第五話 《灰の森》
生活が安定すると、今度は生活圏の狭さが気になり始めた。
石棺のある部屋を中心に、水場、便所、狩り場までの道を何度も往復している。曲がり角や分岐には自分で印を残してあり、暗い通路でも迷うことはほとんどなくなった。
水はある。
火も起こせる。
眠る場所と、少量の保存肉もある。
以前と比べれば、かなり暮らせるようになった。
問題は、獲物だった。
《血液感知》へ意識を向けても、近くにいる生き物の反応が少ない。
以前は石棺の部屋からそれほど離れなくても洞窟鼠を見つけられた。しかし最近は、血を持つ反応を一つ探すだけで、いくつもの通路を調べなければならない。
「減った」
私が狩ったからなのか。
強い魔物が周囲の獲物を食べたのか。
それとも、別の場所へ移動しただけなのか。
理由は分からない。
それでも、食料を増やすには、これまで避けていた場所へ進む必要があった。
「もう少し広げる」
生活圏を広げることにした。
問題は、持っていく荷物だった。
探索する距離が長くなれば、水と保存肉が必要になる。火種に使える乾いた繊維や布も持っていきたい。
帰りには、食料や素材を持ち帰るかもしれない。
獣皮で作った袋を背負い、もう一つを手に持って歩く。
狭い通路を曲がるたびに、袋が壁へ当たった。
岩の突起へ引っかかり、何度も立ち止まって外さなければならない。魔物が現れれば、まず袋を床へ置く必要があった。
「邪魔」
自分で作ったものなのに、かなり邪魔だった。
休憩のために荷物を下ろし、足元を見る。
暗い通路でも、私の影だけは輪郭が分かった。
光源の位置を考えれば、影ができること自体がおかしい。
火も照明もない。
それでも黒い形が足元へついてきている。
私は尖った石を影の上へ置いた。
「入らない?」
何も起きなかった。
「収納」
影にも、表示にも変化はない。
石を手に取り、再び袋へ入れる。
理由があって試したわけではなかった。
血を扱える。
暗闇でも見える。
吸血鬼に近い形質を持っている。
それなら、影にも何かできるかもしれない。
その程度の思いつきだった。
探索中、荷物を置くたびに影へ押し込もうとした。
一度目は変化なし。
二度目も同じだった。
三度目に水袋を影へ重ねた時、視界へ表示が現れた。
《技能構造を確認》
《新規技能候補を生成》
《影蔵》
《影を媒介として、物品を保管する系統技能》
《必要SP――1》
「出た」
候補一覧を開く。
《血刃――1SP》
《血針――2SP》
《血糸――2SP》
《影蔵――1SP》
《保有SP――0》
「知ってる」
取得したいものばかりが増えていく。
SPは増えない。
少し腹が立ったが、今はどうすることもできなかった。
私は表示を閉じ、袋を背負い直した。
それから数日かけて、これまで避けていた通路を少しずつ調べた。
奥へ進むほど、周囲の形が変わっていく。
石棺の近くにあった壁は、人工的に切り揃えられているように見えた。床にも金属や管が埋め込まれ、崩れた棚らしいものが残っている。
しかし、奥では自然の岩肌が増えていた。
壁の亀裂から細い根が伸び、床には湿った土が混じっている。
空気にも土と植物の匂いがあった。
「何かある」
通路の先へ進む。
やがて岩壁が途切れ、視界が一気に広がった。
私は入口で足を止めた。
森があった。
空はない。
遥か上には、黒い岩盤のような天井がある。その高さは分からないほど遠く、ところどころに薄い白色の光が浮かんでいた。
太陽や月の光ではない。
天井に埋め込まれた鉱石か、壊れかけた照明のようにも見える。
その下に、何百本もの木が生えていた。
幹は黒く、葉は灰白色だった。
