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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第四部《奈落艦レムナ》

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第十五話《観測》

白い光が消える。


外壁の上を吹いていた風も、手のひらに触れていた体温も、一緒に消えた。


私は帰還区画の中央に立っていた。目の前には閉じた隔壁。隣にレオンはいない。


右手を開く。


何も握っていない。


それでも、指の間にはまだ温かさが残っている気がした。


「帰った」


《マスターユーザーの帰還を確認》


《外部派遣経路を閉鎖します》


いつもの表示だった。


今日は少しだけ、静かに見えた。


私は右手を一度握り、帰還区画を出た。


---


生活区画へ戻ると、掃工守が床を進んでいた。


私の足音を感知し、進路を僅かにずらす。


縫工守は洗浄区画から運ばれてきた衣服を畳んでいた。白いシャツ。短いズボン。作業用の外套。


法廷へ着ていった服とは違い、家の中で何度も使っているものだった。


「それ、棚に入れて」


《収納要求を確認》


縫工守が畳んだ服を抱え、生活区画の棚へ向かう。


最初は空だった棚にも、今は服が並んでいた。


森へ出るためのもの。治療用のもの。地上へ行くためのもの。


レオンに脚を隠せと言われて作ったものもある。


一人で暮らし始めた頃には、服を分ける必要などなかった。


着ていない方が動きやすく、《裸族》も働く。


今も家の中なら、白いシャツ一枚で過ごすことは多い。


けれど、地上へ行く時は違う。


患者を迎える時も、血まみれになる前提で着替えを用意するようになった。


必要なものが増えた。


面倒ではある。


棚に並んでいるところを見るのは、嫌ではなかった。


法廷で着ていた濃紺の上着を脱ぐ。


汚れてはいないが、人の多い場所を歩いた。外の埃や匂いもついている。


「これも洗う」


《洗浄対象として登録します》


縫工守へ渡す。


腰の留め具を外し、黒いズボンも脱いだ。下には薄い布を着けている。


以前なら必要なかった。


レオンが来るようになり、人間の前へ出るようになってから、縫工守に作らせたものだった。


今では、完全に何も身につけていない方が少し落ち着かない時もある。


《人間性――微小変動》


表示された文字を消す。


「見なくても分かる」


服を増やした。


食器を増やした。


誰かと歩いて、手までつないだ。


変わっていないと言う方が難しかった。


洗浄区画へ向かう。


---


風呂には、すでに湯が張られていた。


外部派遣から帰った時は身体を洗う。


私が決めた規則ではない。何度も同じことをしているうちに、そうなった。


管路守が湯を送り、炉工守が温度を保っている。


表面から薄い湯気が上がっていた。


「少し熱くして」


《設定温度を一度上昇します》


足先を入れる。


熱が肌を包む。


ゆっくり身体を沈めると、外壁の上を歩いていた時に受けた風の冷たさが抜けていった。


腕を湯の中へ伸ばす。


レオンとつないでいた右手も、すぐにほかの部分と同じ温度になる。


それでも、感触までは消えなかった。


指を絡めた。


私より温かかった。


治療中に触れた時とは違う。


脈を測る必要もなかった。


転ばないよう支えたわけでもない。


ただ、つないで歩いた。


「好きかは分からない」


湯気の向こうへ言う。


返事をする者はいない。


診工守を呼べば、心拍や血流の変化を調べることはできる。


けれど、数値を見ても答えにはならない気がした。


レオンが来ると嬉しい。


帰ると静かになる。


怪我をすれば嫌だと思う。


今日が終わるのを、少し惜しいと思った。


そこまでは分かる。


その先へ、どんな名前をつけるのかはまだ分からなかった。


髪を洗う。


腰まである黒髪へ湯を流し、洗浄液をなじませる。


以前より手際はよくなった。


絡まないよう上から順に指を通す。


すすぎ終わる頃には、湯の表面へ長い髪が広がっていた。


「乾かすの、今日は早い」


浴槽から出る。


布で身体を拭き、白いシャツを着る。


髪の水気を何度か布で挟んだあと、地上で買った温風櫛を棚から取り出した。


店主は櫛と呼んでいた。


私の中ではドライヤーだった。


魔力を流す。


弱い風が出る。


温度を一段上げると、温かい空気が肩から背中へ流れた。


「熱くない」


《生体表面温度――正常範囲》


「使える」


髪を左右へ分ける。


