第十二話《第一波》
第三層の補助魔力炉を起動してから、三日が過ぎた。
炉は限定稼働を続け、第八固定杭へ安定した電力を送っている。十一ミリ動いたレムナはそれ以上沈まず、広域緊急救命転送網も停止せずに済んでいた。
第五層では、第四層から回収した材料を使い、白夜用の生体循環液が少しずつ作られている。
《第五主層生体兵装循環液製造設備》
《限定製造能力――22%》
《試験製造量――基準値の18.4%》
《成分安定度――91.2%》
《第一機動決戦兵装への本格使用――非推奨》
まだ白夜へ直接流せる状態ではない。
不純物を取り除き、循環へ適合する濃度まで調整する必要がある。毎日の血液供給も、今までどおり続けることになった。
それでも、急ぐ理由はなかった。
固定杭は動いている。補助炉も安定している。
深層から上へ移動する魔物は増えているが、今のところ都市周辺で大きな被害は出ていない。
第七層で患者を待ちながら、できることを進める。
そう決めた。
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一日目の朝は、蜂蜜ケーキを作った。
前に焼いたものは、生地の水分が足りず、翌日には石のように固くなっていた。茶へ浸せば食べられたが、ケーキと呼んでいいのかは分からない。
今回は小麦粉へ油を多めに入れた。
蜂蜜。刻んだ乾燥果物。少量の砂糖。
卵はないため、生地がまとまる程度まで水を足す。
混ぜ終えた生地を小さな型へ流し、調理板の温度を低く設定した。
《加熱時間を算出します》
「前より柔らかくしたい」
《前回調理記録を参照》
《推奨加熱時間――二十三分》
「二十分」
《内部加熱不足の可能性があります》
「途中で見る」
十七分ほどで、甘い匂いが生活区画へ広がった。
治療室の消毒薬とも、第六層の金属や維持液とも違う匂いだった。
表面が焦げる前に取り出し、中央へ細い串を刺す。生地は僅かに付着したが、流れ出すほどではない。
少し冷ましてから切る。
前のものより柔らかい。蜂蜜と果物の甘味も残っていた。
「こっちの方がおいしい」
《前回調理物との水分含有率差――18.7%》
「食べ物」
《前回調理物との――》
「製造物って言わないで」
《呼称を調整します》
蜂蜜ケーキを二切れ食べ、残りは布をかけた容器へ入れた。
一人で全部食べることもできたが、明日の分がなくなる。
昼には豆と干し肉を煮込んだ。
水へ豆を入れ、柔らかくなるまで加熱する。そのあと細く切った干し肉、香草、塩を加えた。
最後に胡椒。
レオンから渡された小さな匙を使う。
最初に使った時は、半分と言われた量の四倍以上を入れた。
今度は匙の半分だけ。
煮汁へ落とし、混ぜてから味を見る。
肉と豆の匂いの奥に、僅かな辛味がある。
「もう少し」
《現在の胡椒使用量は推奨範囲内です》
「少しくらいなら平気」
匙の四分の一ほどを追加する。
もう一度食べる。
咳は出なかった。鼻も痛くない。香草だけの時より味がはっきりしている。
「これでいい」
《胡椒使用量――適正範囲上限付近》
「適正ならいい」
薄く焼いた平たいパンを煮汁へ浸し、豆と一緒に食べた。
新しい深皿も、木の匙も使いやすい。以前は治療用の容器や保存食用の器を、そのまま食事へ使うことが多かった。
今は棚に食器が並んでいる。
胡椒。砂糖。蜂蜜。茶葉。油。香草。
患者を治すための物しかなかった場所に、私が食べるためだけの物が増えていた。
食後は第六層へ上がった。
白夜の格納庫には、いつもと同じ低い循環音が響いている。
《第一機動決戦兵装・白夜》
《生体循環系統――限定稼働中》
《定期生体鍵血液供給を要求》
《必要量――八ミリリットル》
指先へ小さな傷を作る。
供給口へ手を添えると、血が細い線となって流れ込んだ。白い装甲の内側を、赤い光がゆっくりと通過する。
《血液供給――完了》
《生体鍵認証――安定》
「朝ご飯のあとに、血」
白夜は動かない。
私が話しかけても、返事をする機能はない。それでも毎日同じ場所に立ち、同じ白い装甲を見ていると、何も言わずに帰る方が不自然になっていた。
格納庫の端では、搬送個体が療養している。
穿層獣に食い裂かれた胴体はほとんど閉じているが、再び折れた右前脚はまだ固定されていた。
《壁面走行型生体搬送個体》
《胴体人工組織――再生率86%》
《右前肢機能――42%》
《長距離移動――禁止》
搬送個体が六本の脚を僅かに動かす。
整備場所の周囲には、弱い《影縛》を残していた。完全に拘束するほどではない。立ち上がろうとした時だけ、影が脚へ絡みつく。
「まだ外さない」
搬送個体は頭部を上げる。
「また勝手に追いかけるから」
識別核が一度点滅した。
反省しているようには見えなかった。
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その日の午後、救難候補が二人表示された。
一人目は、森で魔物に襲われた行商人だった。
太腿を深く切られていたが、同行者が布と棒を使って出血を抑え、近くの村へ運び始めている。
《外部救助成功率――72%》
《上昇中》
《緊急収容条件――未成立》
しばらく監視する。
荷車が村へ到着し、治療師が止血を引き継いだ。
《外部救助成功率――91%》
《救難候補から除外》
「よかった」
二人目は鉱山の作業員だった。
