
石材と金属が砕ける音が、暗闇の中へ遠ざかっていった。
天杭四番は残っている。
搬送路も残っている。
斜面下の救護所も潰れていない。
白夜は、固定岩盤の上に立っていた。
白夜の翼を閉じさせる。
接続を通して《血脈再生》を流した。
残された筋肉と血管を修復する。
失われた翼膜と生体媒体は戻らない。
赤黒い翼は、展開した時よりも小さくなっていた。
救護所へ戻る。
処置幕の前には、救出された人間たちが集まっていた。
毛布を巻かれた者。
担架に横たわる者。
自分の足で立っている者。
治療兵たちが、その間を走り回っている。
最初の建物から救い出した女もいた。
夫を梁の下へ残した女だった。
私を見ると、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
「夫が、まだあそこにいた」
「うん」
「落ちてくる前は、生きてたの」
女の声が震えている。
「ずっと、私と話してた」
女が自分の両腕を抱く。
「白い大きなものが受け止めた時、梁が落ちた」
白夜が止めなければ、町の一画は救護所まで落ちていた。
女も、棚に挟まれていた男も、ほかの人間も助からなかった。
それでも、白夜が受け止めた衝撃で死んだ人間がいる。
女の夫も、その一人だった。
「身体は残ってた」
女が奈落を見る。
町の一画は、もう見えない。
「どうして、夫まで落としたの」
白夜は限界だった。
救護所と搬送路を守らなければならなかった。
生きている人間は全員運び出した。
救護所のスペースは限界を超えている。治療が必要な患者も沢山いる。
遺体を運んでいる間に白夜が壊れれば、救護所にいる人間まで失われた。
理由はあった。
間違った判断ではなかったと私は思っていた。
けれど、女が求めているのは理由ではなかった。
「ごめんなさい」
女が私を見る。
「謝ってほしいんじゃない」
返せる言葉がなかった。
町の一画が消えた場所から、声が上がった。
落下区画に塞がれていた地上道が、奈落の縁に沿って再びつながっている。
道の向こうから、人間が走ってきていた。
その後ろには、担架の列がある。
一台ではない。
何台も続いていた。
区画が道を塞いでいる間、向こう側で待つしかなかった負傷者たちだった。
先頭の兵士が叫ぶ。
「救護所は残っているか!」
レオンが振り返った。
天杭四番を見る。
白夜を見る。
斜面下に並ぶ処置幕を見る。
「残ってる!」
搬送路へ走る。
「赤から通せ! 歩ける者は道を空けろ!」
バルガスも声を上げた。
「空いた担架を上へ! 処置台を空けろ!」
救護所の人間たちが動き始める。
さっきまで区画から人間を運んでいた担架が、今度は地上道から来た負傷者を受け取るために上がっていく。
治療兵が赤い帯を持って走る。
女は、まだ私の前に立っていた。
担架の列から、弱い血の流れがいくつも近づいてくる。
その一つが、大きく乱れた。
「奈落姫!」
治療兵が私を呼ぶ。
女を見る。
謝っても、許されない。
次の命を治しても、女の夫は戻らない。
それでも、近づいてくる心拍を見捨てることはできなかった。
「ごめんなさい」
もう一度だけ言った。
女の横を通り、搬送路へ向かう。
最初の担架が、天杭四番へ運び込まれた。
患者の胸へ手を当てる。
呼吸が弱い。
腹部の奥で、血が流れている。
背後では、白夜が傷ついた翼を閉じて立っていた。
斜面下には、潰されずに残った救護所がある。
その間を、新しい担架が次々に運ばれてきた。
救出は終わった。
それでも救護はまだ終わらない。




