第十八話《奪還》
《白夜修復工程――自動継続中》
《生体循環系統――試験送液を継続》
《管理者判断を要する異常――なし》
表示を閉じた。
白夜の修理は止まっていない。
管路守が循環圧力を監視し、薬工守が流れ込んだ循環液の状態を調べている。掃工守は古い管から漏れた液体を回収し、架工守と搬工守は次の交換箇所へ足場を組んでいた。
今のところ、私が見ていなくても進められる。
だから、生活区画へ戻ってきた。
湯を浴び、汚れた作業服を縫工守へ渡す。髪を乾かしたあと、新しい服へ着替えるつもりだった。
けれど、白いシャツを一枚着たところで面倒になった。
裾は太腿の半ばまである。
レムナの中には作業個体しかいない。困る相手はいなかった。
台所で保存血を小さな杯へ注ぎ、炉の上では昨夜のスープを温め直す。
加熱を終え、蓋を開けた。
湯気が顔へ触れる。
一瞬、曇った眼鏡を拭こうとした気がした。
けれど、視界は何も変わらない。
浮いた脂を匙で端へ寄せ、器へ注いだ。パンを一つ添え、食卓へ運ぶ。
保存血を先に飲む。
冷たい液体が喉を通り、身体の奥へ熱が広がった。
そのあと、スープへ匙を入れる。
少し塩が足りない。
追加するか考え、やめた。食べられないほどではない。
パンをスープへ浸す。外側が柔らかくなるまで待ち、噛んだ。
急いで食べる必要はない。
白夜を見に行く必要もない。
救難信号も届いていない。
何もしなくていい時間だった。
食べ終えた器を洗浄設備へ入れる。
寝台へ行くほど眠くはない。
長椅子へ横になり、まだ少し湿っている髪を背中から外へ逃がした。白いシャツの裾を引き、目を閉じる。
《休息状態への移行を確認》
「寝ない」
《休息と睡眠は同義ではありません》
「そう」
《照明を低下させますか》
「少しだけ」
室内の光が弱くなる。
視界の端には、白夜の修復表示だけを残した。
《第一修復工程――進行率一七%》
《第二生体循環路――安定》
循環圧力も、作業個体の配置も大きく変化していない。
待つことも作業だと、診工守は言っていた。
流れを戻した直後に次の管を開けば、異常が起きても原因を分けられない。
だから待つ。
目を閉じたまま、白夜の循環音を想像する。
第六主層は遠い。実際には聞こえない。
それでも、胸の中で何かが流れている姿は浮かんだ。
《救難対象を確認》
目を開けた。
表示が白夜の修復記録を押し退ける。
《登録済み地上座標周辺》
《救難座標精度――八八%》
《成人男性》
《生命危険度――中》
《右下肢損傷》
《自力移動――不能》
身体を起こす。
「今すぐ死ぬ?」
《現時点で生命反応は維持されています》
《継続出血を確認》
《放置時、生存率の低下が予測されます》
「収容して」
《直接収容――非推奨》
《対象周辺に大型異物を確認》
《収容実行時、右下肢損傷拡大の危険》
「挟まってる?」
《可能性――高》
表示された場所は、西門外に登録した地上座標の近くだった。
救難網が見られるのは、登録座標の周囲だけだ。今回の対象は、その狭い範囲へ偶然入っていた。
《推定生存可能時間――三時間二十六分》
着替える時間はある。
けれど、着替える必要があるとは思わなかった。
白いシャツの上から外套を羽織る。作業靴を履き、髪を紐でまとめた。
「現地派遣」
《対象周辺の安全確認を実行します》
《大型生命反応――なし》
《小型生命反応――複数》
《現地派遣を許可します》
白い光が足元へ広がる。
長椅子と食卓が薄れていった。
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風の音がした。
足元には湿った土と草がある。
少し離れた場所に、横倒しになった荷車があった。片方の車輪が外れ、積み荷が道へ散らばっている。
パンだった。
布に包まれた丸いパンが、泥の上へ転がっていた。
荷車の下から声が聞こえる。
「誰か、いるのか」
「いる」
近づく。
中年の男が、倒れた荷台と地面の間へ右脚を挟まれていた。
上半身は動く。意識もはっきりしている。
ただ、顔色は悪かった。
「脚を見る」
荷車の横へしゃがむ。
木枠が太腿の上へ落ちている。
完全に潰れてはいない。けれど、無理に引き抜けば傷口が広がる。
血の匂いがした。
私の身体は、それを食べられるものとして認識した。
診断表示は、失えば死ぬものとして数えている。
同じ血を、身体と私は別の意味で見ていた。
《右大腿部裂傷》
《筋組織損傷》
《大腿骨――骨折なし》
《動脈損傷――なし》
《静脈性出血――継続》
「骨は折れてない」
「分かるのか」
「分かる」
血糸を伸ばす。
男の傷口へは入れず、荷車の木枠へ巻きつけた。影も地面へ広げる。
荷台の下へ入り込み、沈んだ木枠を支えた。
「今から上げる」
「一人でか?」
「動かないで」
「いや、しかし――」
