第七話 《倍返し》
灰の森から逃げ帰ったあと、私は三日間、森へ近づかなかった。
怖かったからではない、と言えば嘘になる。
背中を裂かれ、肩を抉られ、脇腹には指が入りそうなほど深い傷を受けた。
帰り道で洞窟鼠を見つけられなければ、石棺の部屋まで戻れなかったかもしれない。
だから、まず身体を元へ戻すことにした。
眠る。
起きたら水を飲む。
洞窟鼠や小型魔物を探し、血を補給する。
火を起こし、肉を焼く。
残った肉は細く切り、煙へ当てる。
傷口が完全に消えるまでは、血液操作の練習も控えた。
再生するからといって、失った血や体力まで無限に戻るわけではない。
脇腹へ手を当てる。
もう傷はなかった。
それでも、灰色の爪が身体へ入った感覚は残っている。
「逃げて正解」
火の前で、自分へ言う。
あのまま戦っていたら死んでいた。
死ねば終わりだ。
それは分かっている。
分かっているのに、壁へ描いた森の図を見ると、胸の奥が落ち着かなかった。
「でも、嫌」
負けたことではない。
何もできないまま、ただ逃げるしかなかったことが嫌だった。
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壁へ描いた森の図は、以前より線が増えていた。
森の入口。
最初に背中を裂かれた場所。
肩を攻撃された位置。
脇腹へ爪を受けた場所。
水袋を割った場所。
枯れ木を倒した場所。
逃げた方向。
炭で描いた雑な地図だったが、自分が分かれば問題はない。
私は最初に襲われた場所へ印をつけた。
次に左肩。
最後に脇腹。
「全部、近づかれるまで分からなかった」
《血液感知》が効かなかったわけではない。
むしろ、森へ入った時から、大きな何かの存在は感じていた。
普通の生き物なら、血の反応は一つの場所へ集まっている。
右。
左。
近い。
遠い。
動けば、反応も一緒に動く。
森の主だけは違った。
私は森全体を囲むように、大きな円を描く。
「広すぎた」
一つの巨大な反応が、森全体へ薄く広がっていた。
だから、存在していることは分かっても、本体の位置だけが分からなかった。
次に、円の中へ小さな点を描く。
「でも、私の血がついた時は見えた」
血の針が肩へ当たり、私の血が付着した瞬間だけ、はっきりとした位置が生まれた。
すぐ木へ擦り落とされたが、方法そのものは間違っていない。
私は指先へ傷を作り、一滴の血を浮かせた。
床へ落とす。
目を閉じる。
血の位置が分かる。
部屋の反対側へ移動する。
少し弱くなるが、まだ分かる。
他の生き物の血より、自分の血の方が輪郭を取りやすい。
「印には使える」
問題は、落とされた血と、相手の身体へついている血を見分けられるかだった。
木片へ血を塗り、床へ置く。
別の布にも血をつけ、血液操作でゆっくり動かす。
目を閉じて二つを比べる。
止まっている血。
動いている血。
反応の強さは同じでも、位置の変化は違う。
前回は、血の反応が止まった瞬間、そこに森の主がいると思い込んだ。
「騙された」
血が消えたのではない。
血だけを木へ残され、私はその反応を敵だと思った。
次は、一つの情報だけを信じない。
血の動き。
足跡。
灰の乱れ。
音。
いくつかを合わせて位置を読む。
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傷が消えた翌日、私は灰の森の入口まで行った。
深くは入らない。
入口の近くを調べるだけだった。
森の地面へ積もる灰を踏む。
足跡が残る。
上から粉が降り続けているが、すぐに消えるわけではない。
完全に埋まるまでには、かなり時間がかかった。
次に、水を少量撒く。
乾いた灰が湿り、泥のようになる。
その上を踏む。
先ほどより、足跡が深く残った。
「身体があるなら、跡は残る」
見えなくても、消えているわけではない。
爪で私を傷つけ、地面を蹴って移動する身体がある。
なら、触れさせれば位置が分かる。
