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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第一部《一人で生きる》

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第六話 《見えない主》

最初の異変は、死体のない血痕だった。


灰色の角を持つ四足獣を、三日ほど観察していた。


毎回同じ水場を通り、灰の積もった開けた場所で休む。


身体が大きく、血も肉も多い。


行動が分かれば、待ち伏せできると思った。


予定していた場所へ行く。


獣の反応はなかった。


代わりに、地面へ大量の血が広がっていた。


「死んだ?」


しゃがんで確かめる。


まだ完全には乾いていない。


血液感知に獣の反応はなく、周囲にも死体は見当たらなかった。


引きずった跡もない。


少し離れた木には、深い傷が残っていた。


私の腕より太い枝が、途中から折れている。


血を残した獣を、その場から持ち去ったものがいる。


「何かいる」


灰の森に強い魔物がいること自体は不思議ではない。


しかし、あれだけ血を流した獲物を、ほとんど跡を残さず運べる。


少なくとも、私がこれまで戦った相手より大きい。


警戒はした。


けれど、その日は帰らなかった。


次に気づいたのは、森の音だった。


枝の上を走る小さな生き物。


灰を踏む音。


遠くから聞こえる鳴き声。


灰の森は静かに見えても、完全な無音ではない。


ある場所を越えた途端、それらが消えた。


私は足を止めた。


周囲には木があり、降る灰も変わらない。


それでも、生き物の音だけがなかった。


《血液感知》を広げる。


反応はある。


しかし、場所を判断できない。


右にもある。


左にもある。


前にも、後ろにも。


一つの大きな反応が、森全体へ薄く広がっているように感じた。


「何、これ」


一歩後ろへ下がる。


反応は変わらない。


距離が近づいた感覚も、遠ざかった感覚もなかった。


「嫌」


その日は、そこで引き返した。


翌日、私は同じ場所へ戻った。


怖くないわけではない。


むしろ、行きたくなかった。


それでも、この森は拠点から遠くない。


食料や素材を得るための生活圏にもなり始めている。


近くに強い何かがいるなら、知らないままでいる方が危険だった。


水と保存肉を《影蔵》へ入れる。


両手を空け、指先へ傷を作った。


流れた血を簡易血刃へ変える。


「行く」


静かな森へ入った。


深部へ進むほど、地面の灰が厚くなる。


足首近くまで沈む場所もあった。


血液感知に広がる反応は、昨日と同じだった。


大きすぎて、輪郭を取れない。


何度も立ち止まり、木々の間を見る。


何もいない。


枝も揺れない。


背中へ冷たい感覚が走った。


考えるより先に、前へ跳ぶ。


それでも遅かった。


背中へ鋭いものが入り、服代わりの布と皮膚をまとめて裂いた。


「っ!」


地面を転がり、すぐに起き上がる。


背中から血が流れている。


《再生――発動中》


振り返る。


何もいない。


灰の上には、私の転がった跡しかなかった。


「どこ」


血液感知には、相変わらず森全体へ広がる反応しかない。


血刃を構え、身体の向きをゆっくり変える。


右側で小さな音がした。


そちらへ刃を振る。


空を切った。


次の瞬間、左肩へ強い衝撃を受けた。


身体が地面から浮き、木の幹へ叩きつけられる。


息が止まる。


肩から新しい血が流れた。


「見えない」


木へ手をつき、無理に身体を起こす。


逃げるべきだった。


けれど、背を向けても、どこから攻撃されるか分からない。


簡易的な血の針を作り、周囲へ放つ。


一本目は木へ当たる。


二本目は灰の中へ落ちる。


三本目も何かへ触れた感覚はなかった。


「出てきて」


返事はない。


少しずつ帰り道の方向へ下がる。


血液感知へ意識を集中させる。


反応がないのではない。


あまりにも広く、周囲の木々や灰の中へ薄く混ざっている。


一つの生き物が、森全体とつながっているようだった。


「これが一匹?」


前方の灰が僅かに盛り上がった。


私は横へ跳ぶ。


直後、巨大な何かがさっきまで立っていた場所を通過した。


一瞬だけ姿が見えた。


灰色と黒の入り交じった身体。


地面へ届くほど長い脚。


低く、太い胴体。


頭部からは、枯れ枝のように広がった角が伸びていた。


六メートルでは足りない。


角まで含めれば、それ以上ある。


次の瞬間には、木々と灰の色へ溶け込むように姿が消えた。


透明になったわけではない。


身体の表面も動きも、周囲の景色へ合わせている。


血液感知まで森全体へ広げているため、位置を絞れない。


「主みたい」


表示は出なかった。


名称も分からない。


けれど、森の生き物が静かになる理由は分かった。


私は入口へ向かって走った。


背後から足音は聞こえない。


呼吸も、枝を折る音もない。


それが余計に怖かった。


普通の生き物なら、大きな身体を動かせば音がする。


あれは、自分がいる森そのものを動かしているようだった。


「無理」


このままでは、次の攻撃が分からない。


走りながら腕へ傷を作り、血を左右へ投げる。


木の幹。


地面。


灰の上。


自分の血なら、血液感知ではっきり位置が分かる。


複数の印の間を、何かが通った。


右側へ置いた血が弾ける。


私は反対方向へ跳んだ。


巨大な爪が頬を掠める。


「そこ!」


血の針を放つ。


今度は手応えがあった。


灰色の身体が一瞬だけ現れる。


血の針は深く刺さらなかったが、相手の肩へ私の血が付着した。


血液感知の中に、明確な一点ができる。


「見つけた」


