第十三話《深淵に潜む者と救われた者たち》
第一波が収束してから、五日が過ぎた。
奈落上部都市では、崩れた建物や地下水路の修復が続いている。城門は開かれたものの、奈落へ通じる坑道や洞窟には封鎖線が引かれ、冒険者組合も探索依頼をすべて停止していた。
地上へ出てくる魔物は減っている。救難候補も、第一波の夜ほど多くはない。
それでも奈落内部では、生息域の移動が止まっていなかった。
《奈落上層危険度――従来比253%》
《旧中層大型種の定着――継続》
《中層域生命反応――解析不能領域増加》
地上が静かになったことで、王国は災害が終わったと発表した。レムナの観測結果は、そうではないと示している。
ただ、私一人が見続けても、すぐに何かを変えられるわけではなかった。
患者が来なければ食事を作り、白夜と搬送個体の状態を見て、風呂に入って眠る。
その繰り返しへ、少しずつ戻っていた。
朝は、残っていた蜂蜜ケーキを食べた。第一波が起きる前に焼いた最後の一切れだった。
布をかけて保存していたため、以前ほど固くなってはいない。それでも焼いた直後より水分が抜けていたので、甘い茶へ少し浸してから口へ入れる。
「まだ食べられる」
《保存状態――良好》
「次は、もっと小さく焼く」
一人で食べるには、最初に作った量は多かった。患者へ出す食事ではない。白夜も搬送個体も食べない。
レオンがいれば食べるかもしれないが、第七層へ呼ぶつもりはなかった。
家の場所は教えない。
少なくとも、今は。
昼には、小麦粉を水と油で練り、薄く伸ばした。
豆を潰し、細かく刻んだ干し肉と香草を混ぜる。そこへ胡椒を匙の半分より少し少ない程度だけ入れ、生地で包んで調理板の上へ並べた。
表面を焼きながら、血糸で一つずつ裏返す。
《血液操作 Lv.7》
四つを別々に動かしても、形が崩れることはなかった。一つは火が強い場所から外し、別の一つは焼き色が薄いため中央へ寄せる。
「便利」
《技能の想定用途に、調理支援は含まれていません》
「使えるならいい」
焼き上がった生地を割ると、干し肉と胡椒の匂いが広がった。中身を入れすぎた一つだけ端から豆が漏れていたが、味は悪くない。
「これ、町で売れる?」
《商業的評価は実行できません》
「レオンなら食べると思う」
《人物情報が不足しています》
「何でも食べそう」
二つ食べ、残りは夜へ回した。
棚の中には、まだ砂糖も蜂蜜も胡椒も残っている。レオンからは買いすぎだと言われたが、今のところ困ってはいなかった。
食後、第六層へ上がった。
第五層の製造設備で作られた生体循環液は、試験処理を繰り返している。
《生体循環液試験製造》
《成分安定度――96.8%》
《第一機動決戦兵装への使用適合性――限定承認》
《既存循環液への混合比率――5%以下を推奨》
完全な代用品にはならない。それでも、白夜の内部へ少しずつ混ぜることはできるようになった。
血液の供給量は、まだ変わらない。
《第一機動決戦兵装・白夜》
《定期生体鍵血液供給を要求》
《必要量――八ミリリットル》
指先を切り、血を供給口へ流す。
血液が白夜の循環へ入ると、白い装甲の内側を細い赤い光が走った。今では見慣れた反応だった。
「今日も八」
《血液供給――完了》
《生体鍵認証――安定》
「循環液ができたら、減る?」
《維持用血液供給量の再計算には、試験循環期間が必要です》
「なくなる?」
《生体鍵認証および起動基準としての血液供給は、継続して必要です》
「少しは残るんだ」
白夜にとって、人工循環液は身体を維持するもの。
私の血は、動くための基準と鍵。
同じ液体ではなかった。
格納庫の端では、搬送個体が療養を続けている。
《右前肢機能――68%》
《胴体人工組織――修復完了》
右前脚の固定具は、以前より小さくなっていた。弱い《影縛》も外している。
今のところ、勝手に第五層へ向かおうとはしていなかった。
「もう少し治ったら、第四層に行く」
搬送個体の識別核が点灯する。
「でも、私と一緒」
点灯が続く。
「勝手に行ったら、また縛る」
光が消えた。
理解したのか、都合の悪い言葉だけ無視したのかは分からなかった。
午後は風呂に入った。
患者の治療がない日でも、白夜へ血を渡したあとは手や腕に僅かな血の匂いが残る。
