第十五話《観測》
白い光が消える。
外壁の上を吹いていた風も、手のひらに触れていた体温も、一緒に消えた。
私は帰還区画の中央に立っていた。目の前には閉じた隔壁。隣にレオンはいない。
右手を開く。
何も握っていない。
それでも、指の間にはまだ温かさが残っている気がした。
「帰った」
《マスターユーザーの帰還を確認》
《外部派遣経路を閉鎖します》
いつもの表示だった。
今日は少しだけ、静かに見えた。
私は右手を一度握り、帰還区画を出た。
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生活区画へ戻ると、掃工守が床を進んでいた。
私の足音を感知し、進路を僅かにずらす。
縫工守は洗浄区画から運ばれてきた衣服を畳んでいた。白いシャツ。短いズボン。作業用の外套。
法廷へ着ていった服とは違い、家の中で何度も使っているものだった。
「それ、棚に入れて」
《収納要求を確認》
縫工守が畳んだ服を抱え、生活区画の棚へ向かう。
最初は空だった棚にも、今は服が並んでいた。
森へ出るためのもの。治療用のもの。地上へ行くためのもの。
レオンに脚を隠せと言われて作ったものもある。
一人で暮らし始めた頃には、服を分ける必要などなかった。
着ていない方が動きやすく、《裸族》も働く。
今も家の中なら、白いシャツ一枚で過ごすことは多い。
けれど、地上へ行く時は違う。
患者を迎える時も、血まみれになる前提で着替えを用意するようになった。
必要なものが増えた。
面倒ではある。
棚に並んでいるところを見るのは、嫌ではなかった。
法廷で着ていた濃紺の上着を脱ぐ。
汚れてはいないが、人の多い場所を歩いた。外の埃や匂いもついている。
「これも洗う」
《洗浄対象として登録します》
縫工守へ渡す。
腰の留め具を外し、黒いズボンも脱いだ。下には薄い布を着けている。
以前なら必要なかった。
レオンが来るようになり、人間の前へ出るようになってから、縫工守に作らせたものだった。
今では、完全に何も身につけていない方が少し落ち着かない時もある。
《人間性――微小変動》
表示された文字を消す。
「見なくても分かる」
服を増やした。
食器を増やした。
誰かと歩いて、手までつないだ。
変わっていないと言う方が難しかった。
洗浄区画へ向かう。
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風呂には、すでに湯が張られていた。
外部派遣から帰った時は身体を洗う。
私が決めた規則ではない。何度も同じことをしているうちに、そうなった。
管路守が湯を送り、炉工守が温度を保っている。
表面から薄い湯気が上がっていた。
「少し熱くして」
《設定温度を一度上昇します》
足先を入れる。
熱が肌を包む。
ゆっくり身体を沈めると、外壁の上を歩いていた時に受けた風の冷たさが抜けていった。
腕を湯の中へ伸ばす。
レオンとつないでいた右手も、すぐにほかの部分と同じ温度になる。
それでも、感触までは消えなかった。
指を絡めた。
私より温かかった。
治療中に触れた時とは違う。
脈を測る必要もなかった。
転ばないよう支えたわけでもない。
ただ、つないで歩いた。
「好きかは分からない」
湯気の向こうへ言う。
返事をする者はいない。
診工守を呼べば、心拍や血流の変化を調べることはできる。
けれど、数値を見ても答えにはならない気がした。
レオンが来ると嬉しい。
帰ると静かになる。
怪我をすれば嫌だと思う。
今日が終わるのを、少し惜しいと思った。
そこまでは分かる。
その先へ、どんな名前をつけるのかはまだ分からなかった。
髪を洗う。
腰まである黒髪へ湯を流し、洗浄液をなじませる。
以前より手際はよくなった。
絡まないよう上から順に指を通す。
すすぎ終わる頃には、湯の表面へ長い髪が広がっていた。
「乾かすの、今日は早い」
浴槽から出る。
布で身体を拭き、白いシャツを着る。
髪の水気を何度か布で挟んだあと、地上で買った温風櫛を棚から取り出した。
店主は櫛と呼んでいた。
私の中ではドライヤーだった。
魔力を流す。
弱い風が出る。
温度を一段上げると、温かい空気が肩から背中へ流れた。
「熱くない」
《生体表面温度――正常範囲》
「使える」
髪を左右へ分ける。
根元へ近づけすぎないよう風を入れ、毛先へ向けてゆっくり動かす。
今までは布で何度も挟み、炉工守の近くへ座って乾くまで待っていた。
