第十話 《二千八百トンと四千九百八十七年》
買い物から戻って三日後、広域緊急救命転送網が一人の旅人を収容した。
雪の残る山道で小規模な雪崩に巻き込まれ、胸部を岩と倒木の間へ挟まれていた男性だった。
同行者は二人いたが、積もった雪と岩の重さで救出できない。男性の呼吸が止まりかけたところで収容条件が成立した。
《緊急収容を実行》
《対象を重症治療台へ搬送します》
第七層へ運ばれた男性は、肋骨を七本折っていた。
そのうち二本が肺へ刺さり、胸の中へ血と空気が溜まっている。長く圧迫されていた右腕も血流が途絶えかけていた。
折れた肋骨を戻し、裂けた肺を閉じる。
胸腔内へ溜まった血を回収し、汚れていない分だけ本人へ返した。
右腕は急に血を戻すと傷んだ組織から毒性物質が全身へ流れるため、診工守と確認しながら少しずつ循環を再開させた。
男性は二日後に目を覚まし、さらに一日休んでから山麓の治療院へ帰った。
《新規患者一名の治療完了を確認》
《個別治療報酬――SP+2》
《保有SP――20》
患者がいなくなった治療室の隣には、地上で買ってきた食器や調味料が置かれている。
香辛料の瓶。
砂糖。
蜂蜜。
新しい鍋。
柔らかな布。
そのすぐ隣では、少し前まで死にかけた人間を治療していた。
生活するための物が増えても、第七層の役割は変わらない。
患者が来れば治す。
来ない時間に、私はここで暮らす。
それだけだった。
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第六層へ上がると、搬送個体が自分の整備場所から立ち上がった。
《壁面走行型生体搬送個体》
《右前肢機能――79%》
《長距離移動――可能》
《高負荷搬送――非推奨》
折れていた右前脚にはまだ固定具が残っているが、歩行は安定していた。
私が第五層へ続く通路へ向かうと、六本の脚を動かして後ろからついてくる。
「今日は運ぶものない」
搬送個体は止まらない。
「道案内だけ」
返事はない。
役割を理解しているかも分からなかったが、第五層の経路情報を持つ個体がいれば、私一人で探索するより早い。
格納庫へ入る前に白夜の状態を確認する。
《第一機動決戦兵装・白夜》
《生体循環系統――限定稼働中》
《定期血液供給――完了》
《構造劣化――停止》
「行ってくる」
白夜は動かなかった。
白い装甲の奥で、私の血を基準とした循環だけがゆっくり流れている。
第五層との緊急連絡路へ向かった。
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《警告》
《前方主層の艦内重力軸制御は停止しています》
《正規床面と外部重力方向の偏差――89.7度》
血糸を固定具へつなぎ、翼を広げる。
境界扉が開くと、向こう側にあった細かな金属片が現在の下方向へ滑り落ちた。
横倒しの通路へ身体を移し、翼で姿勢を変える。
搬送個体は六本の脚を扉の縁へかけ、そのまま壁面へ移った。私のように飛ぶ必要はない。現在の床が途切れても、天井や反対側の壁へ移りながら進める。
「便利」
搬送個体の識別核が一度だけ淡く光った。
反応したのか、単に経路情報を読み取っただけなのかは分からない。
目的地は、第五層に残る外部開口部。
以前の走査で、中型の生物が通れる大きさだと判定された亀裂だった。
《外部開口部三》
《外部洞窟網へ接続》
《生命反応監視――不完全》
《周辺構造損傷――進行》
「進行してる?」
《前回走査時から、開口部周辺の構造体積が減少しています》
「崩れた?」
《原因不明》
通路を進むにつれ、第五層の状態が悪くなっていく。
壁面を走っていた導力管が途中で途切れている。