根元へ近づけすぎないよう風を入れ、毛先へ向けてゆっくり動かす。


今までは布で何度も挟み、炉工守の近くへ座って乾くまで待っていた。


途中で眠くなり、半分湿ったまま寝たこともある。翌朝、背中まで冷たくなっていた。


温風櫛なら、手を動かす必要はあるが、乾く速度が明らかに違う。


黒髪が風に揺れる。


少しずつ軽くなっていく。


鏡代わりの磨いた板へ自分の姿が映っていた。


白い肌。赤い目。長い黒髪。


地上へ出たばかりの頃は、これを見ても自分だと思いきれなかった。


今は違う。


髪を持ち上げ、乾いているか確かめる。


鏡の中の女も、同じように動く。


「私」


口に出す。


違和感はなかった。


毛先まで水気が消える頃にも、一時間は経っていなかった。


「早い」


髪を手ですくう。


冷たくない。湿ってもいない。


少し広がっている。


縫工守へ、髪を整えるための櫛も作らせた方がいいかもしれない。


温風櫛を持ったまま、接触印へ意識を向ける。


短い言葉を送った。


《乾いた》


少しして返事が来る。


《髪は残っているか》


自分の髪を確認する。


焦げた部分はない。


床にも落ちていない。


《全部ある》


《ならよかった》


《疑ってた?》


《お前は衣類用の乾燥具を頭へ使おうとしていただろう》


《使ってない》


《止められたからな》


「しつこい」


伝言にはしなかった。


それでも、少しだけ口元が緩んだ。


温風櫛を《影蔵》へ戻そうとして、やめる。


洗浄区画の棚へ置く。


家で使うものだから、家に置いておけばいい。


レムナの中に、地上で買ったものが一つ増えた。


棚の上に温風櫛があるだけで、そこが以前と少し違って見えた。


---


夕食には、残っていた根菜と肉を使った。


肉は薄く切る。


根菜は火が通りやすい大きさへ揃える。


鍋へ水を入れ、炉工守に弱い加熱を頼む。


「強くしないで」


《低出力加熱を維持します》


以前、一度だけ火を強くしすぎた。


鍋の底へ肉が張りつき、剥がすのに時間がかかった。食べられはしたが、焦げた味が強かった。


同じ失敗をしないよう、途中で何度か混ぜる。


塩を入れる。


薬工守に止められる患者用の食事とは違い、自分の分には少し多めに入れた。


香りが広がる。


レオンと入った店で食べた焼き菓子ほど甘くはない。


地上には、まだ知らない食べ物が多い。


次に会う時は、別の店へ行ってもいい。


次。


自然に考えていた。


また会うと決めたわけではない。


けれど、会わないとも思っていなかった。


鍋の中身を器へ移す。


食卓へ運ぶ時、二つ目の器へ手を伸ばしかけた。


止まる。


レオンはいない。


灰角兎もいない。


今夜食べるのは私だけだった。


一つだけ持っていく。


食卓には椅子が二脚ある。


向かい側の椅子には、灰角兎が使っていた布が今も敷かれている。爪痕も残したままだった。


私は自分の椅子へ座った。


向かい側は空いている。


以前は、その空席を見ると静かだと思った。


今日は、レオンが座ったら何を言うか考えた。


肉が少し硬いと言うかもしれない。


根菜は悪くないと言うかもしれない。


塩を入れすぎたら、水を求める。


「次は作る?」


誰もいない席へ聞く。


当然、返事はない。


自分で食べる。


肉は少し硬い。


根菜には味が染みている。


塩は多すぎなかった。


「食べられる」


レオンなら、それは褒めていないと言うかもしれない。


少しずつ食べる。


食事を終え、器を洗浄設備へ入れる。


鍋に残った分は、明日の朝へ回す。


以前なら、同じものを二度続けて食べても何も思わなかった。


今は、少し別の味にしたい。


朝は水を足して薄くし、乾燥させた香草を入れようと思った。


暮らすための予定が、一日先まで続いていく。


---


食卓へ戻り、日誌を開いた。


毎日必ず書いているわけではない。


何か覚えておきたいことがあった時だけ、短く残す。


紙は地上で買ったものと、施設内で作った薄い記録材を混ぜて使っている。


今日の日付を書く。


法廷。


無罪。


温風櫛を購入。


レオンと食事。


手をつないだ。


そこまで書き、筆が止まる。


「今日が終わるのは、少し嫌」


自分で言った言葉も書いた。


読み返す。


消す必要はない。


誰かへ見せるものでもなかった。


日誌を閉じようとした時、第三主層から観測情報の更新が届いた。


《広域受動観測結果を更新》


《監視対象二個体の位置情報を取得》


《奈落内生体分布――変動継続》


筆を置いた。


楽しかった時間が終わっても、奈落は止まらない。


私は日誌を棚へ戻した。