閉鎖された坑道へ残っていた有毒な気体を吸い込み、意識を失っている。仲間も坑道へ戻れず、外から呼びかけることしかできなかった。
《自力退避――不能》
《外部救出手段――なし》
《呼吸停止予測――六分》
《緊急収容条件を確認》
「収容して」
治療室の中央へ光が立ち上がる。
現れた男性は全身を黒い煤で汚し、呼吸がほとんど止まっていた。
診工守が補助呼吸を開始する。薬工守は血液中へ取り込まれた毒性物質を調べ、吸着剤と循環維持薬を準備した。
肺そのものは破れていない。
問題は、血が酸素を運べなくなっていることだった。
《血中有害成分――高濃度》
《意識障害》
《低酸素性臓器損傷の危険》
血液操作で全身の流れを補助しながら、診工守の呼吸に合わせる。
脳と心臓を優先し、末端への血流を僅かに落とす。薬が効き始めるまで、循環を維持する。
治療には五時間ほどかかった。
男性は翌朝に目を覚まし、さらに半日休んでから鉱山近くの治療所へ帰還した。
《新規患者一名の治療完了を確認》
《個別治療報酬――SP+2》
《保有SP――12》
帰還前、男性は何度も私の名前を尋ねた。
「言わない」
「では、どう礼を伝えれば」
「いらない」
「命を助けられて、それでは納得できません」
「生きて帰ればいい」
男性は困った顔をしていたが、転送の光が出るまで頭を下げ続けた。
患者が消えたあと、掃工守が床の煤を掃除する。
私は汚れた白いシャツを着替え、浴室へ向かった。
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第七層の浴室には、温水も洗浄剤もある。
設備が復旧してから、ほぼ毎日使っていた。
湯へ身体を沈める。治療のあとに残っていた緊張が少しずつ抜けていく。
黒髪を解くと、湯の中へ長く広がった。
腰まで伸びているため、身体を洗うより髪を洗う方が時間がかかる。
一度濡らす。洗浄剤をつける。根元から毛先まで指を通し、二度すすぐ。
湯から上がったあと、布で挟んで水分を取る。
それでも、簡単には乾かない。
長い髪が背中へ張りつき、白いシャツまで濡らしていく。
太い布で包み、しばらく待つ。
まだ湿っている。
別の布へ替える。
それでも毛先から水が落ちた。
「長い」
《毛髪長――腰部まで》
「知ってる」
換気口の近くへ椅子を置いた。
生活区画の送風機能を温風へ切り替える。
《室内温度維持用送風》
《局所使用は非効率です》
「乾けばいい」
温かい風は出る。ただし弱い。
髪の表面だけが乾き、内側はいつまでも湿ったままだった。
風で黒髪が顔へ張りつく。後ろへ払っても、すぐに戻ってくる。
「もっと強い風」
《現在の送風設備では出力上限です》
「ドライヤー欲しい」
《該当語を照合します》
《局所温風式毛髪乾燥器具と推定》
「ある?」
《第七主層備品記録――該当なし》
《第四主層生活支援物資内に類似器具が存在する可能性――6.1%》
「低い」
《第五主層での製造には設計情報が必要です》
「地上で買う」
次に町へ行く理由ができた。
胡椒や砂糖ほど必要ではない。髪を切れば、乾かす時間も減る。
けれど、今は切りたくなかった。
理由は分からない。
自分の身体になってから伸びた髪ではない。目を覚ました時から、この長さだった。
それでも勝手に短くすると、何かを失うような気がした。
温風の前で一時間ほど過ごした頃、接触印が熱を持った。
レオンからだった。
《王国がお前と話したいと言っている》
《奈落の異変についてだ》
髪を触る。
まだ湿っている。
《今?》
《できれば今日中に》
《髪、乾いてない》
少し間が空いた。
《それは俺にどうしろと》
《乾かすもの、町にある?》
《今は奈落の話をしてる》
「それはそう」
《会談が終わったら探してやる》
《今日は買い物しない》
《分かった。西門の外で待つ》
髪をもう一度布で包んだ。
完全には乾いていないが、外套の中へ入れれば見えにくい。
濃い色の上着と黒いズボンへ着替え、深いフードのある外套を羽織る。
《広域緊急救命転送網》
《救難候補――0》
《登録済み接触地点への現地派遣――利用可能》
「行く」
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奈落上部都市の西部郊外へ転送されると、空は既に午後の色へ変わっていた。
林を出たところにレオンがいる。
私を見つけると、最初に外套ではなく、フードから垂れていた髪へ視線を向けた。
「本当に濡れてるな」
「乾かなかった」
「会談より先に乾かした方がよかったんじゃないか」
「今日中って言った」
「王国がな」
「レオンが伝えた」
「俺のせいになるのか」
「少し」
レオンが手を伸ばしかける。
私は半歩下がった。
「何?」
「髪が外套の留め具に挟まってる」
自分で確認する。
黒髪の一部が金具に巻き込まれていた。引くと痛い。
レオンが手を止めたまま尋ねる。
「外していいか」
「うん」
前に近づかれた時、勝手に触るなと言ったことを覚えていたらしい。
レオンは髪を傷つけないように留め具を開き、絡まった部分を外した。
「乾かす道具なら、魔導具店に似たものがあるかもしれない」
「ドライヤー?」
「その名前ではないと思う」
「温かい風、強く出る?」
「服や靴を乾かすものはある。髪に使えるかは知らない」
「次、見る」
「俺も一緒に行く」
「何で?」
「案内が必要だろ」