金属が破断した形ではない。
表面に細かな歯形が残り、内部の人工組織ごと抉り取られていた。
近くの生体素材供給管も食い破られている。
黒ずんだ維持液が現在の床へ流れ、乾いて固まっていた。
《第五主層生体素材供給管》
《構造情報――欠損》
《復旧対象の一部を認識できません》
「認識できない?」
《物理構造が完全に消失しています》
《現存部品を基準とした部分修復のみ可能です》
「食べられたら直せない?」
《消失した部材の設計情報が取得できない場合、完全復旧は不可能です》
単に壊されているのではない。
レムナの一部が、食べられて消えていた。
搬送個体が立ち止まる。
六本の脚を広げ、頭部を低くした。
前方の暗闇から、小さな音が続けて聞こえる。
硬いものを噛み砕く音。
一つではない。
「いる?」
《複数生命反応を検出》
《推定個体数――七》
《登録生物情報との一致――なし》
血液感知を広げる。
人間ではない。
硬い甲殻の内側に、暗い血が流れている。体内の一部には、食べた導力素材らしい魔力反応も混ざっていた。
「外から来た?」
《移動痕跡を解析します》
《外部開口部からの進入と推定》
通路の角を越える。
現在の床となっている壁面には、黒い甲殻を持つ魔物が群がっていた。
体長は小さいもので一メートルほど。
大きいものは二メートルを超えている。
扁平な頭部。
左右へ広がる大顎。
八本の短い脚。
甲殻の隙間には、第五層の導力管から奪ったと思われる青白い線が走っていた。
一体が、壁から露出した人工組織へ顎を食い込ませている。
噛み砕いた肉と金属を、そのまま飲み込んでいた。
《生物情報を暫定登録》
《仮称――穿層獣》
《人工生体組織および魔力伝導部材を摂食》
《摂取物を外殻へ転用しています》
「やめて」
声に反応し、七体の頭部が一斉にこちらへ向いた。
「ここ、家だから。出ていって」
一番大きな個体が顎を開く。
返事の代わりに、甲殻を擦り合わせる音が響いた。
次の瞬間、壁面を蹴って飛びかかってくる。
血糸を固定具へ巻きつけ、身体を引き上げる。
穿層獣が直前までいた場所を通過し、反対側の壁へ爪を立てた。
残りも動く。
現在の床だけではない。
正規の天井。
通路の両側。
配管の裏側。
重力を無視するように、あらゆる方向から近づいてくる。
「出ていかないなら、倒す」
《影縛 Lv.1》
非常灯によって伸びていた影が広がる。
三体の脚へ絡みつき、壁面へ押さえ込む。
一体だけなら完全に止められるが、三体同時では拘束が浅い。
甲殻の硬さも強く、影が少しずつ引き剥がされる。
血針を作る。
甲殻そのものへ撃っても弾かれる。
血液感知で継ぎ目を探し、脚の付け根へ一本ずつ通した。
紫色の血が飛ぶ。
二体が動きを止めた。
三体目が影を振り切り、正面から顎を開く。
身体を血糸で横へ引く。
顎が外套の裾を噛み、布を引き裂いた。
「買ったばかり」
血刃を短く形成し、顎の内側へ差し込む。
柔らかい部分だけを切る。
魔物が身体を反らし、現在の床へ落ちた。
背後から別の気配が近づく。
振り向く前に、搬送個体が横から身体をぶつけた。
穿層獣が壁面へ叩きつけられる。
「下がって」
搬送個体は私の前へ出る。
六本の脚を広げ、穿層獣と対峙した。
戦闘用の構造ではない。
顎も爪も、相手を殺すためのものではなかった。
穿層獣の方は、私ではなく搬送個体へ頭を向ける。
人工生体組織。
補助骨格。
導力管。
搬送個体の身体そのものが、穿層獣にとっては餌だった。
「そっちじゃない。私を見て」
血糸を穿層獣へ巻きつけ、無理に引き寄せる。
振り向いたところへ血針を撃ち込む。
一体。