「上に来た?」


《地上方向への明確な移動は確認されていません》


今すぐ警報を出す必要はない。


それでも、確認しないまま眠る気にはなれなかった。


鍋の加熱が完全に止まっていることを確かめる。


温風櫛も棚にある。


洗浄設備は、使った食器を処理している。


縫工守は畳んだ衣服を棚へ収め終えていた。


「少し見てくる」


誰に言ったわけでもない。


それでも、家を空ける時には言うようになっていた。


《第三主層への移動経路を点灯します》


私は生活区画を出た。


---


広域観測設備の中央には、奈落の立体図が浮かんでいた。


地上に近い上層。


その下へ広がる無数の洞窟と巨大空洞。


さらに深く、通常の探索者が到達できない領域。


生命反応を示す光点が、暗い空間へ幾つも浮かんでいる。


以前より、全体の位置が少し上がっていた。


小型の反応が先に動き、その後ろから大型の反応が続いている。


逃げ込んだ先で別の魔物とぶつかり、進路を変えている群れもあった。


《奈落上層危険度――従来比二六一%》


《旧中層大型種の上層定着――増加》


《深層域からの上方移動――継続》


第一波が終わっても、奈落の中は元へ戻っていない。


地上へ出てくる数が減っただけだった。


立体図の下部へ、二つの巨大な反応が表示される。


一つは、翼を持つ細長い影。


《深淵天竜》


《前回観測位置からの移動――西方三百十二メートル》


《深度変化――軽微》


《地上方向への進行――未確認》


もう一つは、さらに長い。


《深淵航鯨》


《推定全長――千百四十メートル》


《現在進行方向――水平方向》


《深度変化――なし》


《地上方向への進行――未確認》


「まだ上がってない」


《肯定》


深淵天竜は獲物を追っただけらしい。


航鯨も、巨大空洞の中を横へ移動している。


今すぐ地上へ向かう様子はなかった。


私は立体図を拡大する。


深淵天竜の身体は、受動観測では輪郭の一部しか見えない。


航鯨の周囲に付着した小型生命反応も、個体数までは取れなかった。


「もっと詳しく見られる?」


《能動診断波の照射により、内部構造の取得精度を向上できます》


「気づかれる?」


《対象反応を誘発する可能性を否定できません》


「しない」


今は、攻撃する必要がない。


向こうも地上へ来ていない。


詳しく知るためだけに、町より大きな生き物へこちらの位置を知らせる必要はなかった。


「受動観測だけ続けて」


《監視条件を維持します》


《地上方向への移動を確認した場合、緊急警告を実行します》


現地へ近づけば、もっと正確に調べられるかもしれない。


けれど、進行方向も、大きさも、地上へ向かっているかどうかも、ここから分かる。


観測できるものを、わざわざ近くまで見に行く理由はなかった。


強そうなら逃げる。


近づかなくていいなら近づかない。


今までと同じだった。


立体図のさらに下へ、輪郭を取れない振動源が表示される。


《艦体下方振動――継続》


《前回大崩壊記録との一致率――二三%》


「一つ上がった」


《新規観測情報を反映しました》


《短期的な大規模崩壊を示す値ではありません》


「でも、下がってもない」


《肯定》


今すぐ世界が壊れるわけではない。


明日か、数年後か、それ以上先かも分からない。


ただ、止まっているとも言えなかった。


私は観測図の中に浮かぶ深淵天竜を見る。


第一波で地上へ出た魔物より、遥かに大きい。


航鯨は、それよりさらに大きい。


地上へ来た時、今の王国に止められるとは思えなかった。


「白夜なら、止められる?」


以前にも聞いた質問だった。


表示される答えも、最初は同じだった。


《第一機動決戦兵装・白夜》


《現状における戦闘起動――不能》


「直った部分もある」


《生体循環系統――限定稼働中》


《生体鍵認証――安定》


《機体急速劣化――停止》


《保存環境――限定維持》


白夜は、もう放っておけば壊れる状態ではない。


定期的な血液供給と生体循環液。


安定した電力。


格納庫の温度と湿度。


少しずつ整えてきた。


「戦うには何が足りない?」


表示が切り替わる。


《主動力出力――戦闘基準未達》


《機体神経接続――未確立》


《主兵装――未接続》


《副兵装――大半喪失》


《兵装管制経路――停止》


身体を維持できるようになっただけだった。


立てない。


動けない。


武器も持っていない。


「主兵装は壊れた?」


《機体内に主兵装反応を確認できません》


「どこ?」


《関連記録を検索します》


第三主層の観測図が消える。


代わりに、レムナの全体構造が浮かんだ。