「店だけ教えて」
「買い物が終わったら食事もできる」
「また好きだから?」
「分かってきたな」
「まだ変だと思ってる」
「それでも前よりは進んだ」
何が進んだのか分からない。
レオンは少し嬉しそうだった。
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会談場所は、都市の西側にある旧監視所だった。
以前使われた観測塔とは別の建物で、王国軍の常駐施設からも離れている。
中へ入る前に、追跡術式を調べる。
外壁。床下。天井。机。椅子。出席者の装備。
《外部通信術式――二件》
「これ」
指を向けると、イレーナが頷いた。
「会談内容を王都へ送る記録術式よ。あなたの位置を追跡するものではない」
「切って」
監察官が眉を寄せた。
「公式会談の記録が残せなくなる」
「書けばいい」
「記録の改変を防ぐための術式だ」
「私の家を探さない条件」
イレーナが術式を停止させる。
「筆記記録に切り替えます。全出席者が内容を確認し、最後に署名する形でよろしいですね」
監察官は不満そうだったが、拒否はしなかった。
出席していたのは、レオン、イレーナ、聖騎士エドガー、セラフィナ。王国軍参謀局の監察官が一人。王立古代遺物院の研究者が二人。
壁際には、筆記を担当する文官が三人座っている。
私はレオンの隣へ座った。
監察官が口を開く。
「まず、奈落上層で確認されている異常について説明する」
机へ複数の資料が並べられる。
文字を完全には読めない部分は、レオンとイレーナが補足した。
過去七日間の魔物遭遇件数は、通常の三・八倍。
上層で確認された生物のうち、十一種が本来の生息域より深い場所のもの。
上層の小型魔物の巣が複数放棄されている。
地下水温は平均で二度近く上昇。
奈落内部の三箇所で、同じ周期の低周波振動が観測されている。
戻らない探索者も増えていた。
監察官が私を見る。
「あなたは、これらの魔物が都市を襲うためではなく、下から逃げていると発言したそうだな」
「うん」
「なぜ断定できる」
「動きが同じだから」
「何の動きだ」
「弱いものが先に上がってる。そのあとに強いものが来てる」
研究者の一人が資料をめくる。
「捕食者が獲物を追って、生息域を広げている可能性もあります」
「それだけじゃない」
「理由は?」
「普段なら争う魔物も、同じ方向へ動いてる」
「その様子を、どこから観測したのですか」
「言わない」
監察官が深く息を吐く。
「また情報源を秘匿するのか」
「家を探すなら帰る」
「国家が数万人の住民を避難させるには、根拠が必要だ」
「魔物が増えてるのは、王国も見てる」
「異常があることと、都市規模の避難が必要かどうかは別だ」
「原因が分かるまで待ったら、逃げられなくなる」
研究者が別の説を挙げる。
深部での地殻変動。魔力脈の変化。繁殖期の重複。深層での餌不足。
いずれも完全には否定できない。
私も、何が一番下から魔物を押しているのかは知らなかった。レムナが持つ大崩壊の記録は欠けている。一致率も、まだ二割を少し超えただけ。
「原因は分からない」
「ならば、あなたの警告も推測にすぎない」
「でも、上へ来てる」
「我々もその事実は認めている。問題は、次に何が起きるかだ」
「弱い魔物がいた場所に、もっと強いものが入る」
「そして?」
「上層が中層みたいになる。中層には、もっと下のものが来る」
研究者の手が止まる。
エドガーが机へ両手を置いた。
「教会の調査でも、同様の傾向は確認されている」
監察官がエドガーを見る。
「教会も、魔物が何かから逃げていると判断しているのか」
「断定はしていない。ただし、通常の縄張り拡大とは異なる」
セラフィナも続ける。
「深層因子の濃度が上がっています。魔物だけでなく、奈落近辺の植物や地下水にも変化が出始めている」
イレーナが資料を一枚追加した。
「王立古代遺物院にも、似た記録が残っていました」
古い紙の写しだった。
破損した文章のうち、読める箇所は少ない。
《深きもの、浅き地へ移る》
《獣、天を求める》
《下を見てはならない》
最後の一文だけ、他より濃く書かれている。
「五千年近く前の記録よ」
イレーナが言う。
「大崩壊という言葉も、同じ文書に残っていた」
監察官の視線が私へ向く。
「その言葉に心当たりは?」
「少し」
「どこで知った」
「言わない」
「レムナか」
室内が静かになる。
私はすぐに答えなかった。
レムナと私を結びつける証拠はない。ここで反応しすぎれば、それ自体が答えになる。
「レムナが原因だって証拠はない」
「質問への回答になっていない」
「レムナを知らないことが多い」
「以前は知らないと言っていたはずだ」
「今も知らないことが多い」
監察官がさらに追及しようとしたが、レオンが間へ入った。
「今は、こいつの住処を探す会議じゃないだろ」
「情報源を確認せず、王国が動けると思うのか」
「奈落の魔物が上がってるのは、お前たちも確認してる」
「だからこそ原因を調べる必要がある」
王立古代遺物院の研究者が、机の上へ別の図面を広げた。
「そのための手段があります」
都市の地下。
古い水路のさらに下に、円形の設備が描かれていた。
「五千年前の深層観測装置です」
イレーナが眉を寄せる。
「まだ使用可能なの?」
「主機能は停止していますが、最近になって奈落側から魔力が流入しています。外部電力を補えば、低出力での観測は可能です」
