第一話《壊れながら》
《環奈落王国レムナント・国家災害最終記録》
王国暦七百四十二年十一月十八日。
奈落大迷宮アビスネストを震源とする、観測史上最大規模の広域地殻崩壊が発生。
王都総面積の四十九・六パーセントが崩落し、王城、中央政庁、王国軍中央本部、大神殿、奈落管理区及び周辺市街地が奈落内部へ沈下した。
確認死者――五万二千八百七十一名。
行方不明者――一万一千四百六十三名。
重軽傷者――九万名以上。
避難民――二十三万名以上。
国王、王妃、王太子以下、王都滞在中の王族二十七名は全員死亡。
当該災害は、後に以下の名称で呼称された。
《大崩落》
―――――
白夜へ向けられた深淵天竜の頭部が、そのまま低く沈んだ。
地上だけを見ていた二つの眼が、初めて目の前の敵へ焦点を結んでいる。二本の角が第二階層の壁を削り、黒い顎が開いた。牙の向こうでは、赤白い魔力が呼吸に合わせて明滅していた。
来る。
白夜の中から、私が判断するより早く衝動が突き上がる。
斬れ。
転送直後の一撃で損傷した左腕が持ち上がった。拳を覆っていた戦闘循環液が伸び、赤黒い血刃へ形を変える。
「待って。正面からは――」
白夜は壁を蹴った。
背部推進器が唸り、七十八・四メートルの巨体が開いた顎へ向かって飛び出す。
戻れ。
鱗の下へ。
もっと深く。
白夜の視界へ、記憶の中の黒い鱗が重なった。
家より大きな一枚の鱗。
折れた位相断裂刃。
噴き出した黒い血。
その背後で、一つずつ途切れていった救難信号。
違う。
目の前にいるのは、あの竜ではない。
「白夜、止まって!」
深淵天竜の顎が閉じる。
白夜は翼を畳み、上下から迫る牙の間を擦り抜けた。噛み合った衝撃だけで岩盤が砕け、飛び散った破片が赤黒い仮設外装へ突き刺さる。
左脇腹へ、自分の肉を抉られたような感覚が走った。
痛みではない。
白夜の損傷を、接続された私の身体が痛みとして理解しようとしている。
戦闘循環液を穴へ集め、内部構造が露出する前に赤黒い膜で塞いだ。
深淵天竜は白夜を噛み損ねても、追撃しなかった。
頭部を持ち上げる。
上へ進もうとしている。
その先には、まだ人間がいた。
白夜自身の近距離観測に、第一階層へ続く通路を移動する生命反応が映っている。自力で歩いている者。肩を借りて進む者。担架へ縛りつけられたまま運ばれている者。
何人かが足を止め、後方を振り返った。
白夜が見えているのかは分からない。
レムナの管理接続も、主層間通信も切れている。声を届ける方法は残っていなかった。
「止まらないで」
深淵天竜の右前脚が持ち上がった。
白夜を狙った動きではない。上方の岩盤へ爪をかけ、さらに身体を引き上げようとしている。
四本の爪が第二階層の床へ食い込んだ。
岩盤が沈み、第一階層へ続く通路へ亀裂が走る。
その先に、逃げ切れていない生命反応がある。
「行かせない」
白夜の左腕が震えた。
斬れ。
今度こそ。
「分かってる」
血刃へ魔力を送る。
白夜から流れ込んでくる熱が、胸の内側を焼いていた。何度攻撃しても届かなかった。鱗へ刃を押し込んでいる間にも、人間の声が消えていった。
今も竜の先には人間がいる。
けれど、同じではない。
「今度は間に合わせる!」
白夜は壁を蹴った。
損傷した左腕を振りかぶり、深淵天竜の爪と指の境目へ血刃を叩き込む。鱗の重なりが、ほかよりわずかに薄くなっている場所だった。
切れる。
切らなければならない。
