第八話《落下区画》
裂けていた血管の両端がつながった。
血糸を少し緩める。
修復した血管の内側を、血が流れている。
再出血はない。
残していた糸を解除すると、治療兵がすぐに患者のそばへ入った。
「こちらで引き継ぎます!」
失った血は戻っていない。
身体も冷えている。
それでも、腹部から命が漏れ続ける状態ではなくなった。
《治療完了を確認》
《治療報酬――SP+2》
《保有SP――10》
表示を閉じる。
処置幕の外では、次の担架が待っていた。
治療兵が外傷を診る。
搬送兵が赤い帯を確認する。
歩ける人間が、空になった担架を担いで搬送路へ戻っていく。
私が一人を治している間にも、救護所は止まらない。
その時、白夜から衝撃が伝わった。
浅くつないだ感覚の向こうで、機体がわずかに揺れる。
白夜自身の損傷ではなかった。
天杭四番によって保たれている搬送路の先から、岩盤を通して振動が届いている。
一度。
短い間を置いて、もう一度。
処置幕を支える柱が軋んだ。
吊り下げられた灯りが揺れ、器具を載せた台から金属片が落ちる。
治療兵たちが天井を見上げた。
「また崩れるのか?」
違う。
落石なら、衝撃は散る。
今の振動は、同じ方向から少しずつ近づいてきていた。
岩が砕ける音に、木材と金属が引き裂かれる音が混じっている。
大きな何かが、岩盤の上を滑っている。
「中央を空けろ!」
処置幕の外から、レオンの声がした。
「搬送路の正面に立つな!」
バルガスが振り返る。
「何が来る!」
「分からない!」
レオンは搬送路の先を見たまま叫んだ。
「でも、そこにいたら巻き込まれる!」
バルガスが迷ったのは一瞬だった。
「担架を壁側へ寄せろ! 処置中の患者はそのまま守れ!」
人間たちが動く。
治療を終えた患者が壁際へ運ばれる。
空になった担架が積み上げられ、搬送路の正面が空けられた。
処置台の患者は動かせない。
治療兵と補助兵が周囲へ集まり、柱と器具を押さえた。
私は処置幕を出た。
救護所は、崩落した第二階層の斜面下に残った岩棚へ設けられている。
背後には奈落へ続く崖があり、左右も崩れた岩壁に挟まれていた。
上方から救護所へ降りるには、斜面の内側に残った細い搬送路を通るしかない。
天杭四番は、その搬送路が救護所へ降りてくる直前の岩盤へ打ち込まれている。
周囲の崩落が続いても、杭の固定範囲だけは斜面へ残っていた。
白夜は救護所より一段高い、その固定範囲に立っている。
白夜の後ろから搬送路を下れば、すぐに処置幕が並ぶ岩棚へ着く。
反対に、白夜の前から斜面を見上げれば、搬送路は崩れた岩壁の間を縫いながら上層側へ続いていた。
失われた右腕は戻っていない。
背部には、損傷した翼を補う赤黒い仮設構造が畳まれている。
白夜へ送っている魔力は途切れていない。
浅い接続も残っている。
振動は、白夜の足元から搬送路を下り、救護所まで伝わってきていた。
次の衝撃が来る。
白夜よりさらに上。
搬送路の続く先で、斜面を塞いでいた岩壁が内側から膨らんだ。
亀裂が走り、灰色の粉塵が噴き出す。
岩壁の一部が崩れ、その奥にあった上層側の斜面が露出した。
そこを、巨大な構造物が滑り落ちてきていた。
石造りの外壁。
折れた柱。
ひしゃげた金属の扉。
複数の部屋と、その床を支えていた岩盤が一つの塊になっている。
上方にあった居住区画の一部が、周囲の地盤ごと斜面から剥がれていた。
元は水平だった床が大きく傾いている。
区画は外壁の一面を下にして、斜面を削りながら白夜へ向かっていた。
その進路は、上層から白夜の立つ固定範囲を通り、さらに下段の救護所へ続いている。
搬送路の内側には岩壁がある。
外側には奈落が開いている。
巨大な区画が通れる余地はなかった。