「何を見るの?」
私が尋ねる。
「奈落深部へ弱い観測信号を送り、反射した魔力波から構造と活動状態を調べます」
「触らないで」
研究者の説明が止まる。
「なぜですか」
私にだけ、警告表示が出ていた。
《外部封鎖系統構成物を検出》
《深層封鎖中継器》
《能動観測機能の使用を禁止します》
《起動時、深層封鎖座標への干渉が発生する可能性があります》
「見るだけのものじゃない」
「何だと?」
「下につながってる」
研究者が図面を見直す。
「観測信号を送る以上、当然深部とは接続します」
「そういう意味じゃない。封じるものの一部」
「どこから、その知識を得たのですか」
「言えない」
監察官が椅子へ背を預けた。
「根拠を示さず、我々の調査まで止めようというのか」
「触ったら、向こうにも分かるかもしれない」
「向こうとは何だ」
「分からない」
「分からないものを理由に、国家設備を封鎖しろと?」
話は平行線になった。
イレーナが図面を閉じる。
「実物を確認しましょう」
監察官が彼女を見る。
「今からか」
「少なくとも、奈落の姫が何を危険だと判断しているかは、現地で聞いた方がいい」
「エルセリア」
レオンが小さく呼ぶ。
「行けるか」
「見るだけなら」
「起動はしない」
イレーナがはっきり言った。
「確認が終わるまで、装置の使用は禁止します」
---
古代装置は、都市の地下深くにあった。
監視所から馬車で旧市街へ移動し、封鎖された倉庫の地下へ下りる。
石段を百段以上進んだ先で、空気が冷たくなった。そこからは使われていない水路を歩く。
天井は低く、壁には五千年前のものと思われる導力線が埋め込まれていた。
「髪、大丈夫か」
前を歩いていたレオンが振り返る。
「何が?」
「まだ濡れてるだろ。冷えるぞ」
「身体は平気」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何?」
「風邪を引く」
「引かないと思う」
「思うだけか」
「たぶん」
「帰ったら乾かせ」
「一時間かかる」
「髪を短くすれば早い」
「嫌」
すぐに答えると、レオンが少し驚いた。
「切りたくないのか」
「うん」
「なら、乾かす道具を探そう」
「次の買い物で」
「約束だな」
「店を見るだけ」
「それでもいい」
会話を聞いていたイレーナが一度だけこちらを見たが、何も言わなかった。
水路の奥には、王国の兵士が置いた封鎖扉がある。
鍵を開けると、巨大な円形空間へ出た。
中心には、岩盤と一体化した装置が埋め込まれていた。直径は三十メートル近い。
何重もの環が重なり、中央の黒い孔から、太い導力線が奈落の方向へ伸びている。
《外部封鎖系統構成物》
《深層封鎖中継器》
《封鎖維持回路――限定稼働》
《能動観測回路――停止》
装置へ近づく。
血糸を触れさせず、周囲の魔力だけを読む。内部では、細い流れが今も続いている。
完全に停止してはいない。
レムナの艦首と深層封鎖座標をつなぐ系統とは別に、地上側から封鎖を支える中継点になっている。
「この線」
奈落方向へ延びる導力線を指す。
「観測だけに使うものじゃない」
研究者が装置の縁へ刻まれた文字を確認する。
「確かに、翻訳できていない術式が複数あります。しかし、過去の試験では信号を送る機能しか――」
「過去に動かした?」
「完全起動には至っていません。電力が不足していました」
「今は?」
「奈落側からの流入が増えたため、可能性が出ています」
「余計に駄目」
監察官が装置の中央を見上げる。
「危険性を証明できるか」
「起動しないと証明できないなら、起動しないで」
「それでは何も分からない」
「分からないままの方がいいものもある」
イレーナが兵士へ命じる。
「装置を封鎖します。古代遺物院と参謀局、双方の承認がなければ起動できないようにして」
「調査官」
監察官が低い声で呼ぶ。
「王都からは、原因究明を優先するよう命令が出ている」
「現時点で危険性を否定できません」
「正体不明の女の発言を理由に?」
「座標杭の時も、警告を無視した結果、負傷者が出ました」
監察官は黙った。
装置の制御部へ封印具が取りつけられる。古代遺物院の研究者も、渋々だが署名した。
少なくとも、正式な手続きを踏まなければ起動できない。
「これでいい?」
イレーナが尋ねる。
「触らないなら」
「王国全体を私一人では止められない。でも、無断で動かせば記録は残る」
「残して」
「ええ」
地下を出る頃には、外は暗くなり始めていた。
何も起きなかった。装置も動いていない。魔物が都市へ溢れることもなかった。
西門の外まで戻る。
レオンが林へ一緒に入ってくる。
「今日は買い物できなかったな」
「目的が違う」
「髪を乾かす道具は次だな」
「うん」
「次に来た時、連絡しろ」
「店の場所だけでもいい」
「一緒に行く」
「また?」
「何度でも言う。会いたいからだ」
「まだ変」
「そのうち慣れる」
「慣れたら好きになる?」
「そうなれば嬉しい」
「単純」
「お前よりはな」
現地派遣の終了を指示する。
光が足元へ広がった。
「何も起きなければいいな」
レオンが言う。
「うん」
私もそう思った。
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第七層へ戻り、遅い夕食を食べた。