赤黒い刃が黒い鱗へ触れた。
手応えが消えた。
血刃が押し潰される。
形を保てなくなった戦闘循環液が飛び散り、鱗の表面を濡らした。
傷はない。
細い線さえ残っていない。
白夜の左腕が、もう一度振り上げられた。
飛び散った循環液が引き戻され、同じ形へ集まり始める。
もっと強く。
届くまで。
「待って」
白夜は止まらない。
深淵天竜の爪が岩盤をさらに沈ませ、亀裂が撤退路へ近づいていく。同じ攻撃を繰り返している時間はない。
「白夜!」
左腕へ意識を重ね、血刃の形成を止めた。
接続索が強く引かれ、白夜の腕が私の操作を押し返そうとする。
斬れ。
「怒っていい」
白夜の左腕が震えた。
「でも、怒りに任せて同じ失敗をしないで」
一瞬だけ、動きが止まった。
右側兵装架の固定具が開く。
欠けた位相断裂刃が、低い音を立てた。
これなら届く。
言葉ではない確信が流れ込んでくる。
弾けた戦闘循環液を左腕へ戻し、壊れた指を外側から固定した。
「うん」
白夜の右手が位相断裂刃を引き抜く。
刃の周囲で、空間が薄くずれた。
「今度は一緒に切ろう」
《位相断裂刃――出力上昇》
深淵天竜の指が動いた。
爪先が横へ払われる。
白夜は翼を開いて身体を反転させた。
白夜の胸部を端から端まで覆える爪先が、眼前を横切った。触れてはいない。それでも、押し出された空気と魔力だけで白夜の巨体が吹き飛ばされる。
右側推進器が岩壁へ叩きつけられた。
金属が潰れる音が、私の背骨を内側から殴る。
《右側推進器――出力低下》
《代替推進翼――右側構造破断》
右翼の半分が千切れた。
赤黒い液体へ戻った翼が、岩塊と一緒に縦穴を落ちていく。
壁が迫る。
左翼だけでは姿勢を保てない。
白夜が残った推進器へ出力を集中させた。
《右側推進器――許容出力超過予測》
このままでは焼き切れる。
落下していく戦闘循環液を引き戻す。
残っている右側推進器の周囲へ太い血糸を三本伸ばし、元の翼とは異なる骨格を組んだ。その間へ薄い膜を張る。
左右で形が違う。
大きさも足りない。
飛ぶための翼ではない。
落下方向を変えるためだけの、赤黒い制御板だった。
一瞬、推進器の噴射が乱れた。
それでも次の瞬間には、白夜自身が仮設翼に合わせて噴射角を変える。
巨体が傾いた。
壁への正面衝突を避け、右肩から岩盤を削る。
外装が砕け、搭乗槽の固定具が身体へ食い込んだ。衝撃が胸の奥まで突き抜け、右肩の内部骨格が露出する。
戦闘循環液と修復用生体媒体を重ね、その前へ赤黒い塊を押し出した。
元の装甲には戻せない。
次の一撃を受けた時、内部より先に砕けるための装甲だった。
白夜が壊れるたび、形を作り直す。
元に戻しているのではない。
次の一動作に必要なものだけを残している。
《戦闘循環液――残量低下》
《修復用生体媒体――補充不能》
壊れた部位を動かすことはできる。
けれど、失った材料までは戻らない。
深淵天竜の前脚へ力が入った。
岩盤がさらに沈む。
このまま身体を引き上げられれば、第一階層へ続く通路ごと押し潰される。
白夜の背部兵装架から天杭を一本外した。
《天杭一番――射出準備》
深淵天竜の脚へ向いていた照準を、頭上に残る岩盤へ移す。
位相断裂刃の出力表示が、わずかに上昇した。
「止めるためじゃない」
左腕へ血糸を集める。
「近づくために使う」
照準が私の選んだ位置へ重なった。
《天杭一番――射出》
巨大な杭が天井へ突き刺さる。
