第五話《トリアージ》
奈落の中から見えていたのは、崩れ落ちる地上の一部だけだった。
空へ出て初めて、落ちているのが奈落の縁だけではないと分かった。
白夜の下で、道路を覆っていた石板が一斉に跳ね上がる。
地面の奥から突き上げられたように石板が宙を舞い、その下から噴き出した土砂と一緒に奈落へ流れ込んだ。傾いた兵舎が隣の建物へ倒れ、屋根を押し潰す。衝撃がさらに隣へ伝わり、壁と柱が連続して折れていった。
一つの建物が崩れているのではない。
街の一部が、つながったまま沈んでいた。
遠くで、王城を囲んでいた城壁が大きく波打つ。
白い石を積み上げた壁の中央へ亀裂が走り、塔が根元から裂けた。塔は城下へ倒れず、その場で半分に折れる。上部だけが回転しながら落下し、城内の屋根と回廊をまとめて押し潰した。
遅れて、王城の下にある岩盤そのものが沈んだ。
城壁の一角が地面ごと持ち上がり、次の瞬間には奈落側へ折れ曲がる。庭園を囲んでいた回廊が端から宙へ投げ出され、噴水の水が白い筋を引きながら落ちていった。
城の中心に立つ、最も高い建物も傾いている。
屋根の尖塔から石材が剥がれ、金属の装飾が光を反射しながら落下する。窓が縦に連なって砕け、その奥から炎と黒煙が噴き出した。
王城に近い一帯には、兵舎よりも大きな屋敷が並んでいた。
広い庭。
高い塀。
何台もの馬車を置ける建物。
あれが貴族の住む場所なのだと思う。
その屋敷の一つを、地面に開いた亀裂が門から玄関まで真っ二つに裂いた。
塀が外側へ倒れ、庭木が土ごと持ち上がる。石像や噴水、止められていた馬車が傾斜を滑り、割れた屋敷の中へなだれ込んだ。
人間たちが門から逃げ出している。
立派な服を着た者。
荷物を抱えた使用人らしい者。
何も持たず、子供の手だけを引いている者。
その背後で、屋敷の正面がゆっくり前へ倒れた。
柱が砕ける。
窓がすべて弾ける。
屋根が落ち、その上へ庭と道路が重なった。
別の場所では、何棟もの建物を載せた地面が、巨大な板のように傾いている。
人間も、荷車も、瓦礫も、その上を奈落へ向かって滑っていた。建物の壁が途中で引っかかり、地面から剥がされるように折れる。内部に残っていた家具や布、食器が空へ撒き散らされ、土煙の中へ消えていった。
兵舎だけではない。
王城も、おそらく貴族の屋敷も、市場も、人間が暮らしていた家も。
身分も、建物の大きさも関係なく、街そのものが奈落へ傾いていた。
白夜の近距離観測へ、いくつもの生命反応が触れている。
けれど、広すぎた。
一人へ向かっても、白夜が到達する前に地面ごと落ちる。
別の場所では、それより多くの人間が滑っている。
何人かを左手へ載せても、次の崩落まで運び続けることはできない。
どこから助ければいいのか、決められなかった。
白夜の二枚の翼を開く。
翼骨が機体の重量を受け、背部との接続部へ負荷が集まった。
翼膜に大きな損傷はない。
それでも、長く飛び続けられるほどの余裕は残っていなかった。
『エルセリア』
接触印から、レオンの声が届いた。
「レオン」
『後方救護所へ来い。正面へ行くな。右へ回れ』
正面には、奈落から離れる方向へ延びる大通りがある。
まだ地面も残っていた。
「救護所なら、正面から行く方が近い」
『そこは落ちる』
白夜を止める。
直後、大通りの中央へ亀裂が走った。
石板が一斉に跳ね上がる。
道路の下にあった土砂が噴き出し、荷車を巻き込みながら、地面ごと沈んでいった。
「どうして分かったの」
『俺の場所から見えた。それだけだ』
白夜の位置からも、大通りは見えていた。
亀裂が入る前から落ちる場所まで分かる理由にはならない。
けれど、今は聞いている時間がなかった。