朝に作った蜂蜜ケーキと、残してあった豆と肉の煮込み。一度温め直すと、胡椒の香りがまた強くなった。
食後に風呂へ入る気は起きなかった。
まだ湿っていた黒髪を布で拭き、生活区画の送風を使う。
完全に乾く前に眠くなり、布を枕へ敷いて寝台へ入った。
その夜。
低い振動で目を覚ました。
音ではない。第七層の床を通して、足元から伝わってきた。
《外部封鎖系統の変動を検出》
身体を起こす。
「どこ?」
《地上側深層封鎖中継器》
《能動観測回路の起動を確認》
《深層方向へ信号を送信中》
「触った」
寝台から下りる。
時刻は深夜を過ぎている。
接触印を取り出し、イレーナへ伝言を送る。
《地下の装置、動いてる》
返事はすぐに来なかった。
レオンにも送る。
《誰かが触った》
《何を》
《地下の装置》
少しして、イレーナから返信が届く。
《封鎖命令は解除していない》
《今から確認する》
レムナの広域観測を起動する。
奈落内部の生命反応は、一瞬だけ大きく乱れていた。しかし、すぐに元へ戻る。
巨大な反応はない。深層封鎖座標の下から何かが出てきた様子もなかった。
《外部信号送信時間――四・二秒》
《封鎖維持回路への損傷――未確認》
《深層圧変動――軽微》
「止まった?」
《能動観測回路――停止》
何も起きない。
少なくとも、その場では。
接触印が反応する。
《王国軍の別班が入っていた》
イレーナからだった。
《王都参謀局の試験許可を持っている》
《現場を封鎖する》
《信号はもう止まっている》
《誰か怪我した?》
《今のところいない》
大きく息を吐く。
レムナの観測図にも、急激な変化はない。
《前回大崩壊記録との一致率――22.4%》
前より僅かに上がっただけだった。
布を肩へかけたまま、観測図を見続ける。
一時間。
二時間。
何も現れない。
私の警告が間違っていた可能性もある。
装置は本当に、観測するだけのものだったのかもしれない。
それでも、床を通じて伝わる微弱な振動は、完全には消えなかった。
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夜明け前、レオンから連絡が届いた。
《町の鳥が一斉に飛んでいった》
《家畜も落ち着かない》
「魔物は?」
《まだ見てない》
その三十分後、イレーナから別の報告が来る。
《旧市街の井戸が濁った》
《水位も下がってる》
《装置周辺の地下水路で小さな崩落あり》
レムナの観測図を拡大する。
奈落上層の生命反応が、少しずつ移動していた。
まだ群れではない。小型の反応が数体ずつ、別々の経路から上へ向かっている。
《広域生体移動――増加傾向》
《地上方向への移動――限定的》
朝になった頃、奈落入口の警備隊から最初の報告が入った。
普段は浅い洞窟から出ない小型魔物が八体、地上へ現れた。兵士と冒険者がすぐに倒した。
死者はいない。負傷者も二人だけ。
王国は、局地的な異常と判断した。
昼前。
都市北側の廃坑から、甲殻獣が十二体出た。
昼過ぎ。
西の水路で、毒虫の群れが見つかった。
午後には、城壁外の三つの洞窟で同時に魔物が確認された。
一つ一つの群れは小さい。兵士や冒険者で対処できる数だった。
しかし、発生地点だけが増えていく。
《上方移動生命反応――継続増加》
《奈落上層から地上への流出経路――七》
《新規経路を検出》
《八》
《九》
レオンから伝言が届く。
《昨日より多い》
《でも、まだ大きな群れじゃない》
《王国は城門を閉じるか迷ってる》
《逃げる準備して》
《もう一度伝える》
王国へ正式な警告も送る。
《地上への流出は増加中》
《住民の避難準備を開始してください》
監察官から返ってきたのは、原因と情報源の提示を求める文面だった。
イレーナは別に、
《避難準備だけは始めさせる》
と送ってくる。
その日の午後、城門は閉じられなかった。
代わりに、周辺村落の住民を都市外の街道から遠ざけ、地下区画への立ち入りが禁止された。
冒険者組合は、通常の探索依頼を停止。教会は城壁内に仮設治療所を作り始めた。王国軍は、奈落入口と地下水路へ部隊を配置する。
まだ避難命令ではない。
警戒段階だった。
私も第七層の準備を進める。
《重症治療台――三》
《軽症用寝台――八》
《緊急予備寝台――四》
《現在受入可能人数――十五》
第四層から運んだ毛布と医療用布材を、第七層の未使用区画へ置く。
架工守に、追加の簡易寝台を組ませる。
《簡易受入区画》
《追加寝台設置可能数――十二》
《医療要員不足により、重症患者への使用は非推奨》
「軽い怪我だけ」
《設定を登録します》
夕方まで、大規模な流出は起きなかった。
小さな群れが出る。倒される。別の場所から、また出る。
王国軍は対応できている。
レオンも、
《このまま少しずつなら、抑えられる》
と送ってきた。
私も、そうであればいいと思った。
日が沈む直前、救難網に複数の反応が現れた。
《救難候補――十三名》
《奈落上部都市・南西地下水路》
《避難民輸送中》
《魔物群との接触》
一つの水路を塞いでいた古い隔壁が、内側から破られている。
そこから小型魔物が溢れ、地下区画から避難していた住民の列へ入り込んだ。
《自力退避不能――五名》
《外部救助困難》
《現地派遣を推奨》
立体映像を開く。
横転した馬車。倒れた兵士。崩れた石材の下に、親子が挟まれている。
水路の奥からは、さらに生命反応が近づいていた。