その一点が木へ近づく。


巨大な身体が幹へ肩を擦りつけ、付着した血を落とした。


反応が再び森全体へ溶ける。


「ずるい」


その間に距離を詰められていた。


横へ避ける。


間に合わない。


爪が脇腹へ入り、身体ごと持ち上げられた。


地面へ叩きつけられ、何度も転がる。


息ができない。


腹へ手を当てると、指が傷の中へ入りそうなほど深く裂けていた。


《生命状態――低下》


《再生――発動中》


《血液残量――減少》


《渇血――上昇》


「最悪」


傷を治すためにも血を使う。


そのせいでさらに血が減り、再生が遅くなる。


初めて、はっきりと思った。


このままでは死ぬ。


勝てない。


悔しいかどうかを考える余裕はなかった。


今ここで倒す必要もない。


帰る。


生きる。


それだけでよかった。


《影蔵》へ手を入れ、保存肉を取り出して遠くへ投げる。


反応はない。


相手は肉ではなく、私を狙っている。


次に水袋を取り出した。


少し迷ってから、地面へ叩きつける。


苦労して作り、運んできた水が灰の上へ広がる。


乾いた灰が濡れ、色が濃くなる。


私はその上を通って逃げた。


背後の濡れた地面へ、大きな足跡が沈んだ。


「そこ」


足跡と反対側へ跳ぶ。


爪を完全には避けられず、脚を浅く裂かれる。


それでも走れる。


私は腕を切り、自分の血を左右の木へ投げた。


地面にも落とす。


血の反応をいくつも作り、その間を抜けるように走る。


あれが何を目印に私を追っているのかは分からない。


匂いか。


血か。


動きか。


少しでも迷えば、それでよかった。


森の入口はまだ遠い。


脇腹の傷から血が流れ、脚も痛む。


それでも身体を動かした。


根を飛び越え、木を蹴って方向を変える。


《血液感知》へ広がる大きな反応は、離れない。


前方に、根元が腐った太い木が見えた。


走りながら簡易血刃を作り、根へ振る。


一度では切れない。


もう一度。


背後の反応が近づく。


間に合わない。


私は血刃を消し、幹へ両手を当てた。


「倒れて」


全身へ力を込める。


細い身体には見合わない力が、腕と脚へ集まった。


腐っていた根が裂ける。


木が傾く。


私は横へ跳んだ。


直後、巨大な灰色の影が接近する。


倒れた木が轟音を立て、進路を塞いだ。


地面が揺れ、灰が空中へ舞う。


相手を倒せたとは思わない。


確認もせず、走り続けた。


森の入口が見える。


岩壁に開いた通路。


あそこまで行けばいい。


血液感知には、まだ森全体へ広がる反応がある。


通路へ飛び込んだ瞬間、その反応が途切れた。


私は止まらなかった。


右へ曲がる。


壁の印を確認する。


左。


次の分岐も右。


石棺の部屋へ続く道を走る。


途中で脚から力が抜け、床へ倒れた。


「まだ」


壁へ手をついて立ち上がる。


数歩進み、また膝をついた。


血が足りない。


再生も止まりかけている。


近くで小さな血液反応が動いた。


洞窟鼠だった。


こちらに気づき、逃げようとする。


私は床を蹴り、飛びついた。


首を掴む。


牙を立てる。


最初の時のように、謝る余裕はなかった。


生きるために血を飲む。


熱が喉を通り、少しだけ身体が戻る。


私は再び歩き出した。


石棺の部屋へ着いた時、火は消えていた。


壁へ手をつきながら中へ入る。


「帰った」


返事はない。


誰もいない。


それでも口に出したかった。


布と草を敷いた石棺へ倒れ込む。


背中も脇腹も痛い。


身体が熱く、意識が遠くなる。


目を閉じる前に、灰の森へ続く通路を見た。


「やられた」


それだけ言って、意識を失った。


次に目を覚ました時も、火は消えたままだった。


どれくらい眠っていたのか分からない。


身体が重い。


起き上がるまでに時間がかかった。


水を飲み、残っていた保存肉を食べる。


血も必要だが、まず動けるようにならなければ狩りへ行けない。


傷はほとんど塞がっていた。


脇腹には細い線が残り、それもゆっくり薄くなっている。


私は石棺の縁へ座った。


見えなかった。


位置も分からなかった。


大きく、速く、力も強い。


こちらの血で印をつけても、すぐに落とされた。


水で濡らせば足跡は見えたが、それだけで攻撃へ移る余裕はなかった。


完敗だった。


怖い。


もう一度行きたいとは思わない。


それでも、灰の森は拠点の近くにある。


食料も、水も、使える素材も多い。


あの大きな生き物が通路の外へ出てくる可能性も、ないとは言い切れない。


何より、一方的にやられたまま終わるのが嫌だった。


「……嫌」


逃げた判断は正しかった。


生きて帰れた。


けれど、次も同じことをすれば、今度は死ぬ。


候補一覧を開く。


《血刃――1SP》


《血針――2SP》


《血糸――2SP》


《闇幕――2SP》


《保有SP――0》


「足りない」


力も、SPも、勝ち方も足りていない。


私は火を起こし直した。


乾いた繊維へ火種を移し、細い枝を重ねる。


水を飲む。


肉を食べる。


まずは身体を戻す。


今すぐ森へ行くつもりはなかった。


同じ状態で戻れば、本当に死ぬ。


壁に残していた炭を手に取り、森の形を描く。


木。


灰。


大きな角を持つ生き物。


自分。


血を投げた場所。


水で足跡が見えた場所。


攻撃の直前、灰が動いた方向。


思い出せることを、すべて壁へ残した。


見えないなら、どうやって見つけるのか。


位置が分かっても勝てないなら、どうやって動きを止めるのか。


「次」


勝つとは、まだ言わなかった。


まずは、生きて戦える方法を考えるところからだった。

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