途中で眠くなり、半分湿ったまま寝たこともある。翌朝、背中まで冷たくなっていた。
温風櫛なら、手を動かす必要はあるが、乾く速度が明らかに違う。
黒髪が風に揺れる。
少しずつ軽くなっていく。
鏡代わりの磨いた板へ自分の姿が映っていた。
白い肌。赤い目。長い黒髪。
地上へ出たばかりの頃は、これを見ても自分だと思いきれなかった。
今は違う。
髪を持ち上げ、乾いているか確かめる。
鏡の中の女も、同じように動く。
「私」
口に出す。
違和感はなかった。
毛先まで水気が消える頃にも、一時間は経っていなかった。
「早い」
髪を手ですくう。
冷たくない。湿ってもいない。
少し広がっている。
縫工守へ、髪を整えるための櫛も作らせた方がいいかもしれない。
温風櫛を持ったまま、接触印へ意識を向ける。
短い言葉を送った。
《乾いた》
少しして返事が来る。
《髪は残っているか》
自分の髪を確認する。
焦げた部分はない。
床にも落ちていない。
《全部ある》
《ならよかった》
《疑ってた?》
《お前は衣類用の乾燥具を頭へ使おうとしていただろう》
《使ってない》
《止められたからな》
「しつこい」
伝言にはしなかった。
それでも、少しだけ口元が緩んだ。
温風櫛を《影蔵》へ戻そうとして、やめる。
洗浄区画の棚へ置く。
家で使うものだから、家に置いておけばいい。
レムナの中に、地上で買ったものが一つ増えた。
棚の上に温風櫛があるだけで、そこが以前と少し違って見えた。
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夕食には、残っていた根菜と肉を使った。
肉は薄く切る。
根菜は火が通りやすい大きさへ揃える。
鍋へ水を入れ、炉工守に弱い加熱を頼む。
「強くしないで」
《低出力加熱を維持します》
以前、一度だけ火を強くしすぎた。
鍋の底へ肉が張りつき、剥がすのに時間がかかった。食べられはしたが、焦げた味が強かった。
同じ失敗をしないよう、途中で何度か混ぜる。
塩を入れる。
薬工守に止められる患者用の食事とは違い、自分の分には少し多めに入れた。
香りが広がる。
レオンと入った店で食べた焼き菓子ほど甘くはない。
地上には、まだ知らない食べ物が多い。
次に会う時は、別の店へ行ってもいい。
次。
自然に考えていた。
また会うと決めたわけではない。
けれど、会わないとも思っていなかった。
鍋の中身を器へ移す。
食卓へ運ぶ時、二つ目の器へ手を伸ばしかけた。
止まる。
レオンはいない。
灰角兎もいない。
今夜食べるのは私だけだった。
一つだけ持っていく。
食卓には椅子が二脚ある。
向かい側の椅子には、灰角兎が使っていた布が今も敷かれている。爪痕も残したままだった。
私は自分の椅子へ座った。
向かい側は空いている。
以前は、その空席を見ると静かだと思った。
今日は、レオンが座ったら何を言うか考えた。
肉が少し硬いと言うかもしれない。
根菜は悪くないと言うかもしれない。
塩を入れすぎたら、水を求める。
「次は作る?」
誰もいない席へ聞く。
当然、返事はない。
自分で食べる。
肉は少し硬い。
根菜には味が染みている。
塩は多すぎなかった。
「食べられる」
レオンなら、それは褒めていないと言うかもしれない。
少しずつ食べる。
食事を終え、器を洗浄設備へ入れる。
鍋に残った分は、明日の朝へ回す。
以前なら、同じものを二度続けて食べても何も思わなかった。
今は、少し別の味にしたい。
朝は水を足して薄くし、乾燥させた香草を入れようと思った。
暮らすための予定が、一日先まで続いていく。
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食卓へ戻り、日誌を開いた。
毎日必ず書いているわけではない。
何か覚えておきたいことがあった時だけ、短く残す。
紙は地上で買ったものと、施設内で作った薄い記録材を混ぜて使っている。
今日の日付を書く。
法廷。
無罪。
温風櫛を購入。
レオンと食事。
手をつないだ。
そこまで書き、筆が止まる。
「今日が終わるのは、少し嫌」
自分で言った言葉も書いた。
読み返す。
消す必要はない。
誰かへ見せるものでもなかった。
日誌を閉じようとした時、第三主層から観測情報の更新が届いた。
《広域受動観測結果を更新》
《監視対象二個体の位置情報を取得》
《奈落内生体分布――変動継続》
筆を置いた。
楽しかった時間が終わっても、奈落は止まらない。
