第十九話《温かいパン》
《第一修復工程――進行率二四%》
《右膝荷重支持機構――固定処理中》
《第二生体循環路――安定》
《管理者判断を要する異常――なし》
表示を確認する。
白夜の右膝では、昨夜指示した固定作業が続いていた。
架工守が膝関節の周囲へ足場を組み、搬工守が交換用の支持材を運んでいる。診工守は負荷のかかる位置を測定し、管路守は作業中も循環圧力に変化がないことを監視していた。
今の工程に、私の手は必要ない。
「異常が出たら止めて」
《肯定》
「固定が終わっても、次の工程には進まないで」
《肯定》
今夜、結果を確認してから次の指示を出せばいい。
作業を任せ、第六主層を離れた。
奈落第1層の奪還作戦は、明日の夜明けに始まる。
地上では、そのための支度が進んでいた。
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西門前の広場には、昨日より多くの荷車が並んでいた。
王国軍の兵士が武器を箱へ詰め、工兵たちが杭や木材を長さごとに分けている。
地面には古い奈落の地図が何枚も広げられ、探索者たちが第一採取路の位置を確かめていた。
以前は安全だった道。崩れやすい場所。荷車を通せる幅が残っていた場所。
けれど、地図に記された情報の多くは、封鎖前のものだった。今も同じとは限らない。
広場の端では、ガレスが大きな鞄へ荷物を入れていた。
縄。予備灯。水。固定具。布。食料。
鞄の外側には、折り畳まれた担架が二つ縛りつけられている。
「多くない?」
声をかけると、ガレスが顔を上げた。
「何が起きるか分からんからな」
「担架が二つ」
「持って帰る人数が増える分には困らん」
ガレス自身の予備武器は、短い剣が一本だけだった。
誰かを運ぶための道具の方が大きい。
「重い?」
「これくらいなら問題ない」
ガレスは鞄を持ち上げ、荷車の横へ置いた。
少し離れた場所では、教会騎士たちが装備を確認している。
ミレアは薬瓶に結ばれた札を読み、同じ箱へ入れては、また一つ取り出して並べ直していた。
ルークは新しい剣を何度か抜き、鞘の入口へ油を差している。以前の剣は、地下聖堂で折れていた。
ガルドは工兵二人が持ち上げようとしていた木箱を受け取り、一人で荷車へ載せた。
セイルは予備灯を持ち上げたあと、腹部へ手を当てている。
深血心核に貫かれていた場所だった。
傷口は塞がっている。歩き方にも大きな異常はない。
それでも、荷物を持つたびに同じ場所へ触れていた。
視界へ診断を開く。
《腹部組織修復率――七八%》
《急激な体幹回旋及び高負荷作業――非推奨》
「セイル」
呼んだのは私ではなかった。
リノが薬箱の向こうから手招きしている。
「上着を上げて」
「ここでか?」
「嫌なら作戦から外すわ」
セイルは周囲を見たあと、諦めたように上着を持ち上げた。
腹部には、赤黒い傷痕が残っている。
リノは傷へ直接触れず、その周囲へ指を当てた。
「息を吸って」
セイルが息を吸う。
「痛む?」
「もう治ってる」
「質問に答えて。刺すような痛みか、引っ張られる痛みか、内側が重いのか」
セイルが少し黙る。
「……引っ張られる」
「身体を右へ捻って。ゆっくり」
セイルが腰を回す。
途中で、口元がわずかに歪んだ。
リノはそれを見逃さなかった。
「前衛には出ないで。治療班の左側から離れないこと」
「動ける」
「皮膚は塞がってるわ」
リノはセイルが持っていた予備灯を抜き取った。
「中まで同じ速さで治るとは限らない」
「荷物くらい持てる」
「途中で動けなくなれば、あなたを運ぶ人間が一人必要になる。その分、別の負傷者を運べなくなるわ」
セイルは何か言おうとして、やめた。
ガルドが手を伸ばす。
「寄越せ」
予備灯を受け取り、自分の荷物へ縛りつけた。
セイルは不満そうだったが、取り返そうとはしなかった。
リノは私の診断表示を見ていない。それでも、同じ傷を見つけていた。
「止血薬が六本足りません」
若い治療師が、帳面を持って近づいてきた。
リノは床へ並べた薬瓶を見る。
「撤退路を担当する第二班へ多く回して。固定具と担架も同じ班へ」
「止血薬だけでは足りませんか?」
「血が止まっても、歩けるとは限らないわ」
若い治療師は頷き、薬瓶と固定具を移し始めた。
リノは薬の数だけではなく、負傷者がどこで出て、どう戻ってくるかまで見ている。
「詳しい」
私が言うと、リノが手を止めた。
「何が?」
「怪我」
「治療師だから当然でしょう」
「表示を見なくても分かる」
「全部は分からないわ」
