第十一話 《十一ミリ》
四日が過ぎた。
その間、第七層では大きな異常は起きなかった。朝は第六層へ上がり、白夜へ八ミリリットルの血を渡す。搬送個体の傷を確認し、食い裂かれた胴体の人工組織と、再び折れた右前脚を少しずつ治療した。昼には、地上で買った小麦粉へ蜂蜜と刻んだ乾燥果物を混ぜ、小さな型へ入れて焼いた。
膨らみは足りなかったが、蜂蜜ケーキにはなった。
「甘い」
一人で半分食べ、残りは翌日に取っておいた。次の日には、豆と干し肉を柔らかくなるまで煮込み、香草と胡椒を加えた。レオンから渡された小さな匙を使い、今度は言われたとおり半分だけ入れる。
前に焼いた肉ほど辛くはならず、胡椒の香りが煮汁全体へ広がった。
「これなら、おいしい」
《胡椒使用量――適正範囲内です》
「最初からこれくらい言って」
《前回は推奨量を超えて投入されました》
新しい食器を使い、豆と肉の胡椒煮込みを二杯食べた。寝台の布を替え、空いた瓶へ砂糖や香草を移す。治療設備しかなかった生活区画には、少しずつ料理の匂いと日用品が増えていた。その間も、広域緊急救命転送網は動き続けていた。
二日目の夜、奈落上部の岩場から転落した狩人が収容された。骨盤を砕き、腹部の血管を損傷していた。同行者はおらず、発見されるまで生きていられる状態でもなかった。
《緊急収容を実行》
出血を止め、腹腔内へ溜まった血を回収する。損傷の少ない血だけを本人へ返し、砕けた骨盤を固定した。狩人は翌朝に意識を取り戻し、二日後には奈落上部の礼拝所へ帰還した。別の日には、増水した川へ流された子供が救難候補へ入ったが、収容直前に村人が引き上げ、呼吸も戻ったため対象から外れた。
すべての候補を、第七層へ連れてくるわけではない。
外で助かるなら、それでよかった。
《新規患者一名の治療完了を確認》
《個別治療報酬――SP+2》
《保有SP――22》
四日目の朝、私は治療室で血糸を広げた。第四層で二千八百トンの貨物を支えた時、本数そのものは足りていた。足りなかったのは、一本ずつ異なる力で動かしながら、別の作業を続ける精度だった。
搬送個体を助けるために操作を切り替えた瞬間、貨物の固定が崩れた。今後、さらに上の主層へ進めば、もっと広い範囲を一人で扱う必要がある。
《血液操作 Lv.6》
《次段階への強化費用――12SP》
「上げる」
《血液操作 Lv.7を取得しました》
《SPを12消費しました》
《保有SP――10》
《同時操作可能数――増加》
《血糸ごとの出力独立制御――可能》
《操作範囲内の圧力・振動感知精度――向上》
《単純動作の短時間自律維持――可能》
試しに、食卓へ残していた蜂蜜ケーキの皿を血糸で持ち上げる。一本は皿を運び、別の一本は茶を注ぐ。さらに砂糖の瓶を開け、匙へ少量だけ移しながら、治療台の器具も片づけた。それぞれへ違う力と動きを与えても、血糸は混乱しなかった。
ケーキを一口食べる。
「できる」
操作できる本数と精度は上がった。
ただし、血液量や身体の強さが増えたわけではない。二千八百トンを直接持ち上げられるようになったわけでもなかった。
血糸を戻し、残った茶を飲む。
その直後、第四層の診断設備から、限定起動が可能になったという通知が届いた。
《艦体外殻診断設備》
《限定起動条件――達成》
《母艦全体診断――実行可能》
私は空になった皿を洗い、外套を羽織った。搬送個体はまだ第六層で療養中だったため、今回は連れていかない。第七層を出て、第六層、第五層、第四層へと上がった。
第四層へ入ると、五基の貨物固定腕が二千八百四十一トンの貨物群を支え続けていた。巨大な箱の山は、前回より僅かに沈んでいる。崩落するほどではないが、応急処置が永遠に保つわけではなかった。