影を持ち上げる。
木材が軋んだ。
荷車の片側が、ゆっくりと浮いていく。
男の目が大きく開いた。
「今、脚を抜いて」
「動かすと血が――」
「止める」
男が両腕で身体を引く。
右脚が木枠の下から外れた。傷口から血が流れる。
すぐに血糸を周囲へ巻き、圧迫した。診断表示を見ながら力を調整する。
《出血量――低下》
《患部固定を推奨》
影で荷車を支えたまま、道へ散らばった布を一枚取った。
パンを包んでいたものだった。
泥のついていない内側を使い、脚へ巻く。
「痛い?」
「痛い」
「なら生きてる」
「そういうものか?」
「たぶん」
脚を固定する。
荷車をゆっくり地面へ戻した。
男は自分の脚より、道へ散らばったパンを見ていた。
「全部駄目になったな」
「半分くらい」
「それでも多い」
「パン屋?」
「ああ。西門近くの店だ。朝の分を詰所へ運んでいた」
「どうして倒れたの」
「前輪が外れた。坂で一気に横へ持っていかれてな。馬は逃げた」
周囲を確認する。
細い蹄跡が街の方向へ続いていた。
大型生命反応はない。馬はすでに遠くまで逃げたらしい。
「名前」
「トーマ。トーマ・ベルク」
《患者識別名――トーマ・ベルク》
《登録》
「今から運ぶ」
「街へか?」
「先に治療する」
「どこで」
「私の家」
「近くに家なんて――」
「収容」
白い光がトーマの身体を包む。
続いて、私も帰還を実行した。
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トーマは治療台の上で、天井を見ていた。
「本当に家なのか」
「うん」
「家にしては、随分と……」
周囲では診工守と薬工守が動いている。
金属の腕。透明な管。壁へ並ぶ古い装置。
普通の家と違うことは分かっている。
「治療室」
「領主館の治療院より立派に見えるが」
「古い」
「そういう問題ではない気がするな」
診工守が傷口を洗い、入り込んだ木片を取り除く。
トーマが歯を食いしばった。
私は切れた血管を閉じ、裂けた筋組織を血糸でつないだ。
完全に元どおりにはできない。しばらくは歩かない方がいい。
《出血――停止》
《患部閉鎖を確認》
《右下肢への荷重を禁止》
「歩かないで」
「店へ戻らないと」
「駄目」
「明日の仕込みがある」
「他の人に頼んで」
「うちの若いのは、焼き色を見るのがまだ下手でな」
「脚より大事?」
「店をやっていると、たまにそう思う」
「駄目」
「分かった」
返事が軽い。
たぶん、本当には分かっていない。
「お酒も駄目」
「飲まない」
「本当に?」
「仕事の日は飲まない」
「今日は仕事の日?」
トーマが黙った。
「駄目」
「はい」
薬工守が鎮痛薬を用意する。
私は水差しから杯へ水を注ぎ、トーマへ渡した。
トーマは一気に飲み干した。
「パンは」
「半分は泥」
「残りは?」
「道」
「馬より先に誰かが拾ってくれるといいんだが」
「パンの心配ばかり」
「パン屋だからな」
トーマは空になった杯を置いた。
「代金は払えるのか」
「いらない」
「命を助けてもらって、ただというわけにはいかない」
「なら、次に行った時にパン」
「何がいい」
考える。
焼きたてのパンを食べたことは、この世界へ来てから何度かある。
保存食より柔らかく、少し温かい。
「温かいの」
「当たり前だ。パン屋で冷えたものを出したら怒られる」
「なら、それ」
「約束する」
トーマの生命反応は安定している。
地上へ戻しても問題ない。
接触印を開いた。
「レオン」
少しして返事が届く。
《何だ》
「怪我人を治した」
《どこで拾った》
「西門の外。荷車の下」
《所属は》
「パン屋」
治療台の上でトーマが手を上げた。
「ベルクの店だと言ってくれ。西門通りの角だ」
「ベルクの店」
《分かった。西門の治療所へ連絡する》
「今から戻す」
《こちらで受け取る》
「レオンが?」
《近くにいる》
普段なら、レオンは城壁警備か探索者組合にいる。
近くにいるという言葉に、少しだけ違和感があった。
「分かった」
トーマへ向き直る。
「地上へ戻る」
「助かった」
「まだ歩かないで」
「分かってる」
「お酒も」
「分かってる」
「パンは」
「焼いておく」
今度は信用してもいい気がした。
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西門近くの地上座標へ派遣する。
先ほどとは違い、街側の治療所前だった。
白い光が消えると、担架を持った治療員が待っていた。レオンもいる。
二人でトーマを担架へ移した。
治療員が患部の状態を確認し、驚いたように私を見る。
「縫合まで終わっている……」
「歩かせないで」
「承知しました」
担架が治療所へ運ばれていく。
入口の手前で、若い男が駆け寄った。
「親方!」
トーマが片手を上げる。