リノはセイルの腹部へ視線を向ける。
「だから、痛み方や動かし方を見るの。本人は大丈夫だと言うから、あまり信用しない」
セイルがこちらを見た。
「聞こえてるぞ」
「聞かせてるのよ」
リノは薬箱の蓋を閉じた。
「エルセリアさんも同じだから」
「私は違う」
「無理をしても治るから大丈夫、って言うでしょう?」
「治る」
「ほら」
治ることと、無理をしていいことは別らしい。
リノはもう、次の箱を開けていた。
「保存食の受け取りは、あと一軒だったな」
ガレスが帳面を覗き込む。
若い工兵が指で場所を示した。
「西門通りのベルクという店です。作戦用のパンを頼んであります」
聞いたことのある名前だった。
「私が行く」
「知ってる店か?」
「パンをもらう約束をした」
ガレスが私を見る。
「助けたパン屋か」
「うん」
「なら、様子も見てくるか」
リノが薬箱を持ち上げた。
「私も行くわ」
「支度は?」
「薬の配分は終わった。あとは箱へ詰めるだけよ」
広場の向こうにいたレオンへ目を向ける。
エドガーと地図を見ながら、第一層へ入ったあとの配置を確認していた。
こちらの視線に気づき、顔を上げる。
「どこへ行く」
「パン」
「何の話だ」
「トーマの店へ受け取りに行く」
「俺も行く」
「作戦準備は?」
「今の確認が終われば、少し空く」
エドガーが地図を畳んだ。
「私は教会騎士の食料を受け取る必要がある。途中まで同行しよう」
準備の手を止めたわけではない。
残っていた仕事の行き先が、同じだった。
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西門通りへ入ると、焼けた小麦の匂いが流れてきた。
ベルクの店の前には、木箱がいくつも並んでいる。
王国軍、工兵隊、教会、探索者組合。
それぞれの札がつけられていた。
弟子らしい若い男が、焼き上がったパンを数えながら箱へ詰めている。
大きさはおおむね揃っている。ただ、焼き色は少し薄いものと、濃いものが混ざっていた。
店の奥から声が飛ぶ。
「左の窯を先に開けろ! 奥の列が焼けすぎる!」
「分かってます!」
「分かってる奴は、その色になる前に出す!」
「親方は座っててください!」
トーマは炉の前ではなく、壁際の椅子へ座っていた。
固定された右脚を低い台へ載せ、弟子へ指示を出している。
私たちに気づくと、片手を上げた。
「来たか」
「歩いてない?」
「見れば分かるだろ。座ってる」
椅子の横には杖が立てかけられていた。
床には、杖を引きずったような跡がある。
リノは挨拶より先に、トーマの右脚を見た。
「固定具を確認します」
「治療院では問題ないと言われたぞ」
「昨日と今日で腫れ方は変わります」
リノはトーマの前へ膝をつき、固定具の下へ指を入れた。
「少しきついわ。足先の感覚は?」
「ある」
「指を動かして」
トーマが足の指を動かす。
リノは足先の色を確かめ、布をわずかに緩めた。
「炉の前には立たないでください」
「立ってない」
「立とうとはしたでしょう?」
トーマが黙った。
弟子が窯の前から振り返る。
「三回しました」
「余計なことを言うな」
「親方が歩くたび、こっちが怒られるんですよ」
「歩いてない。数歩移動しただけだ」
「それを歩くと言います」
リノが固定具を結び直した。
「今日は椅子から動かないでください」
「店が回らん」
「指示は座っていても出せます」
「それでは細かい焼き色が見えない」
「脚より焼き色が大事ですか?」
トーマは私を見る。
「前にも同じことを聞かれたな」
「答えも同じ?」
「店をやってると、たまにそう思う」
「駄目」
私とリノの声が重なった。
トーマは少し黙ったあと、弟子へ顔を向けた。
「……右の窯、あと少しだ」
「座って見ててください」
弟子はそう言いながら、窯の中を確認した。
ガレスとエドガーは、店先の木箱を調べている。
帳面と札を照らし合わせ、注文分が揃っていることを確かめていた。
トーマが私を手招きする。
「約束の分がある」
椅子の横に、小さな籠が置かれていた。
中には、木箱へ詰められたものより少し丸いパンが並んでいる。弟子が窯から出したばかりらしく、表面からまだ湯気が上がっていた。
「温かい」
「そう言っただろ」
トーマが笑う。
「パン屋で冷えたものを出したら怒られる」
一つ手に取る。
指へ熱が伝わる。
今の身体なら、持てないほどではない。それでも、表面を覆う薄い皮が、焼けたばかりの柔らかさを残していた。
半分に割る。
中からさらに湯気が上がる。
食べると、外側は少し硬く、中は柔らかかった。