湯へ身体を沈め、長い黒髪を解く。髪は水面へ広がり、一部が腕や胸へ絡みついた。
洗うだけなら慣れてきた。
問題は、風呂から上がったあとだった。
布で水分を取る。二枚目へ替える。
毛先を絞らないように挟み、根元から順番に拭く。それでも、腰まである髪の内側には水が残った。
以前と同じように換気口の前へ座ろうとしたところで、生活区画の端に置かれた金属製の筒が目に入る。
第五層の製造設備と、架工守に作らせた試作品だった。
《局所温風式毛髪乾燥器》
私が説明した機能を基に、医療用送風管、温度調整器、握るための取っ手を組み合わせている。
「ドライヤー」
《登録呼称を更新》
《ドライヤー試作一号》
持ち上げると、見た目より重かった。片手で持てないほどではないが、地上で売られているものが本当にあるなら、もっと小さいと思う。
起動する。
大きな音がした。
「うるさい」
《送風出力を低下させますか》
「乾かなくなる?」
《乾燥時間が推定38%増加します》
「このまま」
温かい風が黒髪を持ち上げる。
換気口とは違い、一箇所へ強い風を当てられる。根元から毛先へ少しずつ動かせば、内側まで乾いていった。
ただし、近づけすぎると熱い。
《対象表面温度――上昇》
「分かってる」
少し離す。
血糸でドライヤーを持たせ、自分は両手で髪を分ける。送風位置と距離を一定に保つ動作は、血糸へ任せた。
約二十五分後、髪はほとんど乾いていた。
「早い」
《従来手段との比較》
《所要時間――57%短縮》
「一時間かからない」
電源を切る。
静かになった生活区画で、乾いた黒髪へ指を通す。少し風で乱れていたが、背中や服が濡れることはない。
「地上で買わなくてもいいかも」
《試作一号の総重量――4.8キログラム》
「重い」
《外部携行には不向きです》
「やっぱり見る」
次の買い物では、小さなものを探す。この試作品は第七層で使えばいい。
その日の救難候補は三人だった。
崖から落ちた冒険者は、同行者が縄で引き上げた。森で毒を受けた狩人も、近くにいた治療師が解毒を始めたことで収容対象から外れた。
三人目は奈落上部の探索者だったが、危険な生命反応が近づく前に仲間が地上へ運び出している。
誰も第七層へ来なかった。
《現在受入患者――0》
《重症治療台――空床》
《救難候補――0》
それでよかった。
静かな時間が続いても、困ることはない。
夕食に残しておいた包み焼きを温め、蜂蜜を入れた茶と一緒に食べる。風呂のあとに乾かした黒髪は、寝台へ入る時にも冷たくなかった。
そのまま眠るつもりだった。
しかし、第三層の観測設備から通知が届いた。
《奈落中層域において、超大型生命反応を検出》
《既存観測範囲を超過》
目を閉じる前に身体を起こした。
「大きい?」
《推定規模――算出不能》
《詳細観測を推奨します》
髪をまとめ、服を着直す。
今日はゆっくり眠れないらしい。
第七層から第六層、第五層、第四層を通り、第三層へ上がった。
補助魔力炉は安定している。
《補助有効出力――9.8%》
《第三補助魔力炉――限定安定稼働中》
広域観測設備へ入る。
奈落の立体図には、上層から中層へ分布する無数の生命反応が映っていた。以前より大きな反応が上側へ移っている。
数メートル程度の魔物がいた場所に、十メートルを超える個体がいる。旧中層域には、数十メートル級の反応も増えていた。
そのさらに下。
通常の観測では形を取れない深さに、一つだけ巨大な影がある。
「これ?」
《肯定》
《観測波の反射不足》
《複数の観測器を同期することで、輪郭取得が可能です》
第三層に残る観測器は十六基。
正常に動くのは四基。六基は限定修復可能。残る六基は応答がなかった。
「使えるもの、全部つなぐ」
血糸を回路へ伸ばす。
破損した観測器ごとに、必要な電力と魔力量が違う。血液操作Lv.7で出力を個別に調整し、六基の回路を仮接続する。
《広域観測器十基》
《同期開始》
《奈落中層下部を再走査します》
立体図の中に、少しずつ輪郭が現れた。
最初に見えたのは、二枚の巨大な翼だった。岩盤の間に広がる空洞を、ゆっくり横切っている。
頭部から尾までの全長は、四百メートルを超えていた。