「行く」
《登録済み接触地点への現地派遣を準備します》
《広域緊急救命転送網――収容機能を限定維持》
《現地派遣最大継続時間――24時間》
濃い色の服へ着替える。
黒髪をまとめ、外套の中へ入れる。
今度は乾いていた。
《現地派遣を開始します》
---
都市西部の林へ出た時には、城壁の方角から警鐘が聞こえていた。
昨日までと違う。
短く繰り返す警戒音ではない。城内へ避難を促す、長い鐘だった。
林を出ると、レオンが馬に乗って待っていた。
「来たか」
「南西の水路」
「聞いてる。乗れ」
「飛ぶ方が早い」
「町の上で翼を見せるのか」
「もう隠せない」
フードを外す。
黒髪を背中へ流し、《飛行》を起動する。
背中から黒い翼が現れる。
上着は裂けない。
レオンは一瞬だけ翼を見たあと、馬の向きを変えた。
「先に行け。俺もすぐ追う」
「避難路を空けて」
「分かった」
城壁を越えるほど高くは飛ばない。
建物の間を抜け、南西区画へ向かう。
道には既に人が溢れていた。
家財を抱える者。子供を連れた者。負傷者を運ぶ者。
兵士が道を分け、教会関係者が避難方向を叫んでいる。
南西地下水路の入口へ着くと、石段の上まで血の匂いが届いていた。
最初に見つけたのは、脚を噛まれた兵士だった。
壁へ背を預け、槍で魔物を近づけないようにしている。その横では、横転した馬車の車輪に女性の身体が挟まれていた。
「動ける人は上へ」
声を上げる。
兵士がこちらを見る。
赤い目と翼を見て、一瞬だけ武器を向けかけた。
「奈落の姫……」
「患者、どこ」
「奥だ。子供が二人、瓦礫の下にいる!」
血糸を広げる。
一本で横転した馬車を支える。別の血糸を女性の腰へ巻き、車輪の下から引き出す。
脚の骨が折れている。出血は少ない。
路地へ寝かせ、近くの兵士へ渡す。
「動かさないで」
「分かった」
水路へ入る。
石段の下では、小型の甲殻獣が十体ほど動いていた。
一体ずつは穿層獣より弱い。
影を広げ、《影縛》で前列の四体を壁へ押さえる。血針を甲殻の継ぎ目へ撃つ。
残りが横から飛びかかってくる。
翼を畳み、血糸で身体を天井近くまで引き上げる。
下を通った二体の循環中枢へ血針を通した。
倒すことより、奥へ進む道を作る。
「こっち」
瓦礫の下から声が聞こえた。
崩れた梁と石材の隙間に、母親と二人の子供がいる。
母親は子供を庇い、背中へ大きな石を受けていた。
血液感知を広げる。
子供たちに大きな怪我はない。母親は肋骨が折れ、肺の近くまで傷が達している。
「今、出す」
血糸を梁と石材へ分けてつなぐ。
一本ずつ違う力をかける。
急に持ち上げれば、崩れて別の石が落ちる。
支える糸。横へ引く糸。母親の身体を守る糸。
血液操作をLv.7へ上げていなければ、一つずつ意識を切り替える必要があった。
今は固定を自律的に維持しながら、別の瓦礫を動かせる。
隙間を広げ、子供を一人ずつ引き出す。
最後に母親を運ぶ。
《救難候補三名》
《二名――自力退避可能》
《一名――緊急収容条件を確認》
「子供は上へ」
入口から入ってきた兵士へ渡す。
母親は第七層へ収容する。
《緊急収容を実行》
白い光が身体を包み、その場から消えた。
兵士が驚いている。
「どこへ」
「治療する場所」
「戻ってくるのか」
「治ったら」
水路の奥から、さらに甲殻が擦れる音が聞こえる。
「今は上に行って」
---
最初の救助が終わった頃、レオンが到着した。
背後には冒険者が十人ほどいる。
「奥の避難民は?」
「三十人以上いる。別の出口へ誘導してるが、途中に魔物が入った」
「レオンは人を運んで」
「お前は」
「道を作る」
「一人で行く気か」
「レオンたちも来るでしょ」
「分かってるなら、先に行きすぎるな」
水路の内部は狭い。翼を使える場所は少なかった。
レオンと冒険者たちが前衛へ出る。
私は負傷者の位置を探し、後ろから血糸を広げた。
一体の魔物が横穴から飛び出す。
レオンが剣で顎を受け流し、首の継ぎ目を切った。
「怪我した?」
「まだしてない」
「なら、そのまま」
「心配してるように聞こえないな」
「怪我したら治す」
「しないように応援してくれ」
「頑張って」
「軽い」
水路の奥へ進むほど、魔物の数が増えた。
ただし、こちらを狙って集まっているわけではない。
後ろから押され、前にある出口へ進もうとしている。
人間が道にいるから襲う。壁があれば壊す。仲間が倒れても止まらない。
「やっぱり、逃げてる」
レオンも気づいた。
「こいつら、俺たちの方を見てない」
「後ろから来る」
「何が」
「分からない」
「今日そればかりだな」
「分からないものは分からない」
避難民の列へ追いつく。
老人。子供。荷物を捨てられない者。歩けない家族を背負っている者。
兵士が誘導しているが、別の横穴から魔物が入り込み、列が分断されていた。
「走らせるな」
私が言う。
「転んだら詰まる。前から順番に」
レオンが冒険者へ命令を飛ばす。
「前衛は横穴を塞げ! 動ける者は負傷者を背負え! 荷物は置いていけ!」
「家財が――」
「命より重いなら自分で持て! 他人に運ばせるな!」
叫ばれた男が、ようやく大きな箱を手放した。
私は列の中央へ移動する。
血糸を壁面に張り、簡易的な柵を作る。魔物が横穴から出ても、すぐ避難民へ届かない。
一本で負傷者の出血を止める。別の一本で、足を捻った老人を支える。さらに遠くの横穴へ血針を撃ち、近づく反応を止める。