固定領域が開き、周囲の空間が軋むように硬化した。
《天杭一番――空間固定成立》
左腕から血糸を伸ばし、天杭の基部へ巻きつける。
深淵天竜が前脚を引き上げた。
同時に、白夜は血糸を縮める。
巨体が上方へ跳ねた。
天杭を中心に縦穴の中を旋回し、爪が床を砕く直前、その下へ滑り込む。
位相断裂刃を横薙ぎに振った。
爪と指の境目へ、ずれた空間が触れる。
白い線が走った。
それだけだった。
鱗は割れない。
血も出ない。
位相を断つ刃でさえ、表面へ薄い痕を残しただけだった。
位相断裂刃の出力表示が、一気に上限へ跳ねる。
白夜の右腕が、私の制止を振り切るように刃を押し込もうとした。
最大出力。
「まだ駄目」
深淵天竜の前脚が動く。
血糸を切った。
直後、黒い爪が天杭の固定箇所を薙ぎ払い、固定されていた岩盤が一塊のまま砕けた。
天杭が大量の岩とともに落下する。
《天杭一番――空間固定解除》
《天杭一番――外装損傷》
《空間固定機能――再使用可能》
落下する天杭へ血糸を伸ばし、岩塊の間から引き抜いて背部兵装架へ戻した。
細い傷しか残せなかった。
けれど、刃が通らないことは分かった。
次は鱗の上から斬らない。
その時、深淵天竜の動きとは一致しない振動が、白夜の両脚を下から突き上げた。
縦穴の外側。
観測範囲のさらに向こうで、巨大な岩盤が横方向へずれた。
一か所ではない。
離れた場所から、何層もの地面が連続して砕ける音が伝わってくる。
《広域構造変動――発生源取得不能》
《構造変位――複数領域で進行》
《上層地盤――支持力低下》
深淵天竜の前脚は動いていない。
それでも、第一階層へ続く通路の天井から岩が落ちた。
奈落そのものが崩れ始めている。
深淵天竜を止めても、終わらない。
それでも、目の前の竜を通せば、逃げている人間から先に死ぬ。
深淵天竜の眼が白夜を追った。
一度目の爪は白夜を払った。
次は違った。
黒い前脚が白夜ではなく、右側の岩壁へ振り下ろされる。仮設翼で逃げようとしていた空間が先に抉られ、崩れた岩塊が進路を塞いだ。
避ける方向を読まれている。
深淵天竜の口腔の奥へ、赤白い光が集まり始めた。
《高密度魔力反応――上昇》
ブレスが来る。
白夜は位相断裂刃を構えた。
傷を作れ。
口腔へ。
身体が前へ出ようとする。
「先にあっち」
白夜の観測を、第一階層へ続く通路へ向けた。
生命反応が射線上に残っている。
白夜の動きが止まった。
助けを求める声は聞こえない。
それでも、五千年前の記録が流れ込んでくる。
隔壁が閉じない。
負傷者を先に。
子供がまだ中にいる。
白夜の右腕から力が抜けた。
代わりに、背部の障壁発生器が起動する。
《障壁発生器――限定展開準備》
「そう」
薄い障壁を、深淵天竜の正面ではなく白夜の斜め下へ傾けて展開した。
《障壁発生器――限定展開》
深淵天竜が口を開く。
赤白い光があふれた。
障壁へ触れる直前、白夜は翼を閉じ、崩れた岩塊の隙間へ身体を滑り込ませる。残った推進器を横方向へ噴かせ、射線から抜けようとした。
ブレスが障壁へ衝突する。
止まらない。
薄い面が白く焼け、外側から崩れていく。
白夜が障壁へさらに出力を送ろうとした。
守れ。
壊れても。
「全部受けたら、次がない!」
それでも障壁の出力が上がる。
背後に人間がいる限り、白夜は障壁を下げられない。
五千年前と同じだった。
私は障壁の角度を変える。
「止めなくていい。逸らして」
守れ。
