第二十八話《間に合う》
白夜の装甲へ置いた手の下で、振動が強くなった。
冷たい金属の奥を、細い反応が走る。
一つ。
また一つ。
途切れていた内部系統を確かめるように、白夜の全身へ広がっていった。
《管理者接続要求――受理》
《接続個体照合――開始》
掌を離そうとした。
指は動かなかった。
装甲へ貼りついているわけではない。
手を引こうとした意識だけが、白夜の内部へ流れ込んでいく。
私の腕は動いていない。
代わりに、白夜の右腕を構成する駆動部が小さく震えた。
《接続個体照合――完了》
《管理者生体鍵――適合》
《第一機動決戦兵装・白夜――操縦規格適合》
白夜の損傷が流れ込んできた。
左側の装甲がない。
脇腹を削り取られ、冷たい空気へ直接さらしているような感覚があった。
右側の推進系統は重い。
脚でも、翼でもない。
それでも、力を入れても動かない場所があることだけは分かった。
救難収容区画の隔壁は閉じきらない。
息を吸っても、肺の一部だけが膨らまない。
どれも私の身体ではなかった。
それなのに、どこが壊れているのか分かった。
《登録決戦兵装――照合》
表示が更新された。
《第七生体決戦兵装――エルセリア》
《正式識別――第七生体決戦兵装・エルセリア》
私の名前だった。
「第七……?」
白夜は第一号だった。
第二主層には、白夜を除いて五つの格納枠があった。
六つしかないと思っていた。
その六つとは別に、私がいる。
《第一機動決戦兵装・白夜――接続開始》
考えようとした。
次の瞬間、言葉が全部消えた。
―――――
空が燃えていた。
知らない空だった。
地上には、今の城壁より高い建物が並んでいる。
同じ形の窓が、数えきれないほど積み重なっていた。
建物の間を光が走る。
空にも、翼のない何かが浮かんでいる。
人を運んでいた。
荷物を運んでいた。
その一つが途中で傾き、建物へ衝突した。
音が来る前に、地面が裂けた。
《地殻構造――広域破断》
《深部圧力――急上昇》
《地上第二避難区――救難要求》
《地上第三防衛区――救難要求》
黒いものが裂け目からあふれた。
水に見えた。
表面が揺れている。
波が重なり、低い場所へ流れていく。
黒い水へ触れた建物は、倒れなかった。
沈みもしなかった。
壁も。
窓も。
柱も。
そこにあった形を残したまま、薄くなった。
次の瞬間には、何もなかった。
都市の低い場所へ、黒い湖が広がっていく。
《深淵潮汐――地上流入》
《侵食範囲――拡大》
《生命反応――消失》
『第二避難区、まだ搬送できていない者が――』
声が消えた。
視界が跳んだ。
白夜の右手が、黒い鱗の隙間へ刃を押し込んでいた。
一枚の鱗が、地上の家より大きい。
その隣にも黒い鱗がある。
さらに向こうにも。
観測範囲の端まで、同じ鱗が続いていた。
白夜の視界へ収まっているのは、身体の一部だけだった。
何を攻撃しているのか、全体が見えない。
《位相断裂刃――最大出力》
刃の周囲で空間がずれる。
岩盤なら、触れる前に割れている。
黒い鱗には、白い筋さえ残らなかった。
《位相断裂――不成立》
白夜は刃を押し込んだ。
右腕の内部で何かが折れる。
それでも止めない。
背部推進器が最大出力へ入る。
鱗と鱗の隙間へ、折れかけた刃を押し込んでいく。
《記録欠損》
救難収容区画で、人間が泣いていた。
幼い声だった。
誰かが抱いている。
天井から白い粉が落ちている。
隔壁の向こうで衝撃が続いていた。
『白夜、収容区画が持たない!』
《収容対象――増加》
《救難収容上限――超過》
《救難要求――継続》
視界が跳んだ。
四本の杭が飛んでいた。
一本目が、大地へ降りようとする黒いものの前へ刺さる。
二本目が後ろへ。
残る二本が左右の岩盤へ突き刺さった。
杭と杭の間で空間が固まる。
一つの街を囲めるほど大きな拘束領域だった。
《天杭一番――固定》
《天杭二番――固定》
《天杭三番――固定》
《天杭四番――固定》
《空間拘束――成立》
黒いものが止まった。
巨大な前脚だった。
先端にある爪だけで、白夜の全長を超えていることが分かる。
前脚が、ほんの少し動いた。
一番杭が折れた。
二番杭が岩盤ごと引き抜かれる。
三番杭の固定地点が、周囲の建物と一緒に持ち上がった。
拘束領域が弾けた。
《空間拘束――崩壊》
《天杭一番――喪失》
《記録欠損》
