第二十話《境界線》
作戦開始日の朝は、まだ暗かった。
《第一修復工程――進行率二七%》
《右膝荷重支持機構――固定完了》
《左肩内部骨格――固定処理を開始》
《第二生体循環路――安定》
《管理者判断を要する異常――なし》
昨夜のうちに、右膝の固定結果を確認した。
交換した支持材へ負荷をかけ、関節が白夜自身の重さに耐えられることも確かめてある。
左肩の修復も、今日一日分は指示した。
異常がなければ、架工守が内部へ足場を組み、診工守が損傷箇所を測定する。搬工守は指定した支持材を運び、縫工守が裂けた組織を固定する。
私がいなくても、修理は止まらない。
救難網の表示も、地上から確認できるようにした。
白夜の修理と、第一層の作戦。その両方に対応できる。
そう判断して、奈落へ入るための外套を着た。
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西門前では、作戦隊が出発準備を終えていた。
作業灯の下に、武器や治療箱、工兵用の資材が並んでいる。荷車の底には、昨日ベルクの店から運んだ固焼きのパンが積まれていた。
レオンは探索者組合の入口近くにいた。
腰へ剣を下げ、背中には短い槍と荷物を固定している。私が近づくと、こちらの外套を見た。
「私も行く」
「駄目だ」
返事は、考えるより早かった。
「どうして」
「白夜を直せ」
周囲の音が、少し遠くなった。
荷物を縛っていたガレスの手が止まる。リノも、治療箱から顔を上げた。
「……今、何て言ったの?」
「白夜を直せ」
聞き間違いではない。
私はレムナへ意識を向けた。
「レムナ」
《待機しています》
「白夜の名前を、地上の人間へ伝えた?」
《否定》
《当艦所属情報の外部開示記録――該当なし》
「作業個体が話した可能性は?」
《地上人物との接触記録――該当なし》
通信を閉じた。
白夜という名前を知っているのは、私とレムナだけだった。地上の人間を第六主層へ連れていったこともない。
「誰から聞いたの」
「誰からも聞いてない」
「なら、どうして知ってる?」
レオンは答えなかった。
嘘を考えているようには見えない。けれど、本当のことをすべて話すつもりもない顔だった。
「白夜が何か知ってる?」
「お前が使うものだ」
「どこにある?」
「知らない」
「どんなものかも?」
「ああ」
場所も形も知らない。それでも、名前と役割だけは知っている。
「次の工程は指示してある」
私は言った。
「今日一日なら、私がいなくても修理は進む」
「今日だけの話じゃない」
「いつまで残るの」
「白夜が動くまでだ」
「最低限でも十日かかる」
レオンの指が止まった。
革手袋を締めていた手が、そのまま動かなくなる。
「十日では遅い」
「何に?」
答えはなかった。
「白夜の場所も、壊れ方も知らないのに?」
「知らない」
「それでも、十日では遅いと分かる?」
「分からないから急がせてる」
「分からない顔じゃない」
レオンが私を見る。
少しの間、視線が重なった。先に逸らしたのはレオンだった。
組合の壁際には、大きな金属箱が置かれている。研究員たちが周囲へ固定具を取りつけていた。
研究所で見た深淵調査装置。
以前は何度試しても起動せず、私が近づいた時だけわずかに反応したものだった。
「それを確かめるために、今日は第一層へ行く」
「白夜と、あれが関係ある?」
「可能性はある」
「奈落の下で起きてることにも?」
レオンの目がわずかに動いた。
「やっぱり、何か知ってる」
「その異変には、名前がある」
「何ていうの?」
「今は言えない」
「またそれ」
「説明できるだけの確証がない」
ガレスが立ち上がった。
「レオン」
声が低い。
「お前、何を知ってる」
「戻ったら話す」
「俺たちにもか?」
「話せる範囲ならな」
「それじゃ足りん」
「ああ」
レオンは否定しなかった。