《超大型飛行生物》
《推定全長――四百六十七メートル》
《翼開長――測定不能》
「これが、中層に上がってきた?」
《旧観測記録との照合を実行します》
《推定生息深度より、約千八百メートル上方で確認》
上へ向かっているわけではない。広大な中層下部の空洞を横へ移動している。
その進路上にいた三十メートル近い大型魔物が、一斉に散った。
翼を持つ巨大生物は追わない。
口を開く。
観測図が一瞬白く染まった。
高密度の魔力反応が一直線に走り、大型魔物の一体が消えた。岩壁も大きく抉られている。
「今、何したの?」
《高密度魔力放射と推定》
《対象生命反応――消失》
《古代危険生物記録との照合率――71%》
欠損していた記録から、名称だけが復元される。
《暫定識別》
《深淵天竜》
表示された名前を読む。
「天竜」
《分類上の竜種との一致率――低》
《古代記録上の固有分類です》
普通の竜ではない。形が似ているため、そう呼ばれているだけだった。
深淵天竜は捕食した個体へ降り、しばらく動きを止める。地上へ向かう気配はない。
ただ、今までより明らかに浅い場所まで上がっている。
「これが上層まで来たら?」
《現在の奈落上部防衛戦力による排除可能性――算出不能》
「止められない?」
《有効な戦闘記録が不足しています》
答えになっていない。
少なくとも、第一波で戦った魔物とは比べものにならなかった。
観測を続けていると、別の異常が表示される。
深淵天竜よりもさらに下。立体図の端から、長い反応がゆっくり入ってきた。
最初は一体の生物だと認識できなかった。
反応が大きすぎた。
「これも一匹?」
《生命反応中枢を一基確認》
《単一個体と推定》
《推定全長――千百四十メートル》
「大きすぎる」
形は、地上の鯨に近かった。ただし、海ではない。
魔力濃度の高い巨大空洞を、泳ぐように進んでいる。身体の周囲には、何百もの小型生命反応が付着していた。
寄生生物。共生生物。背中へ根を張る植物に似たものまである。
一体の生物というより、動く生態系だった。
《古代危険生物記録との照合率――64%》
《暫定識別》
《深淵航鯨》
「航鯨」
《奈落深層空洞を長距離移動する超大型生物》
《攻撃性――不明》
《現在進行方向――水平方向》
《地上方向への移動――未確認》
航鯨が身体を動かすたび、周囲の岩盤へ低い振動が広がる。
第一波の前から確認されていた振動の一部は、この個体の移動による可能性がある。ただし、すべてではない。
《艦体下方振動との一致率――18%》
「違う振動もある?」
《肯定》
《複数の振動源が存在すると推定されます》
深淵天竜も、航鯨も、奈落の奥には以前からいたのかもしれない。今回初めて生まれたわけではない。
ただ、生息域がずれたことで、これまで観測できなかった場所へ出てきた。
「この二つが、魔物を追い出した?」
《単独原因と断定できません》
《上方移動は、両個体を観測する以前から発生しています》
原因ではない。
少なくとも、最初の原因ではない。
それでも、この二体がさらに上へ動けば、第一波より大きな被害になる。
《深淵天竜――監視対象へ登録》
《深淵航鯨――監視対象へ登録》
《地上方向への移動を確認した場合、緊急警告を発します》
「白夜なら止められる?」
《第一機動決戦兵装・白夜》
《現状における戦闘起動――不能》
それ以上は聞かなかった。
白夜は、まだ立ち上がれない。
深淵天竜も航鯨も、今は地上へ向かっていない。
なら、先に白夜とレムナを直すしかない。
第三層の観測図を保存する。外部へ見せるつもりはなかった。
この記録を王国へ渡せば、情報源だけでなく、観測している場所まで探られる。
レオンには、短い警告だけ送った。
《奈落に入らないで》
すぐに返事が来る。
《今は誰も入れてない》
《何か見つけたのか》
《大きくて、強いもの》
《どれくらいだ》
深淵天竜の大きさを思い出す。
《町より大きい》
返事が止まった。
しばらくして、接触印がもう一度光った。
《冗談じゃないんだな》
《うん》
《地上へ来るのか》
《今は来てない》
《なら、来た時は先に言え》
《分かった》
《絶対だぞ》
「しつこい」
伝言にはせず、口に出す。