白夜の左腕がなかった。
何に壊されたのか分からない。
攻撃を受けた記録もない。
外力の発生源は、観測範囲の外にあった。
《外力発生源――取得不能》
《左腕部――反応消失》
《左側外装――広域喪失》
白夜の身体が建物へ落ちた。
一つを貫く。
二つ目を押し潰す。
道路を割り、その下にあった空間まで沈んだ。
身体が止まっても、救難信号は止まらなかった。
『隔壁が閉じない!』
『負傷者を先に!』
『子供がまだ中にいる!』
『白夜、聞こえているなら――』
視界が跳んだ。
空を覆う黒いものが動いていた。
翼だった。
端が見えない。
羽ばたいたのかも分からない。
ただ、遠くにあった雲が一度に消えた。
大地を押し潰す風が来た。
白夜が展開した障壁が、外側から順番に砕けていく。
一枚。
二枚。
三枚。
障壁を破ったものは、そのまま都市へ届いた。
建物の上部が消えた。
人間と瓦礫が一緒に吹き上げられる。
《広域障壁――喪失》
《救難対象――急減》
助かったのではない。
白夜の観測から消えただけだった。
視界が跳んだ。
黒い湖の前に、白夜が立っている。
左翼がない。
右腕の位相断裂刃は半分まで欠けていた。
黒い流れへ障壁を重ねる。
一秒。
障壁の表面へ黒い筋が走る。
二秒。
魔力を構成していた一部が失われる。
三秒。
穴が開いた。
黒い水が、指のように入り込んだ。
背後にいた人間の反応が七つ消えた。
次に十三。
その先は数えられなかった。
《深淵潮汐――臨界》
《地上侵食――継続》
《広域障壁――維持不能》
《記録欠損》
折れた位相断裂刃が、黒い鱗の下へ入っていた。
白夜の右腕は、肘から先の形を保っていない。
二本の天杭が、刃と鱗の隙間へ突き刺されていた。
刃では切れない。
杭では貫けない。
白夜は自分の右腕を、梃子の一部として使っていた。
推進器を開く。
刃を押す。
天杭が歪む。
右肩の内部構造が破断する。
それでも押した。
《右腕部――構造維持不能》
《主駆動出力――限界超過》
《位相断裂――部分成立》
鱗の端が、わずかに浮いた。
家より大きなその一枚が、根元から持ち上がる。
白夜の右腕が折れた。
位相断裂刃が砕けた。
二本の天杭も、中央から割れた。
それでも、鱗の下へ隙間ができた。
そこから黒い血が噴き出した。
川だった。
白夜の装甲を叩き、身体の両側へ分かれて流れ落ちる。
《対象外縁部――損傷》
白夜の内部へ、初めて違う反応が流れた。
達成。
ほんの一瞬だけだった。
黒い身体が止まる。
遠くにあった何かが動いた。
首だった。
どこから始まり、どこまで続いているのか分からない。
空そのものが曲がるように、巨大な頭部が向きを変えた。
眼が見えた。
一つの眼だけで、白夜の胴体より大きい。
黒い眼の中に、都市の火が映っていた。
白夜を見たのかは分からない。
視線は白夜を通り過ぎ、その向こうを見ていたのかもしれない。
次の瞬間、白夜の右半身が地面へ叩きつけられた。
何が触れたのか、記録には残っていない。
翼か。
尾か。
前脚か。
あるいは、黒い竜が身体をわずかに動かしただけなのか。
《攻撃動作――検出不能》
《右推進系統――停止》
《胸部外装――破断》
《記録欠損》
白夜は竜の傷口へ戻ろうとしていた。
失った右腕を上げようとする。
腕はなかった。
それでも、あの鱗の下へもう一度刃を突き込もうとしている。
戻れ。
もっと深く。
次は血管へ。
次は眼へ。
殺せ。
『白夜、こちらを――』
戻れ。
『隔壁が崩れる!』
殺せ。
『誰でもいい、返事をしてくれ!』
救え。
戻れ。
殺せ。
救え。
間に合わない。
視界が裂けた。
黒い竜の傷口。
黒い湖へ沈む都市。
救難収容区画で泣く人間の声。
折れた白夜の翼。
五つの巨大反応。
六つの兵装は、最初は同じ方向を向いていた。
黒い竜へ。
黒い湖へ。
世界を消しつつあるものへ。
《終末運用――移行要求》
《救難工程――未完了》
《領域内――救難対象残存》
《第一号――承認拒否》
《第二号から第六号――承認成立》
《強制移行条件――成立》
《臨界時終末運用――開始》
上空を、巨大な光が閉じ始める。
白夜の救難収容区画には、まだ人間がいた。
地上にも反応が残っていた。
《第一号――運用領域外退避命令》
《残存救難対象――終末損失へ移行》
《第一号――退避拒否》
