第八話 《灰森主》
灰の森は、前に逃げ帰った時と何も変わっていなかった。
黒い幹。
灰白色の葉。
天井の見えない暗闇から、音もなく降り続ける細かな粉。
《血液感知》を広げれば、大小さまざまな生命反応が森の中を動いている。
そのすべてを覆うように、薄く、広い反応があった。
森全体に染み込んだ、一つの大きな何か。
「いる」
分かっていたのに、口の中が乾いた。
脇腹を裂かれた感触を思い出す。
背中へ爪が入った時の冷たさも、身体を木へ叩きつけられた衝撃も、まだはっきり覚えていた。
帰りたい。
今なら、まだ何も失わずに戻れる。
その考えを否定はしなかった。
帰りたくなったら帰ればいい。
死ぬまで戦わないと、決めている。
それでも今日は、前回より先まで進む。
「あれは幽霊じゃない」
身体がある。
血がある。
地面を踏み、爪で傷つけ、木へ身体を擦りつける。
なら、見つける方法はある。
傷つける方法もある。
殺せるかどうかは、そのあと考えればよかった。
私は森へ入った。
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灰森主を探す必要はなかった。
こちらが森へ入ったことは、既に知られている。
前回も、私はずっと見られていた。
《影蔵》から、前日に狩った獣の肉を取り出す。
少量の血を残してあり、その表面には自分の血も塗っていた。
森の外側に置き、その場を離れる。
匂いに反応するのか。
自分の領域へ獲物を置かれたことを嫌うのか。
それとも、私自身しか狙わないのか。
何も分からない。
それでも、何も置かないよりはましだった。
私は第七章で準備した窪地へ戻った。
森の入口に近く、逃げればすぐ石造りの通路へ入れる。
地面には何度か水を運び、灰を湿らせてある。
木と木の間には、簡易的な血の糸を張った。
根元へ切れ目を入れた枯れ木。
進路を狭める大岩。
通路へ続く逃走経路。
すべての位置を覚えている。
あとは、待つだけだった。
木の陰へ座る。
血液感知には、森全体へ広がる反応しかない。
変化はなかった。
かなり待った。
保存肉を少し食べる。
水を飲む。
さらに待つ。
「来ない?」
何日も準備した。
自分の血を貯め、罠を作り、何度も逃げ道を確認した。
それなのに相手が現れなければ、かなり虚しい。
少しだけ緊張が緩んだ時、左側へ張っていた血の糸が震えた。
私は保存肉を《影蔵》へ戻し、立ち上がった。
二本目。
少し前に張った糸も揺れる。
何かが、こちらへ近づいている。
見えるものは何もない。
森全体へ広がる反応も変わらない。
それでも、血の糸は順番に震えていた。
「来た」
灰が僅かに浮き上がる。
私は横へ跳んだ。
直後、巨大な爪が、さっきまで立っていた場所を通り抜けた。
空気が裂け、後ろにあった木の表面が大きく削られる。
前回より早く避けられた。
「見えた」
姿そのものではない。
動いた灰が見えた。
それで十分だった。
《影蔵》から小さな血袋を取り出す。
灰が流れた方向へ投げ、空中で破る。
赤い血が広がった。
何もないように見えた場所へ一部が付着し、巨大な輪郭が浮かび上がる。
長い前脚。
低く太い胴体。
頭から枝のように広がる角。
間違いない。
血の針を三本作る。
一射目は外れた。
二射目が肩へ当たる。
深くは刺さらない。
それでも新しい血が付着した。
灰森主が横へ跳ぶ。
輪郭が森の色へ溶け、再び見えなくなる。
けれど、私の血の反応は右へ移動していた。
「分かる」
すぐには攻撃しない。
前回は、ここで騙された。
右へ動いていた血が、一本の木の前で止まる。
灰森主が身体を幹へ擦りつけている。
数秒後、血の反応は動かなくなった。
私はその場所へ針を撃たなかった。
地面を見る。
湿らせた灰の端へ、深い足跡が現れる。
血を残した木とは、別の方向だった。
「そっち」
後ろへ下がる。
爪が頬を掠めた。
熱い線が走る。
浅い。
前回のような致命傷ではない。
《再生》が傷を塞ぎ始める。
灰森主が低く唸った。
森へ入ってから初めて聞く声だった。
大きな身体の奥から響く音が、灰と木々を震わせる。
怖い。
それでも、足は動いた。
三本目の血の糸が揺れる。
四本目が切れた。
「正面」
血の針を放つ。
一本が前脚へ刺さった。
灰色の身体が一瞬だけ見える。
二本目は甲殻へ弾かれた。
三本目は撃たずに残す。
正式な《血針》ではない。
形を作るたびに血を多く使い、狙いを保つための集中も必要だった。