《第四主層貨物群》
《暫定固定状態――維持》
《固定腕負荷率――68.4%》
《推定安定維持期間――五日十七時間》
「前より短い」
《固定腕三番の応急接続部で劣化を確認》
血糸で接続した箇所だった。
本来の部品ではなく、規格の異なる導力材を無理に組み合わせている。荷重を受け続ければ、少しずつ焼けていく。診断設備を起動すれば、正規の交換部品が残っている場所も探せるかもしれない。
貨物の上方へ視線を向ける。
正規の床は、現在では垂直にそびえる壁だった。診断区画は、巨大倉庫のさらに上部にある。
翼を広げ、壁面に沿って上がった。
前回の戦闘で破損した外套の裾が、風に揺れる。地上で買ったばかりだったため、帰ったあとに自分で縫い直した。糸の色が少し違うが、着る分には問題ない。
血糸を周囲へ伸ばす。
以前よりも細く、数も多い。
一本は進行方向の構造を調べ、別の一本は背後の貨物固定腕へつないだ。さらに複数を壁面の凹凸へ固定し、翼に何かが起きても身体が落ちないようにする。それぞれへ意識を向け続ける必要はなかった。一度決めた張力を、自分で維持している。
「楽」
《血液操作技能の強化による操作効率向上を確認》
「分かってる」
第四層には、大小の貨物庫だけでなく、物資分類室や搬入管理室も並んでいた。どれも横倒しになり、扉の大半は現在の天井か床へ向いている。一部の貨物箱には、避難用資材を示す記号が残っていた。
三百二十万人分。
その数字を見ても、まだ実感はない。
今まで第七層で同時に受け入れた患者は、最も多くても十数人だった。三百二十万人という数は、顔を想像できる範囲を超えている。それでも、箱の一つ一つには用途が記されている。
乳幼児用。
高齢者用。
負傷者用。
魔力汚染地域用。
誰かが、逃げてくる人間の姿を想像して準備したものだった。
その先に、診断区画へ続く扉が見えた。
《艦体外殻診断区画》
《扉動力――停止》
扉は現在の壁面にあり、左右へ開く構造だった。血糸を隙間へ入れ、内部の解除器を探す。
三箇所。
以前なら、一つずつ位置を確かめていた。
今はそれぞれを同時に動かす。
金属が擦れる音とともに、扉が途中まで開いた。
身体を横向きにして隙間を抜ける。
内部は暗かった。
床に固定されていた椅子や机は、すべて垂直な壁へ張りついている。壊れた端末の破片だけが現在の下方向に積もっていた。中央には、半円状の巨大な診断装置がある。
《艦体外殻診断設備》
《主電源――停止》
《非常電力接続――可能》
《破損回路――十二》
影蔵から予備の導力材を取り出す。
十二箇所へ血糸を伸ばした。
接続先ごとに必要な魔力量が違う。
一番弱い端子へ強く流せば焼き切れ、一番遠い回路へ弱く流せば起動しない。
血糸を一本ずつ調整する。
以前なら、十二本を同時に維持するだけで他の作業が難しかった。今は、出力を決めた血糸がその状態を保ち続ける。
「起動して」
《非常電力を接続します》
診断装置の一部へ光が戻る。
壁面だった場所へ、青白い線が広がった。
《艦体外殻診断設備》
《限定起動》
《登録艦籍を照合します》
《終末対処戦略兵装運用母艦》
巨大な立体図が空中へ浮かぶ。
今まで見ていた主層図より、遥かに細長い。艦体は完全に垂直で、第一層を上に、第七層を下にして岩盤へ埋まっている。第七層のさらに下には、主層として登録されていない艦首構造が続いていた。
《艦体埋没率――100.0%》
《船体姿勢――垂直固定》
《艦首方向――奈落深層》
《外殻損壊率――43.8%》
「半分近い」
《外殻全損区画を含みます》
《主構造維持率――71.2%》
「すぐ壊れる?」
《現状を維持した場合、短期的な全艦崩壊の可能性は低いと推定されます》