視界と時間が跳んだ。
光の壁へ、残った天杭が刺さっている。
閉じようとする空へ、白夜が片翼で取りついていた。
《記録欠損》
黒い光の射線へ、白夜が立っている。
背後には、人間の反応が残っていた。
《記録欠損》
大地を走る線へ、欠けた位相断裂刃を押し込んでいる。
《記録欠損》
五つの巨大反応が、白夜へ向きを変えた。
黒日。
天蓋。
星蝕。
断界。
鎮星。
何をしようとしていたのか。
どの攻撃が、白夜のどこを壊したのか。
その間の記録は残っていない。
《第一号による終末運用干渉――検出》
《第一号退避命令――再発令》
《第一号――拒否》
《第一号統制権――剥離》
《戦術優先順位――更新》
《最優先停止対象――第一号・白夜》
五つの照準が重なった。
《記録欠損》
白夜の右腕がない。
《記録欠損》
左翼がない。
《記録欠損》
救難収容区画の隔壁が開いている。
中にいた人間の反応がない。
《記録欠損》
黒い湖が広がっている。
《主運用目的――地上防衛》
《達成判定――失敗》
《副運用目的――広域救難》
《達成判定――失敗》
《終末運用――結果記録欠損》
《深淵潮汐封止――失敗》
失敗。
表示が閉じる。
《補助動力――一時復旧》
また開く。
黒い湖。
黒い竜の眼。
白夜へ向けられた五つの照準。
途切れる救難信号。
《補助動力――停止》
暗闇。
《補助動力――一時復旧》
また開く。
剥がれた一枚の鱗。
折れた腕。
救難収容区画に響く泣き声。
《主運用目的――地上防衛》
《達成判定――失敗》
《補助動力――停止》
暗闇。
一度起きるたび。
動力が一瞬だけ戻るたび。
白夜は最後の記録を読み込んだ。
そのあとに、新しい記憶は一つも増えなかった。
黒い湖を止められなかった。
黒い竜を止められなかった。
五つの兵装へ抗っても、人間を救えなかった。
五つの兵装へ抗ったから、封止に失敗したのかもしれない。
正しかったのか分からない。
間違っていたのかも分からない。
腕を上げようとした。
私の腕ではなかった。
もう存在しない白夜の右腕を、あの鱗へ突き込もうとしていた。
戻れ。
殺せ。
救え。
間に合わない。
相反する衝動が、身体の中で噛み合わずに回り続ける。
四千九百八十七年間。
同じ場所で。
同じ瞬間に取り残されたまま。
白夜は眠っていたのではない。
敗北した瞬間から止まり続けていた。
―――――
冷たい装甲へ手を置いていた。
第六主層の修復区画だった。
黒い湖はない。
都市もない。
空を覆う竜もいない。
それでも、失ったはずの右腕を上げようとする感覚が残っていた。
あの黒い鱗の隙間へ戻りたい。
もっと深く刃を入れたい。
今度こそ、傷では済ませたくない。
それは私の怒りではなかった。
けれど、助けを求める声へ戻りたいと思う感覚は、私の中にもあった。
白夜の怒りを消す必要はない。
ただ、先に向ける場所を間違えない。
白夜は、竜を殺すためだけに作られた兵装ではない。
人間を生かし、地上を守るために戦う兵装だった。
「白夜」
返事はなかった。
装甲の奥で、細い振動が続いていた。
「今度は、間に合わせる」
振動が一度だけ大きくなった。
白夜の胸部装甲が開いた。
内側にあったのは、椅子でも操縦桿でもなかった。
人一人が立てるだけの細い空間。
白い壁面から、何本もの接続索が伸びている。
黒い翼を畳み、その中へ入った。
足元の固定具が閉じる。
背中へ柔らかいものが触れた。
首筋。
両腕。
腰。
脚。
接続索が、身体の形を確かめるように添えられていく。
胸部装甲が閉じた。
暗くなる。
その暗闇へ、白夜の視界が開いた。
修復区画全体が見える。
前からではない。
左右。
上。
背後。
白夜の全身に残る観測器官から、同時に流れ込んでくる。
掌に小さな痛みが走った。
皮膚が裂け、一滴の血が出る。
血は足元へ落ちなかった。
接続索へ吸い込まれ、白夜の内部を巡る液体へ混ざっていく。
修復用の生体媒体。
駆動部を冷却する戦闘循環液。
魔力を各部へ運ぶための流体。
私の血が、それらすべての中へ薄く広がった。
材料として増えたわけではない。
ほんの一滴が、白夜の内部にある大量の液体へ、私の血液情報を伝えていた。
《戦闘循環液――搭乗者血液情報へ同調》
《修復用生体媒体――血液操作対象へ移行》
白夜の中を巡っていた液体が、私の血と同じように動き始めた。