「生き残って、次も守るの!」
障壁がわずかに傾いた。
崩壊するまでの一瞬、赤白い光の先端を撤退路とは反対側へ押し続ける。
障壁が弾けた。
ブレスの射線が外壁へずれた。
けれど、深淵天竜は放射を止めない。
障壁に押された光を追うように、縦穴を塞いでいた頭部そのものを横へ振った。二本の角が左右の岩壁をまとめて削り、赤白い光が逃げる白夜の背を追って第二階層を切り裂く。
白夜は右側推進器を噴かせた。
崩落する岩塊の下へ潜る。
ブレスが直前までいた空間を消し、外壁へ斜めに突き刺さった。
熱と衝撃が背面へ追いつく。
仮設右翼の膜が燃え、内部へ戻す前に戦闘循環液の一部が黒く変質した。
《血液操作対象――一部応答喪失》
《代替推進翼――右側出力低下》
白夜の姿勢が崩れる。
そこへ深淵天竜の左前脚が伸びてきた。
爪が閉じる。
避けきれない。
白夜は左腕を差し出した。
爪先が触れる。
赤黒い外殻が吹き飛び、内部骨格が折れた。
左腕が肘から逆方向へ曲がる。
衝撃が肩を抜け、搭乗槽の私まで届いた。
《左前腕部――構造破断》
《左肘関節――機能停止》
白夜の身体が下方へ叩き落とされる。
折れた腕が、元の角度へ戻ろうとした。
破断した骨格が周囲の部品を削る。
存在しない形へ戻ろうとしている。
「白夜」
反応は止まらない。
左腕内部に残っていた戦闘循環液を抜く。
肘の外側へ太い血糸を三本通し、上腕と前腕を外から縫い合わせた。元の関節は作らない。
血糸を縮め、折れた腕を使える角度まで引き戻す。
指も戻さない。
掌の周囲へ循環液を集め、位相断裂刃の基部へ噛みつく赤黒い鉤へ変えた。
白夜は、存在しない指を作ろうと循環液を動かし続けている。
腕ではない。
「戻らなくていい」
鉤を位相断裂刃へかける。
右腕だけでは支えられなかった刃が持ち上がった。
「役目は残ってる」
循環液の動きが止まる。
受け入れたのかは分からない。
ただ、白夜はもう元の指を作ろうとはしなかった。
岩壁へ両脚をつく。
膝を曲げる。
右脚の駆動部が悲鳴を上げた。
深淵天竜は、なお上を見ている。
白夜を排除しようとしながらも、身体をさらに引き上げようとしていた。
近距離観測に残る生命反応は、戦闘開始時より減っている。
消えたのではない。
第一階層を抜け、白夜の観測範囲から離れていた。
まだ残っている。
それでも、壊れながら稼いだ時間だけ、人間は地上へ近づいている。
「もう少し」
外から鱗を切れないなら、重なりの内側を狙う。
正面から届かないなら、噛みつく瞬間に顎の下へ潜る。
「次で血を出させる」
白夜の右腕が位相断裂刃を構えた。
殺せ。
「その前に、傷を作る」
白夜は壁を蹴った。
不完全な翼を開き、残った推進器へ受容限界まで魔力を流す。
巨体が深淵天竜の頭部へ向かって跳ね上がった。
深淵天竜が口を開く。
牙が迫る。
白夜の衝動が、正面から口腔へ突っ込もうとした。
喉へ。
もっと深く。
「――私を信じて」
推進器の噴射が一瞬だけ揺れた。
牙が閉じる直前、翼を畳む。
白夜の身体を、上ではなく下へ落とした。
上顎と下顎の間を抜ける。
頭上で牙が閉じ、衝撃が白夜を追い越した。
顎の下へ滑り込む。
黒い鱗が幾重にも重なっていた。首を動かすため、ほかの場所より隙間が広い。
白夜の記憶が反応する。
戻れ。
あの鱗の下へ。
もっと深く。
「目の前にいるのは、あの竜じゃない」
殺せ。
怒りは消えない。
消す必要もない。