それでも、次に地上方向へ動けば知らせるつもりだった。
第七層へ戻った翌日、王国から正式な照会文書が届いた。
第一波を事前に予見した根拠。使用した観測手段。魔物の流出経路を把握していた理由。古代観測装置の機能を知っていた理由。
すべてに回答するよう求められている。
私は同じ内容を返した。
《情報源は開示しない》
《スタンピードを誘発していない》
《観測装置の起動前から、奈落内部の上方移動は発生していた》
翌日、二通目が届く。
今度は質問ではなかった。
《王国臨時災害審理法廷》
《奈落の姫に対する出廷命令》
《被疑事実》
《広域魔獣災害の誘発》
《災害情報の意図的秘匿》
《王国民に対する無許可転送および収容》
《出廷拒否時、王国敵性存在として認定する》
文書を読み終えたところで、イレーナから連絡が入った。
《止められなかった》
《参謀局は、無断起動の記録を正式に否定した》
《装置はスタンピードを確認した後に起動したと主張している》
「逆なのに」
《記録上はそう書き換えられている》
《あなたが魔物を動かし、王国へ影響力を持とうとしたという筋書きが作られている》
《裁判へ来れば、こちらから証拠を出せる》
《来なければ、反論の機会そのものがなくなる》
レオンからも連絡が届く。
《来なくていい》
《敵認定される》
《俺たちで何とかする》
《レオンも疑われる》
返事が止まる。
《それは気にするな》
《私は気にする》
第一波の夜、レオンもエドガーもセラフィナも、私と一緒に動いた。王国の主張どおりなら、彼らは災害の首謀者へ協力したことになる。
イレーナも、私の警告を信じて避難準備を始めた。
何もしなければ、全員が責任を問われるかもしれない。
《行く》
《本気か》
《うん》
《法廷では、お前の家や力について聞かれるぞ》
《言わない》
《言わなければ不利になる》
《それでも言わない》
レムナのことは話さない。
白夜も、七つの主層も、観測設備も、深淵天竜も航鯨も。
私がどこで暮らし、どこから患者を助けているのかも教えない。
「何着る?」
《質問対象が不明です》
「裁判」
《王国法廷礼装の情報はありません》
地上で買った服を影蔵から出す。
濃紺の上着。黒いズボン。黒い外套。
以前勧められたドレスは買っていない。
動きやすい服でいい。
罪を犯していないのだから、王国のために着飾る必要もなかった。
裁判は、出廷命令から三日後に開かれた。
王都まで移動するのではなく、奈落上部都市の中央にある領主館が《王国臨時災害審理法廷》として使われる。
王都から三人の裁判官と検察官が派遣され、教会と王立古代遺物院の監督官も同席していた。
建物の外には、大勢の人間が集まっている。
私を見に来た者。第一波の責任を求める者。奈落の姫を恐れている者。助けられたと話している者。
門の前で、レオンと合流した。
「逃げるなら今でも間に合う」
「逃げない」
「中で拘束されそうになったら、従うな」
「従わない」
「俺も同じことを言うつもりだった」
レオンは私の服を見る。
「ドレスじゃないんだな」
「買ってない」
「似合うと思うが」
「裁判で言わないで」
「何を?」
「好きとか」
「聞かれなければ言わない」
「聞かれても言わないで」
「嘘はつけない」
「黙ればいい」
「考えておく」
嫌な予感がした。
正面の扉が開く。法廷へ入る。
傍聴席には、既に多くの人間が座っていた。
最初に気づいたのは、青い瞳だった。
リノ・エルディア。
右腕の骨折は治っているらしく、固定具はない。その隣には、大柄なガレスが座っていた。
リノと目が合う。彼女は少しだけ頭を下げる。
反対側には、聖堂騎士エドガーとセラフィナ。さらに後方には、以前まとめて救出した集団の生存者たちもいる。
見覚えのある顔。見覚えのない顔。患者本人ではなく、家族らしい者もいた。
「何でいるの?」
小さく言うと、レオンが答えた。
「お前が誰なのか、知ってる人間が必要だからだ」
「レオンが呼んだ?」
「俺だけじゃない」
法廷警備の兵士が被告席を指す。席の周囲には、拘束術式が刻まれていた。
「被告人は、拘束区域へ入れ」
「嫌」
兵士の手が剣へ動く。
「法廷の規則だ」
「攻撃しない。でも縛られない」
「従わない場合は――」