地面にも細かな灰が積もっている。
風は感じない。
それなのに、天井の方から灰に似た粉がゆっくりと降り続けていた。
私は手のひらで受け止める。
指で擦ると、乾いた粉が白い肌へ広がった。
燃えた木の灰とは少し違う。
細かい砂と、金属の粉を混ぜたような手触りだった。
「外?」
《現在地情報を照合》
《該当区画――登録情報欠損》
「分からない?」
《肯定》
外ではない。
空もなく、風もない。
しかし、今まで歩いてきた洞窟とも明らかに違っていた。
《血液感知》を広げる。
一つ。
三つ。
七つ。
さらに奥には、数え切れないほどの反応があった。
「食べ物がいる」
それが最初の感想だった。
最初の日は、森へ深く入らなかった。
入口の周囲を調べ、帰り道を確認する。
少し進んでは戻る。
翌日は、前日よりも遠くまで歩く。
同じような灰色の木が並び、目印になる景色が少なかった。
洞窟なら壁へ傷を残せる。
しかし森では、地面へ残した足跡が降り積もる灰に隠されていく。
私は石を積み、木へ布を結んだ。
地面の根元にも、簡易血刃で深い傷を入れる。
それでも何度も振り返った。
「帰れなくなるのは嫌」
一人で暮らしている。
迷っても、探しに来る者はいない。
だから慎重に進んだ。
森の外側には、今まで見たことのない植物が生えていた。
灰色の殻を持つ実。
土の中へ深く伸びた白い根。
触ると青い汁を出す葉。
どれも、すぐには食べなかった。
匂いを確かめる。
舌先へ少しだけ触れる。
問題がなければ、ごく少量を飲み込み、その日はそれ以上食べない。
口へ入れた瞬間に舌が痺れた実は、すぐに吐き出した。
「これは駄目」
水で何度も口を洗う。
《鑑定》を取得していれば、もっと簡単に調べられたのかもしれない。
最初のSPで《血液操作》を選んだことを、少しだけ考える。
けれど、あの時に血を扱えなければ、黒い獣に殺されていた可能性が高い。
「間違ってない」
誰も責めてはいない。
それでも、自分へ言い聞かせた。
灰の森へ入り始めてから、およそ十日が過ぎた。
入口から小さな水場までの往復経路を決め、危険な場所と比較的安全な場所も少しずつ分かってきた。
その帰り道、表示が現れた。
《功績達成》
《新規生存圏への安全往復経路を確立》
《SP獲得――1》
「来た」
すぐに候補一覧を開く。
《保有SP――1》
《血刃――1SP》
《血針――2SP》
《血糸――2SP》
《影蔵――1SP》
迷った。
《血刃》を取得すれば、今使っている簡易血刃より強く、安定した刃を作れるはずだった。
戦闘にも解体にも役立つ。
かなり欲しい。
私は背負っている獣皮の袋を見る。
水と保存肉が入り、行きよりも重くなっていた。手には森で見つけた実と、使えそうな植物を入れた袋がある。
簡易血刃は、不安定でも作ることができる。
荷物は、自分で持つ以外に方法がない。
「《影蔵》にする」
《影蔵を取得しますか》
「うん」
《SPを1消費》
《保有SP――0》
《技能取得》
《影蔵 Lv.1》
足元の影を見る。
見た目には何も変わっていない。
「どうやって使うの?」
《技能使用を推奨します》
「それが分からない」
試しに、手に持っていた袋を影の上へ置く。
影の中へ沈むように意識する。
袋の底が、黒い面へ少しだけ入った。
「入った」
両手で押す。
袋がゆっくりと沈み、最後には影の中へ消えた。
私はしばらく足元を見つめた。
袋はない。
影の中に、何かが入っている感覚だけがあった。
「返して」
影から袋の端が出てくる。
引き上げると、中の実も植物もそのまま残っていた。
「すごい」
もう一度入れる。
今度は水袋を入れる。
尖った石と保存肉も続けて入れる。