二体。
最後の一体を止めようとした時、別方向から大きな個体が搬送個体へ飛びついた。
大顎が右前脚へ食い込む。
固定具が砕けた。
「離して!」
血糸を顎の隙間へ通し、左右へ引き開く。
搬送個体の脚から暗い紫色の血と維持液が流れた。
穿層獣を蹴り離し、影で壁へ押さえつける。
甲殻の内側にある循環中枢へ血針を突き刺した。
一度だけ大きく暴れ、そのまま動かなくなる。
「だから下がってって言った」
搬送個体は傷ついた右前脚を浮かせたまま、残った穿層獣を探している。
六体倒した。
あと一体。
「どこ?」
《生命反応――移動中》
《第五第四主層間物資供給管へ進入》
奥で金属が裂ける音がした。
最後の一体が、太い物資供給管の内部へ潜り込んでいる。
第四層へ続く管だった。
「止められる?」
《供給管内部の隔壁――応答なし》
《対象は第四主層方向へ移動中》
追うために血糸を伸ばすが、内部は複雑に分岐している。
穿層獣の反応が遠ざかる。
「第四層に行った?」
《肯定》
その直後、艦内へ大きな振動が走った。
横倒しの通路全体が揺れる。
第五層の壁面に積もっていた瓦礫が滑り落ち、血糸で身体を固定していなければ私も流されていた。
《第四主層で構造異常を検出》
《兵站貨物固定具――一基停止》
表示が更新される。
《二基停止》
《四基停止》
《連続損傷を確認》
「食べてる?」
《停止位置は、未登録生命反応の移動経路と一致します》
「第四層の固定具って何を固定してるの?」
《情報を取得します》
少し間が空く。
《非固定貨物総重量を計測》
《推定――二千八百トン》
「全部?」
《第四主層境界隔壁へ荷重が集中しています》
遠くで、重い何かが動く音が続く。
一つではない。
巨大な箱や設備が、第四層の現在の下方向へ滑り始めている。
《第五第四主層間境界隔壁》
《荷重上昇》
《許容値を超過》
《隔壁破断まで――推定三時間十二分》
「壊れたら?」
予測図が開く。
第四層の貨物が隔壁を破り、第五層へ流れ込む。
その先には、先ほど見つけた生体素材供給設備。
さらに下には、第六層へ続く維持電力路と循環液制御系統がある。
《隔壁破断時の予測》
《第五主層生体兵装循環液製造設備――全損》
《第六主層維持電力――喪失》
《第一機動決戦兵装・白夜》
《生体循環制御設備――停止》
《機体生体循環維持可能時間――推定十七分》
「血を入れたら?」
《循環制御設備喪失後は、血液供給のみでの維持は不可能です》
白夜へ血を流しても、それを全身へ送る設備がなくなる。
十七分で壊れる。
「第四層へ入る」
《正面境界隔壁の開放は推奨されません》
「別の道」
搬送個体の識別核が点滅する。
第五層の図へ、新しい細い線が浮かんだ。
《旧式保守用管路を検出》
《第四主層への接続可能性――あり》
人間用の通路ではない。
物資供給管の外側を点検するための細い保守管路だった。
「案内できる?」
搬送個体が傷ついた脚を引きずりながら動こうとする。
「違う。ここで待って」
止まらない。
「脚、また壊れてる」
搬送個体は保守管路の方向へ身体を向けた。
白夜へ資材を届けること。
供給経路を維持すること。
それが、この個体へ残っている命令なのだと思う。
「入口まで」
それ以上連れていくつもりはない。
穿層獣がいる第四層へ、傷ついた搬送個体を入れるわけにはいかなかった。
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保守管路の入口は、物資供給設備の裏側に隠れていた。
搬送個体が古い認証部へ頭を近づけると、歪んだ蓋が僅かに開いた。
内部は暗い。
幅は私の肩が通る程度。