裁判長が手を上げた。
「待て」
兵士が止まる。
裁判長は私をしばらく見たあと、拘束術式を解除するよう命じた。
「被告人が敵対行動を行った場合、その時点で審理を中断する」
「しない」
「着席を」
被告席へ座る。レオンは証人席の近くへ移った。
法廷が静かになる。
「被告人、通称《奈落の姫》」
裁判長が告げる。
「名を述べよ」
「エルセリア」
「所属は」
「ない」
「居住地は」
「言わない」
早くも傍聴席がざわつく。
「本法廷では、虚偽の証言を禁じる」
「嘘は言わない」
「情報を意図的に隠すことも、審理上不利に扱われる場合がある」
「話さないことはある」
裁判長は文官へ記録を命じた。
「被告人は、広域魔獣災害の誘発、災害情報の意図的秘匿、王国民への無許可転送および収容の疑いを受けている」
「やってない」
「順番に審理する」
王国検察官が立ち上がった。
「被告人は、第一波が発生する以前から、魔物が地上へ流出すると予測していた」
「うん」
「王国の観測機関すら、正確には把握していなかった時点でだ」
「魔物が上に動いてたから」
「どこから観測した」
「言わない」
「被告人は、古代観測装置が危険であることも知っていた」
「見れば分かった」
「王立古代遺物院が数十年調査しても解明できなかった装置を、見ただけで?」
「表示が出た」
「何の表示だ」
答えない。
レムナの管理権限による警告だった。それを説明すれば、次はなぜ見えたのかを聞かれる。
「回答を拒否するのか」
「うん」
検察官は裁判官へ向き直る。
「被告人は、災害前から魔物の移動を把握し、古代装置の機能も知っていた。それにもかかわらず情報源を秘匿し、王国へ全面的な情報提供を行わなかった」
「警告した」
「十分な説明を伴わない警告だ」
「それでも逃げる準備はできた」
「被告人自身が引き起こす災害を予告し、自ら鎮圧することで王国民から信頼を得ようとした可能性もある」
「ない」
「第一波の最中、被告人は魔物の動きを変えていたという証言がある」
「人がいない方に追い出した」
「魔物を操作できるのだな」
「影と血で道を塞いだだけ」
「では、魔物を地上へ誘導することも可能では?」
「してない」
何を答えても、別の意味へ変えられる。
検察官は次に、患者の転送記録を取り上げた。
「被告人はこれまで、多数の王国民を本人の同意なく、未知の場所へ移送している」
「死にそうだったから」
「同意は得たのか」
「話せない人もいた」
「つまり、得ていない」
「放っておいたら死んだ」
「結果ではなく、手続きについて尋ねている」
「死ぬ人を助けるのに、書類がいるの?」
傍聴席から声が上がった。裁判長が静粛を求める。
検察官は、最初の証人を呼んだ。
「リノ・エルディア」
リノが証言台へ立つ。私を一度だけ見たあと、裁判官へ向き直った。
「あなたは、被告人によって未知の施設へ転送された経験がありますね」
「あるわ」
「転送への同意は?」
「なかった」
法廷が再びざわつく。
「目覚めた時、被告人へ恐怖を感じましたか」
「感じたわ」
「被告人を信用していた?」
「していなかった」
検察官の表情が僅かに緩む。
「被告人を、危険な吸血鬼だと考えたのでは?」
「考えた」
「では、あなたは被告人によって意思に反して連れ去られ、恐怖を感じたということですね」
「そうね」
リノは簡単に認めた。私も、否定するつもりはなかった。
最初のリノは、私を信用していなかった。治療室を巣と呼び、簡単には帰してもらえないと思っていた。
「でも」
リノが続ける。
「私が同意できなかったのは、溺れて意識を失っていたからよ」
検察官が口を挟もうとする。
「質問への回答は――」
「まだ終わっていないわ」
リノは青い瞳を検察官へ向けた。
「肺には水が入り、身体は冷え、脾臓が裂けて腹の中へ血が溜まっていた。右腕も折れていた」
「被告人は私の血を回収して、使える分を身体へ戻した。出血を止め、呼吸と体温が安定するまで二十時間以上治療を続けた」
「私は、ずっと疑っていた」
「血を要求されると思ったし、帰してもらえないとも思っていた」
検察官が尋ねる。
「実際には?」
「何も要求されなかった」
「後日、代価を求められた可能性は?」