ガレスはしばらく見ていたが、それ以上は追及しなかった。出発前に答えが出ないことを理解しただけだった。
私も納得していない。
「私が第一層へ行けば、死ぬ人は減る」
「分かってる」
「その場で治療もできる」
「ああ」
「白夜の修理は、今日なら止まらない」
「それでも残れ」
「理由は言えないのに?」
「言えないから、頼んでる」
命令ではなかった。それでも、譲るつもりがないことは分かった。
レオンは準備を続ける人々へ視線を向けた。
兵士、工兵、探索者、教会騎士、治療師、研究員。
「第一層へ行ける人間はいる」
「白夜を直せるのは私だけ」
「ああ」
「だから、私を残す?」
「そうだ」
「白夜は今すぐ必要じゃない」
「今すぐじゃないから急げ」
「知らないことばかり」
「ああ」
レオンは起動していない深淵調査装置を見た。
「それでも、今日が分かれ道だ」
「私が第一層へ行くか、白夜を直すか?」
「そうだ」
「どっちが正しいか分かってる?」
「分からない」
今度は、すぐに答えた。
正しい道を知っているわけではない。ただ、私に選ばせたくない方だけは決まっているようだった。
私は救難網を開いた。
今のところ、新しい信号はない。作戦隊の登録者は、すでに地上側の表示へ追加してある。
「救難信号が来たら助ける」
「ああ」
「第一層でも」
「届くならな」
「白夜より優先する」
「それでいい」
「レオンたちも同じ」
「助けろ」
少し考える。
白夜へ残ることと、救助を諦めることは違う。
作業個体では判断できない修復工程がある。それを進められるのは、私だけだった。
「なら、残る」
レオンの肩から、わずかに力が抜けた。その反応が、余計に分からなかった。
「ただし」
「何だ」
「戻ったら話して」
「話せるところまでなら」
「約束?」
「ああ」
本当に話すつもりがあるのかは、まだ分からなかった。
「それと、血を分けてくれ」
「今度は血?」
「ああ」
「飲む?」
「飲まない」
レオンは深淵調査装置を示した。
「古代装置がお前に反応したなら、姿や声以外のものを認識した可能性がある」
「血で動かす?」
「試したい」
推測としては不自然ではない。研究員でも思いつく内容だった。
けれど、レオンの言い方には迷いがなかった。
「動くと思ってる?」
「可能性は高い」
「試す時の顔じゃない」
レオンの眉がわずかに動いた。
「必要だと知ってる顔」
返事はなかった。
リノが私たちの間へ入る。
「採るなら、私がやるわ」
手には細い針と保存容器がある。
「どれくらい必要なの?」
「身体に影響が出ない範囲で、三つに分けてほしい」
レオンが答えた。
「三つ?」
「一つは装置へ。もう一つはリノが持っていてくれ。最後の一つは、後衛の研究員に持たせる」
「全部、奈落へ運ぶの?」
「ああ」
「同じ隊なら、分ける意味は薄いわ」
「持つ班を分ける。装置は研究班。お前は治療班。最後は後衛の予備部品箱へ入れる」
リノはレオンを見た。
「何に使うつもり?」
「装置が止まった時の再起動か、同じ認証方式の遺物を見つけた時のためだ」
「見つかると思っているの?」
「分からない」
「分からないもののために、エルセリアさんの血を持ち歩くの?」
「必要になってから採ることはできない」
私は第一層へ行かない。必要になっても、その場にはいない。
その点は正しかった。
リノはまだ納得していない。
「血は薬でも道具でもないわ」
「分かってる」
「用途を説明できないまま、採血量を決めることはできない」
「だから、決めるのはエルセリアだ」
レオンが私を見る。
私は自分の腕へ目を落とした。
血を少し失っても、身体は修復できる。保存血を飲めば、失った分も補える。
三つに分けても、量は多くない。
「身体に影響が出ないならいい」
「エルセリアさん」
「私が決めた」
リノはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「少しでも異常が出たら止めるわ」