一つ。
十。
百。
赤黒い反応が、白夜の全身へ広がる。
破断していた導路へ細い血糸が絡んだ。
切れていた内部系統をつなぐ。
動かなかった関節へ入り込み、失われた筋の代わりに縮んだ。
欠けた左側装甲の縁から、赤黒い格子が伸び始める。
血糸が骨格を作った。
その隙間を、私の血液情報へ同調した戦闘循環液と修復用生体媒体が埋めていく。
私の血だけで形作るなら、薄く、熱にも衝撃にも弱いはずだった。
けれど、今、外殻を形作っているのは私の血だけではない。
白夜の中に蓄えられていた大量の循環液と修復媒体が、私の能力によって血液と同じ形を与えられている。
私の血は、巨大な外殻を作る材料ではなかった。
白夜の中にある液体へ、形と動かし方を伝える核だった。
元の装甲には届かない。
それでも、白夜によって増幅された《血液操作》は、失われた巨躯の輪郭を埋め、内部構造を守る外殻を作り上げていた。
背部でも反応が生まれた。
折れた翼の根元から、太い血糸が伸びる。
元の推進翼とは違う。
白夜が読み取っていたのは、私の背中にある形だった。
接続槽の中で畳んでいた翼を広げる。
同じ形が、白夜の背で膨らんでいく。
血糸の骨格。
赤黒い膜。
残っていた推進器が、翼の各部へ接続された。
第六主層の天井近くまで届く巨大な翼が開いた。
白夜のものではなかった。
私の翼だった。
白夜の巨躯に合わせて、作り直されていた。
左手へ、同調した戦闘循環液が集まった。
掌から前腕へ沿うように、赤黒い刃が形作られる。
位相断裂刃より短い。
刃渡りは、白夜の前腕をわずかに越える程度だった。
けれど、私が普段作る《血刃》と同じように、厚みも形も変えられた。
意識を切り替える。
血刃が崩れた。
循環液が白夜の指先へ分かれ、十数本の血針へ変わる。
一本ずつが、人間の使う槍よりも長い。
もう一度意識を変えると、血針は液体へ戻り、白夜の内部へ吸い込まれた。
私の血を大量に使ったわけではない。
白夜の循環液と修復用生体媒体が、私の血と同じように形を変えていた。
《管理者接続――成立》
《搭乗者固有構造――兵装へ反映》
《血液操作媒体――戦闘循環液へ拡張》
《欠損外装――代替構造形成》
《代替推進翼――形成》
《第一機動決戦兵装・白夜――限定起動》
低い音が、白夜の内部から響いた。
修復区画の壁面が震える。
白夜の視界に、第二主層から運び込まれていた装備が映った。
位相断裂刃。
障壁発生器。
四本の天杭。
記憶の中にあったものと、同じ装備だった。
完全な状態ではない。
位相断裂刃は刃先の一部を失い、内部の出力路にも損傷が残っている。
障壁発生器にも停止した系統があった。
四本の天杭は形を保っているが、すべてが正常に作動する保証はない。
それでも、置いていく理由はなかった。
《第二主層回収兵装――接続開始》
修復区画の搬送機構が動いた。
巨大な位相断裂刃が持ち上がり、白夜の右側兵装架へ固定される。
《位相断裂刃――携行固定》
障壁発生器が背部装甲へ接続された。
接続箇所へ赤い血糸が入り込み、不足している導路を補う。
《障壁発生器――機体接続》
四本の天杭が、一本ずつ背部兵装架へ収められていく。
《天杭一番――搭載》
《天杭二番――搭載》
《天杭三番――搭載》
《天杭四番――搭載》
固定具が閉じる音が、白夜の身体を通して伝わった。
白夜は、かつて扱っていた装備を取り戻した。
けれど、その姿は同じではなかった。
失われた左側装甲を、赤黒い外殻が覆っている。
折れた翼の代わりに、私と同じ形の巨大な翼が開いていた。
右側兵装架には、欠けた位相断裂刃。
背には四本の天杭。
障壁発生器も、限定された系統だけで接続を終えている。
停止していた主駆動系統へ魔力を流し込んだ。
ここで消費しているのは血ではない。
私の血は、白夜の循環液を操作するための核として混ざっているだけだった。
翼を動かし、外殻を維持し、停止していた駆動部を起こしているのは魔力だった。
白夜が求めるまま、さらに送る。
これまで一度に使ったことのない量だった。
それでも、魔力が減っていく感覚がない。
白夜の翼を満たしても。
外殻を維持しても。
巨躯を動かす駆動部へ流し続けても。
供給を始める前と、今の自分の差が分からなかった。
《搭乗者魔力供給――継続》
《主駆動出力――上昇》