両手が空いた。
背中にも重さがない。
少し歩いても、影は離れず足元へついてきた。
「便利」
かなり便利だった。
《影蔵 Lv.1》へ入れられる量は多くない。
私の身体より大きな物は入らず、生きているものにも反応しなかった。
長い枝や骨は、向きや角度を変えなければ収まらない。
それでも、水、食料、布、簡単な道具を持ち歩ける。
戦闘の前に荷物を捨てる必要もなくなった。
この時の私にとって、影は武器ではなかった。
生活を少し楽にする収納だった。
それで十分だった。
灰の森には、洞窟より強い魔物もいた。
最初に遭遇したのは、全身を灰色の甲殻で覆われた四足獣だった。
私より一回り大きく、背中から尾まで硬い板状の殻が重なっている。
《血液感知》で先に存在へ気づき、木の陰へ隠れた。
相手が近くを通ったところで、簡易血刃を作る。
背後から首を狙った。
刃が甲殻へ当たり、弾かれた。
「硬い」
四足獣が振り返る。
距離を取り、突進を横へ避ける。
正面からでは刃が通らない。
私は木を蹴って背中へ乗り、甲殻と甲殻の間へ血刃を差し込んだ。
何度も刺す。
獣が身体を振り、木へ背中を叩きつけようとする。
落とされる前に首の近くまで移動し、隙間へ深く刃を入れた。
獣の身体が大きく揺れ、地面へ倒れる。
簡単ではなかったが、勝てた。
首の隙間へ牙を立てる。
これまでの洞窟鼠より血が濃く、飲むと身体の内側が強く熱を持った。
しばらく待ったが、表示に変化はなかった。
「能力は増えない?」
《技能または形質の新規獲得反応――なし》
「そう」
少し残念だった。
それでも、肉は多く、硬い甲殻も素材に使える。
以前なら持ち帰ることを諦めていた量だった。
今は《影蔵》へ入れられる。
「取ってよかった」
森の奥へ進むほど、戦い方も変わった。
正面から姿を見せる魔物が少ない。
木の上。
灰の中。
根の裏側。
視界に入らない場所から襲ってくる。
《血液感知》があっても、森の中には反応が多すぎた。
小型生物、植物の根元へ潜む虫、木の中を動く何か。
その中から、こちらを狙っているものだけを見分けるのは難しい。
一度、小型魔物を追っている最中に背後から襲われた。
肩を噛まれ、振り返る暇もなく地面へ倒される。
相手の身体を掴み、近くの木へ叩きつけたあと、血刃で首を切った。
翌日は木の上から爪が伸び、頭を掠めた。
私は反撃せず、その場から逃げた。
「見えないのは嫌」
こちらから敵が見えない。
けれど、相手からは私が見えている。
暗い木陰へ座り、足元の影を見る。
《影蔵》で物を入れられるのなら、影にはまだ別の使い方があるかもしれない。
周囲の木々が落とす影へ意識を伸ばす。
自分の身体を、その暗さへ溶かすように考える。
すぐには何も起きなかった。
「見えなくしたい」
影が僅かに揺れた。
視界の端へ表示が開く。
《技能構造を確認》
《新規技能候補を生成》
《闇幕》
《一定範囲の視界を遮断し、範囲内の影を接続する系統技能》
《必要SP――2》
「また二」
保有SPはない。
候補だけ確認し、表示を閉じた。
自分が見つかるなら、相手からも見えなくする。
まだ取得できない。
それでも、次に必要な力は分かった。
その日の帰り道、目印に結んだ布が一本だけ地面へ落ちていた。
布は切れていない。
結び目も残っていた。
枝から、結び目の形を崩さずに外されている。
私は布を拾い、周囲を見た。
血液反応は多い。
けれど、近くに大きなものはいない。
「誰か触った?」
返事はなかった。
灰色の木々の間には、何も見えない。
それでも、森へ入った時からずっと、どこかで見られていたような気がした。