外壁の亀裂から、人間の腕が伸びる。
「助けてくれ!」
声が重なった。
一人ではない。
傾いた部屋の中に、まだ多くの人間が残っている。
区画の底が斜面から突き出していた岩へ衝突した。
石材が砕け、区画全体が一度浮き上がる。
下側に引っかかっていた岩塊が外れた。
区画が再び斜面へ落ち、滑る速度が上がる。
このまま進めば、最初に白夜へ衝突する。
白夜が押し流されれば、天杭四番の固定範囲も搬送路も区画の下へ消える。
その先にあるのは、斜面下の救護所だった。
処置幕も、治療中の患者も、区画と瓦礫に押し潰される。
奈落側へ押し出せば、救護所だけは守れる。
けれど、区画の中にいる人間も、そのまま奈落へ落ちる。
救護所へ通すこともできない。
奈落へ逃がすこともできない。
白夜のいる場所で止めるしかなかった。
白夜へ流す魔力を強めた。
受け取れる上限まで送っても、私の中にはまだ魔力が溢れている。
「白夜」
接続の向こうで、白夜が命令を待つ。
「落とさないで」
《命令受諾》
白夜は天杭四番の固定範囲を離れなかった。
杭によって固定された岩盤を足場にし、両脚を深く沈める。
残された左腕を、滑ってくる区画へ向けた。
白夜の手が外壁へ触れる。
衝撃が弾けた。
空気が押し返され、粉塵が救護所まで吹きつける。
石材と金属が同時に潰れた。
白夜の両脚が、岩盤を削りながら後退する。
それでも、天杭四番によって固定された範囲からは外れない。
落下区画の速度が落ちる。
完全には止まらなかった。
白夜の左腕が外壁へめり込む。
力を受けた壁が内側へへこんだ。
その奥から悲鳴が上がる。
白夜が区画を止めようとするほど、中の人間が押し潰される。
「そこには人がいる!」
外壁の亀裂へ血糸を伸ばした。
暗い内部へ糸を分ける。
流れ出た血。
露出した皮膚。
折れた木材を握る指先。
触れた場所から、複数の心拍が返ってくる。
左上に三人。
中央の壁際に五人。
下側には、さらに多くの血流が重なっていた。
白夜の左手が押している場所にも、一人いる。
胸部を壁へ挟まれ、呼吸が弱くなっていた。
「白夜、手を少し下へ」
左手がずれる。
「左上には力をかけないで。中央下から支えて」
白夜が肩を入れた。
腕だけで受けていた力を、胴体へ逃がす。
押し潰されかけていた人間の胸が広がり、呼吸が戻った。
代わりに、区画の下側が沈む。
別の場所で心拍が乱れた。
「左脚側へ力を逃がして。下を押さえて」
白夜が姿勢を変える。
左脚を深く岩盤へ食い込ませ、区画の下側へ肩を入れた。
区画の滑る速度が、また少し落ちる。
それでも止まらない。
白夜の足元で岩盤が削れ続ける。
「支柱を持ってこい!」
バルガスの指示で、工兵と兵士が動いた。
太い木材。
金属柱。
瓦礫を組み合わせた仮設の支え。
人間たちは白夜の横を通り、区画の下へ差し込もうとする。
届かなかった。
区画の下側は斜面から大きく張り出し、奈落側へ垂れ下がっている。
支柱を立てられる場所まで持ち上げなければならない。
そのためには、白夜が今以上の力を出す必要がある。
白夜の左腕から、内部の損傷が伝わってきた。
装甲の内側で、生体組織が裂けている。
機械構造と駆動組織をつなぐ生体管路が潰れ、内部を巡る戦闘循環液が漏れていた。
白夜が力を加えるたび、裂け目が広がる。
「外壁を壊せ!」
工兵が叫ぶ。
「中の人間を先に出す!」
別の工兵が首を振った。
「開口部を作るまで保たない! 壁を一枚外したら重さがずれる!」
区画を軽くするには、人間を出す必要がある。
人間を出すには、区画を固定する必要がある。
固定するには、支柱を入れられる位置まで持ち上げなければならない。
今の白夜の身体では、工兵が外壁を開くまで支えきれない。
白夜の左腕が沈んだ。