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組合の奥にある処置室へ入った。
椅子へ座り、左腕の袖を捲る。リノが腕を消毒し、針を刺した。
透明な管の中を、赤い血が流れていく。
自分の身体から離れた血は、戻ってこない。
小さな容器が満たされるたび、リノが新しいものへ交換した。
「気分は?」
「変わらない」
「目眩は?」
「ない」
「喉は?」
「まだ渇いてない」
レオンは扉の近くに立っていた。
採血される私を見ている。白夜の名を口にした時より、表情が硬い。
「そんなに気になる?」
「必要にならない方がいいと思ってる」
「でも持っていく」
「ああ」
「矛盾してる」
「知ってる」
三本目の容器が満たされる。
リノが針を抜き、布を当てた。
《微小損傷を確認》
《再生を開始》
針の傷は、すぐに閉じた。
採取した血の一つが、深淵調査装置へ運ばれる。二つ目は、リノの治療箱へ収められた。
三つ目は研究員が受け取り、後衛班の予備部品箱へ入れる。ほかの器具に紛れないよう、内側へ赤い札がつけられた。
三つとも、私の手元には残らない。
研究員が装置中央の受け皿へ、一滴だけ血を落とした。
赤い液体が、細い溝に沿って広がる。
何も起きない。
研究員の一人が装置へ顔を近づけた。
「反応なし」
その直後、低い音が鳴った。
装置の内部へ、白い光が走る。
一つ。二つ。
止まっていた表示板へ、古い文字が浮かび上がった。
《生体鍵を確認》
《認証照合――開始》
《適合》
《旧式深淵観測機構――起動》
研究員たちが一斉に動き始める。
「起動した!」
「観測盤を開け!」
「出力が上がっている。固定具を締めろ!」
エドガーも装置の前へ来た。
「血液だけで認証したのか……」
私は表示ではなく、受け皿へ残った血を見ていた。
自分の身体から離れた血は、もう私の命を支えていない。触れても、痛みは伝わらない。失われても、私の身体は傷つかない。
それでも古代装置は、それを私だと認識した。
研究員が観測機構の外装を開く。
内部で複数の環が回転し始め、表示が切り替わった。
《奈落下方より上向きの生体移動を検出》
《複数階層にて移動方向の一致を確認》
《移動原因――不明》
《発生源――観測範囲外》
室内の声が止まった。
中層種が第一層へ流れ込んでいる。それだけではなかった。
さらに下の階層でも、同じ方向へ生物が移動している。
下から上へ。
何かから離れるように。
研究員たちが表示を書き写し始める。
「複数階層って、どこまでだ?」
「範囲が確定できない。下限が観測外だ」
「第一層の流入だけではないのか?」
エドガーの表情が硬くなる。
装置が起動した時より、観測結果が表示された時の方が、レオンははっきり驚いていた。
「レオン」
呼ぶと、こちらを見る。
「何?」
「今、驚いた」
「この結果なら誰でも驚く」
「装置が動いた時は、驚かなかった」
「動く可能性があると思っていたからだ」
「これは?」
レオンは表示へ目を戻した。
「分からない」
今度の答えは、本当にそう聞こえた。
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深淵観測機構は、厚い輸送枠へ固定された。
研究班が装置を管理する。リノは治療箱を背負った。三本目の血を入れた予備部品箱は、後衛の研究員が持っている。
同じ入口から奈落へ向かう。けれど、別の班が運ぶ。
一つを失っても、残りがある。
作戦隊が西門を出始めた。
昨日、名簿に並んでいた人たちが、それぞれの装備を持って列へ加わっていく。
私は通りの端に立った。
「リノ」
呼ぶ。
リノが振り返る。
「いるわ」
「ガレス」
「聞こえてる」
「エドガー」
「ここにいる」
最後にレオンを見る。