複数の処理を同時に維持する。
頭の奥に重さはあるが、混乱はしなかった。
「前へ」
列が少しずつ動く。
一時間ほどかけて、地下区画に残っていた避難民を地上へ出した。
その頃には、別の場所でも流出が始まっていた。
北側の廃坑。東の地下倉庫。奈落入口周辺。
小型の群れが、それぞれ地上へ現れている。
《救難候補――増加》
《十四》
《十九》
《二十七》
すべてを第七層へ運ぶことはできない。
外で助けられる者は、外で治療する。
セラフィナが指揮する仮設治療所へ向かう。
広場には既に何十人もの負傷者が寝かされていた。
「重い人だけ教えて」
セラフィナは私を見ても驚かなかった。
「こちらの五名です。二名は胸部、三名は大量出血」
血液感知で順番を決める。
一番危険な男性は、腹部の動脈が切れている。二人目は胸へ甲殻が刺さり、肺から空気が漏れている。
残る三人は、外でも止血できる。
「二人、送る」
《緊急収容を実行》
光が二人を包む。
診工守と薬工守が待つ第七層へ転送される。
残った三人には、その場で血糸を使って止血した。
「糸を抜かないで」
治療師へ伝える。
「この状態でどれほど保ちますか」
「一時間くらい。早く縫って」
「承知しました」
広場の向こうから、聖堂騎士エドガーが戻ってきた。
鎧には魔物の血が付着している。
「南側は?」
「水路からの流出は抑えた。ただ、奈落入口の方が増えている」
「人は?」
「避難は進んでいる。王国軍も、ようやく第二防衛線を敷いた」
警鐘がまた鳴る。
今度は東側。
休む時間はなかった。
---
日が落ちてから、流出は最も多くなった。
奈落入口から現れた小型魔物が街道へ広がり、それを追う中型種まで地上へ出始めた。
城壁外へ避難させた住民を、逆に都市内へ戻す必要が生まれる。
門を閉めれば、外にいる者が取り残される。開けたままでは、魔物も入る。
王国軍と冒険者が門前へ防衛線を作る。
私は街道上の負傷者を探した。
倒れた馬。横転した荷車。逃げ遅れた人間。
血糸を地面と城壁へ固定し、瓦礫や荷車を持ち上げる。
魔物が近づけば、《影縛》で足を止める。止まらないものだけ、血針で中枢を狙う。
多くを倒す必要はない。
進路を人のいない方向へ変えられれば、それでいい。
魔物の前へ血糸の壁を作り、街道脇の空き地へ誘導する。そこをエドガーたちが塞ぐ。
空き地へ入った群れは、人間ではなく、そのまま奈落から遠ざかる方向へ走っていった。
「追うな!」
エドガーが兵士を止める。
「町から離れるなら行かせろ!」
それでも、すべてが逃げるだけではない。
背後から押されて興奮し、目の前のものへ襲いかかる個体もいる。
巨大な顎を持つ四足獣が、子供を乗せた避難馬車へ向かった。
レオンが間へ入る。
剣を横に構え、顎を受ける。
足が地面を滑った。
「レオン」
影を伸ばす。
四足獣の後脚を《影縛》で固定する。止まった一瞬に、血糸を首の継ぎ目へ通した。
レオンが横へ離れる。
血糸を引き、流れを止める。
四足獣が地面へ倒れた。
「怪我」
レオンの腕から血が流れている。
「浅い」
「見せて」
「今は馬車を先に行かせろ」
馬車の御者が震えながら手綱を握っている。
「走って」
馬車が城門へ向かう。
私はレオンの腕をつかみ、傷を確認した。
皮膚と筋肉が少し裂けている。骨までは届いていない。
血糸で傷を閉じる。
「すぐ戻る」
「それだけか」
「何が?」
「もう少し、無事でよかったとか」
「無事じゃない。怪我してる」
「そうだな」
レオンは笑った。
「何で笑うの」
「心配はしてるらしい」
「患者だから」
「今はそれでもいい」
傷を塞ぎ、布を巻く。
「動かしすぎないで」
「無理だな」
「じゃあ、また開いたら治す」
「頼む」
防衛線へ戻っていく。
私も別の救難反応へ向かった。
---
戦闘は夜半まで続いた。
一つの大きな群れを倒したわけではない。
次々と違う場所から現れる魔物を、少しずつ町から遠ざけた。
避難路を守り、負傷者を運び、塞がれた道を開いた。
第七層へ収容した重傷者は、合計五人。軽傷者は地上の治療所へ回した。
死者も出た。
全員を助けることはできなかった。
救難網に表示された時点で既に心臓が止まっていた者。瓦礫の下で見つからなかった者。魔物の群れの向こうへ消えた者。
数えないわけにはいかない。
それでも、立ち止まることもできなかった。
夜が深くなるにつれ、地上へ出る魔物の数が減り始めた。
最初は防衛線が押し返しているからだと思われた。
しかし、奈落内部の観測では違う。
《地上方向への新規移動――減少》
《奈落上層からの流出個体数――急速低下》
《広域生体移動――継続》
上層から地上へ出る流れだけが弱くなっている。
魔物の移動自体は止まっていない。
中層から上層へ。深い場所から中層へ。
奈落の内部では、今も生息域がずれ続けている。
第七層の診工守から通知が届く。
《収容患者一名》
《循環状態悪化》
《管理者による処置を推奨》
現地派遣の残り時間は、まだ十分にある。
しかし、患者を待たせる理由はない。
「帰る」
レオンへ伝える。
「患者か」
「うん」
「こっちは数が減ってきた。もう大丈夫だ」
「本当に?」
「城門も閉じられる。王国軍と教会が残る」
エドガーも頷いた。
「行け。こちらは我々が受け持つ」
「無理しないで」
レオンを見る。