外壁がさらにへこみ、内部から新しい悲鳴が上がる。
「何とかならないのか!」
兵士の声が飛ぶ。
答える前に、接続の向こうで白夜の生体構造が大きく裂けた。
左肘に近い部分から、力が抜ける。
白夜が膝をついた。
区画が再び動き始める。
「白夜!」
魔力を増やす。
流れは届いている。
魔力不足ではない。
壊れた身体が、その力を使えなくなっている。
私は白夜の足元へ走った。
白夜は左腕と肩で区画を支えたまま、膝を岩盤へ食い込ませている。
装甲の裂け目から、生体部分が露出していた。
戦闘循環液と赤黒い修復用生体媒体が、岩粉の上へ流れ落ちている。
そこへ手を当てた。
人間と同じではない。
けれど、生きている。
流れがある。
傷ついた場所も分かる。
《血脈再生》
魔力が白夜の内側へ沈んだ。
反応が返る。
裂けていた生体管路の縁が寄り合った。
潰れていた駆動組織が、生き残った部分から形を戻していく。
接続を伝える神経に似た組織も、途切れた場所からつながり始めた。
白夜の左手へ力が戻る。
沈みかけていた区画が、一度止まった。
修復できたのは、生きている部分だけだった。
砕けた装甲は戻らない。
壊れた機械部品も戻らない。
失われた右腕も、そのままだった。
流れ出した戦闘循環液や、機体から完全に失われた生体媒体も補充されていない。
《白夜・生体部の修復を確認》
《生体循環経路――再接続》
《血統同期機能――部分回復》
《血統顕装の再実行条件を部分的に達成》
《機体構造の欠損を確認》
《欠損部位の修復――不能》
《警告》
《現在の機体構造は、血統顕装後の負荷に適合していません》
《血統顕装後の構造維持は保証されません》
《使用者の人間性に対する追加侵食を予測》
《血統顕装・深淵天竜の再実行を非推奨》
区画の中で、一つの心拍が乱れた。
胸部を挟まれている人間ではない。
さらに奥。
腹部から出血している。
血糸で締めれば、少しは保たせられる。
けれど、外壁の向こうへ糸を残したまま、全員を待たせることはできない。
白夜の生体部分を治し続けても、欠けた身体のままでは区画を持ち上げきれない。
支柱は届かない。
工兵が外壁を開くまで、左腕は保たない。
張り出した部分を先に外せば、内部の重さが崩れ、生きている人間を押し潰す。
どの方法も、間に合わなかった。
「これだ」
近くまで来ていたレオンが、傾いた区画と白夜を見ていた。
「何が」
「前に見えた」
レオンは目を細める。
「大きな翼みたいなものが、何かを止めてた」
「何を止めてたの」
「分からなかった」
レオンが区画を見上げる。
「その脇を、人が運ばれてた。お前もいた」
レオンが見ていたのは、それだけだった。
何が落ち、翼のようなものが何を止めるのかまでは分かっていなかった。
それでも、この場所に私と白夜が必要になることだけは感じていた。
だから、ここへ呼んだ。
救護所を作らせ、天杭四番で搬送路を残した。
区画の中で、弱っていた心拍がさらに小さくなる。
システムが示した危険は、たぶん正しい。
白夜の構造が顕装に耐えられないことも。
もう一度使えば、私の中から人間性が失われることも。
『システムの言うことを信じるな』
レオンの言葉を思い出した。
警告が嘘だとは思わない。
危険がないとも思わない。
けれど、使わない方がいいと決めるのは、システムではなかった。
区画の内部へ血糸を広げる。
一つ。
三つ。
五つ。
さらに奥にも、いくつもの心拍がある。
今の白夜が支えられなくなれば、すべて落ちる。
白夜へ送り続けていた魔力を、血統接続のさらに奥へ流し込む。
警告の表示は消えなかった。
「私が決めた」
「血統顕装」
《血統顕装――実行》
《人間性――低下》
《外部血統構造――兵装領域へ展開》