「今日まで一度もない」
「あなたが被告人へ好意を持つよう、未知の術式を施された可能性は否定できますか」
リノは僅かに眉を寄せた。
「もし操られているなら、私は今でも彼女を完全には信用していないなんて言わないでしょうね」
傍聴席から小さな笑いが起きた。裁判長が静粛を求める。
リノは私を見る。
「私は今も、エルセリアが何者なのか知らない」
「住んでいる場所も、あの施設の正体も知らない」
「でも、私を治した。帰りたいと言ったら、ガレスを探して、その目の前へ返した」
「その事実を、誘拐や人体実験へ変えられるなら、私は否定する」
「私は、あの人の正体を保証しに来たんじゃない」
「私が知っている行動を、勝手に別のものへ変えさせないために来たの」
リノの証言が終わる。
次に、ガレスが立った。
「あなた自身は、被告人の施設へ転送されていませんね」
「されていない」
「ならば、治療を直接見てはいない」
「見ていない」
「証言できることは限られるのでは?」
「リノが消える前と、戻った後なら話せる」
ガレスは、地下排水路でリノを見失ったことを話した。
服も装備も濡れたまま、再び排水路へ戻ろうとしていたこと。監視所で仲間に止められていたこと。そこへ光が現れ、治療を受けたリノが椅子ごと帰ってきたこと。
「右腕は固定され、薬と治療記録も持たされていた」
「礼を要求する人間も、姿を見せなかった」
「リノがどこへ行ったのか分からなかった俺の場所を調べて、目の前へ返した」
検察官が問う。
「それは、被告人が今回の災害を起こしていない証明にはなりません」
「そうだな」
「では、なぜここへ?」
「奈落の姫が、人間を連れ去って利用する怪物だという話を否定するためだ」
ガレスの声は大きくなかった。それでも法廷の奥まで届いた。
「本当に人間を殺したいなら、リノを助ける必要はなかった」
「俺を探す必要もない」
「リノを失った俺が、また水路へ入って死ぬのを放っておけばよかった」
「でも、あいつはしなかった」
次に証言台へ立ったのは、以前まとめて救出した集団の代表だった。彼は、救助直後に私へ武器を向けた者の一人だった。
「被告人へ敵意を持っていたことを認めますか」
「認める」
「現在は恩を感じているため、証言が偏っているのでは?」
「恩はある」
「ならば、公平ではない」
「命を助けられた人間が、助けた側を見捨てることを公平と呼ぶなら、俺は公平じゃなくていい」
代表者は、あの時の状況を話した。
私を魔物だと疑ったこと。武器を向けたこと。それでも私が、敵意の強さではなく、傷の重さで治療順を決めたこと。
「最初に治されたのは、一番重傷だった男だ」
「こいつは、目を覚ましたあとも奈落の姫を罵った」
「それでも治療は止めなかった」
「俺たちを殺したいなら、全員が動けない時にいくらでもできた」
次に聖堂騎士エドガーが呼ばれる。教会の公的な記録を提出したのは、セラフィナだった。
「教会は過去、被告人を第一級捕獲対象としていた」
検察官が確認する。
「事実です」
エドガーが答える。
「被告人には、教会を敵視する理由があった」
「その通りだ」
「にもかかわらず、教会関係者を治療した?」
「我々は武器を向けた。彼女は我々の武器を封じたが、負傷者へは治療を行った」
「なぜだと思いますか」
エドガーは被告席にいる私を見た。
「彼女にとって、敵であることと患者であることは別だからだ」
「教会の追跡部隊を全滅させる機会は、何度もあった」
「だが、彼女は選ばなかった」
「人間を滅ぼそうとする存在だというなら、敵である我々まで助け続けた理由を説明してもらいたい」
検察官は、エドガーが教会の一部を代表するだけだと反論した。
セラフィナが提出した文書には、治療された教会関係者の人数と負傷内容、帰還後の状態が記録されていた。
感情ではない。
教会自身が残した正式記録だった。
その次に、レオンの名が呼ばれた。
証言台へ立つ前から、嫌な予感がしていた。
検察官が最初に尋ねた。
「あなたは被告人へ、個人的な好意を抱いていると聞いています」
レオンは迷わなかった。
「好きだ」
傍聴席が一斉にざわつく。私は被告席からレオンを見る。
「今、言わないでって言った」