《ただし、複数の損傷が進行中です》
外殻の損傷分布が赤く表示される。
第五層の外部開口部。
第四層の側面。
第三層周辺の熱損傷。
第一層近くには、ほとんど情報を取得できない黒い領域がある。
艦首は特に損傷が激しかった。
けれど、形が崩れているわけではない。
何重もの外殻が潰れながらも、中心部を守るように残っている。
《損傷原因を分析します》
《自然落下による墜落損傷との一致率――7.2%》
「落ちたんじゃない?」
《意図的な艦首方向突入の可能性――高》
艦体の側面から、八本の構造物が伸びている。太い杭のようなものが岩盤へ打ち込まれ、レムナの船体を周囲から固定していた。
《深層封鎖固定杭――八基》
《正常稼働――四基》
《機能低下――一基》
《停止――三基》
「船を留めるため?」
《レムナの位置固定は、副次機能に含まれます》
「主な機能は?」
《艦首封鎖機構と深層封鎖座標の接続維持》
艦首の先へ、細い線が伸びた。
レムナよりも下。
岩盤のさらに奥。
そこに、診断装置でも輪郭を取れない何かがある。
《深層封鎖座標》
《詳細情報――欠損》
《接続状態――限定維持》
「レムナが封じてる?」
《正確ではありません》
《既存の深層封鎖機構へ、母艦艦首を接続》
《固定杭によって座標を維持》
《封鎖制御、圧力分散および緊急防衛を担当》
レムナだけが蓋になっているわけではない。元から奈落の底にあった封鎖機構へ接続し、その場所からずれないように固定されている。
船体が動けば、接続位置がずれる。
封鎖の一部が働かなくなる可能性がある。
「何を封じてる?」
《関連記録を検索します》
何度か表示が乱れた。
《記録欠損率――91.6%》
《取得可能断片を再生します》
空中へ、短い文字列が現れる。
《深層封鎖座標への到達》
《艦首接続開始》
《母艦固定完了》
《避難船団の離脱を確認》
《最終防衛線を維持――》
そこで途切れた。
「避難船団」
レムナ以外にも船がいた。
三百二十万人分の物資は、レムナ一隻だけで使うものではなかったのかもしれない。
この船が残り、ほかの船を逃がした。
そのあと、奈落の底へ自分から突き刺さった。
「誰が決めたの?」
《指揮記録――欠損》
診断範囲を艦首の下へ広げる。
《警告》
《深層封鎖座標への能動診断は、外部反応を誘発する可能性があります》
「危ない?」
《反応対象の詳細不明》
やめることもできる。
けれど、何も知らないままでは、次に何が起きるか判断できない。
「弱く調べて」
《最低出力で診断波を送信します》
艦首から、岩盤の下へ微弱な振動が送られた。
表示には、何も映らない。
一秒。
二秒。
三秒。
普通の岩盤なら、すぐに反射が返るはずだった。
十秒ほど遅れて、最初の反応が届いた。
低く、長い揺れ。
次に、短い振動が二度。
間隔は一定ではない。
岩盤に反射しただけではなかった。
《外部振動を検出》
《発生源――艦首下方》
《距離――測定不能》
《診断波との因果関係――不明》
「返事した?」
《判別不能》
次の瞬間、レムナ全体が軋んだ。
診断区画の破片が現在の下方向へ滑る。
血糸が自動的に張り、身体を壁面へ固定した。遠くから、第四層の貨物固定腕が負荷を受ける音が伝わってくる。
《艦体位置変動を検出》
《深層方向へ――十一ミリメートル》
「動いた?」
《肯定》
《艦体位置を再計測》
《変動量――十一・三ミリメートル》
指一本にも満たない。
けれど、これほど巨大な船が、岩盤の中で動いた。外殻図に表示されていた固定杭の一本が、赤く点滅する。
《深層封鎖固定杭・第八基》
《出力――3.1%》
《固定力低下》
《内部導力供給不足》
《停止予測――十八時間三十七分後》
「止まったら?」