《血統顕装・深淵天竜》
白夜の内部を巡る戦闘循環液と修復用生体媒体が、装甲の裂け目からあふれ出した。
そのすべてには、私が与えた血が情報核として混ざっている。
赤黒い媒体が機体の周囲へ広がり、深淵天竜の身体構造の一部を再現し始めた。
左腕の外側へ、太い筋肉が巻きつく。
損傷した関節を外側から束ね、砕けた装甲の上を黒い鱗が覆っていく。
その先端で、五本の鉤爪が形成された。
両脚にも竜血の筋肉が重なり、白夜の機体を天杭四番によって固定された岩盤へ押しつける。
背部の仮設構造が崩れた。
翼の形へ固定されていただけの媒体が分かれ、その内側で太い翼骨を作っていく。
骨格へ血管と筋肉が巻きつき、その間へ赤黒い翼膜が張られた。
残っていた翼にも、黒い鱗と竜血の筋肉が重なる。
翼の形へ固めただけの血ではない。
開くための筋肉と、魔力を運ぶ血管を持った器官が、白夜の背へ接続されていた。
胸部と露出した右肩にも黒い鱗が並び、壊れた外装の隙間を赤黒い筋肉が埋めていく。
それでも、失われた右腕は戻らなかった。
砕けた装甲も、壊れた機械構造も残っている。
傷を残したまま、深淵天竜の血統をまとっていた。
落下区画が動いた。
白夜の左腕を押し潰し、奈落側へ傾いていく。
竜血に覆われた左腕が、外壁を押し返した。
両脚を固定された岩盤へ沈める。
背部推進器の残存出力を、区画を押し返す方向へ集中させた。
左右の翼が開く。
飛ぶためではない。
片方の翼を半ば畳み、複数の翼骨を区画の下へ差し込んだ。
竜血の筋肉が翼骨同士を束ね、太い支持梁に近い形を作る。
翼膜が石材との隙間を埋め、重さが一か所へ集中するのを防いだ。
もう片方の翼は岩壁へ押しつけられ、白夜の機体が横へ倒れるのを支える。
区画の石材が、束ねられた翼骨へ食い込んだ。
骨が軋む。
付け根の筋肉が裂ける。
翼膜が破れ、赤黒い生体媒体が斜面へ流れ落ちた。
《血脈再生》
接続を通して、傷ついた生体組織へ治癒を流す。
裂けた筋肉をつなぐ。
潰れた血管を修復する。
亀裂の入った翼骨も、組織が残っている場所から修復していく。
その間にも、区画の重さが別の翼骨へ移り、新しい亀裂が走った。
治す。
次の場所が裂ける。
また治す。
けれど、破れて機体から離れた翼膜は戻らない。
流れ落ちた生体媒体も増えない。
白夜が壊れるたび、区画を支えるために使える構造は少しずつ減っていた。
一点へ集中していた区画の重さが、左腕、両脚、背部の翼へ分かれていく。
白夜は天杭四番の固定範囲を支点にして、落下区画を押し返した。
区画の中から、何人もの悲鳴が上がる。
血糸で生命反応の位置を探る。
「左上には人がいる。そこへ力をかけないで」
区画の下へ差し込んだ翼骨が、わずかに沈む。
「中央下は空いてる。そこから押して」
翼骨を束ねていた筋肉が動いた。
内部の生存者を避けながら、区画を支える場所が移っていく。
岩盤を削り続けていた音が弱くなった。
区画の滑る速度が落ちる。
竜血の筋肉が裂ける。
治す。
別の場所へ重さが移る。
また治す。
魔力は足りていた。
だが、治せるのは、まだそこに残っている組織だけだった。
白夜の左腕と、束ねられた翼骨が落下区画を下から持ち上げた。
傾いていた床が、わずかに戻る。
内部で転がっていた瓦礫が止まった。
岩盤を削っていた区画が、初めて動きを止めた。
粉塵の向こうで、白夜の背から広がった赤黒い翼が震えている。
区画は止まった。
けれど、固定されたわけではない。
白夜の左腕か翼骨が外れれば、再び奈落へ滑り出す。
工兵たちは支柱を抱えたまま、まだ区画の下へ近づけずにいた。
外壁の奥から、いくつもの心拍が返ってくる。
止めただけでは、まだ誰も救えていなかった。