入口の周囲も調べ直した。
森と通路の境目は、不自然なほど明確だった。
灰色の植物は境界を越えて生えていない。
降り続ける粉も、通路の奥までは入ってこない。
前回は私が森を出た瞬間、広く薄い反応も消えた。
森の主が追ってこなかっただけかもしれない。
けれど、あの力が森の内部でしか使えない可能性はあった。
「奥で戦わない」
前回は、相手が支配している場所へ自分から入った。
今度は入口の近くへ誘い出す。
逃げることになっても、すぐ通路へ戻れる場所。
私は入口付近を歩き回った。
少し低くなった窪地。
大きな岩。
太い木。
根元が腐りかけた枯れ木。
通路へ続く直線的な逃げ道。
「ここ」
地面へ印をつける。
戦う場所を、相手に決めさせない。
自分で選ぶ。
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次は、森の主へ触れたことを知らせる仕掛けだった。
血を細長く伸ばす。
正式な《血糸》はまだ取得していない。
それでも、《血液操作》の練習を続けたことで、太く短い糸に近いものなら作れる。
一メートル。
両端を石へ固定する。
軽く触れる。
血の線が揺れた。
《血液操作》を通して、その震えが僅かに分かる。
「通ったら分かる」
二メートルまで伸ばす。
途中で千切れた。
もう一度。
今度は少し太くする。
血の消費量は増えるが、形は保ちやすい。
石棺の部屋の入口へ張り、自分で跨ぐ。
脚が触れた瞬間、振動が返ってくる。
見なくても分かった。
「使える」
問題は、戦いながら複数の血を感じ取れるかだった。
壁へ血の線を張る。
反対側には血を塗った布を置く。
その状態で血針を作り、壁へ向けて放つ。
針の操作へ集中すると、糸の僅かな揺れを見失う。
最初からやり直す。
糸の振動を意識しながら、針を作る。
今度は針が壁を外れた。
「難しい」
一つずつならできる。
同時に使うと、どちらかが乱れる。
それでも練習を続けた。
血を使う。
身体が重くなったら中断する。
洞窟鼠を狩り、血を飲む。
食事を取る。
身体を洗う。
眠る。
翌日、また血を伸ばす。
何度も繰り返した。
一週間ほど経った頃、表示が現れた。
《技能熟練度の上昇を確認》
《血液操作 Lv.2》
《血液操作 Lv.3》
指先から伸びていた血の線が、以前より安定した。
複数の血を動かす時にも、それぞれの形を保ちやすくなっている。
「上がった」
少し嬉しかった。
ただし、技能レベルが上がっても、血を使えば減ることは変わらない。
森の主との戦闘中に、必要な分をすべて自分の身体から出せば、また血が足りなくなる。
そこで、自分の血を少量ずつ貯めることにした。
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小型魔物を狩り、血を十分に飲む。
身体の渇きが消えたあとで、自分の血を少しだけ抜く。
獣皮で作った小さな袋へ入れ、口を血糸で縛る。
それを《影蔵》へ保管する。
一度に多くは抜かない。
身体へ負担を残さない量だけ。
翌日、また少し。
その次の日も、同じように貯める。
ただし、《影蔵》へ入れても、血が完全に保存されるわけではなかった。
時間が経つと粘りが増し、固まり始める。
古くなった血は《血液操作》への反応が鈍くなった。
《技能構造を確認》
《新規技能候補》
《血液保存》
《血液の凝固および劣化を抑制する系統技能》
《必要SP――2》
「また増えた」
保有SPはない。
取得できない以上、使える状態の血だけを選ぶしかなかった。
再戦まで長く時間を空けず、古くなりすぎる前に使う。
小さな袋へ分けた血には、用途を決めた。
相手へ投げ、位置を知るための血。
地面へ撒くもの。
糸を作るためのもの。
最後の血刃へ使うもの。
「弾薬みたい」
袋の中身は、自分の血だった。
あまり気分のいい言葉ではない。
「私のだけど」
それでも必要だった。