私は日誌を棚へ戻した。
「上に来た?」
《地上方向への明確な移動は確認されていません》
今すぐ警報を出す必要はない。
それでも、確認しないまま眠る気にはなれなかった。
鍋の加熱が完全に止まっていることを確かめる。
温風櫛も棚にある。
洗浄設備は、使った食器を処理している。
縫工守は畳んだ衣服を棚へ収め終えていた。
「少し見てくる」
誰に言ったわけでもない。
それでも、家を空ける時には言うようになっていた。
《第三主層への移動経路を点灯します》
私は生活区画を出た。
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広域観測設備の中央には、奈落の立体図が浮かんでいた。
地上に近い上層。
その下へ広がる無数の洞窟と巨大空洞。
さらに深く、通常の探索者が到達できない領域。
生命反応を示す光点が、暗い空間へ幾つも浮かんでいる。
以前より、全体の位置が少し上がっていた。
小型の反応が先に動き、その後ろから大型の反応が続いている。
逃げ込んだ先で別の魔物とぶつかり、進路を変えている群れもあった。
《奈落上層危険度――従来比二六一%》
《旧中層大型種の上層定着――増加》
《深層域からの上方移動――継続》
第一波が終わっても、奈落の中は元へ戻っていない。
地上へ出てくる数が減っただけだった。
立体図の下部へ、二つの巨大な反応が表示される。
一つは、翼を持つ細長い影。
《深淵天竜》
《前回観測位置からの移動――西方三百十二メートル》
《深度変化――軽微》
《地上方向への進行――未確認》
もう一つは、さらに長い。
《深淵航鯨》
《推定全長――千百四十メートル》
《現在進行方向――水平方向》
《深度変化――なし》
《地上方向への進行――未確認》
「まだ上がってない」
《肯定》
深淵天竜は獲物を追っただけらしい。
航鯨も、巨大空洞の中を横へ移動している。
今すぐ地上へ向かう様子はなかった。
私は立体図を拡大する。
深淵天竜の身体は、受動観測では輪郭の一部しか見えない。
航鯨の周囲に付着した小型生命反応も、個体数までは取れなかった。
「もっと詳しく見られる?」
《能動診断波の照射により、内部構造の取得精度を向上できます》
「気づかれる?」
《対象反応を誘発する可能性を否定できません》
「しない」
今は、攻撃する必要がない。
向こうも地上へ来ていない。
詳しく知るためだけに、町より大きな生き物へこちらの位置を知らせる必要はなかった。
「受動観測だけ続けて」
《監視条件を維持します》
《地上方向への移動を確認した場合、緊急警告を実行します》
現地へ近づけば、もっと正確に調べられるかもしれない。
けれど、進行方向も、大きさも、地上へ向かっているかどうかも、ここから分かる。
観測できるものを、わざわざ近くまで見に行く理由はなかった。
強そうなら逃げる。
近づかなくていいなら近づかない。
今までと同じだった。
立体図のさらに下へ、輪郭を取れない振動源が表示される。
《艦体下方振動――継続》
《前回大崩壊記録との一致率――二三%》
「一つ上がった」
《新規観測情報を反映しました》
《短期的な大規模崩壊を示す値ではありません》
「でも、下がってもない」
《肯定》
今すぐ世界が壊れるわけではない。
明日か、数年後か、それ以上先かも分からない。
ただ、止まっているとも言えなかった。
私は観測図の中に浮かぶ深淵天竜を見る。
第一波で地上へ出た魔物より、遥かに大きい。
航鯨は、それよりさらに大きい。
地上へ来た時、今の王国に止められるとは思えなかった。
「白夜なら、止められる?」
以前にも聞いた質問だった。
表示される答えも、最初は同じだった。
《第一機動決戦兵装・白夜》
《現状における戦闘起動――不能》
「直った部分もある」
《生体循環系統――限定稼働中》
《生体鍵認証――安定》
《機体急速劣化――停止》
《保存環境――限定維持》
白夜は、もう放っておけば壊れる状態ではない。
定期的な血液供給と生体循環液。
安定した電力。
格納庫の温度と湿度。
少しずつ整えてきた。
「戦うには何が足りない?」
表示が切り替わる。
《主動力出力――戦闘基準未達》
《機体神経接続――未確立》
《主兵装――未接続》
《副兵装――大半喪失》
《兵装管制経路――停止》
身体を維持できるようになっただけだった。
立てない。
動けない。
武器も持っていない。
「主兵装は壊れた?」