「聞かれたからな」
「黙ればよかった」
裁判長が木槌を鳴らす。
「被告人と証人は、私語を慎むように」
レオンは咳払いをして、前へ向き直った。
検察官は続ける。
「恋愛感情を持つ証人の発言を、公平なものとして扱えるでしょうか」
「俺がこいつを好きかどうかと、王国軍が警告を無視したことは関係ない」
レオンは接触印に残っていた伝言記録を提出した。
第一波が起きる前。私が魔物の上方移動を伝えた時刻。避難準備を求めた文面。
古代装置へ触れるなと警告した時刻。
装置が起動されるより前の記録だった。
「災害を起こすつもりなら、なぜ事前に人を逃がそうとした」
検察官が反論する。
「自らへの疑いを避けるための偽装だった可能性がある」
「なら、災害が起きたあと逃げればよかった」
「こいつは逃げなかった」
「町へ来て、人を助けた。王国軍も教会も、冒険者も、区別せずに治療した」
「自分で起こした災害を、自分で鎮圧しただけかもしれない」
レオンは検察官を真っすぐ見た。
「何を言ってもそう返すなら、これは裁判じゃない」
「最初から犯人を決めて、都合のいい理由を探してるだけだ」
裁判長が検察官を制した。
証言は続いた。
鉱山から収容された男性。雪崩から助けられた旅人。奈落調査隊の生存者。北方で救出された兵士。第一波の夜、第七層へ収容された者。
全員を証言台へ立たせる時間はなかった。
裁判長が証人を制限すると、傍聴席の一人が立ち上がった。
「私も助けられました」
別の場所から声が上がる。
「俺の弟もだ」
「娘を返してもらった」
「夫はあの人がいなければ死んでいた」
警備兵が座るよう命じる。それでも声は止まらない。
「代価なんて取られてない」
「名前すら聞かれなかった」
「敵だと言ったのは、こっちの方だ」
私は、立ち上がる人々を見た。
覚えている顔もある。治療中に意識がなかったため、初めて見る顔もある。名前を覚えていない人も多い。
けれど、向こうは私を覚えていた。
裁判長が何度も静粛を求め、ようやく傍聴席が座る。
最後の証人として、イレーナが立った。
彼女が持ってきたのは、王国軍の公式記録ではなかった。古代観測装置そのものに残っていた起動履歴と、王立古代遺物院の補助記録。
そして、イレーナが封鎖命令を出した時刻を記録した原本だった。
《封鎖命令発行》
《奈落の姫による警告確認》
《能動観測回路――停止状態》
その数時間後。
《王国軍参謀局試験班による封印解除》
《能動観測回路――起動》
《深層方向への信号送信》
《信号送信後、奈落上層生命反応移動率――急増》
検察官が立ち上がる。
「その記録は、国家機密に指定されている」
イレーナは動かなかった。
「災害の原因調査に関わる記録です」
「無許可での持ち出しは違法だ」
「災害の原因を隠すための機密に、保護する価値はありません」
法廷が静まり返る。
イレーナは裁判官へ向き直った。
「奈落の姫が第一波を誘発したとする直接的証拠はありません」
「一方で、彼女が装置の起動前から警告していたことは、複数の記録で確認できます」
「王国軍参謀局の試験班が、正式な封鎖命令を無視して装置を起動したことも事実です」
「装置の起動が第一波の唯一の原因だったとは断定できません」
「魔物の上方移動は、それ以前から始まっていました」
「しかし、起動直後に移動速度と流出経路が増えたことは、観測記録上明白です」
「少なくとも、被告人だけを災害の首謀者とする起訴内容は成立しません」
検察官は反論を続けようとした。
しかし、王国側の起動記録と、レオンが持つ警告時刻は一致している。前後関係を逆転させた公式報告は、そこで崩れた。
裁判長が私へ尋ねる。
「被告人、最後に確認する」
「あなたは、王国のために人々を救ったのか」
「違う」
弁護側の席まで静かになった。
裁判長の眉が僅かに動く。
「では、何のために?」
「王国のためじゃない。教会のためでもない」
「死にそうだったから助けた」
「相手が敵であっても?」
「患者なら」
「今後、王国があなたを敵と認定した場合は?」
「攻撃されたら守る」
「でも、死にそうなら治す」
それ以上、付け足すことはなかった。
王国へ忠誠を誓うつもりはない。教会の管理下へ入るつもりもない。誰かのための兵器にも、所有物にもならない。
