第十四話《好きな理由》
法廷前に集まっていた人々の声が、背後へ遠ざかっていく。
無罪になった。
拘束もされない。レムナへ帰ろうと思えば、今すぐ帰れる。
それでも私は、レオンと並んで探索者向けの店が集まる通りを歩いていた。
「ドライヤー、本当にある?」
「似た用途の魔導具なら見たことがある」
「髪を乾かせる?」
「衣服を乾かす道具だった気もする」
「それを頭に使ったら?」
「やめておけ」
「まだ何もしてない」
「試そうとしている顔だ」
自分では分からない。
裁判へ出るために着た濃紺の上着と黒いズボンは、そのままだった。黒い外套は《影蔵》へ入れている。
レオンも証言した時の服を着ている。探索用の防具ではないが、腰には剣があった。
通りを歩く人間の何人かが、私たちを見る。法廷へ来ていた者かもしれない。
すぐに目を逸らす者。小さく頭を下げる者。立ち止まって、私の顔を確かめる者。
「まだ見られてる」
「今日の裁判は都市中の話題になっている」
「無罪になっただけ」
「《奈落の姫》が王国の法廷へ出て、患者たちが証言して、全面無罪になったんだ。話題にもなる」
「姫じゃない」
「そこが一番気になるのか」
「違うから」
人の多い道を抜ける。レオンは私が歩きやすいように、少しだけ速度を落としていた。
「レオン」
「何だ」
「これも証人の仕事?」
「どれだ」
「店へ案内して、ご飯を食べること」
「違う」
「じゃあ何?」
レオンは少しだけ黙った。
「俺は、デートのつもりだ」
足が止まった。
「デート?」
「ああ」
「聞いてない」
「言えば断ったか?」
考える。
髪を乾かす道具は欲しい。地上の食事にも興味がある。レオンと歩くことが嫌かと聞かれれば、嫌ではなかった。
「断らないと思う」
「なら、先に言えばよかったな」
「裁判のあとにデートするの?」
「無罪祝いも兼ねている」
「無罪は、何もしてないから当然」
「それでも祝う」
レオンはまた歩き始めた。私は隣へ戻る。
「買い物と食事だけで、デートになる?」
「二人で出かけて、そういうつもりで時間を過ごせばなる」
「私は今まで知らなかった」
「今知っただろう」
「途中からでも?」
「構わない」
よく分からない。
患者の経過を一緒に見るなら治療。魔物を倒しに行くなら探索。法廷へ行くなら裁判。
目的がはっきりしている方が分かりやすい。
デートは、二人で過ごすこと自体が目的らしい。
「難しい」
「そこまで考えるものでもない」
「レオンは私と歩きたかった?」
「ああ」
「何で?」
レオンがこちらを見た。
「その話は、食事をしながらにしよう」
「答えてない」
「今から全部話すと、店へ着かない」
好きだから。
またそう答えると思った。けれど、今日はその先まで聞こうと思った。
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魔導具店の壁には、用途の分からない品がいくつも並んでいた。
光る石。水を温める金属板。靴についた泥を落とす箱。濡れた外套を内側から乾かす棒。探索中に温かい飲み物を作る小さな筒もある。
私は一つずつ《鑑定》した。
《簡易乾燥筒》
《用途――衣服・革製品の急速乾燥》
《温度――高》
《生体への直接使用――危険》
「これじゃない」
「だから衣服用だと言っただろう」
「風は出る」
「頭へ向けるなよ」
近くにいた店主が、慌てて会話へ入ってきた。
「お客様、それを髪へお使いになると、かなりの確率で焦げます」
「髪だけ?」
「皮膚も火傷します」
「駄目」
元の場所へ戻す。
隣の棚には、細い筒の先へ櫛のような板を取りつけた魔導具があった。
《温風櫛》
《用途――洗髪後の乾燥補助》
《温度調整――三段階》
《風量調整――二段階》
「これ」
店主が棚から下ろす。
「主に貴族のご婦人や、舞台へ立つ方がお使いになる品です。風石と温熱石の両方を使用しておりまして、携帯できる品の中では乾燥性能も高く――」
「試していい?」
「もちろんです」
魔力を流す。櫛の隙間から弱い風が出た。
温度を一段上げる。温かい。
さらに風量を上げると、黒髪が肩の後ろへ流れた。
元の世界で使っていたものより弱い。それでも、布で何度も水気を取るよりは早いはずだった。
「ドライヤー」
「温風櫛です」
店主が訂正する。
「私の中ではドライヤー」
「買うのか?」
「うん」
レオンが値札を見る。
「金額を確認したか?」
「した」
「高いぞ」
「髪を乾かすのに毎回一時間以上かかる」
腰まである髪は、見た目より水を含む。濡れたまま寝れば背中が冷たい。処置へ呼ばれた時にも邪魔になる。
必要なものだった。
代金を払い、店主が包んだ温風櫛を受け取る。今日は人前で《影蔵》を使わず、そのまま持つことにした。
「使わないんだな」
「街で珍しい力を見せるなって、前に言われた」
「覚えていたのか」
