第二十六話《止める》
第一主層の壁面へ、第三主層の広域観測情報を呼び出した。
奈落を縦に切った断面図が表示される。
レオンから聞いた人間側の進行予定を、その上へ重ねた。
第一階層の旧中継拠点は、増員された先遣隊によって再確保されている。
そこを起点に補給所と治療所を置きながら、中央経路を第十階層まで延ばす計画だった。
第十階層は、入り組んだ上層の最下部にある。
その先で細い通路は途切れ、中層の巨大空間へ開いていた。
人間側も、中層へ進出するつもりはない。
第十階層まで退路と搬送路を通し、中層との境界へ観測拠点と防衛線を置く。その先から上がってくるものを、できるだけ早く見つけるための計画だった。
まだ、集まる予定の二万人すべてが奈落へ入ったわけではない。
先に降りた兵士と工兵が通路を確保し、後続が使う階層拠点を作っている。
緊急招集された探索者たちも、軍の先遣隊へ組み込まれていた。
レオンは、その探索者側の代表を任されている。
軍へ命令する権限はない。
けれど、探索者部隊の配置と進退を、レオンの意見を無視して決めることもできなかった。
旧中継拠点を通過した人間から、救難網への簡易登録も進められている。
壁面へ映る反応は、少しずつ増えていた。
人間側の進行予定よりも下に、二つの巨大な反応がある。
《監視指定個体――深淵天竜》
《反応位置――中層域》
《前回観測位置より上方へ変位》
《地上方向への継続移動――未確認》
以前に見た位置より浅い。
中層には、上層の通路とは比べものにならないほど大きな空間が広がっている。
その中を移動しただけかもしれない。
まだ地上へ向かっているとは表示されていなかった。
もう一つの反応を開く。
《監視指定個体――深淵航鯨》
《反応位置――中層深部》
《進行方向――水平》
《地上方向への移動――未確認》
航鯨は、天竜より深い位置を横へ移動している。
過去の観測記録では、推定全長一一四〇メートル。
背部には複数の生体反応が記録され、一体の生物というより、動く生態系に近い。
現在の観測で分かるのは、大まかな位置と進行方向だけだった。
人間の進む経路と、二つの反応を同じ壁面へ表示する。
今は重なっていない。
人間は上層にいる。
二体は中層にいる。
けれど、第十階層は、その巨大な空間へ通じる最後の足場だった。
深淵天竜がさらに上がれば、最初に近づくのはそこになる。
レオンの接触印を開いた。
「レオン」
『どうした』
人の足音と、工具が触れ合う音が聞こえた。
誰かが運び込まれた資材の数を読み上げている。
レオンも、すでに奈落へ入っていた。
「第十階層の先へ行かないで」
『中層には入るな、か』
「うん」
『何か見えたのか』
「中層に、大きいものが二ついる」
『深淵天竜と、深淵航鯨か』
言おうとしていた名前を、先に言われた。
「……どうして知ってるの?」
『今は位置が先だ。天竜はどこにいる』
「まだ答えてない」
『悪い。だが、教えてくれ』
二体の名前を知っている人間がいるとは思っていなかった。
少なくとも、私が知る限りでは。
「天竜は、前に見た時より浅い」
『どれくらい上がった』
「正確な位置までは分からない。まだ中層にいる」
『航鯨は』
名前だけではなかった。
天竜の次に、迷わずもう一体の状態を聞いた。
「もっと深い。まだ横に動いてる」
レオンが短く息を吐いた。
安心した音には聞こえなかった。
『もう、天竜がそこまで上がってるのか』
「また、何かと比べた」
返事はなかった。
「二体の名前も知ってた」
『ああ』
「私は話してない」
『知ってる』
「どこで知ったの?」
足音が止まった。
周囲の人間は動き続けている。
レオンだけが、その場に立ち止まっていた。
『今は答えられない』
「また、それ?」
『悪い』
「いつなら答えるの?」
少しの間があった。
『全部が終わったあとでも、お前がまだ聞きたいなら話す』
何が終わるのかは言わなかった。