「右へ行けばいい?」
『外周路を進め。奈落から離れた露出岩盤の上に救護所がある』
白夜を右へ傾ける。
背部推進器を短く噴射し、崩れ残った外周路の上を進む。
奈落の縁から離れるほど、地面の傾きは弱くなっていた。
それでも、崩落が止まったわけではない。
建物の壁には亀裂が走り、道路の一部が沈んでいる。兵士たちは杭と縄を使って危険な場所を囲い、人間を奈落から遠ざけようとしていた。
やがて、街道の先に何枚もの布幕が見えた。
一つの小さな治療所ではない。
運び込まれた負傷者を確認する区画。
治療術を使う処置幕。
処置を待つ患者を寝かせる場所。
自力で歩ける人間を集める場所。
そこからさらに後方へ負傷者を送るための搬送路。
布幕と荷車の間を、担架を持った兵士たちが絶えず行き来している。
白夜の近距離観測へ、百を超える心拍が触れた。
強いもの。
弱いもの。
速いもの。
間隔が崩れ始めているもの。
『北側へ降りろ』
救護所から少し離れた北側に、灰色の岩盤が露出している。
その周囲の土には細い亀裂があるが、岩盤そのものはまだつながっていた。
白夜が近づくと、救護所の護衛兵たちが一斉に振り返る。
槍が上がった。
右腕を垂らした白夜。
本来の両翼を失い、背中から赤黒い二枚の翼を伸ばしている。
破損した白銀装甲の上には、深淵天竜の血統構造から形成した鱗が重なっていた。
白銀の騎士には見えない。
第二階層で兵士たちが見た時と同じように、死んだ兵器へ赤黒い魔物が寄生し、内側から動かしているように見えたのかもしれない。
「構えなくていい!」
レオンが護衛兵の前へ出た。
額から血を流し、右手には剣を持っている。
「味方だ! 槍を下ろせ!」
兵士たちは、すぐには槍を下ろさなかった。
レオンが白夜を見上げる。
「降りろ。こっちは俺が説明する」
「分かった」
白夜は左脚から岩盤へ着地した。
翼を畳み、背部推進器を止める。
岩盤が低く鳴った。
周囲の土が沈んだが、白夜の足元は崩れない。
搭乗槽を開く。
固定具を外し、白夜の左手を足場として地面へ降りた。
白夜との接続は切らない。
搭乗槽を離れても、管理者接続そのものがなくなるわけではないみたいだった。
魔力を送り続け、接続を浅く残している間なら、白夜は短い命令を受け取って動ける。
待つ。
立つ。
手を伸ばす。
指定した場所へ移動する。
その程度なら、私が中にいなくてもできる。
けれど、誰を助けるのか。
どこへ力を加えるのか。
状況が変わった時、何を優先するのか。
そこまではまだ白夜だけでは決められない。
「ここで待って」
白夜が左膝を岩盤へついた。
動かない右腕を胸部へ寄せ、二枚の翼を背中へ畳む。
命令を終えた白夜から、次の指示を待つ感覚が返ってきた。
「エルセリア!」
リノが右脚をかばいながら、薬箱を抱えて急いでくる。
その後ろでは、ガレスが担架を運び、エドガーが搬送路を塞いでいる人間へ声をかけていた。
四人とも生きている。
接触印で声を聞いた時よりも近くにいる。
姿を見ただけで、身体の奥へ残っていた力が少し抜けた。
「脚は」
「捻っただけ。まだ歩ける」
リノは、深淵天竜の血と戦闘循環液で濡れた私の服を見た。
何かを言いかけたが、救護所から名前を呼ばれ、薬箱を抱え直す。
「行かなきゃ」
「うん」
救護所の中央から、太い声が響いた。
「歩ける者は南側へ集めろ!」
「止血済みは第二待機区画!」
「呼吸不全と腹部出血を処置幕へ送れ!」
「担架を降ろした搬送班は戻れ! まだ来るぞ!」
治療兵と同じ外套を着た男が、救護所の中央で指示を出している。
左頬から首筋にかけて、古い火傷の痕が続いていた。
