第九話 《胡椒と砂糖とレオン》
第五層から搬送個体を連れ帰って、四日が過ぎた。
搬送個体は第六層の格納庫で休ませている。
折れていた右前脚の機能は六割ほどまで戻り、今では自力で維持液を飲み、短い距離なら六本の脚で歩けるようになった。
白夜へ運んできた基礎触媒も、循環制御設備へ接続されている。
《第一機動決戦兵装・白夜》
《生体循環系統――限定稼働中》
《基礎触媒残存量――14.0%》
《定期血液供給量――一日八ミリリットル》
朝のうちに血を渡し、第七層へ戻った。
救難対象はいない。
重症治療台も、軽症用寝台も空いている。
第五層の外部開口部を調べる準備はしていたが、搬送個体の脚がもう少し治るまで待つことにした。
久しぶりに、することが少なかった。
保存されていた肉を切り、調理板へ載せる。
味付けは塩。
焼いた肉を口へ運ぶ。
不味くはない。
火の通し方にも慣れた。
けれど、昨日も同じ味だった。
その前の日も、さらにその前も。
「ずっと塩」
《塩分摂取量は適正範囲内です》
「そうじゃない」
第七層に残っている調味料を調べる。
《第七主層生活物資》
《食塩――残存》
《調理油――残存》
《香辛料――在庫なし》
《糖類――医療用を除き在庫なし》
治療用の糖を菓子へ使うつもりはない。
第五層か第四層を探せば、保存食が残っている可能性はある。それでも何百年も前の胡椒や砂糖を食べる気にはなれなかった。
「地上で買える?」
《肯定》
「行ける?」
《登録済み接触地点を検索します》
地上の簡易地図が表示される。
《登録済み接触地点》
《奈落上部都市・西部郊外》
《周辺安全性――確認済み》
《帰還者レオン・アルヴェインの登録生活圏と一致します》
以前、レオンを帰した場所だった。
第七層の主要機能が復旧したことで、救難対象が存在しない時でも、登録済みの安全地点へ管理者を派遣できる。
《管理者現地派遣――利用可能》
《目的を入力してください》
「胡椒と砂糖を買う」
《物資調達》
《第七主層の居住環境維持に該当します》
《派遣可能》
「服とか食器も買っていい?」
《影蔵の収容上限および派遣継続時間を超えない範囲で可能です》
《現地派遣最大継続時間――24時間》
《使用後再充填――最大24時間》
《緊急救難要請が発生した場合、帰還が提案されます》
登録された場所へしか行けない。
使ったあとは再充填も必要になる。
好きな場所へ自由に飛べる機能ではないが、買い物へ行くには十分だった。
先に、接触印を通じてレオンへ伝言を送る。
《今日、そっちへ行く》
すぐに返事が来た。
《本当か》
《何かあったのか》
《胡椒と砂糖が欲しい》
今度は少し間が空いた。
《それだけか》
《うん》
さらに少し待つ。
《分かった。西門の外で待つ》
何が分かったのかは分からない。
私は地上へ持っていく素材を選んだ。
以前倒した魔物の牙や角、甲殻、魔石。
深層因子を強く含むものや、レムナで加工されたものは残す。地上でも比較的流通していそうな素材だけを布へ包み、影蔵へ入れた。
濃紺の上着と黒いズボンへ着替える。
その上から、深いフードのついた外套を羽織った。
腰まで伸びた髪をまとめ、外套の中へ押し込む。
「顔、見えない?」
《顔面認識可能領域――34%》
「まだ多い」
《俯いた状態を維持した場合――15%》
ずっと俯いて歩くのは面倒だった。
それでも、《奈落の姫》として騒がれるよりはいい。
《管理者現地派遣を開始します》
床から光が立ち上がる。
白い治療室が消え、足元の感触が柔らかな土へ変わった。
---
転送先は、奈落上部都市の西門から離れた林の中だった。
街道からは見えず、周囲に人の気配もない。
木々の隙間から、巨大な城壁の上部が見えている。
林を抜けると、街道脇にレオンが立っていた。
灰色の旅装に、腰の剣。
こちらを見つけると、少し早足で歩いてくる。
「来たな」
「行くって言った」
「本当に来るとは思ってなかった」
「何で?」
「お前、用事がなければ地上へ来ないだろ」
「用事ある。胡椒と砂糖」
「それは聞いた」
レオンは私の顔を確かめるように、フードの奥を覗き込んだ。
「元気そうだな」
「普通」
「会いたかった」
「何で?」
レオンが言葉を失った。
「何でって……」
「一回しか会ってない」
正確には、治療や帰還まで含めて同じ場所にいた時間は短くない。
それでも、地上で普通に会うのはこれが初めてだった。
「一回会えば、また会いたいと思うことくらいあるだろ」
「あるの?」
「ある」
「誰にでも?」
「誰にでも言うと思うか」
「知らない」
レオンは一度空を見上げた。
「その反応になるとは思ってたが、実際にされるときついな」
「怪我した?」
「してない」
「じゃあ平気」
「そういう意味じゃない」
何を言いたいのか分からなかった。
レオンが私の外套を見る。
「それで顔を隠してるつもりか」
「隠れてる」
「髪が出てる」
フードの隙間から、つやのある黒髪が胸元へ流れていた。
中へ押し込む。
「これでいい?」
「少し屈め」
「何で?」
「留め具がずれてる」
レオンが外套の襟元へ手を伸ばす。
触れられる前に半歩下がった。