「でも、人間を通さないために斬るのは同じ」
左腕の鉤を、位相断裂刃の基部へ食い込ませた。
「一緒にやるよ」
白夜の推進器が開く。
今度は私が命じるより早くはなかった。
同じ瞬間に、同じ方向へ出力が重なる。
《位相断裂刃――最大出力》
刃の周囲で空間が歪む。
黒い鱗の端へ白い亀裂が走った。
深淵天竜が頭部を振る。
縦穴を塞いでいた巨大な頭部が動き、角が左右の岩盤を抉った。白夜の身体が刃ごと引きずられる。
右肩の内部が軋む。
左腕を縫っていた血糸が一本切れた。
《右腕部――構造負荷上昇》
《位相断裂刃――出力路損耗拡大》
離せ。
警告が流れる。
それでも、白夜は刃を離さない。
押せ。
もっと深く。
「分かってる!」
背部推進器を最大まで開く。
白夜の全重量を位相断裂刃へ押し込んだ。
鱗の隙間が広がる。
刃が黒い外殻の下へ入り、柔らかいものへ触れた。
「届いた!」
深淵天竜が咆哮する。
咆哮が縦穴を駆け上がり、第一階層へ続く通路の天井まで連続して崩れた。白夜の観測が一瞬だけ白く乱れる。
刃を引き抜いた。
顎下の鱗の間から、赤黒い血が噴き出す。
滝のようだった。
巨大な血流が白夜の胸部と翼を打ち、岩壁へ叩きつけられる。飛び散った血塊の一つだけでも、人間を丸ごと覆えるほどの量があった。
《位相断裂刃――出力路損耗拡大》
《最大出力継続――使用不能》
白夜の右腕が、傷口へ向かって再び動く。
届いた。
傷口へ戻れ。
もっと深く。
「待って」
白夜の身体が傷口へ向かおうとする。
「今は、あの血を使う」
白夜の胸部を流れている竜血へ《血液操作》を伸ばした。
流れがわずかに遅くなる。
重い。
血塊の一つ一つに、押し返されるほど濃い魔力が詰まっている。
傷口につながった血流には操作が届かない。
まだ深淵天竜の身体の一部だった。
けれど、傷口から切り離され、白夜の外装や岩壁へ飛び散った血なら動かせる。
胸部へ付着した血塊を持ち上げた。
警告が開く。
《外部異種血液――深淵因子高濃度》
《生体媒体への混入――非推奨》
竜血へ伸ばした感覚が、白夜の循環系統から押し返される。
危険。
「分かってる」
竜血を薄く広げ、露出した右肩の骨格へ重ねようとする。
その瞬間、右翼が崩れた。
左腕を縫っていた血糸が緩み、位相断裂刃を支えていた鉤が形を失う。
「違う」
竜血を動かしたことで、ほかの操作が遅れている。
白夜の左翼。
崩れかけた右翼。
折れた左腕。
胸部と右肩の仮設装甲。
位相断裂刃を握る右手。
内部を巡る戦闘循環液。
修復用生体媒体。
そのすべてを維持しながら、外部の竜血まで動かすには処理が足りない。
深淵天竜が頭部を振り上げた。
白夜の身体が位相断裂刃ごと投げ出される。
竜血の操作を切る。
右翼の骨格を作り直す。
左腕を締める。
胸部を覆う。
白夜の姿勢を戻す。
その間に、使えるはずの竜血が岩壁を伝って落ちていった。
《血液操作 Lv.7――同時処理限界超過》
《操作対象――戦闘循環液》
《操作対象――修復用生体媒体》
《操作対象――外部異種血液》
《並列制御――不足》
深淵天竜の前脚が壁を抉った。
頭上から岩塊が降り注ぐ。
翼を動かし、大きな破片を避ける。外装へ突き刺さった小さな岩の周囲を、戦闘循環液で塞いだ。
その間にも、顎下の傷から血が流れ続けている。
戦闘循環液は減っている。
修復用生体媒体も補充できない。
推進器も壊れ始めていた。