《機体内に主兵装反応を確認できません》
「どこ?」
《関連記録を検索します》
第三主層の観測図が消える。
代わりに、レムナの全体構造が浮かんだ。
第一主層から第七主層まで。
復旧している場所は淡く光り、停止している場所は暗い。
最上部に近い第二主層へ、細い印が現れた。
《第一機動決戦兵装専用兵装》
《最終保管座標――第二主層》
「武器だけ上にある?」
《保管記録上は肯定》
「白夜は第六主層」
《肯定》
機体と武器が、離れた場所へ保管されていた。
本来なら、第二主層から第六主層へ運ぶ設備があったはずだった。
「第二主層とつながってる?」
《通常昇降経路――応答なし》
《兵装搬送経路――停止》
《第二主層管理系統――応答なし》
「全部止まってる」
《肯定》
第二主層だけではない。
その上には第一主層がある。
レムナの先端に近く、最も損傷が大きい場所だった。
ただ、今向かうのは第一主層ではない。
白夜の武器があるのは第二主層だった。
「主兵装だけ?」
《追加記録を検索します》
返答まで時間がかかった。
欠損した情報を、別の主層に残った記録から集めているらしい。
やがて、表示が増える。
《第二主層兵装保管記録》
《登録決戦兵装――六》
《専用兵装保管記録――複数》
「六?」
《肯定》
「白夜以外もある?」
《肯定》
《対応機体情報を照会します》
六つの印が表示された。
一つだけが淡く光っている。
《機体反応確認――一》
《第一機動決戦兵装・白夜》
残りの五つは暗い。
《対応機体反応――なし》
《現在位置――取得不能》
《最終出撃記録――破損》
《帰還記録――確認不能》
「武器はあるのに、機体がない?」
《第二主層との直接接続が停止しているため、現物状態は確認できません》
記録が残っているだけかもしれない。
実際には壊れている可能性もある。
それでも、白夜以外の兵器が存在していたことは確からしい。
六つの戦略兵装。
白夜だけが、今もレムナの中にいる。
残りの五つが壊れたのか。
戻らなかったのか。
今も奈落のどこかにあるのか。
答えはなかった。
「名前は?」
《詳細情報は第二主層兵装管理記録に保存されています》
ここからでは読めない。
第二主層へ行く必要がある。
私はレムナの全体図を見る。
第七主層から第二主層までは遠い。
第六主層。
第五主層。
第四主層。
第三主層。
そこまでは、すでに通れる。
第三主層から第二主層へ続く経路だけが、暗く途切れていた。
「第二主層へ行く方法を探して」
《経路検索を開始します》
幾つもの線が浮かび、すぐに消える。
人員用の昇降路は、大きく損傷していた。
通常通路も、途中で完全に途切れている。
最後に一本だけ、太い経路が残った。
《戦略兵装用大型搬送軌道》
《第三主層側接続部――損傷》
《第二主層側状態――取得不能》
《限定復旧可能性――あり》
人間が歩くための通路ではない。
巨大な兵装を運ぶための軌道だった。
幅は十分にある。
問題は、停止した軌道と、途中に何があるか分からないことだった。
「管路守と炉工守で直せる?」
《詳細調査が必要です》
「搬工守は?」
《大型部品の移送に有効です》
第五主層で助けた搬送個体も、今では短い距離なら問題なく歩ける。
白夜の武器がどれほど大きいのかは分からない。
少なくとも、私一人で《影蔵》へ入れて運べる大きさではないはずだった。
観測図へ、もう一度深淵天竜と航鯨を表示する。
二体とも、まだ地上へ向かっていない。
今なら準備する時間がある。
危険な場所へ近づいて確かめる必要はない。
ここから見続ける。
動いた時に止められるよう、白夜を直す。
そのために、武器を取りに行く。
「明日、第二主層への搬送軌道を調べる」
《作業計画を登録しますか》
「登録して」
《第二主層接続準備を開始します》
《目的を指定してください》
私は暗く表示された第二主層を見る。
そこには白夜の武器がある。
そして、使う機体がいなくなった五つの兵装も残っているかもしれない。
「白夜の武器を持って帰る」
《目的を登録しました》
第三主層の観測設備は、奈落の反応を静かに追い続けている。
私はその前から離れた。
生活区画へ戻れば、洗い終わった服がある。
朝に食べる鍋も残っている。
棚には、地上で買った温風櫛が置かれている。
見に行く必要のない敵を追うより、守るための準備をすればいい。
白夜の武器を取りに行く。
そのあと、私は家へ帰る。
今見るべきものは、レムナの中にあった。