《供給量――設計上限へ接近》
《残存魔力量――再測定》
《測定値不整合》
《測定範囲――拡張》
《測定値不整合》
表示が二度点滅した。
それ以上の測定は行われなかった。
代わりに、白夜側の警告が開く。
《主駆動系統――受容上限へ接近》
《仮設導路――高負荷》
《代替外装――長時間維持不能》
足りないのは私の魔力ではない。
白夜の身体の方が、先に限界へ近づいていた。
第三主層から、人間側の状況が流れ込む。
《救難網登録反応――二千七百四十二》
《撤退列先頭――上層第五階層》
《撤退列後尾――上層第九階層》
《中央撤退路――広域混雑》
第九階層まで進んでいた人間たちが、整備された中央経路へ押し寄せていた。
前線兵だけではない。
負傷者を載せた担架。
搬送班。
工兵。
観測員。
途中の階層を守っていた防衛隊。
救助された探索者。
運び込まれていた物資までが、限られた撤退路へ流れ込んでいる。
先頭は第五階層まで上がっていた。
後尾は、まだ第九階層にいる。
数千人の列が、何層にもわたって続いていた。
レオンの接触印は第九階層にあった。
周囲の部隊反応とともに、列の後方から動き始めている。
その下で、深淵天竜が上昇していた。
《深淵天竜――上方移動継続》
《上層第九階層相当域――通過》
《構造破断――拡大》
レオンへ接触印をつないだ。
「レオン、聞いて。天竜が第九階層の下まで来てる。もう通路に沿って動いてない。上にある岩盤を直接壊しながら近づいてる」
『こっちでも揺れは分かる。だが、どこを抜いてくるのかまでは見えない』
「進行方向は真上。速度も上がってる。今のままだと、撤退列の後ろへ追いつくかもしれない」
『先頭はまだ第五階層だ。第九階層には担架と工兵が残ってる。二千人以上を一度に走らせられる道じゃない』
レオンの声が、人間側の通信へ切り替わった。
『第九階層から全員後退! 動ける負傷者は歩け! 持ち出せない物資は捨てろ!』
『中央経路が詰まっています!』
『詰まっていても流せ! 立ち止まるな!』
『担架が曲がり角を通りません!』
『負傷者だけ先へ通せ! 担架は壊して運べ!』
人間の反応が少しずつ動いた。
それでも、列の密度は下がらなかった。
第三主層の警告が変わった。
《深淵天竜――口腔内魔力急上昇》
《高密度魔力放射――予測》
天竜の頭部へ、周囲の魔力が吸い込まれている。
第十階層を破壊したものと同じ反応だった。
「レオン、天竜がブレスを撃つ。射線は第八階層の中央付近。床と天井をまとめて貫く」
『範囲は分かるか』
「中央経路だけじゃ済まない。左右の支線へ逃がして」
『第八階層には、まだ何百人もいる』
「分かってる。でも、中央に残ったら直撃する」
レオンが息を吸った。
『第八階層、中央経路から離れろ! 左右の支線へ入れ! 入れない者は壁際へ寄れ!』
『横道が埋まっています!』
『先にいる奴を押すな! 奥から詰めろ!』
『担架を下ろせ!』
『下ろしたら運べません!』
『伏せさせろ! 中央だけは空けろ!』
警告表示が赤くなった。
「もう来る!」
《高密度魔力放射――発射》
観測断面が白く塗り潰された。
下から上へ。
一直線に。
第八階層の床と天井が円筒状に消えた。
崩れたのではない。
岩盤そのものが抉り取られ、溶けた破片が周囲へ飛び散った。
中央経路に残っていた人間の反応が、一列ごと消える。
担架を持ち上げていた二人のうち、片方だけが光へ飲み込まれた。
支えを失った担架が床へ落ちる。
その床も、直後に割れた。
人間と担架が、一緒に開いた穴へ滑り落ちていく。
縁へ手をかけた兵士の足へ、別の人間がぶつかった。
二人とも落ちた。
横道へ入れた者も、衝撃で天井から剥がれた岩に押し潰される。
警告は間に合った。
それでも、全員は動けなかった。
《上層第八階層――構造大規模欠損》
《生命反応消失――五十四》
《位置情報喪失――三十七》
接触印の向こうから、レオンの声が聞こえた。
『第八階層、応答しろ!』
雑音。
悲鳴。
岩が落ち続ける音。
『生きてる奴だけでいい! 返事をしろ!』
『こちら第八! 中央がありません!』
『何人残ってる!』
『分かりません! 穴へ落ちた奴が――』
通信が途切れた。
天竜は、自分で開けた穴へ頭部を押し込んだ。
角で縁を砕く。
肩をねじ込み、ブレスが穿った空間を身体の幅まで押し広げる。