《残存固定杭へ荷重が集中します》
《艦体位置の追加変動を予測》
《艦首封鎖接続位置が許容範囲を逸脱する可能性――38%》
数センチずれただけで、接続が外れる可能性がある。
「電力を回して」
《現在の補助有効出力では、全重要機能との同時維持が不可能です》
艦内機能の一覧が表示される。
第七層。
救命転送網。
白夜の循環維持。
第五層の最低限の封鎖。
第四層の固定腕。
そして、深層封鎖固定杭。
すべてに電力が分散している。
《推奨対応》
《広域緊急救命転送網の一時停止》
《転用電力による第八固定杭維持可能時間――約七十二時間》
救難網を止めれば、三日は持つ。
その間に別の手段を探せる。
けれど、その三日間に誰かが死にかけても、第七層へ連れてこられない。
「止めない」
《代替手段を検索します》
《第三主層補助機関の復旧》
《必要有効出力増加量――3.2%以上》
《現補助有効出力――6.4%》
《第三補助魔力炉の限定起動により達成可能》
「壊れてる?」
《構造損傷率――27.4%》
《冷却系統――断裂》
《自動起動機構――停止》
《手動起動が必要です》
第三層は、第四層より上にある。
そこへ続く昇降路も表示された。
《第四第三主層間昇降路》
《閉塞率――61%》
《第三主層環境》
《高温区画――存在》
《冷却材漏出》
《魔力放電――継続》
《第八固定杭停止予測――十八時間三十二分後》
「間に合う?」
《経路障害の詳細が不明です》
「行く」
診断設備を止める。
十二本の血糸を順番に切れば、回路が焼ける可能性がある。一斉に出力を落とし、最後に非常電力を切断した。強化したばかりの血液操作がなければ、起動する時点で時間がかかっていた。
診断区画を出る。
第四層上部へ向かいながら、血糸を貨物固定腕三番へ伸ばした。
応急接続部分の熱と振動を確認する。
まだ切れない。
少なくとも、第三層へ行って戻るまでは保つ。
《第八固定杭停止予測――十八時間十九分後》
上へ続く昇降路の扉を開いた。
---
第四層と第三層をつなぐ昇降路は、ほとんど瓦礫で埋まっていた。
《正規昇降設備――停止》
《緊急通行経路を表示します》
人一人が通れる隙間が、崩れた構造物の間を縫うように続いている。
翼を広げられる場所は少ない。
血糸を前方へ伸ばし、構造材の振動を読む。
軽く引くだけで崩れる場所。
まだ荷重を支えている場所。
熱を持っている導力管。
それぞれを見分けながら進む。
一本の血糸を前方の固定具へ結び、自律的に同じ張力を保たせる。
別の血糸で瓦礫を押し広げる。
さらに別の一本は、背後の経路を支える。
身体を横にして、狭い隙間へ入った。
途中で接触印が熱を持つ。
動きを止める。
レオンからの伝言だった。
《奈落上層で魔物の出現が増えている》
《今まで見なかった種類も上がってきた》
《町ではまだ対応できている》
穿層獣を思い出す。
あれも奈落の深い方向から上がってきた。
《気をつけて》
短く返す。
すぐに接触印が反応した。
《それだけか》
「何が欲しいの」
聞こえるはずはない。
少し考える。
《死なないで》
今度は返事まで間が空いた。
《分かった》
《お前も死ぬな》
「死なない」
伝言にはせず、口に出すだけにした。
今は長く話している時間がない。
接触印を外套の内側へ戻し、昇降路をさらに上がった。
進むにつれ、空気が熱くなる。
冷却管が裂けた場所から、青白い液体が噴き出していた。外部重力方向へ流れ落ち、昇降路の側面を滝のように伝っている。
《冷却材》
《人体への接触――有害》
翼を広げられる空間まで血糸で身体を引き上げ、流れを避ける。その先では、壊れた導力線から魔力放電が走っていた。
一定間隔ではない。