周り様子からこの男がここの救護隊長らしい。
治療兵たちはこの状況でも冷静だった。
搬送。
初期診察。
止血。
固定。
治療術。
経過観察。
それぞれの役割に分かれ、目の前の患者を処置している。
それでも、治療できる人間より運び込まれる人間の方が多かった。
救護隊長らしき男が私の前へ来る。
「お前が奈落の姫か」
「うん」
「救護隊長のバルガス・ローデンだ。何ができる」
「血の流れが分かる。触れば、身体の中も少し分かる」
「治療は」
「血糸で出血を止められる。傷も塞げる。でも、全員には使えない」
私の血は白夜との接続に使っている。仮設翼と竜血装甲の長期的な維持にも必要な上に、ここで接続を切ったときに再接続できる保証がないからだ。
一人を完全に治療しようとすれば、その間はほかの患者を診られない。
バルガスは数秒だけ考えた。
「なら、治療はこっちへ任せろ」
「診なくていいの?」
「逆だ。お前は診断に回れ」
バルガスの視線が、運び込まれてくる患者を指す。
「外から分からない出血を見つけろ。今すぐ処置が必要な者を俺へ伝えろ」
「処置幕まで保たない人はどうするの」
「お前が一時的に止めろ。治す必要はない。治療兵へ渡すまで生かせばそれでいい」
「分かった」
バルガスが振り返り、声を張り上げる。
「内部損傷は奈落の姫に確認させろ! 診断結果はすべて俺へ通せ! 指示なしに処置の順番を変えるな!」
すぐに私の前に最初の担架が置かれた。
若い兵士だった。
腹部の鎧が大きくへこみ、隙間から血が流れている。
目を開けているが、呼びかけへの反応が遅い。
指先から血糸を伸ばした。
首筋へ触れる。
血圧が下がっている。
腹部の内側で出血が続いていた。
「名前は」
兵士の唇が動く。
「ロイス……ロイス・ハーグ」
「ロイス。重度の腹部出血。すぐに処置が必要」
バルガスが声を上げる。
「ロイスを第一処置幕へ!」
「そのままでは途中で悪くなる」
血糸を腹部へ回した。
破れた血管の周囲へ細い糸を絡め、外側から締める。
完全には止まらない。
出血する速度を遅らせるだけだった。
「今なら運べる」
「搬送!」
治療兵二人が担架を持ち上げた。
次に来たのは、肩から先を失った女性だった。
切断部は布で強く縛られている。
意識もある。
自分の脚で歩けていた。
「名前は」
「ミレア」
血糸で残った腕と胸部を確認する。
大きな血管からの出血は止まっている。
「ミレア。止血できてる。すぐには悪くならない」
「第二待機区画へ! 止血帯を巻いた時刻を記録しろ!」
女性が治療兵へ支えられ、壁際へ移動する。
次は老人だった。
胸を押さえ、浅い呼吸を繰り返している。
「名前は」
返事がない。
付き添っていた兵士が答えた。
「オルドです。北門の倉庫番で――」
血糸を胸部へ触れさせる。
肋骨が折れている。
片方の肺も傷ついていた。
けれど、すぐに心拍が止まる状態ではない。
「オルド。肋骨と肺を損傷してる。でも、ロイスより後でいい」
「上体を起こせ! 呼吸を補助して第二待機区画へ!」
患者が続く。
大声で痛みを訴えているが、傷は浅い者。
自分で歩いているのに、腹部の内側で出血している者。
意識を失っているが、呼吸と心拍は安定している者。
胸の小さな傷から、折れた骨が肺へ刺さっている者。
治療兵たちは、見える傷と患者の反応から適切に判断していた。
けれど、身体の内側までは短時間で確認できない。
「隊長!」
待機区画から治療兵が叫ぶ。
「さっき運び込まれた兵士の血圧が落ちています!」
バルガスが私を見る。
「診れるか?」
血糸を伸ばす。
腹部を押さえた兵士の首筋へ触れる。
脾臓が裂けていた。