撃てるからといって、すべて撃てばいいわけではない。
灰森主が地面を蹴る。
私は横へ転がった。
巨大な爪が木を砕き、破片が背中へ当たる。
「強い」
正面から受ければ終わる。
分かっていた。
勝つために必要なのは、力を比べることではない。
私は少しずつ後退し、準備していた窪地へ灰森主を誘導した。
肩へ付着した血は、まだ動いている。
反応が木の近くで止まる。
また血を擦り落とそうとしている。
その瞬間、別の血の糸が震えた。
「まだ動いてる」
止まった血と、動いている身体。
今度は間違えない。
灰森主が突進する。
私は水袋を地面へ投げた。
血糸で縛っていた口をほどき、水を広げる。
湿っていた灰が完全な泥へ変わった。
巨大な前脚が沈む。
見えなかった脚の形が、地面へはっきり残った。
「今」
《影蔵》から、準備していた血を取り出す。
すべてではない。
三分の一。
血を何本もの太い糸へ変え、泥へ沈んだ前脚へ絡める。
正式な《血糸》ではないため、細く強いものにはならない。
灰森主が脚を持ち上げる。
一本目が切れる。
二本目も弾ける。
三本目が僅かに脚へ巻きつき、動きを遅らせた。
完全には止まらない。
止める必要もなかった。
一瞬だけでいい。
私は突進の横を抜けた。
灰森主の爪が服の端を裂く。
身体には届かなかった。
「一つ返した」
前回は避けることすらできなかった。
今回は、自分で作った場所で相手の動きをずらした。
まだ勝ってはいない。
それでも、前回とは違った。
---
戦いは長く続いた。
血を付ける。
木へ擦り落とされる。
糸を張る。
切られる。
泥へ誘導する。
避けられる。
準備していた水が減り、血袋も一つずつ消えていく。
私の身体にも傷が増えた。
腕。
肩。
脚。
どれも前回より浅い。
それでも、傷が増えるほど再生へ血を使う。
自分で操作している血も戻らない。
身体は少しずつ重くなっていた。
「まだ」
灰森主にも傷はある。
血の針が刺さった前脚。
刃が掠めた肩。
血糸で擦れた皮膚。
どれも致命傷には遠い。
それでも、最初より動きが僅かに鈍っていた。
入口を見る。
まだ走って帰れる。
今なら逃げられる。
そのことを確認してから、戦いを続けた。
死ぬまで戦わない。
けれど、まだ死ぬ状態ではない。
灰森主の動きが変わった。
最初は、こちらの罠を気にせず突進していた。
今は、血袋を投げる動作を見れば進路を変える。
泥の場所を避ける。
血の糸が張られた木の間を通らなくなる。
「覚えてる」
戦いながら、こちらの方法を学んでいる。
賢い。
かなり嫌だった。
けれど、罠を避けるということは、進む方向をこちらで選べるということでもある。
残っていた血袋を右側へ投げる。
灰森主が反対の左へ進路を変える。
そこへ血の針を撃つ。
さらに左へ避ける。
その先には、根元へ何度も切れ目を入れた枯れ木があった。
私は走った。
簡易血刃を作る。
枯れ木の根元へ振り下ろす。
一度目。
まだ残る。
二度目。
根が大きく裂けた。
灰森主の反応が近づいてくる。
私は血刃を消し、幹へ両手を当てた。
「倒れて」
全身へ力を込める。
腐りかけた根が軋む。
枯れ木がゆっくり傾いた。
灰森主は右へ避ける。
予想していた方向だった。
そこには、残っていた血の糸をすべて張ってある。
巨大な脚が触れ、何本もの振動が同時に返ってきた。
「そこ」
最後の血袋を投げる。
空中で破裂させる。
赤い血が、灰森主の顔、首、胸へ広く付着した。
巨大な輪郭が、はっきりと現れる。
灰森主はすぐ近くの木へ向かおうとした。
血を落とすつもりだ。
その前に、私は走り出した。
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近づきたくなかった。
前回は、近づかれただけで死にかけた。
今度は、自分から距離を詰めている。
血の反応へ意識を集中する。
首。
肩。
胸。
甲殻の隙間。
巨大な爪が迫る。
横へ跳ぶ。
避けきれない。
爪が脇腹を裂いた。
前回とほとんど同じ場所だった。
「痛い!」
身体が浮き、灰の上へ落ちる。
数回転がった。
脇腹から血が流れている。
前回なら、このまま逃げていた。
今回は、血刃を消さなかった。
灰森主が近づく。
私は膝をついたまま、身体を低くする。
爪が頭の上を通る。
その下へ潜り込んだ。
巨大な胴体の下は暗い。