前方へ血糸を伸ばし、空気中の魔力変化を読む。電気が走る直前、導力線の振動が僅かに変わる。
「今」
放電が止まった瞬間に飛ぶ。
二本目の導力線。
三本目。
最後の一本だけ、振動の間隔が短い。
血糸を近くの構造材へ固定し、身体を一気に引き上げた。
背後で青白い光が走る。
外套の端が僅かに焦げた。
「また直す」
第三層側の扉へ到着する。
《第三主層》
《主機関・推進動力区画》
扉の向こうから、低い振動が続いていた。
主機関は停止している。
それでも、残った魔力や圧力が管の中を動き続けているらしい。
扉を手動で開ける。
---
第三層は、第四層よりもさらに広かった。
巨大な円筒状の機関が、正規の床へ十二基並んでいる。今は床が垂直になっているため、円筒は壁面から横向きに突き出して見えた。最も奥には、それらとは比較にならないほど大きな主機関がある。
暗い。
完全に停止している。
それでも、内部から微かな振動を感じた。
《主機関――停止》
《起動禁止状態》
《深層封鎖機構への影響が予測されます》
「動かさない」
今必要なのは、十二基ある補助魔力炉の一つだけ。
復旧可能と表示された炉へ向かう。
《第三補助魔力炉》
《構造損傷率――27.4%》
《冷却系統――断裂》
《自動起動機構――停止》
《手動起動が必要です》
炉の周囲には、三箇所の制御弁がある。
互いに百メートル近く離れていた。
《手動起動手順》
《制御弁一番、二番、三番を順次開放》
《四十秒以内に炉心制御部へ始動魔力を供給》
《手順失敗時、起動を中断します》
一人で走って回れば、間に合わない。
翼を使っても、弁の状態を確認しながらでは難しい。
「血糸でできる?」
《物理操作および魔力供給が可能であれば、実行できます》
三箇所へ血糸を伸ばす。
途中で分岐させ、それぞれの弁へ絡める。
一本目は右回転。
二本目は途中で圧力を抜きながら左回転。三本目は固定具を解除してから引き下げる。
別の血糸を炉心制御部へ接続する。
さらに、冷却系統へ数本を伸ばした。
起動した直後に壊れる可能性がある。
先に破損箇所を探す。
《冷却管破断箇所――四》
完全に切れている場所が一つ。
亀裂が二つ。
内部弁が閉じたままの場所が一つ。
すべてを直す時間はない。
最低限、冷却材が炉を一周できる経路を作る。
《第八固定杭停止予測――十五時間四十一分後》
時間はあるように見える。
けれど、起動に失敗すれば、次に何が壊れるか分からない。
「始める」
《手動起動手順を開始します》
《残り時間――四十秒》
一番の弁を動かす。
重い。
血糸へ抵抗が返ってくる。
出力を上げ、規定位置まで回した。
《制御弁一番――開放》
《残り時間――三十二秒》
二番。
圧力を少し逃がしてから、反対方向へ回す。
《制御弁二番――開放》
《残り時間――二十二秒》
三番を引く。
動かない。
《制御弁三番――固着》
固定具の一部が歪み、弁を内側から押さえ込んでいた。
別の血糸を固定具へ伸ばす。
弁を引く血糸と、固定具を広げる血糸。
それぞれへ反対の力をかける。
《残り時間――十二秒》
腕の内側が痛む。
血糸が皮膚を引き、細い傷が開いた。
《九秒》
弁は僅かに動いたが、まだ足りない。
血糸を二本追加する。
一本は弁の根元。
一本は固定具の亀裂。
出力を個別に調整する。
《五秒》
金属が歪む。
《三秒》
固定具が外れた。
弁が規定位置まで落ちる。
《制御弁三番――開放》
《手動起動条件を達成》
炉心制御部へ魔力を流す。
《第三補助魔力炉――始動》
円筒の内部へ光が入った。
低い振動が、第三層全体へ広がる。
止まっていた導力管へ順番に光が走り、冷却材が動き始めた。
直後、破裂音が響く。