最初に運ばれた時より、出血が増えている。
「腹部の出血が増えてる」
「第二処置幕へ移せ!」
「処置台が埋まっています!」
「腕部裂傷を待機へ戻せ! こっちを先に入れろ!」
治療兵たちが患者を入れ替える。
その間にも、外周路から新しい搬送班が到着した。
「新たに十一名!」
担架が次々と地面へ置かれる。
「三名が意識なし! 崩れた宿舎からです!」
バルガスは患者を見渡した。
「歩ける者は自力で診察区画へ! 意識のない三名を先に降ろせ! 呼吸を確認しろ!」
誰も止まっていない。
それでも、処理速度が追いつかなかった。
救護所の北東から、別の兵士たちが駆け込んでくる。
先頭の二人が担架を持っていた。
その上に、さきほどの岩柱に挟まれていた男が寝かされていた。
「セドを運んできた!」
第二階層で見た兵士だった。
白夜が通れなかった狭い裂け目を抜け、別の退路から地上へ出たらしい。
バルガスは、セドの脚を一度見ただけで指示を出した。
「圧挫傷だ! 固定を外すな!」
「出血は圧迫してあります!」
「処置幕を一つ空けろ! 脚を解放する前に循環を確認しろ!」
セドが処置幕へ運ばれていく。
私が診る必要はなかった。
兵士たちが運び、治療兵が受け取った。
あの人たちが治療する。
なら、任せていい。
さらに遅れて、見覚えのある避難者たちが救護所へ入ってきた。
白夜が落下する建物から救い、人間だけが通れる裂け目へ移した六人だった。
一人は腰へ巻きついたままの血糸を握っている。
動けない者へ肩を貸しながら、自分たちでここまで来ていた。
六つの心拍は残っている。
その姿を確認したところで、次の担架が置かれた。
十歳ほどの少女だった。
額を切り、右腕が不自然な方向へ曲がっている。
意識はある。
呼吸も安定していた。
「名前は――」
「奈落姫!」
バルガスの声が重なる。
「入口の兵士が急変した!」
少女の返事を待たず、入口へ血糸を伸ばした。
担架の上で、若い兵士が身体を震わせている。
外から見える傷は小さい。
けれど、腹部の内側へ血が溜まっていた。
「入口の人。腹部出血。先に処置が必要」
「第一処置幕へ!」
「運ぶ前に止める」
血糸を腹部へ回す。
破れた血管を一時的に締める。
担架が運ばれていく。
少女のそばには、レオンと一緒に避難したリノが残ってくれていた。
「名前、まだ聞いてないよ」
「腕は折れてる。でも呼吸は安定してる。先にあっちを診な」
「後で聞けばいい?」
「この状況だよ。そうしな」
本当に、そのつもりだった。
今すぐ死ぬ状態ではない。
出血も少ない。
骨折した場所を固定すれば待てる。
後で戻ればいい。
次の患者へ触れる。
「胸の内側で出血してる。先」
「名前は?」
付き添いの兵士が聞く。
「先に運んで。処置幕で聞いて」
別の患者。
「脚の骨折。待てる」
「こっちは意識がない!」
「呼吸と心拍は安定してる。頭を動かさないで」
名前を聞かなくなったわけではない。
聞ける時には聞いている。
けれど、運ばれてくる患者が増えるほど、名前より先に傷が見えるようになった。
頭部損傷。
胸部圧迫。
腹部出血。
脚部骨折。
その後に、名前が続く。
新しい担架が置かれた。
三十歳ほどの男だった。
胸部の鎧が大きく潰れている。
呼吸のたびに、口元へ血の泡が浮かんだ。
右手には、手のひらほどの木片を握っている。
馬の形に削りかけたものだった。
若い治療兵が、男のそばへ膝をつく。
「ダリオ。聞こえるか」
「聞こえてる」
「治療術を使えるやつを呼ぶ。待ってろ」
「もう……全員、使ってるだろ」
ダリオは血を吐いた。
それでも、少しだけ笑っていた。
血糸を胸部へ触れさせる。