ただ、患者なら治す。
それだけだった。
審理は一度中断された。
三人の裁判官が協議へ入り、法廷に残った人々は小声で話し始める。
私は被告席に座ったまま待った。
リノが近づいてくる。
「相変わらず、説明が足りないわね」
「必要なことは言った」
「王国のためじゃない、なんて普通は言わないのよ」
「違うから」
「知ってる」
ガレスも隣へ来た。
「裁判官が分かってくれるといいが」
「駄目なら帰る」
「その時は、俺たちも止めない」
レオンが反対側から言う。
「俺は一緒に逃げるぞ」
「何で?」
「好きだからだ」
「裁判終わってないのに、また言った」
「もう証言は終わった」
「そういう問題じゃない」
リノが小さく笑う。
「あなたたち、いつもこうなの?」
「レオンだけ」
「俺だけでは成立しないだろ」
「成立してない」
裁判長たちが戻り、全員が席へ戻った。
法廷が再び静かになる。
判決が読み上げられる。
《広域魔獣災害誘発罪》
《被告人による誘発を示す直接証拠なし》
《起訴棄却》
《災害情報の意図的秘匿》
《被告人は災害前に王国へ警告を実施》
《犯罪成立を認めず》
《王国民への無許可転送および収容》
《対象者はいずれも生命の危険が切迫し、外部救助が困難な状態にあった》
《緊急避難および救命行為として、処罰対象外》
「以上により」
裁判長が私を見る。
「被告人エルセリアを、すべての起訴事実について無罪とする」
傍聴席から大きな声が上がった。裁判長が静粛を求めても、すぐには収まらなかった。
私は被告席から立つ。
「終わり?」
「刑事審理は終了した」
「帰っていい?」
裁判長は僅かに疲れた顔をした。
「よろしい」
拘束術式が解除される音はしない。
最初から使わせていなかった。
法廷の扉が開く。
外へ出ると、建物の前にも多くの人間が待っていた。
私が姿を見せると、歓声と呼びかけが混ざった。名前を呼ばれる。
奈落の姫と呼ぶ者もいる。エルセリアと呼ぶ者もいた。
私はどう答えればいいのか分からず、立ち止まった。
リノが後ろから来る。
「今度は、私たちが助ける番だった」
「治療してない」
「裁判の話よ」
「分かってる」
ガレスが笑う。
エドガーとセラフィナも法廷を出てきた。
エドガーは短く頷いた。
「当然の判決だ」
「教会は怒らない?」
「怒る者はいるだろう」
「エドガーは?」
「患者を助けた者を罪人にする方が、教義に反する」
レオンが私の隣へ立つ。
「無罪でよかった」
「最初からやってない」
「そういう問題じゃない」
「法廷で好きって言った」
「事実だ」
「人がいっぱいいた」
「恥ずかしかったのか」
「よく分からない。でも、変な感じだった」
レオンが少し笑う。
「なら、少しは意識したな」
「してない」
「顔を逸らすな」
「人が多いから」
本当に、それだけだった。
たぶん。
法廷前には、私が助けた人たちが残っている。
全員の名前は覚えていない。治療中に顔を見ていない人もいる。
それでも、彼らは生きていた。
帰ったあとも生活し、家族や仲間と会い、今日ここまで来た。
第七層で患者を治療するたび、表示されるのはSPだった。それが報酬だと思っていた。
けれど、助けた命は数字になって消えたわけではない。
私が知らない場所で生き続け、必要な時には、今度はこちらへ手を伸ばしてきた。
「帰る?」
レオンが尋ねる。
「うん」
「今日は飯を食べていかないか」
「人が見てる」
「だから何だ」
「また変な噂になる」
「裁判で好きだと言ったあとだ。もう遅い」
「レオンのせい」
「否定はしない」
少し考える。
第七層には、包み焼きがまだ一つ残っている。けれど、地上で食事をすることもできる。
髪を乾かす小さな道具も見たかった。
「ドライヤーの店、まだ開いてる?」
レオンが笑った。
「ああ。案内する」
「食事はそのあと」
「分かった」
法廷前を離れる。
背後から、もう一度名前を呼ばれた。
今度は振り返り、小さく手を上げる。
それだけで、集まっていた人々の声がまた大きくなった。
私は患者を助けただけだった。
けれど、その患者たちは、いつの間にか私が一人で立たなくてもいい理由になっていた。