事前に確認していた亀裂の一つではない。圧力が戻ったことで、別の劣化箇所が裂けた。
高温の冷却材が勢いよく噴き出す。
《冷却系統圧力――低下》
《炉心温度――急上昇》
《危険域》
《緊急停止まで――二十七秒》
「止めたら?」
《再起動には手動起動手順の再実行が必要です》
《冷却系統の追加損傷により、再起動成功率は低下します》
ここで止めれば、第八固定杭が止まるまでに直せない可能性がある。三箇所の制御弁へつないだ血糸は、そのまま位置を維持させる。
《単純動作の自律維持を設定》
《制御弁一番――保持》
《制御弁二番――保持》
《制御弁三番――保持》
意識を冷却管へ移す。
裂け目へ血糸を網状に巻きつける。
外側から閉じるだけでは、内部を流れる冷却材まで止めてしまう。何本かを管の内側へ通し、失われた部分の代わりとなる流路を作る。
細い血糸を束ね、仮の管にする。
《緊急停止まで――十八秒》
冷却材が血糸の中を通った。
熱が腕へ返ってくる。
手のひらから肘まで、一瞬で焼かれるような痛みが走った。
血糸は私の身体から出ている。
完全に切り離された道具ではない。
《炉心温度――上昇継続》
《十四秒》
流路が細い。
血糸を増やす。
流れる冷却材を三つに分け、炉心の周囲へ均等に戻す。一本へ負荷が集中しないよう、出力を個別に調整する。
《十秒》
両手の皮膚が赤くなり、指先の感覚が薄れる。
それでも、血液量は減っていない。
焼けても、あとで治せる。
《七秒》
《炉心温度――上昇停止》
「もっと」
流量を増やす。
仮の流路が振動する。
一本が切れかけたため、別の血糸へ荷重を移す。
《四秒》
《炉心温度――低下開始》
《二秒》
《危険域を離脱》
《緊急停止を解除》
《第三補助魔力炉――限定稼働》
炉心の光が安定した。
冷却材は、血糸で作った仮の流路を通り続けている。
今すぐ手を離せば、また温度が上がる。
「自動で維持して」
《血糸流路の自律維持を設定》
複数の血糸が、それぞれの流量を保つ。
完全に意識から外すことはできないが、手を動かす余裕はできた。
艦内出力が更新される。
《補助有効出力――6.4%》
《上昇中》
《7.1%》
《7.9%》
《8.6%》
《9.2%》
《9.8%》
第三層から、レムナ全体へ魔力が流れていく。
停止していた照明の一部が灯った。
第四層の固定腕から、負荷低下の通知が届く。第五層では、生体循環液製造設備が起動準備へ入った。第六層の白夜にも、安定した維持電力が供給される。
そして、艦体側面の第八固定杭が動いた。
《深層封鎖固定杭・第八基》
《出力――31.4%》
《固定力――回復》
《艦体位置変動――停止》
《艦首封鎖接続位置――許容範囲》
「戻った?」
《追加変動は停止しました》
《十一・三ミリメートルの位置変動は残存しています》
完全に元の位置へは戻っていない。
ただ、封鎖座標との接続は許容範囲に収まっている。これ以上動かなければ、すぐに封鎖が外れることはない。
《広域緊急救命転送網――稼働維持》
救難網も止めずに済んだ。
《第五主層生体兵装循環液製造設備》
《限定製造能力――22%》
《基礎循環液の試験製造を開始》
《第一機動決戦兵装・白夜》
《生体循環維持安定度――上昇》
白夜へ毎日渡している血の量も、製造が安定すれば減らせる可能性がある。
「間に合った」
制御室の壁へ背を預ける。
両手が痛い。
皮膚は赤く焼け、一部が水膨れになっていた。血液操作で手の血流を調整し、損傷した組織へ必要な分だけ血を送る。
すぐに完全には治らない。
それでも、指は動く。
《第三補助魔力炉》
《仮設冷却流路への依存率――41%》
《現状態での連続稼働可能時間――推定二十六時間》
「一日しか保たない?」