翼を広げる余裕はない。
《保守用管路》
《内部重力制御――なし》
《構造損傷――複数》
《第四主層側出口まで――四百十二メートル》
「ここで待って」
搬送個体へもう一度言う。
入口の近くへ固定具を設置し、傷ついた右前脚を簡単に止血する。
「動かないで」
搬送個体は伏せなかった。
それでも、私が管路へ入る間は追ってこなかった。
血糸を内部へ伸ばし、身体を引き込む。
蓋が背後で閉じた。
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管路の中は、完全な暗闇だった。
照明具を前方へ浮かせる。
正規の床も壁も関係ない。
重力は管路の側面へ向かっているため、身体を血糸で支えなければ横へ落ちる。
途中には崩れた場所もあった。
裂けた管路の向こうへ岩盤が露出し、冷たい空気が流れ込んでいる。
《境界隔壁破断まで――二時間二十一分》
進む。
血糸を固定し、縮める。
狭い場所では身体を横にして通る。
途中で管路全体が揺れた。
第四層で貨物が動くたび、振動がこちらまで届いている。
《一時間四十八分》
ようやく、第四層側の出口が見えた。
保守蓋へ血糸を絡め、僅かに開く。
冷たい空気が流れ込む。
その先に床はなかった。
巨大な空間。
上も下も、照明の届く範囲を超えている。
《第四主層》
《艦内重力軸制御――停止》
《正規床面と外部重力方向の偏差――89.9度》
《保守管路出口直下》
《現在の落下方向に百七十三メートル》
「高い」
血糸を出口へ固定し、身体を外へ出す。
翼を広げる。
第四層は、第五層の通路とは比べものにならないほど広かった。
本来は巨大な貨物倉庫だったらしい。
正規の床には、何十本もの搬送線と固定装置が並んでいる。
今はすべて垂直な壁になっていた。
現在の下方向には、無数の貨物箱が積み重なっている。
小さな家ほどの箱。
搬工守より大きな容器。
何十メートルもある円筒。
それらが一つの山となり、第五層との境界隔壁へ圧し掛かっていた。
貨物同士が擦れ合い、ゆっくりと下へ沈んでいる。
「二千八百トン」
数字で聞くより、ずっと多かった。
《境界隔壁破断まで――一時間三十二分》
「固定するものは?」
《兵站貨物固定腕――十二基》
《正常稼働――二基》
《応急復旧可能――三基》
《残り七基――復旧不能または状態不明》
現在も動いている二本の巨大な腕が、貨物の山を左右から支えている。
それだけでは足りない。
三本を直し、荷重を別の構造へ分散できれば、隔壁へ集中している重量を減らせる。
「場所を出して」
三箇所が表示される。
遠い。
しかも、そのうち一つは貨物の山の反対側にある。
全部を持ち上げる必要はない。
崩れ始めた先頭を止め、荷重が固定腕へ伝わる形へ変えればいい。
血糸を伸ばす。
貨物箱同士を縫い合わせる。
一本。
十本。
百本。
箱の固定具へ絡め、現在の床となっている壁面の構造材へつなぐ。
影も広げる。
貨物の隙間へ入り込み、滑り始めた箱の速度を落とす。
《影縛》は生き物を拘束する技能だが、影そのものを障害として広げることはできる。
完全には止められない。
それでも、時間は作れる。
最初の固定腕へ飛ぶ。
制御器の外板が穿層獣に食い破られている。
内部の導力管が半分なくなっていた。
影蔵に残っていた第六層の予備部品を取り出す。
規格は合わない。
血糸で仮接続し、魔力を流す。
《兵站貨物固定腕三番》
《応急起動》
巨大な腕がゆっくりと動く。
貨物群の側面へ入り、押さえ込んだ。
《隔壁破断まで――一時間十四分》
二本目。
移動中、貨物が崩れる。
家ほどの大きさがある箱が、正面から滑り落ちてきた。