左右の肺が損傷している。
胸部の大きな血管も傷ついていた。
私の血を大量に使い、長い時間をかければ、可能性は残るかもしれない。
けれど、その間はほかの患者を診られない。
新しく運ばれた二人の心拍が、すでに弱くなり始めている。
「...この人を助けようとすれば、ほかの二人が間に合わない」
治療兵が顔を上げた。
「まだ喋ってるだろ!」
「分かってる」
「血を使えば治せるんだろ!だったら――」
治療兵が言い切る前に、バルガスが私と治療兵の間へ入った。
「おい、こいつ自身が助かる可能性はどれくらいだ」
「私がずっと処置すれば、少しだけある」
「どれくらいかかる」
「...分からない」
「その間、ほかの診断は」
「できない」
バルガスが、運び込まれた二人を見る。
一人は首から出血している。
もう一人は腹部へ瓦礫が刺さったままだった。
「その二人は今すぐ処置すれば助かる。遅れたら死ぬだろう」
声を荒げていた治療兵が拳を握った。
ダリオが、その袖を掴む。
「ニクス」
「喋るな」
「向こうを先にやれ」
「黙ってろ」
「まだ喋れるさ。あいつらより後でいい」
ニクスは動けなかった。
バルガスが静かにニクスに告げる。
「ダリオは待機だ」
「隊長」
「呼吸を保て。手が空いた者を一人残してやる。今は向こうへ行け」
「でも」
「さっさと戻ってこい。それまで生かせ」
ニクスは歯を食いしばった。
「絶対戻るからな」
ダリオは、削りかけの木馬を握ったまま頷いた。
「聞こえた?」
私が尋ねる。
「ああ」
「ここで待って」
「他にできることもない」
ダリオ。
胸部圧壊。
両肺損傷。
大量出血。
救命困難。
名前と損傷は、まだ一緒に見えていた。
そのとき、白夜を通して、地面の振動が伝わった。
救護所の岩盤ではない。
そこから西へ延びる外周路。
患者を後方へ送るための搬送路の下で、岩が割れ始めている。
「西側街道に亀裂!」
見張りの兵士が叫んだ。
バルガスと何人かの兵士が布幕の外へ出る。
救護所と、そのさらに後方にある砦跡を結ぶ街道へ、細い亀裂が走っていた。
救護所そのものは、すぐには崩れない。
けれど、このまま亀裂が広がれば、後方へ患者を送る道が切断される。
「後方搬送を早めろ!」
バルガスが命じる。
「処置済みの重傷者から砦跡へ送れ! 街道上で担架を止めるな!」
レオンが外周路から戻ってくる。
「バルガス。亀裂が広がってるようだ」
バルガスが尋ねた。
「別の道は」
「北は落ちた。南は建物で塞がってる」
白夜の偏向障壁発生器は焼損している。
同じ方法で道を支えることはできない。
白夜の左手で患者を運ぶことはできる。
けれど、一度に安全に載せられるのは数人だけだった。
右腕は動かない。
仮設翼と背部推進器にも余裕がない。
何度も往復している間に、街道は切れる。
あの道を残せば、人間たちが何十人でも運べるだろう。
「白夜の装備なら固定できるかもしれない」
バルガスが振り返る。
「あの白い騎士でか」
「全部は止められない。固定用の装備があって、その周りだけ止められる」
「どれくらい保つ」
「分からない」
天杭四番が地上の崩落へ使われた記録は確認したことがない。
レムナとの接続も戻っていない。
今分かるのは、白夜の足元から伝わる振動と、血糸で触れられる範囲だけだった。
「でも、上手くいけば今より長く残せる」
救護隊長は街道を見た。
「やれ」
すぐに兵士たちへ声を上げる。
「白い騎士の前を空けろ! 近くの患者は街道の南側へ寄せろ!」
担架が移動する。
兵士たちが白夜から亀裂までの進路を空けた。
私は白夜へ魔力を送る。
「白夜、立って」
接続の向こうで白夜が反応した。