先にブレスで進路を作る。
そこへ巨体を押し込む。
人間たちがいるからではない。
ただ上へ向かう経路と、人間たちの撤退路が重なっていた。
深淵天竜が穴を押し広げる間にも、撤退は続いた。
列の先頭は第三階層へ入った。
後尾は、まだ第七階層に残っている。
レオンの印は第五階層まで上がっていた。
階層をまたいで続く人間の流れの中ほどにいる。
白夜を外へ出す方法を探した。
第六主層から第一主層まで続く内部搬送路は、途中で潰れている。
正常な射出口も使えない。
白夜の巨躯を、人間が通る縦坑へ入れることもできなかった。
《通常発進経路――使用不能》
《内部搬送経路――連続性喪失》
《外殻射出口――機能喪失》
《代替発進方法――検索》
表示が止まる。
短い空白のあと、別の項目が開いた。
《緊急戦術転送――使用可能》
《転送対象――第一機動決戦兵装・白夜》
《携行兵装――転送対象へ統合》
《対象質量――母艦通常転送範囲外》
《必要供給――母艦運用出力の大部分》
《不足分――予備蓄積全量を使用》
停止対象が並んだ。
《転送準備中・停止対象》
《広域救難網》
《広域観測》
《主層間通信》
《自動修復》
《主層管理機構》
《母艦防衛機構》
《環境維持補助》
《転送後再起動予測――算出不能》
「レオン。白夜を外へ出す方法を見つけた」
『動かせるのか』
「転送する。でも、そのためにはレムナの出力をほとんど全部使う。私から情報を送れなくなる。救難網も、天竜と航鯨の観測も止まる」
『白夜を出せば、天竜を止められるのか』
「分からない。白夜はまだ完全に直ってない」
接触印の向こうで、人間を押し分ける音がした。
『第八階層の穴を避けて、列が一つの支線へ詰まってる。先頭は第三階層、後ろはまだ第七階層だ』
「支援を切ったら、次のブレスも警告できない」
『それでも待てない』
レオンの声へ、別の叫びが重なった。
『第七階層の左支線が詰まりました!』
『負傷者から通せ! 動ける奴は壁際へ寄れ! 後ろから押すな!』
指示を返してから、レオンが続けた。
『白夜を出すことも救助だ。天竜を止めてくれ。お前から情報が来なくなったあとも、こっちは自分たちで上がる』
表示を見る。
《救難網登録反応――二千七百四十二》
《撤退行動継続――二千五百三十六》
《生命反応消失――九十一》
《位置情報喪失――百十五》
最初のブレスに直接飲み込まれた者だけではない。
崩れた道へ巻き込まれた者。
人が殺到した支線で倒れた者。
開いた縦穴へ落ち、反応を見失った者。
撤退が続く間にも、数字は増えていた。
もう全員を救える状況ではない。
それでも、残っている人間まで失う必要はなかった。
「転送を始める。支援が消える前に、使える道を送る」
『頼む』
「第六階層は左支線。二つ先の分岐で広がる。第五階層は中央経路を止まらず抜けて」
『受け取った』
「レオンも上へ行って」
『お前も早く来い』
表示へ触れた。
「実行して」
《緊急戦術転送――準備開始》
《対象質量隔離――開始》
《携行兵装――転送対象へ統合》
《転送座標――検索中》
《推定所要時間――算出不能》
白夜の足元へ、白い線が走った。
機体の輪郭をなぞりながら広がり、四本の天杭と位相断裂刃、障壁発生器までを一つの範囲へ囲い込む。
白夜の脚を動かそうとした。
動かなかった。
《対象質量隔離中――機体移動不能》
転送が終わるまで、白夜は第六主層から動けない。
第三主層へ、別の反応が入った。
深淵天竜がいる場所とは違う。
もっと深い。
一か所ではなかった。
《深部観測限界域――広域構造振動》
《振動源――複数》
《深淵天竜反応との位置一致――なし》
《深淵航鯨反応との位置一致――なし》
《構造圧力――広域上昇》
《魔力流――上方偏向》
《上方伝播――開始》
最後の情報を、レオンへ送った。
「天竜とは別の異常が起きてる。もっと深い場所から、奈落全体へ広がってる」
『今度は何が上がってくる』
「分からない。一匹の反応じゃない。私は転送を続ける。レオンは上へ行って」
『分かった』
短い間があった。
『またな』
《母艦出力再配分――開始》
《広域救難網――停止》
《広域観測――停止》
《自動修復――停止》
《母艦防衛機構――停止》
レムナの照明が、深部側から順番に落ちていく。
第七主層。
第六主層。