翼を畳み、血糸で身体を横へ引く。
箱がすぐ横を通過し、現在の床へ激突した。
衝撃で倉庫全体が揺れる。
血糸の一部が切れた。
縫い止めていた貨物がさらに動く。
「まだ」
影を広げ直す。
二本目の固定腕は、制御器ではなく基部が歪んでいた。
血糸を何十本も巻きつけ、位置を戻す。
皮膚が引かれる。
腕へ強い負荷がかかり、指先から血が滲んだ。
魔力は余っている。
足りないのは、力を伝える身体だった。
《兵站貨物固定腕七番》
《基部位置――許容範囲》
《応急起動》
二本目が動く。
貨物群の上部を支えた。
《境界隔壁破断まで――四十二分》
最後の一基。
そこへ向かおうとした時、貨物の奥から生命反応が現れた。
《未登録生命反応》
《接近中》
逃げた穿層獣。
貨物を食べ続けたことで、先ほどまでより反応が大きくなっている。
どこから出るのか探す。
その時、別の音が聞こえた。
金属の爪が壁面を掴む音。
六本。
「来ないでって言った」
貨物の上から搬送個体が姿を現した。
傷ついた右前脚を浮かせながら、壁面を渡っている。
口には、細い固定帯を咥えていた。
帯の先には、小型の密閉容器がつながっている。
《第五主層供給用資材容器》
《内容物――生体循環液製造用基礎材料》
穿層獣が物資供給管から第四層へ入り込んだ際、材料容器を引きずり込んだらしい。
搬送個体は、それを回収するために追ってきた。
「待ってって言った」
搬送個体は容器を離さない。
「それより自分を守って」
貨物の奥で甲殻が擦れる。
穿層獣が飛び出した。
以前より一回り大きい。
食べた導力材と人工組織が甲殻へ取り込まれ、青白い線が全身を走っている。
狙いは搬送個体だった。
「下がって!」
血糸を伸ばす。
しかし、同時に貨物群が大きく滑った。
穿層獣が内部の最後の固定部材を食い切ったらしい。
《境界隔壁荷重――急上昇》
《破断まで――九分四十七秒》
血糸を貨物へ戻す。
その間に、穿層獣の大顎が搬送個体へ食い込んだ。
右前脚ではない。
胴体の側面。
人工組織が裂け、暗い血と維持液が飛び散る。
搬送個体が貨物箱の間へ押し込まれた。
上から別の箱が滑り、その身体を挟む。
「搬送個体!」
固定腕を先に動かせば、隔壁を守れる。
搬送個体を引き抜くには、貨物を支えている血糸を一部外さなければならない。
隔壁が壊れれば第五層と白夜が危ない。
それでも、目の前で挟まれているものを放置する選択はできなかった。
「道具じゃない。今は患者」
貨物へつないだ血糸を外す。
一部の箱が一斉に滑った。
影で動きを遅らせながら、搬送個体の胴体へ血糸を巻きつける。
引く。
箱の重さで動かない。
血糸を増やす。
十本。
五十本。
血が腕の皮膚を突き破り、指先まで赤く染まった。
「出て」
貨物の隙間から、搬送個体の身体が僅かに動く。
穿層獣が再び顎を開く。
血針を撃つ。
甲殻へ弾かれる。
「邪魔」
血糸を甲殻の継ぎ目へ絡め、穿層獣を貨物の奥へ投げ飛ばす。
今は倒している時間がない。
搬送個体を引き抜く。
翼を広げ、空いた場所まで運ぶ。
《壁面走行型生体搬送個体》
《生命反応――低下》
《胴体人工組織損傷》
《右前肢骨格――再破断》
「そこで待って」
言っても、また動くかもしれない。
影を薄く巻き、身体を安全な壁面へ固定する。
《境界隔壁破断まで――四分十一秒》
貨物群が本格的に崩れ始めた。
二千八百トンすべてが一度に動くわけではない。
それでも、先頭の数百トンが隔壁へ向かって流れている。
最後の固定腕へ飛ぶ。
落下する箱の間を抜ける。
一つが翼へ触れ、身体が回転する。
血糸で壁へつなぎ、姿勢を戻す。
制御器へ到着する。
外板は残っている。