「軍を止めて」
『全部を止めるのは無理だ』
「やる前から決めるの?」
『二万人の動員を止められる人間は、今ここにはいない』
「レオンは代表なんでしょ」
『探索者側のな。軍へ命令はできない』
「じゃあ、探索者を止めて」
『それはできる』
レオンの足音が再び動き始めた。
『だが、探索者だけ止めれば、軍は工兵と兵士だけで進もうとする』
「止まらないの?」
『先へ出る人数は減る。だが、それだけじゃ足りない』
「どうするの?」
『まず、前進を止める時間を作る。その間に情報を確認させる』
「信じてもらえる?」
『信じさせる必要はない。無視できなくすればいい』
私の観測情報を、そのまま人間へ見せることはできない。
第三主層に残る記録を開いた。
旧中継拠点が再起動したあとにも、天竜は高密度の魔力を放っている。
その直後、周囲にいた反応の一部が消えた。
残った群れも、一斉に進路を変えている。
同じ期間、航鯨の移動と重なる時刻には低い振動が記録されていた。
発生する方向は固定されず、時間とともに横へずれている。
二体そのものが見えなくても、同じ現象なら、人間側の旧式観測機構にも残っているかもしれない。
「旧中継拠点に残ってる記録を調べて」
『何を探す』
「再起動したあとの記録。中層方面の、大きな魔力変動。その直後に、周りの反応が消えたり、進路を変えたりしてる」
『ほかには』
「もっと深いところから来る、低い振動。発生する方向が、少しずつ横へ動いてる」
『それが二体の痕跡か』
「多分。人間の観測機構で、どこまで残ってるかは分からない」
『旧中継拠点と昇降機の救助報告も使える』
「あの時の?」
『同じ情報源が出した情報だと伝える』
旧中継拠点では、崩れる場所と支える順番を伝えた。
昇降機では、中にいた三人の位置と、切断してよい場所を人間へ渡した。
どちらも、人間側に報告が残っている。
『まず三十分止める』
「三十分だけ?」
『その三十分で、俺の話を無視できなくする』
レオンの足音が速くなった。
―――――
『第十階層への新規進入を一時停止してほしい』
レオンの声がした。
命令ではなく、探索者側からの正式な要求だった。
接触印の向こうで、紙が広げられる。
『探索者側の意見か』
先遣隊指揮官が尋ねた。
『そうだ』
『お前個人の判断ではなく、代表として要求していると考えていいんだな』
『ああ。俺が預かる探索者は、確認が終わるまで第十階層へ入れない』
レオンは迷わず答えた。
指揮官の近くで、別の人間が息を吐いた。
軍の工兵が未確保の区画へ入る時、前方の警戒と経路確認を担うのは探索者だった。
探索者だけを止めれば、工兵の前進も遅れる。
レオンには軍を止める権限がない。
それでも、自分が代表する人間を前へ出さないという選択はできた。
『理由を聞こう』
指揮官の声は変わらなかった。
『中層に超大型個体が二体いる』
紙を動かす音が止まる。
『現在位置は』
『一体は中層域。以前より浅い位置にいる。もう一体はさらに深部を横へ移動している』
『最終確認はいつだ』
『今だ』
『こちらからの距離は』
『正確には出せない』
『第十階層より上にいるのか』
『二体とも中層だ。上層には入っていない』
『こちらへ向かっているのか』
『地上方向への継続移動は、まだ確認されていない』
『では、なぜ今止める』
『第十階層は中層へ通じる最後の階層だ。天竜がさらに上がれば、そこが最初に危険になる』
指揮官は、そこで初めて黙った。
『情報源は』
『明かせない』
『観測記録は』
『俺からは出せない』
『情報を直接確認した者は』
『明かせない』
紙の上を、指で一度叩く音がした。
『それで、誰が信じると思っている』
『信じろとは言っていない』
レオンは声を荒らげなかった。
『三十分だけ前進を止めろ。その間に、人間側の記録を確認する』
『確認して何も出なかった場合は』
『探索者側の停止を解除する』