「レオン」
「戻る」
まだ、聞いていなかった。
レオンはそう答えてから、少しだけ眉を寄せた。
「戻るか聞くつもりだった」
「分かってる」
「どうして」
「顔に書いてある」
「書いてない」
「なら、俺が先に言いたかっただけだ」
レオンは隊列へ戻ろうとして、足を止める。
「救難網を見ていてくれ」
「ずっと見る」
「白夜も直せ」
「分かってる」
「それと、寝ろ」
「必要なら」
「必要でも寝ろ」
「戻ってきたら考える」
「俺たちが戻るまで直し続けるつもりか?」
「白夜が動くまで」
レオンが何かを言いかける。
けれど、結局は言わなかった。
「戻ったら話す」
「約束した」
「ああ」
朝日が、城壁の向こうから昇り始めた。
武器も、薬も、私の血も奈落へ向かった。
私だけが、白夜のもとへ戻った。
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レムナへ戻ると、通知が表示された。
《地上受取地点に搬入物を確認》
《登録者――レオン・アルヴェイン》
「搬入物?」
《複数の資材を確認》
地上受取地点の映像を開く。
登録した場所に、大量の荷物が積まれていた。
耐熱布、封止材、固定具、滑車、牽引用の縄、酒精、潤滑油、照明用の低級魔核。
以前、白夜の修理用に集めたものと似ている。けれど、まだ私が集めていない種類も混ざっていた。
「誰が置いたの」
《搬入記録上の手配責任者――レオン・アルヴェイン》
出発前に運び込ませていたらしい。
「搬工守を地上受取地点へ」
《指示内容を確認します》
「荷物を地上搬入区画へ運んで。生活区画には入れない。種類ごとに分けて」
《肯定》
《搬工守三体を派遣します》
映像の中で、待機していた搬工守が動き始めた。
受取地点へ続く搬送路が開き、積まれていた荷物が一つずつ内部へ運ばれていく。
私も地上搬入区画へ向かった。
すべてが使えるわけではなかった。
固定具は大きさの合わないものが多い。封止材も、白夜の循環管には使えない種類が混ざっている。
用途の分からない道具もあった。
「診工守と薬工守を一体ずつ呼んで」
《肯定》
作業個体が到着する。
「白夜の修復工程と照合して。使えるものと、使えないものに分けて」
《実行します》
診工守が固定具を測定し、薬工守が封止材の成分を調べ始める。
私は積まれた資材の間を歩いた。
布の束。金属環。滑車。縄。
どれも古代兵装専用の部品ではない。地上で集められる、普通の資材だった。
しばらくして、照合結果が表示された。
《現工程で使用可能――六一%》
《規格不適合――二四%》
《用途未確定――一五%》
全部が合っているわけではない。
白夜の内部を知っているなら、不要なものは混ざらない。それでも、半分以上が使える。
《不足資材の一部解消を確認》
《第一修復工程――推定完了時刻を更新》
《従来予測より二日短縮》
二日。
十日では遅いと、レオンは言った。
二日縮まっても、まだ八日ある。
「使えるものは第六主層へ運んで」
《肯定》
「用途未確定のものは、ここへ残して。規格が合わないものも捨てないで」
《肯定》
指示を受け、搬工守が資材を台車へ積み始めた。
接触印を開く。
返事はない。すでに奈落へ入ったあとだった。
視界へ、地上側の反応を表示する。
レオン。リノ。ガレス。エドガー。
複数の生命反応が、登録座標から下へ移動している。
《奈落第1層への進入を確認》
その中に、私の血もある。
身体から離れたあとも、古代装置が私だと認めた血。
私は第六主層へ向かった。
レオンは白夜の修理方法を知らない。今の奈落で何が起きているのかも、すべて知っているわけではない。
それでも、私が不足に気づくより先に、必要になるものへ手を伸ばしていた。
その手が正しいものを掴む保証は、どこにもない。
それでも、レオンは私が選ぶより先に動いていた。