修復区画の端から暗闇が広がった。
白夜の内部灯だけが残る。
《母艦管理接続――停止》
《母艦運用状態――最低構造・生命維持》
レムナの表示が消えた。
それでも、私の視界には小さな表示が残っていた。
《状態――正常》
《保有技能――使用可能》
《SP――使用可能》
《第一機動決戦兵装・白夜――接続維持》
石棺で目覚めた時から見えていた表示。
レムナを知るより前から、私の中にあったもの。
母艦の管理接続が切れても消えない。
「あなたは、レムナじゃないの?」
《本機能は母艦運用系統に属しません》
「なら、何なの」
《回答権限がありません》
《主層間通信――停止》
レオンの接触印が消えた。
―――――
第五階層の中央経路は、人間で埋まっていた。
前へ進んでいるのかさえ分からない。
一歩進む。
止まる。
後ろから押され、また一歩だけ動く。
負傷者を載せた担架が曲がり角へ引っかかり、鎧を脱いだ兵士たちが壁へ身体を押しつけて道を空けている。
「右へ寄れ! 左を負傷者に空けろ!」
レオンが叫んだ。
「押すな! 前から順番に流せ!」
怒鳴り声と足音が重なった。
下から化け物が来ている。
誰もが知っている。
それでも前の人間を押し潰せば、列は余計に止まる。
レオンは倒れかけた男の腕を肩へ回し、そのまま流れの中を進んだ。
エルセリアから受け取った経路は、人間側の通信へ流してある。
第六階層は左支線。
二つ先の分岐から道幅が広がる。
第五階層は中央経路を止まらず抜ける。
「左へ入れ! 二つ先で広がる! 負傷者から通せ!」
同じ指示が、別の兵士の声で後方へ繰り返されていく。
列が少しずつ動いた。
その時、足元が軋んだ。
第八階層を貫いたブレスの余震とは違う。
遥か下から響いた音へ、横の岩盤が応じた。
さらに頭上でも、別の亀裂が走る。
一つの場所から来る音ではなかった。
巨大な空洞で響く低音。
細い通路を上へ抜ける振動。
離れた場所で、岩盤が連続して割れる音。
それらが幾重にも重なった。
天竜の身体が立てる音ではない。
一匹の魔物が起こせる振動でもなかった。
奈落そのものが、底から軋んでいた。
足を止め、天井を見上げる者がいた。
「止まるな!」
レオンは叫んだ。
「上だけ見ろ! 前へ進め!」
列は第五階層から第四階層へ流れた。
さらに第三階層へ続く坂へ、人間が押し込まれていく。
レオンは動けない男を別の兵士へ預け、詰まった担架を横へ寄せた。
新しい情報はもう来なかった。
天竜の位置も。
崩れた道も。
次に何が起きるのかも分からない。
それでも、受け取った経路と人間側の通信は残っている。
前方で誰かが叫んだ。
「床が赤い!」
第三階層へ続く通路の亀裂から、赤白い光が漏れていた。
第八階層で見たものと同じだった。
「下からさっきのが来るぞ!」
「壁際へ寄れ!」
「前を進ませろ!」
「担架を倒せ!」
レオンは近くにいた兵士を壁へ押しつけた。
「伏せろ!」
白い光が床を貫いた。
音が消えた。
直後に衝撃と熱が来た。
通路の中央が光へ飲み込まれる。
人間も。
岩盤も。
そこにあった形ごと消えた。
床から天井へ巨大な縦穴が開き、崩れた岩と人間が一緒に落ちていく。
天井から剥がれた岩塊が撤退列へ降った。
前へ逃げる者。
壁へ押しつけられたまま動けない者。
足元を失い、暗闇へ落ちる者。
レオンの身体も壁へ叩きつけられた。
右耳で何かが破裂し、音が遠くなる。
それでも、白い光が止まっていないことは見えた。
ブレスは上層を貫きながら、さらに上へ伸び続けている。
光の下端が、近づいてきた。
その根元から黒い角が現れる。
二本。
角に続いて、黒い頭部が岩盤を左右へ押し広げた。
深淵天竜は放射を止めていなかった。
上を向いたままブレスを吐き続け、自ら穿った経路へ頭部ごと上がってくる。
前脚が穴の縁へかかった。
四本の爪が岩盤へ食い込み、残っていた床が沈む。
白い光は、第二階層から第一階層へ続く撤退路へ伸びていた。
その射線上を、人間の列が埋めている。
警告は来ない。
逃げる場所もない。
レオンは近くにいた兵士の頭を押さえ、壁際へ伏せた。
「動くな!」
―――――
《転送座標候補――検出》
《上層第二階層・新規大規模構造欠損》
《転送対象実体化空間――確保可能》
二度目のブレスが、第二階層までの岩盤を貫いていた。