《血液感知》を集中させれば、身体の中を流れる大量の血が分かる。
心臓は深い。
今の刃では届かない。
狙う場所は決めていた。
首の下。
前回、姿が見えた一瞬に、甲殻が薄い場所を覚えている。
残っていた自分の血を集める。
血袋は使い切った。
ここから使うのは、身体の中に残っている血だった。
危険なのは分かっている。
それでも、ここで届かなければ倒せない。
赤い刃が伸びる。
今まで作った中で、最も長く、厚い刃。
形を維持するだけで指が震えた。
両手で握る。
「やられた分は返す」
灰森主が身体を捻る。
私は地面を蹴った。
細い身体からは想像できない力が脚へ集まり、首の下まで跳び上がる。
甲殻の隙間へ、血刃を突き立てた。
先端が入る。
けれど、浅い。
「まだ」
灰森主が暴れる。
私の身体が木へ叩きつけられた。
背中へ強い衝撃が入り、呼吸が止まる。
手を離さない。
血刃の形が崩れかける。
《血液操作》へ集中し、刃を押し込む。
「入って」
森の主が肩へ噛みついた。
牙が皮膚と肉を貫く。
「痛い!」
腕から力が抜けそうになる。
それでも、血刃へさらに血を送った。
首の中へ入った刃を、横へ広げる。
硬いものへ当たる。
それを避け、柔らかい場所を裂く。
灰森主の首から、大量の血が噴き出した。
口の中へ鉄の匂いが広がる。
森の主が私を放した。
地面へ落ちる。
立ち上がろうとしたが、脚へ力が入らない。
血を使いすぎた。
灰森主は、まだ立っていた。
首から血を流しながら、一歩前へ出る。
「まだ動くの?」
逃げるには遅い。
私は地面へ手をついた。
灰森主の血が、自分の血と混じっている。
体内にある他の生き物の血は、ほとんど動かせない。
けれど、傷口から外へ流れ出た血なら、僅かに干渉できる。
首から流れる血へ意識を向ける。
外へ。
地面へ。
流れやすい方向へ引く。
「出て」
抵抗が強い。
自分の血のようには動かない。
それでも、止まりかけていた流れを、少しだけ広げることはできた。
灰森主の前脚が止まる。
私は残っている集中力をすべて使った。
「もう倒れて」
巨大な身体が傾いた。
地面へ落ちる。
轟音が響き、積もっていた灰が高く舞った。
---
私はすぐには近づかなかった。
灰の向こうに倒れた身体を見たまま、何度も息を吸う。
《血液感知》を向ける。
心臓の反応は弱い。
それでも、まだ動いている。
終わっていない。
近づくのは怖かった。
突然立ち上がるかもしれない。
もう一度爪を受ければ、今度こそ帰れない。
それでも、ここで逃げれば、また同じことを繰り返す。
残っている血で、小さな刃を作る。
灰森主の首へ近づく。
既に深い傷がある。
その中へ刃を入れた。
一度。
心臓の動きが弱くなる。
二度。
さらに遅くなる。
三度目。
反応が止まった。
森が静かになった。
以前まで森全体へ広がっていた、大きく薄い反応も消えている。
本当に、何もなくなった。
私はその場へ座り込んだ。
「勝った?」
視界へ表示が現れる。
《領域主の活動停止を確認》
《討伐対象――灰森主》
「名前、あったんだ」
《討伐報酬》
《SP獲得――5》
「五」
これまで一度に得たSPは、一だけだった。
五あれば、候補になっている技能をいくつか取得できる。
《血刃》。
《血針》。
《血糸》。
《闇幕》。
何を選ぶか考えようとして、別の表示が割り込んだ。
《環境管理生体の停止を確認》
「環境管理?」
《最終環境馴化工程――暫定達成》
《帰還経路を開放》
意味を尋ねる前に、森の奥から低い音が響いた。
岩が擦れ、重い何かが動いたような音だった。
音は長く続き、やがて止まる。
「帰還って、どこに?」
返事はなかった。
森の奥を確かめたい。
けれど、今は立って歩くことすら難しい。
脇腹と肩の傷を治すため、身体が強く血を求めていた。
私は倒れた灰森主を見る。
首から流れた血は、まだ温かい。
「飲む」
迷わなかった。
灰森主の首へ牙を立てる。
一口目。
濃い血が喉を通り、身体の内側が熱くなる。
二口目。
脇腹の傷が塞がり始める。
三口目を飲んだところで、身体の奥に別の感覚が生まれた。
空腹が満たされる感覚ではない。
灰森主の血の中に含まれている何かを、身体が探っている。
《高位生体因子を確認》
私は口を離した。
「何?」
《潜在固有技能の起動条件を達成》
これまで見たものとは違う表示が開く。
《潜在固有技能》
《血統捕食》
灰森主の血に濡れたまま、私はその名前を見つめた。