対して、深淵天竜の血は増え続けている。
「あの血が必要になる」
竜血へ向けた血液操作が、再び白夜の循環系統から押し返された。
《外部異種血液――操作中止推奨》
「今のままなら、あなたの身体が先になくなる」
《戦闘循環液――残量低下》
《修復用生体媒体――補充不能》
警告が重なる。
それでも、白夜は竜血を受け入れようとしない。
自分が壊れることには構わない。
けれど、私を深淵因子へ触れさせることは拒んでいる。
五千年前、自分を壊して人間を守ろうとした時と同じだった。
「勝手に一人で壊れないで。私も中にいる」
白夜の主駆動出力が一度だけ揺れた。
深淵天竜が再び口を開く。
顎下から血を流しながら、口腔の奥へ赤白い魔力を集めていく。
次のブレスが来る。
今の白夜では、同じように避けられる保証はない。
「白夜」
胸部の接続索へ手を重ねた。
「今度は、間に合わせるんでしょ」
返事はない。
接続索を通して流れ込むものが、互いに噛み合わないまま胸の奥で回っている。
斬れ。
守れ。
戻れ。
危険。
四千九百八十七年間、同じ瞬間に取り残されていた衝動。
「だったら、私を信じて」
竜血を押し返していた循環系統の圧力が、わずかに弱まった。
その直後、視界へ新しい表示が開く。
《白夜管理者接続――技能拡張使用可能》
《強化対象――血液操作 Lv.7》
《SP消費――承認待機》
私は表示へ触れた。
「上げる」
《SP消費――承認》
《血液操作 Lv.7――Lv.8》
血が軽くなったわけではない。
深淵天竜の血が、私のものへ変わったわけでもなかった。
ただ、今まで一つに重なっていた感覚が分かれた。
白夜の左翼。
崩れかけた右翼。
折れた左腕。
胸部の仮設装甲。
位相断裂刃を握る右手。
内部を巡る戦闘循環液。
岩壁を流れ落ちる深淵天竜の血。
それぞれが、別々の手足として認識できる。
空中へ散っていた赤黒い血が止まった。
岩壁を流れていた血も止まる。
白夜から剥がれ落ちた戦闘循環液が、落下の途中で静止した。
一つではない。
十でもない。
数百の血液反応が、縦穴のあらゆる場所で同時に動きを止めていた。
深淵天竜が爪を振り下ろす。
避けろ。
白夜から衝動が来る。
「分かってる」
左翼を開く。
一拍遅れて、白夜が右側推進器の角度を合わせた。
折れた左腕を引き戻す。
胸部の穴を塞ぐ。
位相断裂刃を構える。
同時に、岩壁を覆っていた竜血を持ち上げた。
今度は、どれも遅れない。
赤黒い血の群れが空中を走る。
その一部が、露出した右肩の骨格へ巻きついた。
深淵因子を含む血塊が押し潰され、層を重ね、元の外装とは異なる分厚い装甲を作り上げる。
形成された竜血装甲が、一度だけ脈打った。
私の操作とは違う方向へ収縮し、右肩の内部骨格を軋ませる。
完全には従っていない。
それでも、今は使える。
残る竜血が、焼け落ちた右翼の骨格へ絡みついた。
赤黒い膜が広がる。
完全な翼ではない。
けれど、次の一度だけなら白夜の巨体を支えられる。
爪が迫る。
白夜は新しい右翼を開いた。
私が命じたのと、白夜が推進器を動かしたのは同じ瞬間だった。
巨体が爪の下を抜ける。
右肩の竜血装甲が爪先へ触れ、轟音とともに半分まで抉られた。
それでも内部骨格には届かない。
白夜は壊れなかった。
初めて、私と白夜の判断が同じ方向へ重なった。
縦穴を流れていた残りの竜血が持ち上がる。
赤黒い血の群れが、白夜の周囲へ集まり始めた。