『巨大個体の存在を証明できなかった場合もか』
『痕跡すら出なければな』
指揮官はすぐには答えなかった。
『現在、第十階層へ入る予定があるのは、先行工兵十二名、護衛八名、探索者六名だ』
紙を確認する音がした。
『その六名も、お前が預かる探索者か』
『そうだ』
『すでに先頭は第十階層へ入っている』
『中層へは』
『入れていない。第十階層の上層側区画で、中央経路を確認させている』
『なら、現在地点で止めろ』
『撤収要求ではないんだな』
『今は違う。前進だけ止める』
指揮官が息を吐いた。
『誤報なら、先行要員二十六名と後続部隊の作業が三十分遅れる』
『事実なら、その二十六人が戻らない』
短い沈黙が落ちた。
『第十階層への新規進入を三十分停止する』
すぐ近くにいた副官が命令を復唱する。
『第十階層への新規進入を一時停止。現地の工兵、護衛、探索者は現在地点で待機。補強作業は継続。前進は禁止』
足音が離れていく。
遠くで笛が二度鳴った。
『三十分だ』
指揮官が告げた。
『何を調べる』
『旧中継拠点の再起動後の記録』
レオンが答える。
『中層方面で発生した大規模な魔力変動。その直後に、周辺の反応群が消失するか、進路を変えている』
『もう一つは』
『さらに深い方向から来る低周波振動だ。発生方向が固定されず、時間とともに横へ移っている』
『記録を見たのか』
『見ていない』
『では、なぜ内容を知っている』
『それを確かめるために止めさせた』
指揮官が別の通信を開いた。
『旧中継拠点。観測責任者を出してくれ』
しばらくして、別の男の声が加わった。
『観測責任者です』
『再起動後の保存記録を確認してほしい』
指揮官が、レオンの告げた二つの条件を伝えた。
『検索に時間をいただきます』
『残り二十四分だ。確認できない部分も、そのまま報告してくれ』
『了解しました』
通信は開いたままになった。
紙をめくる音が続く。
その間に、指揮官は別の報告書を副官へ求めた。
『旧中継拠点の崩落と、旧昇降機の救助報告を』
『今回の情報と関係があるのですか』
副官が尋ねた。
『情報源の精度を確認する』
書類が運ばれてくる。
『旧中継拠点について確認する。事前情報と現場確認に相違はないか?』
指揮官が尋ねる。
副官が報告書を確認した。
『報告上はありません』
『旧昇降機は』
『閉じ込められた三名の位置、昇降機の傾き、切断可能箇所が事前に共有されています。こちらも救助後の確認と一致しています』
指揮官がレオンへ向き直ったらしい。
『同じ情報源か』
『同じだ』
『現在も継続して観測できるのか』
『できる』
『連絡はどの程度の間隔で届く』
『変化があれば、すぐに来る』
『お前を通さなければならない理由は』
『情報源を明かせないからだ』
『お前が負傷すれば情報も途絶える』
『その時は、俺の情報を当てにするな』
レオンは言い切った。
『だから、人間側の観測と組み合わせろ』
観測責任者の声が戻った。
『該当する現象を確認しました』
『報告を』
指揮官が促す。
『再起動後、中層方面で通常値を超える魔力変動が三件あります』
観測責任者が記録を読み上げる。
『うち二件では、直後に周辺の移動反応が複数消失しています。残る一件では、反応群の進路が変化しています』
『魔力変動との因果関係は』
『確認できません』
『深部からの振動は』
『低周波の広域振動を複数回記録しています。発生源は観測範囲外です』
『方向は固定されているか』
『いいえ。記録ごとにずれています』
『主な移動方向は』
一度、紙をめくる音がした。
『水平方向です』
レオンが先に告げた内容と重なっていた。
『二体の生物によるものと断定できるか』
『できません』
観測責任者は、すぐに否定した。
『同一原因による複数現象の可能性もあります。観測範囲外のため、個体数、形状、規模はいずれも推定不能です』
『分かった。記録の監視を続けろ』
観測責任者との通信が切れる。