「お前もな」
現地派遣を終了する。
光が身体を包む。
最後に見えたのは、城門前へ立つレオンとエドガー、その後ろを通って避難する人々だった。
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第七層へ戻ると、治療室は血の匂いで満ちていた。
五人の患者が、それぞれの治療台と寝台へ運ばれている。
診工守と薬工守が初期処置を続けていた。
腹部損傷。胸部貫通。骨盤骨折。毒による呼吸障害。頭部外傷。
一番危険な患者から治療する。
地上で使っていた血糸をすべて戻し、手を洗う。
「始める」
夜が明けても、治療は終わらなかった。
外では第一波が収束し始めていた。
王国軍が城外を確認し、残った魔物を追い払う。教会が負傷者を治療所へ集める。冒険者が行方不明者を探す。
私は第七層で五人を治した。
一人は、収容時点で意識がなかった。
一人は、何度も自分の子供の名前を呼んでいた。
一人は王国軍の兵士で、赤い目を見た瞬間に武器へ手を伸ばそうとした。力が入らず、剣を抜くこともできなかった。
「動かないで」
「奈落の、姫……」
「今は患者」
「俺を、どうする」
「治す」
それ以上の会話はできなかった。
治療には二日かかった。
五人全員を、すぐに歩ける状態まで戻せたわけではない。それでも、命の危険を取り除き、外の治療所で回復を続けられる状態にはできた。
《新規患者五名の治療完了を確認》
《個別治療報酬――SP+10》
《保有SP――22》
患者を一人ずつ、家族や所属先の治療所へ帰還させる。
最後の一人が消えたあと、治療室が静かになった。
---
第一波の発生から三日後。
王国は、奈落上部都市周辺のスタンピード鎮圧を発表した。
地上で確認される魔物は大幅に減った。城門は再び開かれ、避難していた住民も少しずつ家へ戻り始めている。
死者と行方不明者の数は、まだ確定していない。
壊れた建物。塞がれた水路。荒らされた畑。
被害は残っている。
それでも、都市は滅びなかった。
王国軍は勝利を宣言できた。教会は死者を弔い、冒険者組合は探索禁止区域を設定した。
外から見れば、災害は終わった。
第三層の観測図には、別の状況が映っていた。
《奈落上層優占種――変化》
《旧中層大型種の上層定着を確認》
《中層への深層種進入――増加》
《上層危険度――従来比247%》
《中層危険度――算出不能》
弱い魔物が地上へ追い出された。
空いた上層へ、中層の強い魔物が入った。中層には、さらに深い場所の魔物が上がっている。
地上へ出てこなくなっただけ。
奈落の内部は、以前より危険になっていた。
レオンからも伝言が届いた。
《地上は落ち着いた》
《でも、上層で中層の魔物が見つかった》
《探索者が二組戻ってこない》
《しばらく奈落には入れない》
《うん》
《お前の言った通りだった》
《終わってない》
《分かってる》
レムナの記録照合が更新される。
《前回大崩壊記録との一致率――27.3%》
《深層圧――平常値を僅かに超過》
《艦体下方振動――継続》
《深層域の詳細観測――不能》
深い場所で異常が続いていることだけは分かる。
けれど、何が起きているのかまでは見えていない。
今回の魔物の流出も、五千年前の記録に残る《大崩壊》とは、まだ一致していなかった。
地上へ押し出されたのは、主に奈落上層にいた弱い魔物だった。
それらがいなくなった場所へ、中層の強い魔物が上がってきた。空いた中層には、さらに深い場所の魔物が入り込んでいる。
地上への流出は止まった。
ただ、生息域が一段ずつ上へずれただけだった。
「準備しないと」
《必要な準備内容を指定してください》
「何がいるのか、先に見ないと分からない」
現在の観測設備では、奈落の上層と中層の一部までしか詳細に確認できない。
その下に何がいるのか。上へ追い出された魔物より、さらに強いものがどれほど残っているのか。
まだ何も分かっていなかった。
---
その日の夜、イレーナから連絡が届いた。
《無断起動について、参謀局内部の調査が始まった》
《でも、妙なことになっている》
《何が?》
返事まで少し間が空く。
《公式記録では、装置の起動時刻が書き換えられている》
《奈落の姫から警告を受けた後ではなく、異変を確認した後に起動したことになっている》
「逆」
《ええ》
《さらに、あなたがなぜ事前に流出を予測できたのか、正式な照会が出る》
《災害への関与も調査対象に加えられた》
机の上に、王国からの文書が表示される。
《王立古代遺物院・王国軍参謀局合同照会》
《奈落の姫による広域魔獣流出の事前予見について》
《情報源、観測手段および災害との関係を回答されたし》
まだ出廷命令ではない。罪状も書かれていない。
けれど、質問の向きは明確だった。
無断で装置を動かした者ではなく、先に警告した私へ向けられている。
《イレーナ》
《何》
《私が起こしたことにされる?》
しばらく返事がなかった。
《そうしようとしている者がいる》
文書を閉じる。
棚には蜂蜜ケーキが一切れ残っていた。浴室の前には、髪を拭くために使った布が干してある。
次に地上へ行ったら、髪を乾かす道具を探すつもりだった。
町で食事をして、レオンと買い物をする。
それくらいの用事で地上へ行けると思っていた。
外の第一波は収まった。
代わりに、別の流れが静かに始まっていた。