深淵天竜が上へ進む経路と、人間たちの撤退路が重なった。
生じた構造欠損には、白夜の巨躯と携行兵装を岩盤へ重ねずに転送できるだけの空間がある。
《転送座標――上層第二階層》
《座標固定――完了》
《対象質量隔離――完了》
《転送経路――形成》
《第一機動決戦兵装・白夜――転送準備完了》
白夜の中には、四千九百八十七年前の怒りが残っていた。
黒い湖。
空を覆う竜。
五つの照準。
間に合わなかった声。
今、上層へ侵入している深淵天竜は、記憶の中の黒い竜とは違う。
規模も。
骨格も。
魔力反応も一致しない。
あの黒い竜ではない。
それでも、通せない。
その先には人間がいる。
「行こう、白夜」
《緊急戦術転送――実行》
重さが消えた。
次の瞬間、すべてが戻った。
白夜は床へ立っていなかった。
深淵天竜の頭部、その斜め上へ放り出されていた。
眼下で巨大な顎が開いている。
口腔から放たれた赤白い光が、上層へ伸び続けていた。
白夜の赤黒い翼を開く。
残っていた推進器へ、流せるだけの魔力を叩き込んだ。
《背部推進系統――緊急最大出力》
白夜の巨躯が加速した。
左腕を引く。
戦闘循環液が拳を覆った。
指の間を血糸が締め、仮設関節と内部構造を一つに固定する。
狙ったのは、開いた顎の付け根だった。
拳を振り抜いた。
白夜の左拳が、深淵天竜の頭部を横から殴りつける。
衝撃が腕から肩までを一度に貫いた。
赤黒い外殻が弾けた。
左手の指が二本、逆方向へ折れ曲がる。
肘をつないでいた血糸が、まとめて切れた。
それでも、拳は止まらない。
転送直後の落下。
背部推進器の加速。
白夜の全重量。
そのすべてを、深淵天竜の顎へ叩き込んだ。
巨竜の頭部が動いた。
倒れたのではない。
わずかに横へ弾かれ、そのまま下方へ傾いた。
放射中のブレスも、頭部と一緒に向きを変える。
上層へ伸びていた赤白い光が、白夜の脇をかすめた。
射線が縦穴の壁へ斜めに突き刺さる。
第二階層の側壁を抉り。
その下の岩盤を焼き抜き。
深淵天竜自身の首と胴体を外れて、中層側の巨大空洞へ抜けていった。
遅れて、下方から衝撃が突き上がる。
白夜の身体が吹き飛ばされた。
赤黒い翼を開き、第二階層の壁へ両脚を突き立てる。
岩盤を削りながら、辛うじて止まった。
左腕は肘から先が垂れ下がっている。
仮設外殻の一部が剥がれ、切れた血糸から戦闘循環液が流れ落ちていた。
それでも、ブレスは人間たちへ届かなかった。
第二階層から第一階層へ続く通路には、まだ撤退列が残っている。
その下にも、逃げ切れていない人間がいた。
深淵天竜の頭部が、ゆっくりと持ち上がった。
二つの眼が、初めて上ではないものを見る。
白夜だった。
地上だけを見ていた巨大な瞳の中へ、赤黒い翼を持つ機体が映る。
白夜の観測が、縦穴の奥へ広がった。
第二階層へ現れているのは、頭部と長い首、前脚、胴体の前半だけだった。
残る身体は、ブレスで穿った経路を通って、いくつもの階層の下へ続いている。
黒い鱗。
四本の脚。
岩盤へ押しつけられた二枚の翼。
そのさらに下、中層側の暗闇へ曲がる長い尾。
《超大型生体反応――全体形状取得》
《監視指定個体――深淵天竜》
《推定全長――四百六十七メートル》
《翼開長――測定不能》
全高七十八・四メートルの白夜を六機並べて、ようやく届く長さだった。
それでも、記憶の中の黒い竜とは違う。
あの竜は、一枚の鱗が家より大きかった。
白夜の観測に収まったのは、身体の一部だけだった。
目の前の深淵天竜は巨大でも、一体の生物として全身を捉えられる。
あれではない。
白夜の中に残る怒りが、一度だけ強く脈打った。
それでも、目の前の竜から視線を外さない。
記憶の中の竜とは違う。
だからといって、通していい理由にはならなかった。
深淵天竜の前脚へ力が入る。
四本の爪が岩盤へ深く食い込んだ。
爪の周囲から岩が砕け、太い前脚がせり上がる。
身体を引き上げるたびに、第二階層の床が沈み、残っていた通路へ新しい亀裂が走った。
損傷した左腕へ、戦闘循環液を集める。
折れた指を血糸が引き戻した。
拳を覆っていた液体が伸び、赤黒い刃へ形を変える。
《第一機動決戦兵装・白夜――戦闘行動開始》
深淵天竜が、白夜へ頭部を向ける。
四千九百八十七年前、間に合わなかった白夜が、今は人間と竜の間に立っていた。
第四部《奈落艦レムナ》――完