第一主層から第七主層まで。


復旧している場所は淡く光り、停止している場所は暗い。


最上部に近い第二主層へ、細い印が現れた。


《第一機動決戦兵装専用兵装》


《最終保管座標――第二主層》


「武器だけ上にある?」


《保管記録上は肯定》


「白夜は第六主層」


《肯定》


機体と武器が、離れた場所へ保管されていた。


本来なら、第二主層から第六主層へ運ぶ設備があったはずだった。


「第二主層とつながってる?」


《通常昇降経路――応答なし》


《兵装搬送経路――停止》


《第二主層管理系統――応答なし》


「全部止まってる」


《肯定》


第二主層だけではない。


その上には第一主層がある。


レムナの先端に近く、最も損傷が大きい場所だった。


ただ、今向かうのは第一主層ではない。


白夜の武器があるのは第二主層だった。


「主兵装だけ?」


《追加記録を検索します》


返答まで時間がかかった。


欠損した情報を、別の主層に残った記録から集めているらしい。


やがて、表示が増える。


《第二主層兵装保管記録》


《登録決戦兵装――六》


《専用兵装保管記録――複数》


「六?」


《肯定》


「白夜以外もある?」


《肯定》


《対応機体情報を照会します》


六つの印が表示された。


一つだけが淡く光っている。


《機体反応確認――一》


《第一機動決戦兵装・白夜》


残りの五つは暗い。


《対応機体反応――なし》


《現在位置――取得不能》


《最終出撃記録――破損》


《帰還記録――確認不能》


「武器はあるのに、機体がない?」


《第二主層との直接接続が停止しているため、現物状態は確認できません》


記録が残っているだけかもしれない。


実際には壊れている可能性もある。


それでも、白夜以外の兵器が存在していたことは確からしい。


六つの戦略兵装。


白夜だけが、今もレムナの中にいる。


残りの五つが壊れたのか。


戻らなかったのか。


今も奈落のどこかにあるのか。


答えはなかった。


「名前は?」


《詳細情報は第二主層兵装管理記録に保存されています》


ここからでは読めない。


第二主層へ行く必要がある。


私はレムナの全体図を見る。


第七主層から第二主層までは遠い。


第六主層。


第五主層。


第四主層。


第三主層。


そこまでは、すでに通れる。


第三主層から第二主層へ続く経路だけが、暗く途切れていた。


「第二主層へ行く方法を探して」


《経路検索を開始します》


幾つもの線が浮かび、すぐに消える。


人員用の昇降路は、大きく損傷していた。


通常通路も、途中で完全に途切れている。


最後に一本だけ、太い経路が残った。


《戦略兵装用大型搬送軌道》


《第三主層側接続部――損傷》


《第二主層側状態――取得不能》


《限定復旧可能性――あり》


人間が歩くための通路ではない。


巨大な兵装を運ぶための軌道だった。


幅は十分にある。


問題は、停止した軌道と、途中に何があるか分からないことだった。


「管路守と炉工守で直せる?」


《詳細調査が必要です》


「搬工守は?」


《大型部品の移送に有効です》


第五主層で助けた搬送個体も、今では短い距離なら問題なく歩ける。


白夜の武器がどれほど大きいのかは分からない。


少なくとも、私一人で《影蔵》へ入れて運べる大きさではないはずだった。


観測図へ、もう一度深淵天竜と航鯨を表示する。


二体とも、まだ地上へ向かっていない。


今なら準備する時間がある。


危険な場所へ近づいて確かめる必要はない。


ここから見続ける。


動いた時に止められるよう、白夜を直す。


そのために、武器を取りに行く。


「明日、第二主層への搬送軌道を調べる」


《作業計画を登録しますか》


「登録して」


《第二主層接続準備を開始します》


《目的を指定してください》


私は暗く表示された第二主層を見る。


そこには白夜の武器がある。


そして、使う機体がいなくなった五つの兵装も残っているかもしれない。


「白夜の武器を持って帰る」


《目的を登録しました》


第三主層の観測設備は、奈落の反応を静かに追い続けている。


私はその前から離れた。


生活区画へ戻れば、洗い終わった服がある。


朝に食べる鍋も残っている。


棚には、地上で買った温風櫛が置かれている。


見に行く必要のない敵を追うより、守るための準備をすればいい。


白夜の武器を取りに行く。


そのあと、私は家へ帰る。


今見るべきものは、レムナの中にあった。


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