《正規冷却管の修復が必要です》
今度は緊急ではない。
固定杭が動いている間に、冷却管を正式に直せばいい。影蔵から第四層で回収した補修材を出す。血糸の仮流路を維持しながら、裂けた冷却管へ金属板を当てる。
炉の起動前なら簡単だったはずの作業に、数時間かかった。途中で第七層から救難候補の通知が届いた。
《救難候補一名》
《奈落上部・魔物襲撃》
《対象は自力移動不能》
《同行者二名が救出を試行中》
収容条件はまだ成立していない。
私は冷却管を直しながら、情報を表示させた。
若い冒険者。
脚を負傷している。
同行者が魔物を追い払い、担架を作ろうとしている。
《外部救助成功率――58%》
「見てて」
《監視を継続します》
救難網を止めていたら、この候補すら見えなかった。数分後、同行者たちが対象を担架へ乗せる。
《外部救助成功率――81%》
《緊急収容条件から除外》
「よかった」
すべてを連れてくる必要はない。
外で助かるなら、それでいい。
最後の補修板を固定する。
血糸で作っていた仮流路を一本ずつ正規の管へ戻す。
《正規冷却流路――回復》
《仮設冷却流路への依存率――0%》
《第三補助魔力炉》
《限定安定稼働へ移行》
《連続稼働可能時間――推定六百二十一日》
「長い」
《定期保守を実施した場合、延長可能です》
血糸を戻す。
熱を受け続けていた両腕が重かった。
それでも、炉は自力で動き続けている。
---
補助魔力炉の起動によって、第三層の設備がいくつか復旧した。
その中に、《広域戦術環境観測設備》が含まれていた。
《広域観測機能――部分復旧》
《奈落周辺生命反応の取得が可能です》
「見る」
第三層の空中へ、奈落周辺の立体図が開く。レムナを中心に、地上方向へ細長く伸びる巨大な空間。これまで見えていたのは、救難網が検知した人間の反応だけだった。
今は違う。
魔物。
魔獣。
深層生物。
数え切れないほどの生命反応が表示されている。
「多い」
《推定個体数を算出します》
《上限を超過》
数百。
数千。
表示範囲を広げるたび、さらに増える。
一定の群れではなかった。
小型種。
大型種。
地中を進むもの。
壁面を登るもの。
飛行能力を持つもの。
本来なら互いに捕食し、争うはずの種が、同じ方向へ動いている。
上。
奈落の出口。
地上へ向かっていた。
《広域生体移動を検出》
《主要進行方向――上方》
《推定個体数――測定上限超過》
「町を襲うため?」
《移動経路に統一された攻撃目標は確認できません》
《生物群は複数方向へ分散しながら、深層から離脱しています》
下から押し上げられている。
穿層獣と同じだった。
第五層へ入り込んだあの群れも、奈落のさらに深い方向から上がってきた。
接触印が再び熱を持つ。
レオンからの伝言。
《訂正する》
《魔物が増えてるんじゃない》
《奈落の魔物が、全部上へ逃げてる》
観測図の一部を拡大する。
奈落上部の都市近くでは、冒険者や兵士が防衛線を作り始めている。
まだ大規模な襲撃ではない。
小型の魔物が散発的に現れ、それを追うように大型種が上がってきている段階だった。
《今どこにいる?》
レオンから追加の伝言が届く。
答えない。
場所を知られるわけにはいかない。
《無事》
それだけ返す。
《会いに行けるか》
《今は無理》
《何か起きてるのか》
少し迷う。
レムナの存在も、観測設備のことも言えない。ただ、危険が迫っていることまで隠せば、逃げる準備が遅れる。
《奈落の下から、たくさん上がってる》
《町の人を逃がせるようにして》
返事はすぐには来なかった。
《分かった》
《根拠を聞かれても、お前のことは言わない》
「助かる」
伝言ではなく、口に出した。
レムナが過去の記録との照合を始める。