「レオンが正しかったから」
「普段からそのくらい素直なら助かる」
「普段はレオンが変なことを言う」
「例えば?」
「好きだから、一緒に逃げるとか」
レオンの顔から、僅かに笑みが消えた。
「変だと思っているのか」
「分からない」
「なら、予定どおり食事にしよう」
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レオンが選んだのは、大通りから少し離れた小さな店だった。
窓際の席から、奈落を囲む外壁と、その向こうの空が見える。店内に客はいるが、席同士は離れていた。
私は果実と蜂蜜を載せた焼き菓子、それから香りの強くない茶を選んだ。レオンは肉と野菜を挟んだ黒パンを頼む。
焼き菓子の外側は薄く焼け、中には柔らかい乳脂肪が挟まっていた。蜂蜜は甘い。果実の酸味もある。
「おいしい」
「裁判の直後とは思えない顔だな」
「無罪だったから」
「判決が出るまでは不安ではなかったのか」
「駄目なら帰るつもりだった」
「俺も一緒に行くと言った」
「好きだから?」
「ああ」
黒パンを置き、レオンが私を見る。
聞くなら今だと思った。
「なんで、私のこと好きなの?」
「やはり聞くのか」
「分からないままだから」
「命を助けられたからだと思っている?」
「最初は患者だった」
「それは出会った理由だ」
「脚も残した」
「感謝している」
「恩返しと間違えてない?」
「命を助けられた相手を、全員好きになるわけじゃない」
それはそうかもしれない。
私も、患者全員へ同じ感情を持っているわけではなかった。生きていてほしいとは思う。治ったら嬉しい。
それでも、レオンが来る時だけは少し違う。
「顔が綺麗だから?」
「綺麗だとは思う」
「それが理由?」
「理由の一つではある」
一つには入るらしい。
「だが、それだけなら何度も会いには来ない」
「じゃあ、ほかは?」
レオンはすぐには答えなかった。言葉を選んでいるようだった。
「最初に目を覚ました時、お前は自分の説明より先に、仲間が生きていると教えてくれた」
「心配すると思ったから」
「帰りたいと言った時も、止めなかった」
「帰る場所があったから」
あの時、帰ってほしくなかった。
自分でも理由は分からなかったが、治療室から人間の呼吸が消えることを寂しいと思った。それでも、レオンには仲間がいた。
「寂しかっただろう」
「少し」
「それでも、自分のために患者を閉じ込めなかった」
「患者が決めることだから」
レオンが小さく息を吐く。
「昨日の法廷でも、自分を守るための嘘を言わなかった」
「昨日じゃなくて、さっき」
「そうだったな」
「時間、そんなに経ってない」
「分かった。さっきの法廷でも、王国のために助けたと言えば話が簡単になったのに、お前は言わなかった」
「違うから」
「敵でも、患者なら治すと言った」
「本当のこと」
「そうやって、自分にとって当然のこととして答えるところを、俺は好きになった」
レオンは私を見ている。
法廷で大勢に向けて言った時より、今の方が声は小さい。けれど、こちらの方が逃げにくかった。
「助けるところが好き?」
「それだけではない。ただ、言葉で性格を並べるより、俺が好きになったのはそういう時のお前だ」
三つとも、自分では特別なことをしたと思っていなかった。
患者の不安を減らす。帰りたい者を帰す。嘘を言わない。
必要だからしただけだった。
「普通じゃない?」
「少なくとも、俺には普通には見えなかった」
焼き菓子を一口食べる。味はまだ分かる。
けれど、質問は残っていた。
「私、前は男だったよ」
「ああ。知っている」
「人間の男。二十歳で、大学へ行ってた」
「聞いた」
「今も、その時の記憶がある」
家族。友人。大学。男の身体で過ごした二十年。
昔の名前も覚えている。使おうとは思わないが、失ったわけではなかった。
「それでも、女として好きなの?」
「ああ」
レオンは迷わなかった。
「昔は男だったのに?」
「男だった記憶が残っていることと、今のお前を女として好きなことは矛盾しない」
「中身は男かもしれない」
「今、自分を男だと思っているのか?」
答えようとして、少し止まった。
人間だった頃と同じ自分だとは思う。けれど、今の身体を借り物だと思っているわけでもない。
服を選ぶ。長い髪を整える。鏡に映った姿を自分だと思う。
レオンに女として見られることも、嫌ではなかった。
「分からない」
「なら、無理にどちらかへ決めなくていい」
「レオンは決めてる」
「俺が好きなのは、今ここにいるエルセリアだ」
「今の身体だけじゃない?」
「身体もお前の一部だ。だが、それだけを見ているわけじゃない」
レオンの目は、私の顔から動かない。
「男だった頃の記憶も、今の身体で暮らしてきた時間も、ここでお前が選んだことも、全部含めて今のお前だろう」
それなら、もう一つだけ確認する必要があった。