森の主は大きい。
一度針を当て、一度刃を刺すだけでは倒せない。
《影蔵》があれば、保存血と水を持ったまま両手を空けられる。
影そのものに攻撃力はない。
けれど、戦うために必要なものを運び、必要な瞬間に取り出せる。
「影、便利」
生活のために取得した能力が、戦いの準備にも役立っていた。
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準備を続けても、怖さがなくなったわけではない。
夜、石棺へ入る。
目を閉じる。
灰が揺れる。
見えない爪が背中へ入る。
脇腹を裂かれ、身体が地面へ投げ出される。
目を覚ます。
傷はない。
それでも、脇腹へ手を当ててしまう。
「行きたくない」
誰にも聞かれない場所で、本音を口にする。
森の主を倒さなければ、明日すぐに死ぬわけではない。
灰の森を諦め、洞窟の奥だけで暮らす方法もある。
ただ、獲物は減っている。
森には水も、食料も、素材もある。
何より、あれが森の外へ出られない保証もなかった。
いつか石棺の部屋へ近づいてくるかもしれない。
知らないまま怯えて暮らすのは嫌だった。
翌朝には、また準備を始める。
血の糸を張る。
水袋を作る。
森の入口へ行き、枯れ木の位置を確認する。
根元へ少しずつ傷を入れ、必要な時に倒れやすくする。
入口から石棺の部屋までの道も何度も歩いた。
逃げる時、迷わないためだった。
勝つために準備する。
同時に、逃げるための準備もする。
「死ぬまで戦わない」
勝てないと思ったら、帰る。
前回逃げたことは間違いではない。
だから次も、必要なら逃げる。
ただし、前回よりは何かを残してから帰る。
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再戦する場所へ水を撒く。
灰が湿り、泥になる。
自分で踏み、足跡の残り方を確かめる。
木と木の間へ、簡易的な血の線を張る。
一つ。
二つ。
三つ。
それぞれへ触れ、どの方向から振動が返るのかを覚える。
戦いの最中に、すべてを正確に感じ取れるとは思わない。
それでも、何も分からなかった前回よりはいい。
灰。
泥。
血の糸。
倒れかけた枯れ木。
岩。
森の入口。
通路へ続く逃げ道。
私だけが配置を知っている場所。
初めて、それを戦場だと思った。
これまでは、魔物がいる場所へ行き、その場で戦っていた。
今度は違う。
相手をここへ連れてくる。
位置を暴く。
動きを鈍らせる。
血をつける。
最後に、近づく。
私は石棺の部屋へ戻り、壁へ手順を書いた。
見えない。
触れさせる。
血をつける。
動きを止める。
首を狙う。
少し離れて見る。
「できそう」
勝てるとは言わなかった。
それでも、前回よりはずっとましだった。
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出発する前に、身体を洗った。
簡易浴槽へ水を運び、火で温めた石を入れる。
施設の存在はまだ知らない。
今使える風呂は、自分で作ったものだけだった。
ぬるい水へ身体を沈める。
戦う前に風呂へ入る必要はない。
ただ、血と煙の臭いが残ったまま森へ行きたくなかった。
身体を洗い、長い黒髪も水へ浸す。
風呂から上がったあと、髪が乾くまで火の近くへ座った。
食事を取る。
肉を焼き、根を煮る。
血も十分に補給する。
《影蔵》の中身を一つずつ確認した。
保存血。
水袋。
保存肉。
布。
火種。
全部ある。
獣皮で作った服を着る。
家の中では裸でいることも増えたが、灰の森には枝と爪を持つ魔物がいる。
動きにくくても、肌を直接晒すよりはよかった。
火を消す。
石棺。
石の器。
壁の地図。
似ていないドラ○もん。
自分で作ったものを順番に見る。
ここへ戻りたいと思った。
だから、出発する前に口へ出す。
「帰る」
少し考え、言い直した。
「帰ってくる」
私は家を出た。