保存食のパンとは違う。
「どうだ」
「温かい」
「味の話を聞いてるんだが」
もう一口食べる。
「少し甘い」
「それでいい」
籠には、まだパンが残っていた。
私はもう一つ取り、レオンへ渡した。
レオンが受け取る。
「俺の分か?」
「まだある」
「お前は食べたのか」
手の中に残っている半分を見せる。
「食べてる」
「ならいい」
ガレスは一つを丸ごと取り、大きく噛んだ。
「柔らかいな」
「作戦用はもっと固いぞ」
トーマが言う。
「これは今日食べる分だ」
リノは帳面を見ながら、小さくちぎって食べている。
エドガーも一つ受け取ったが、教会騎士に呼ばれ、半分だけ食べて残りを布へ包んだ。
店の外では、ミレアたちが教会分の木箱を荷車へ積んでいる。
ガルドが箱を持ち上げ、セイルが荷台の奥へ押し込む。
「持つなって言ったでしょう」
リノが店内から声を飛ばす。
「押しただけだ」
「腹に力が入ることはしないで」
セイルが両手を上げる。
代わりにルークが箱を奥へ移した。
ミレアは弟子へ何か尋ねている。
「この濃い色の方は、長く持つんですか?」
「少し焼きすぎただけです」
「そうですか」
「選ばないでください。同じ箱です」
ミレアは濃いものを一つ手に取り、元へ戻した。
窯の前では、新しいパンが焼き上がっている。
弟子が長い板を差し込み、順番に取り出す。
大きさの違うパン。焼き色の揃っていないパン。
それでも、数は足りていた。
「若いのは焼き色を見るのが下手って言ってた」
私が言うと、弟子の手が止まった。
「親方、そんなことまで話したんですか?」
「死にかけると口が軽くなる」
「それ、私が助けなかったら最後の言葉になってた」
「そう考えると格好がつかんな」
「最初からついてないです」
弟子が言った。
トーマは椅子の背へ身体を預ける。
「お前はもう少し親方を敬え」
「歩かないなら敬います」
籠のパンが減っていく。
私が食べた分。レオン。リノ。ガレス。エドガー。
店の外にいる騎士たちにも、弟子が一つずつ渡していた。
トーマは、それを止めなかった。
注文された箱とは別のパンだった。売れば金になる。
それでも、数を確かめることはなかった。
「代金」
私が言うと、トーマが眉を上げた。
「何のだ」
「このパン」
「約束の分だ」
「他の人も食べた」
「助けてもらった命の代金にしては安い」
「命の値段は分からない」
「俺も分からん。だから、これでいい」
トーマは窯から出された次のパンを見る。
「また来れば、その時は払え」
「分かった」
「次は怪我人を連れてくるなよ」
「約束できない」
「そこは約束しろ」
答えず、残っていたパンを一つ取った。
今度は籠からではなく、弟子が焼いたものだった。片側だけ少し濃く焼けている。
一口食べる。
最初のパンより、外側が硬い。
「焼きすぎ?」
弟子の顔が引きつった。
トーマがこちらを見る。
「どうだ」
もう一度噛む。
「食べられる」
「それは褒めてないですね」
弟子が言った。
「でも、温かい」
弟子は少しだけ笑った。
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木箱を載せた荷車が、西門前へ戻っていく。
作戦用のパンは固く焼かれ、布と木箱で湿気を防いでいた。
今日食べたものとは違う。
明日の朝には、第一採取路へ向かう人間たちの荷物になる。
レオンが歩きながら言った。
「集合は夜明け前だ」
「分かった」
「今日は寝ろ」
「戻ってから確認することがある」
「今夜じゃないと駄目なのか」
「明日の作業を進めるために必要」
「終わったら寝ろ」
「んー、わかった」
レオンがこちらを見る。
「行くつもりか」
「第一層へ?」
「ああ」
今夜のうちに右膝の固定結果を確認し、次の工程まで指示しておけば、作業個体だけでも修理を進められる。
明日の出発には間に合う。
同行しない理由はなかった。
「行く」
レオンの指が、持っていた地図の端で止まった。
何かを言おうとしたように見えたが、口にはしなかった。
「装備はあるのか」
「影と血がある」
「服の話だ」
「作業服」
「予備も持て」
「必要?」
「奈落へ入るならな」
それだけ言い、レオンは地図を持つ兵士の方へ向かった。
明日の配置を、まだ確認するらしい。
私はレムナへ戻る前に、荷車を見送った。
木箱の中には、固く焼かれたパンが入っている。
その後ろでは、トーマの弟子が次の生地を窯へ入れていた。
明日の朝、そのパンは奈落第1層へ向かう。
私も同じつもりだった。