左手を岩盤へつき、左脚を立てる。
動かない右腕を胸部へ固定したまま、巨体がゆっくりと起き上がった。
救護所の人間たちが、その動きを見上げる。
「左脚を前へ」
白夜が一歩進む。
「右脚を、送った場所へ」
白夜が指定した岩盤へ右脚を置く。
「止まって」
白夜が停止した。
白夜だけでは、亀裂の向きも、街道を残すための位置も決められない。
地面へ血糸を伸ばす。
亀裂の深さ。
岩盤のつながり。
担架を持った人間が通れる幅。
二本の亀裂が交わる手前に、周囲より厚い岩盤が残っている。
「天杭四番を抜いて」
白夜の左手が背部兵装架へ伸びた。
固定具を外し、天杭四番を引き抜く。
右腕が動かないため、左手だけで天杭を持ち上げた。
「杭の先を、送った位置へ合わせて」
接続を通して一点を示す。
白夜が天杭の位置を調整する。
「垂直に打って」
左腕が振り下ろされた。
天杭四番が街道脇の岩盤を貫く。
《天杭四番――空間固定開始》
低い振動が地面を走った。
杭の周囲で、亀裂の広がる速度が落ちる。
崩落が止まったわけではない。
固定範囲の外側では、土砂が今も崩れ続けている。
それでも、救護所から砦跡へ続く街道には、担架を持った人間が渡れる幅が残った。
「搬送再開!」
救護隊長が叫ぶ。
「緊急処置が必要な者から後方へ送れ!」
治療兵と搬送兵が一斉に動く。
「ロイスを先に!」
「ロイスはどこだ!」
「腹部を処置した若い兵士だ!」
「腹部の負傷者は三人いる!」
「血糸を巻いてある方だ!」
二つの搬送班が、同じ担架へ向かった。
その横では、別の重傷者がまだ地面に残っている。
誰も止まっていない。
指示も聞いている。
けれど、診断した人間と、治療する人間と、実際に運ぶ人間は違う。
全員が患者の名前を知っているわけではない。
「オルドは後だ!」
「そいつはどこにいる!」
「北門の倉庫番だ!」
「名前も所属も聞いてないぞ!」
バルガスが舌打ちした。
「目印が要るな」
リノが振り返る。
「目印?」
「遠くから見ても、順番が分かるものだ」
救護隊長が救護物資の箱を指した。
「伝令用の色帯を持ってこい!」
手の空いている兵士が箱を開く。
中には、部隊識別や伝令に使う細長い布が束ねられていた。
赤。
黄。
緑。
黒。
救護隊長が赤い布を取った。
「赤は、今すぐ処置が必要な者」
次に黄色を持ち上げる。
「黄は、処置を待てる者」
緑。
「緑は、自力で移動できる者」
最後に、黒い布を手に取った。
救護隊長の視線が、待機区画へ向く。
そこにはダリオが横たわっている。
ニクスとは別の治療兵が、その呼吸を確認していた。
「黒は、今ある人員と設備では救命できない者だ」
リノが黒い布を見る。
私もダリオを見る。
まだ、黒ではなかった。
ダリオ。
胸部圧壊。
両肺損傷。
今の人員と設備では救命できない人間。
救護隊長が色帯を治療兵へ渡す。
「腕へ結べる長さに切れ。診察済みの者にも順に付けろ。次からは、診断と同時に色を告げる」
赤い布が切られる。
黄色。
緑。
黒。
私は救護所にいる人間たちを見る。
ロイス。
ミレア。
オルド。
ダリオ。
名前を聞けなかった少女。
名前より先に、傷が見えるようになっている。
腹部出血。
上肢欠損。
肺損傷。
右腕骨折。
胸部圧壊。
その手前へ、四つの色が並べられた。
赤。
黄。
緑。
黒。
救護隊長が、最初の赤い布をロイスのいる処置幕へ差し出した。
「まず、あいつからだ」
治療兵が赤い布を受け取る。
まだ、その布は誰の腕にも結ばれていなかった。
その時はまだ、色は治療の順番を伝えるための目印でしかなかった。
布の向こうには、名前を持った人間がいた。