指揮官は、しばらく何も言わなかった。
遠くでは、止められた部隊が資材を下ろしている。
『お前の告げた現象は確認された』
指揮官が口を開いた。
『だが、二体の超大型個体がいる証明にはならない』
『証明するために、中層へ人を入れるつもりか』
レオンが返した。
『そうは言っていない』
『なら、第十階層へ集める人数を減らせ』
『誤報なら、観測拠点の設置が遅れる』
『事実なら、境界へ置いた人間が戻れない』
指揮官は否定しなかった。
『情報源を信用したわけではない』
『構わない』
『だが、その情報源は過去二件の救助情報を正確に示している』
紙が畳まれる。
『誤報だった場合の損失より、事実だった場合の損失が大きい。その比較には同意する』
『なら、本隊は第九階層で止めろ』
レオンが要求した。
『第十階層の経路確認は必要だ』
『工兵と護衛だけにしろ。人数も最小限にする』
『探索者なしで工兵を入れろと言うのか』
『俺が選んだ者だけ同行させる。全員は出さない』
『何人だ』
『二人』
『六人から二人か』
『それ以上は出さない』
指揮官が少し考えた。
『工兵六名、護衛六名、探索者二名。合計十四名』
『第十階層の中央経路だけ確認しろ』
『枝道には入れない』
『中層へ通じる開口部にも近づけるな』
『遠方から位置を確認するだけにする』
『開口部の先に何か見えても、追うな』
『正体不明の大型個体との交戦を禁止する』
『中層へは、一人も入れるな』
『認める』
レオンは続けた。
『退路を先に完成させろ』
『前進作業の一部を止め、階層拠点と搬送路を優先する』
『治療班を前へ出しすぎるな』
『第九階層より先へは出さない。第十階層には応急処置具だけを持たせる』
すべてがレオンの要求どおりになったわけではない。
それでも、最初の計画からは変わっている。
『こちらからも条件がある』
指揮官が言った。
『お前は前方指揮所に残れ。情報源から変化が届いた場合、私へ直接報告しろ』
『分かった』
『探索者側の統制も、お前が取れ』
『勝手に先へ行く奴は出さない』
『交戦禁止も徹底させろ』
『俺から伝える』
『連絡が遅れれば、第十階層の部隊を戻す判断も遅れる』
『遅らせない』
指揮官は副官と観測責任者を、もう一度通信へ加えた。
『撤収条件を決める』
紙へ書き込む音がする。
『第一段階。レオンの情報源が超大型反応の上方移動を確認した場合、第十階層への新規進入を停止する。現地部隊は作業を中断し、撤収準備へ移行』
副官が命令を復唱した。
『第二段階。人間側の観測機構が、中層から上方へ移動する反応群の急増、または観測範囲外の大規模魔力変動を確認した場合、第十階層の部隊を第九階層まで後退させる』
『通信が切れた場合は』
レオンが尋ねた。
『第二段階と同じ扱いにする』
指揮官が答える。
『搬送路が使えなくなった場合も、第十階層の部隊は撤収する』
『それでいい』
『よくはない』
指揮官の声が少し低くなった。
『必要なだけだ』
遠くで、再び笛が鳴った。
一時停止していた人間の流れが、ゆっくりと動き始める。
ただし、最初と同じではなかった。
本隊は第九階層で止まる。
第十階層へ入る人間も、二十六人から十四人へ減らされた。
中層へ入る人間はいない。
進むための作業より先に、戻る道が作られる。
周囲の声が少なくなってから、私はレオンへ聞いた。
「進軍は止まらなかった?」
『ああ』
壁面には、人間側の登録反応が少しずつ増えている。
動員予定の二万人と比べれば、まだ一部にすぎない。
それでも、私が一人ずつ見続けられる数ではなかった。
「私には全員見られない」
『見なくていい』
「見てないところで死ぬ人が出る」
『だから、その人間が自分で戻れる道を作る』
「危ない場所へ行って?」
『帰るために行く』
「レオンも?」
『前方指揮所に残る』
「戻って」
『その条件も、今決めた』
納得はできなかった。
けれど、止めようとした結果、何も変わらなかったわけではない。