「店を頼む。明日の生地は奥の棚だ」
「何があったんですか」
「車輪が外れた。あと、パンが半分死んだ」
「親方より先にパンの話をするんですか?」
「俺は生きてるからな」
治療所の扉が閉じた。
荷車が倒れ、脚を挟まれた。
それだけだった。
それでも、放っておけば死んでいたかもしれない。
今は治療所の中で、明日の仕込みを心配している。
「その格好で行ったのか」
レオンが言った。
外套の前を閉じる。
下には白いシャツしか着ていない。
「着替える必要があると思わなかった」
「思え」
「見えてない」
「見えるかどうかの問題ではない」
治療所の前を、大勢の人間が行き交っていた。
探索者らしい武装をした者。大きな箱を運ぶ商人。教会の印が入った鎧を身につけた騎士。
荷車には保存食と水樽が積まれ、鍛冶工房からは剣や杭を載せた台車が運び出されている。
通りの店は開いていた。
けれど、棚の空いた店が増えている。
薬材店では、価格を書いた板の数字が上から書き直されていた。煙の出ていない工房もある。
奈落から素材を運ぶための荷車は、道の端へ並べられたまま動いていなかった。
「奈落第1層へ入る準備?」
「ああ。今日、正式に決まった」
「第一採取路を取り戻すの?」
「まずはそこからだ」
一台の荷車が届かなければ、明日のパンが減る。
奈落から上がってくる荷車は、もう何日も止まっていた。
「閉じたままだと、街がもたないから?」
「もう影響が出ている」
「取り残された人も探す?」
「もし生存者がいればな」
レオンと並び、探索者組合へ向かう。
入口前には人が集まり、壁へ新しい紙が何枚も貼られていた。
人混みの中に、エドガーがいる。
聖堂騎士の装備を身につけ、部下らしい者へ荷物の指示を出していた。
私たちに気づき、近づいてくる。
「エルセリア殿」
「エドガーも行くの?」
「招集を受けた。治療班の護衛と、作戦区域の安全確保を命じられている」
エドガーが、組合の壁へ貼られた地図を指す。
奈落入口から第一採取路を通り、旧中継拠点へ至る経路が太い線で記されていた。
以前は、採取した鉱石や薬材を集め、探索者が休息するために使われていた場所らしい。
今は、その経路を横切るように赤い印が並んでいる。
印の一つには、《中層種》と書かれていた。
「まだ上がってきてる」
「ああ。上層種との縄張り争いも続いている。中層側から押し上げられているという見方もあるが、原因は分かっていない」
以前の地図に記された生息域は、もう信用できない。
安全だった場所に巣を作っている可能性もある。
「今回は第一層だけ?」
「ああ。入口から第一採取路までの経路を確保し、旧中継拠点を奪還する。第二層への進入は、その結果を見て判断する予定だ」
上層全体を一度に取り戻す作戦ではない。
以前は日常的に使われていた最初の道を、一つずつつなぎ直す。
エドガーの視線が、通りの向こうへ向いた。
止まった工房。空の荷車。値札を書き換える商人。
「第一層から入っていたのは、希少な遺物ばかりではない。道具に使う鉱石、薬の材料、灯りや炉を動かす魔核だ」
人間が普通に暮らすためのものだった。
「このままでは、奈落へ入らなくても生活できなくなる者が出る」
奈落へ入れば、死ぬ人間が出るかもしれない。
入らなくても、生きられなくなる人間がいる。
どちらも危険だった。
「いつ行く?」
「二日後の夜明けだ」
エドガーは別の騎士に呼ばれ、そちらへ戻っていった。
レオンが壁の紙を見る。
《奈落上層限定奪還作戦》
《作戦区域――奈落第1層》
《対象――第一採取路及び旧中継拠点》
《第一目標――進入経路の確保》
《第二目標――旧中継拠点の奪還》
《作戦開始――二日後・夜明け》
《参加人員――王国軍、工兵隊、教会騎士団、治療班、指定探索者》
その下には、参加予定者の名前が続いている。
知らない名前が多い。
軍人。騎士。工兵。治療師。探索者。
その中に、覚えている名前があった。
レオン。ガレス。リノ。エドガー。
地下聖堂で見た騎士たちの名前も並んでいる。
ミレア。セイル。ガルド。ルーク。
「レオンも指定探索者?」
「ああ」
「断れる?」
「正当な理由があればな。断れば、今後の依頼や探索許可にも影響する」
完全な命令ではない。
けれど、簡単に拒めるものでもなかった。
「正当な理由はある?」
「ない」
「作る?」
レオンがこちらを見る。
「作らない。断るつもりもない」
「どうして」
レオンは名簿ではなく、組合前へ集まった探索者たちを見た。
装備を確かめる者。地図を囲む者。荷物を分ける者。
「この奈落で食ってきた人間が、俺も含めて多すぎるんだ」
掲示された名簿へ目を戻す。
覚えている名前が、同じ紙の上へ並んでいた。
その右側には、全員同じ作戦区域が記されている。
《奈落第1層・第一採取路》