内部の動力だけが切れていた。
「起きて」
自分の血を導体として内部へ流す。
白夜へ供給した時とは違う。
血を失う量は少ない。
ただし、高密度の魔力と電力が血糸を通じて腕へ返ってくる。
皮膚が焼ける。
指の感覚が薄れる。
《兵站貨物固定腕十一番》
《制御信号――受信》
《動力供給――不足》
「第六層から少し回して」
《第六主層維持電力低下の可能性があります》
「十秒だけ」
《緊急転用を実行します》
白夜の表示が開く。
《生体循環制御設備――非常電力へ移行》
《維持可能時間――六分》
「十分」
固定腕へ電力が入る。
巨大な腕が軋みながら動く。
貨物群の下へ差し込み、現在の床から持ち上げるのではなく、横方向へ押す。
先に起動した四本も同期する。
《兵站貨物固定腕五基》
《同期制御を開始》
《荷重分散》
《境界隔壁への荷重――低下》
《許容値超過》
《低下中》
《許容範囲へ復帰》
激しい音を立てていた貨物が、少しずつ止まる。
血糸にかかっていた負荷が軽くなる。
最後に大きな箱が一つだけ滑ったが、固定腕の間へ挟まり、動かなくなった。
《非固定貨物群》
《暫定固定完了》
《総重量――二千八百四十一トン》
《境界隔壁破断予測――解除》
「送電、戻して」
《第六主層への維持電力を復帰します》
白夜の状態を確認する。
《生体循環制御設備――正常復帰》
《循環圧――安定》
間に合った。
安堵する前に、甲殻が砕ける音が響く。
穿層獣が貨物の隙間から這い出してきた。
人工組織を食べすぎた身体は膨れ、甲殻の継ぎ目から青白い液体が漏れている。
内部へ、白夜の循環液と似た成分が流れていた。
第五層から奪ったもの。
搬送個体の身体から吸ったもの。
このまま放置すれば、また固定腕や貨物を食べる。
「返して」
血液感知を内部へ通す。
甲殻は硬い。
けれど、流れは隠せない。
食べた人工液が、腹部にある中枢へ集まっている。
血糸を甲殻の継ぎ目から入れる。
穿層獣が身体を振る。
顎を開いて突進する。
血糸を固定腕へつなぎ、正面から受けずに身体を上へ引く。
穿層獣が下を通過する。
内部へ入れた血糸を引く。
青白い液体が、甲殻の隙間から一気に抜け出した。
穿層獣の全身を走っていた光が消える。
脚の動きが鈍る。
「それ、レムナのもの」
最後に血針を中枢へ通した。
穿層獣は二度身体を震わせ、そのまま動かなくなった。
---
倉庫へ静けさが戻った。
固定腕は貨物を支えている。
境界隔壁も壊れていない。
私は搬送個体のところへ戻った。
胴体の傷を開き、食い切られた導力管をつなぎ直す。
人工組織を縫い、失った維持液を、穿層獣から回収した分で補う。
右前脚はまた折れていた。
「治りかけてたのに」
搬送個体は横たわったまま、回収した材料容器へ頭部を向けている。
「分かってる。持って帰る」
ようやく動きを止めた。
《対象生命反応――安定》
《右前肢機能――18%》
《自力長距離移動――不能》
「帰りは運ぶ」
その前に、第四層の状態を確認する。
崩落の衝撃で、貨物箱の一つが割れていた。
中に入っていたものが、現在の床へ散らばっている。
武器ではない。
灰色の毛布。
密封された水の容器。
医療用の布材。
折り畳まれた簡易寝台。
小さな呼吸具。
大人用ではない。
子供の顔へ合わせた大きさだった。
「これ、何の荷物?」
《貨物識別情報を検索します》
箱の側面に残った文字が淡く光る。
《第四主層保管貨物》
《広域避難民受入用物資》
《分類――小児・乳幼児用生命維持資材》
周囲の箱も照合される。
《保存水》
《簡易医療設備》
《仮設居住区画》
《防寒資材》
《避難民用食料――劣化》
《想定広域受入人数》