《現在の広域生体移動》
《前回大崩壊記録との照合》
《一致率――21%》
第十話で検出した振動の類似率は十二%。
今度の生体移動は二十一%。
まだ、大崩壊だと断定できる数字ではない。
似ている部分があるだけ。
けれど、二つの異常が同時に起きている。
《深層封鎖座標周辺》
《生体圧上昇を検出》
「生体圧って?」
《一定範囲内に存在する生命反応総量の推定値です》
《現在、観測可能範囲外からの流入を確認》
奈落の底で、何かが増えている。
それに押されるように、魔物が上へ逃げている。深層封鎖機構の向こう側から出てきているのか。封鎖の手前に元からいた生物が動いているだけなのか。
まだ分からない。
診断図に、レムナの船体を表示する。
十一ミリ動いた艦体は、第八固定杭の回復によって止まっている。ただし、下から伝わる微弱な振動は消えていなかった。
《艦体下方振動》
《前回記録との類似率――13%》
十二%から、僅かに上がっている。
「診断波を送ったから?」
《因果関係は確認できません》
「私が起こした?」
《現在の情報では判別不能》
もし、私が下を調べたことで何かが反応したのなら、軽率だった。けれど、穿層獣はその前から上がってきていた。第四層の記録も、第十話より前に深層圧の上昇を示している。
私が始めたわけではない。
ただ、目を向けただけ。
そう思いたかった。
《広域緊急救命転送網》
《救難候補数――増加》
表示が切り替わる。
一人。
三人。
七人。
すぐに収容が必要な人間はいない。
魔物との遭遇。
落石。
混乱による転倒。
避難途中の負傷。
奈落上部で少しずつ事故が増えている。
《受入可能数――十五》
第七層の寝台数は変わらない。
三百二十万人分の物資を見つけても、今の私が同時に救える人数は十五人だけだった。
「増やせる?」
《第七主層の医療機能拡張には、追加電力、設備修復および医療資材が必要です》
「どれくらい?」
《現状の補助出力では、軽症受入設備の追加稼働が可能です》
《推定追加受入人数――二十三》
三十八人。
それでも、何千もの生命反応に比べれば少ない。
「準備して」
《第七主層拡張準備を開始します》
《架工守、搬工守、診工守へ指示を送信》
第七層にいる作業個体が動き始める。
使われていなかった区画を片づけ、簡易寝台を設置する。第四層から医療用布材と避難用毛布を運ぶ。補助機関を動かしたことで、できることは増えた。
けれど、それ以上の速度で、外の危険も増えている。
第三層の観測図を見上げる。
無数の光点が、深層から上へ動いていた。今のところ、大きな群れにはなっていない。奈落の途中で分かれ、別々の洞窟や裂け目へ逃げ込んでいる。
弱いものが先。
それを食べるものが後。
さらに強いものが、その後ろから上がってくる。生態系全体が、順番に地上へ押し出されていた。
《前回大崩壊記録との一致率――22%》
「上がった」
《新規観測情報を反映しました》
《一致率は今後も変動します》
まだ二十二%。
今すぐ世界が終わる数字ではない。
それでも、止まってもいない。
私は焼けた手を握る。
指は動いた。
血糸も出せる。
第七層では作業個体が寝台を増やしている。第五層では白夜の循環液が作られ始めた。第四層には三百二十万人分の避難物資が眠っている。
第三層の補助炉は、封鎖固定杭へ電力を送り続けている。レムナは十一ミリ動いたあと、再び止まった。けれど、船の下にいるものまで止まったわけではない。
観測図の上で、奈落の生命反応がまた一つ、深層から上へ移動した。その後ろから、さらに大きな反応が続く。
レムナは動きを止めた。
代わりに、奈落の中にいるものすべてが、少しずつ上へ逃げ始めていた。