「男の身体へ戻ったら?」
レオンは、今度はすぐに答えなかった。視線を逸らさず、考えている。
「分からない」
「好きじゃなくなる?」
「今と同じ形で好きでいられるかは、その時にならなければ分からない」
「そこは、どんな姿でも好きって言わないんだ」
「会ったこともない姿まで、今と同じように愛すると約束する方が、俺には嘘に思える」
慰めるためなら、別の答えも言えたはずだった。けれど、レオンは言わなかった。
「じゃあ、離れる?」
「離れない」
今度は迷わなかった。
「なんで?」
「姿が変わっても、これまでお前と過ごしたことまで消えるわけじゃない」
「恋愛じゃなくなるかもしれない」
「まだ恋人ではないだろう」
「成立してない」
「そう言っていたな」
少しだけ、レオンが笑う。
「同じ形で好きかは分からない。それでも、姿が変わったという理由だけで、お前との関係を捨てるつもりはない」
「また会う?」
「会う」
「一緒にご飯も食べる?」
「食べる」
「新しいドライヤーが必要になったら?」
「また探す」
そこまで変わらないのなら、少し安心した。どうして安心したのかは、まだ分からなかった。
「レオンは、今の私を女として好き」
「ああ」
「昔は男だったことも、嫌じゃない」
「ああ」
「男へ戻った時は、同じか分からない。でも離れない」
「そうだ」
「難しい」
「簡単な答えの方がよかったか?」
「嘘は嫌」
「なら、これが俺の答えだ」
私は茶を飲んだ。少し冷めている。
今度はレオンが、私の返事を待っているように見えた。催促はしなかった。それでも、何も言わないままにはしたくなかった。
「私は、男だった時に男を好きになったことない」
「ああ」
「女も、好きになったことないと思う」
「恋人はいなかったのか」
「いない」
「少し意外だな」
「昔はこの顔じゃない」
「そうだったな」
人間だった頃の私は、特別目立つ男ではなかった。大学へ行き、講義を受け、帰る。
恋愛を必要だとも思っていなかった。
「だから、レオンを好きなのか分からない」
「ああ」
「でも、来ると嬉しい」
「うん」
「帰ると静かになる」
「うん」
「怪我すると嫌」
「ああ」
「一緒に逃げるって言った時は、少し安心した」
「そうか」
「法廷で好きって言われた時は、変な感じがした」
「嫌だったか?」
「嫌ではない」
レオンの肩から僅かに力が抜けた。
「なら、今はそれで十分だ」
「好きって言わなくていい?」
「分からないのに言わせたくはない」
「この身体だから、レオンを気にしてるだけかもしれない」
「身体もお前だ」
「身体に決められてるなら?」
「何がきっかけでも、今感じていることまで偽物にはならない」
「そうなの?」
「少なくとも俺はそう思う」
レオンは残っていた黒パンを手に取る。
「すぐに名前をつけなくてもいい。会いたいなら会う。嫌なら断る。分からないなら、分からないと言えばいい」
「今みたいに?」
「ああ」
恋愛。友情。恩。寂しいだけ。
どれなのかは、まだ分からない。
ただ、レオンがほかの人間と同じではないことは分かっていた。
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店を出る頃には、日が傾き始めていた。
《現地派遣継続可能時間――一時間四十七分》
すぐに帰らなければならない時間ではない。
街の外壁へ上がる。
都市の屋根が夕方の光を受け、その向こうには巨大な奈落が広がっていた。崩れた場所では、今も修復作業が続いている。
遠くで人間たちが木材を運び、壊れた壁へ足場を組んでいた。
風が吹く。黒髪が肩から流れ、頬へかかった。
レオンが隣を歩いている。店で話したあとも、距離は変わっていなかった。
近い。けれど、触れてはいない。
「レオン」
「何だ」
「手、貸して」
レオンが足を止める。
「転びそうなのか?」
「違う」
私は右手を出した。
「デートなら、手をつなぐこともあるんでしょ」
「あるが、決まりではない」
「嫌?」
「嫌ではない」
レオンの手が重なる。
私より温かい。指が触れ、そのままゆっくりと絡んだ。
治療のためではない。脈を測るためでもない。離脱しないよう固定するためでもなかった。
ただ、つないでいる。
「まだ、好きかは分からない」
「分かっている」
私は手を離さず、外壁の先へ続く道を見た。
残り時間は減っている。帰れば、買った温風櫛を試せる。レムナの状態も確認しなければならない。
やることはいくらでもあった。
それでも今は、帰るより、このまま歩きたかった。
「もう少し歩く」
「ああ」
レオンが私の歩幅へ合わせて進む。つないだ手は温かかった。
好きという言葉が何を指すのかは、まだ分からない。
それでも、残り時間が減っていくことを、初めて惜しいと思った。
「今日が終わるのは、少し嫌」