数字が表示される。
《三百二十万人》
「三百二十万?」
《肯定》
「この船に?」
《詳細運用記録は欠損しています》
《艦内一時収容、地上避難拠点展開および広域物資供給を含む推定値です》
レムナの中へ全員を入れるわけではない。
避難所を作り、水や食料を供給し、負傷者を治療する。
その全体で三百二十万人。
白夜のような兵器を運ぶ母艦に、これだけの避難用品が積まれていた。
近くの破損した記録装置が、固定腕から流れた電力を受けて一時的に起動する。
《第四主層避難物資管理記録》
《最終更新情報を復元》
《前回深層活動周期から――四千九百八十七年》
《深層圧上昇を確認》
《広域生体移動――予測不能》
《大崩壊再発可能性――算出――》
表示が途切れた。
「大崩壊」
聞いたことのない言葉。
しかし、レムナの管理機能は反応した。
《関連記録を検索します》
《大半の記録が欠損しています》
《確認可能情報》
《深層活動周期――約五千年》
「五千年なら、あと十三年?」
《活動周期は一定ではありません》
《過去記録上の変動幅――取得不能》
《すでに前兆期間へ入っている可能性を否定できません》
同時に、艦体の下方から僅かな振動が届いた。
耳では聞こえない。
船体構造を通して、診断設備だけが拾った弱い揺れだった。
《艦体下方で深層振動を検出》
《前回大崩壊記録との類似率――12%》
低い。
今すぐ同じことが起きるわけではない。
けれど、ゼロではなかった。
外部開口部から入った穿層獣を思い出す。
レムナの生体反応へ引き寄せられただけだと思っていた。
しかし、あの巣穴は地上へ向かっていなかった。
艦体下方。
奈落のさらに深い方向へ続いていた。
「穿層獣、下から来た?」
《移動痕跡を再解析します》
《外部開口部へ続く洞窟内に上方移動痕跡を確認》
《推定進行方向――深層から第五主層》
「逃げてきた?」
《判別不能》
レムナを食べるために登ってきた可能性もある。
ただ、五千年前の活動周期と似た振動が始まっている。
偶然だと決めるには、重なりすぎていた。
第五層との隔壁周辺は、固定腕によって安全域へ戻っている。
人一人と搬送個体が通れる幅だけ扉を開ける。
《第四主層》
《兵站搬入・物資集積処理区画》
《限定接続を確認》
《第五主層への材料供給――可能》
回収した基礎材料容器を血糸で持ち上げる。
搬送個体も一緒に運ぶ。
横倒しの第四層から、同じく重力を失った第五層へ戻る。
搬送個体は途中で何度か動こうとしたが、傷ついた脚では立てなかった。
「もう運ばなくていい」
第六層まで戻り、格納庫の整備場所へ寝かせる。
傷をもう一度確認し、維持液を補充する。
搬送個体は、白夜へ材料が送られたことを確認するまで頭部を上げたままだった。
《第五主層生体兵装循環液製造設備》
《基礎材料を受領》
《限定製造準備――可能》
その表示が出ると、ようやく目を閉じる。
「待てって言ったのに」
返事はない。
白夜の巨大な脚の近くで、搬送個体は静かに呼吸を続けている。
私は第四層から持ち帰った、小さな呼吸具を見た。
子供の顔へ合わせて作られたもの。
レムナは、兵器を運ぶためだけの船ではなかった。
三百二十万人を逃がし、生かすための準備をしていた。
それだけの人間が逃げなければならない何かが、五千年前には存在した。
そして、その活動周期から四千九百八十七年が過ぎている。
白夜の内部で、巨大な循環がゆっくりと脈打つ。
艦体のさらに下では、それよりも弱く、古い記録に似た振動が始まっていた。
まだ大崩壊が何なのかは分からない。
ただ、レムナが目を覚まし始めた理由は、少しずつ分かり始めていた。