人間はまだ進む。
ただし、中層へは入らない。
止まる条件と、戻る条件を決めたうえで。
―――――
それから数時間が過ぎた。
人間側の本隊は、第九階層までの拠点を増やしていた。
工兵が傷んだ通路を補強し、負傷者を後方へ運ぶための空間を空けていく。
第十階層へ入った十四人は、上層側の中央経路から離れなかった。
中層へ続く開口部には近づかず、そこまでの通路と撤収経路だけを調べている。
一定の間隔で、前方指揮所へ状況が報告されていた。
その間も、私は二つの巨大反応を監視していた。
航鯨の進行方向は変わらない。
深い位置を、ゆっくりと横へ進んでいる。
深淵天竜の反応が動いた。
初めは、巨大空間の中で上下しただけにも見えた。
けれど、表示された位置は元へ戻らなかった。
《監視指定個体――深淵天竜》
《高度変化を検出》
《移動方向――上方》
《地上方向成分――検出》
壁面の中央へ、赤い表示が開く。
《緊急警告》
《深淵天竜――地上方向への移動を確認》
レオンの接触印を開いた。
「レオン」
『どうした』
「天竜が上へ動き始めた」
接触印の向こうで、椅子を引く音がした。
『航鯨は』
最初に確認したのは、もう一体だった。
「まだ深い。横に動いてる」
『変わってないか』
「今は」
『天竜だけか』
「うん」
レオンが走る音はしなかった。
すでに、指揮官の近くにいる。
『第一段階だ』
短く告げた。
指揮官は、情報源について問い返さなかった。
『第十階層への新規進入を停止』
すぐに命令を出す。
『現地の十四名は作業中断。撤収準備へ移行し、通信を維持しろ』
副官が命令を復唱する。
遠くで笛が鳴った。
第十階層へ向かっていた人間の反応が止まる。
現地の十四人は、すぐには上がらなかった。
道具をまとめ、運び込んだ資材を動かし、後退できる隊形へ変わっていく。
決めた条件どおりだった。
しばらくして、旧中継拠点から通信が入った。
『中層方面の反応群に変化があります』
観測責任者の声だった。
『内容を』
指揮官が尋ねる。
『複数の反応群が上方へ進路を変更。移動速度も上昇しています』
紙をめくる音が続く。
『観測範囲外で、大規模な魔力変動を検出しました』
指揮官が確認する。
『第二段階の条件に該当するか』
『該当します』
今度は、誰もレオンへ根拠を求めなかった。
『第十階層の十四名は作業を終了』
指揮官が命令を出した。
『第九階層まで後退しろ。工兵を中央へ置き、探索者と護衛が前後を固めろ。資材は搬送を妨げるものだけ放棄してよい』
副官が復唱する。
笛が三度鳴った。
第十階層にあった反応が、上へ動き始める。
工兵を中央へ置き、前方に探索者一人と護衛二人。
後方にも、探索者一人と護衛二人。
残った護衛二人が、工兵の左右を守っている。
誰かの歩調が落ちれば、全体も速度を落とした。
それでも、反応は途切れずに上がってくる。
『前方隊、第十階層より離脱』
報告が入った。
少しして、最後尾の反応も第九階層へ入る。
『全員、第九階層へ到達しました』
指揮官が短く息を吐いた。
『本隊は第九階層を維持。退路の完成を最優先する。これ以上の前進を禁止』
全軍の撤収命令は出なかった。
すでに確保した上層の拠点も放棄しない。
それでも、第十階層にいた人間は全員引き返した。
中層の巨大空間へ入った人間は、一人もいない。
前へ進むために集められた人間だが、今は撤退を可能にするための道を作っていた。
壁面では、赤い警告が消えずに残っていた。
《深淵天竜――地上方向への移動継続》
地上まで、どれくらいかかるのかは分からない。
途中で進路を変えるかもしれない。
別の巨大空間へ移るだけかもしれない。
それでも、深淵天竜は上がり続けている。
人間を奈落から引き返させることはできなかった。
けれど、これ以上降りることだけは止められた。
人間の前進は止まった。
それでも、深淵天竜は止まらなかった。