「自分でできる」
「嫌だったか」
「嫌じゃない。でも近い」
「悪い」
レオンが両手を上げた。
私は留め具を直す。
「これ?」
「ああ。それなら顔も見えにくい」
「最初から言って」
「直そうとしただけだ」
北の礼拝堂での救助は、この都市にも伝わっているらしい。
黒い翼。
赤い目。
銀白色の長い髪。
どれも見られれば、《奈落の姫》と結びつけられる可能性がある。
「会ったことあるって言わないで」
「言わない」
「助けたことも」
「分かってる」
「家のことも聞かないで」
「今日は聞かない」
「今日は?」
レオンが少し笑った。
「そのうち、お前から話してくれるかもしれないだろ」
「たぶん話さない」
「今はそれでいい」
どうして嬉しそうなのか分からなかった。
西門へ向かって歩き始める。
レオンは私の少し前へ出て、街道を通る荷馬車や冒険者から隠すような位置を歩いた。
「何を買う予定だ」
「胡椒。砂糖。塩。油」
「塩はあるんじゃないのか」
「ある。でも買っておく」
「ほかは?」
「食器。鍋。服。布。甘いもの」
「随分あるな」
「買い物、初めてだから」
レオンの足が僅かに止まった。
「初めて?」
「自分で町に来て買うのは」
「なら俺が全部案内する」
「一人でできる」
「相場は分かるのか」
「分からない」
「店の場所は」
「知らない」
「金の種類は」
「たぶん分かる」
「たぶんで一人にできるか」
「物を選んで、金を払うだけ」
「その金をどれだけ払うかが問題なんだ」
「足りなかったら素材売る」
「足りすぎる方を心配してる」
レオンが大きく息を吐いた。
「今日は俺と回れ」
「何でそんなに一緒にいたいの?」
「それは……」
また言葉が止まる。
少し考えてから、レオンは私を見た。
「会いたかったからだ」
「さっきも言った」
「何度でも言う」
「一回しか会ってないのに?」
「それも何度も言う気か」
「変だから」
「俺は変でもいい」
「よくないと思う」
レオンが笑った。
怒ってはいないらしい。
何を考えているのか、よく分からなかった。
---
西門の衛兵は、レオンの顔を知っていた。
簡単な確認だけで通される。
私へ視線を向けた衛兵に、レオンが告げた。
「連れだ。身元は俺が保証する」
「お前が?」
「何か問題か」
「いや。珍しいと思っただけだ」
衛兵は私とレオンを交互に見たあと、意味ありげに笑った。
「ごゆっくり」
「何?」
門を抜けてから尋ねる。
「気にするな」
「変な顔してた」
「気にするな」
二回言うということは、説明したくないらしい。
都市の中は、多くの人と荷馬車で賑わっていた。
石造りの建物。
露店。
武器を持つ冒険者。
薬草や魔物素材を運ぶ商人。
救助でも戦闘でもなく、普通に町を歩くのは初めてだった。
血の匂いも、助けを求める声もない。
代わりに、焼いた肉とパンの匂いがする。
「お腹空いた?」
レオンが聞く。
「少し」
「先に何か食べるか」
「先に金」
「妙なところで真面目だな」
「食べて払えなかったら困る」
「俺が払う」
「何で?」
「飯くらい奢らせろ」
「素材ある」
「そうじゃなくて、俺が払いたいんだ」
「意味ない」
「俺にはある」
「何の?」
「……そのうち分かれ」
また曖昧にされた。
素材を売ってから食べればいい。
---
レオンが選んだ素材買取所は、大通りから少し離れた場所にあった。
店内には、牙、角、毛皮、薬草が種類ごとに並べられている。
受付の中年男は、レオンを見ると片手を上げた。
「珍しいな。今日は売りか」
「俺じゃない」
男の視線が私へ移った。
黒い外套。
深いフード。
その隣にいるレオン。
「こちらの方は?」
「俺の大事な人だ」
「違う」
反射的に否定した。
買取人の眉が上がる。
レオンは頭を押さえた。
「知り合いだ。余計なことは聞かないでくれ」
「今、大事な人って言った」
「俺にとってはそうだ」
「一回しか会ってない」
「そこを店の人に説明するな」
買取人は笑いを堪えているようだった。
「承知しました。では、お品物だけ拝見いたします」
机へ布を広げる。
鉄角鹿の角。
灰牙狼の牙。
岩甲蜥蜴の甲殻。
中型の魔石を三つ。
買取人は、最初の角を持ち上げた時点で表情を変えた。
「非常に状態がよろしいですね」
「売れる?」
「もちろんでございます」
素材を一つずつ調べ、金額を書いた板が差し出される。
数字を見ても、高いのか安いのか分からない。
レオンを見る。
「妥当だ。角については、もう少し上げられるだろ」
買取人が苦笑する。
「お連れの前で厳しいですね」
「変な値段をつけるなよ」
「最初から適正額ですよ。ですが、こちらの角には少々上乗せいたしましょう」
金額が少し増えた。
「これで」
「交渉はなさらないのですか」
「レオンがした」
「俺がいなかったら最初の値段で売ってただろ」
「十分だった」
「そういうところが危ない」
買取人が素材を包み直しながら尋ねる。
「こちらは、どなたかから預かった品ですか」
「私の」
「……ご実家の保有されている狩猟地で?」
「違う」
「左様でございますか」
急に言葉遣いが丁寧になった。
革袋へ入れられた金貨と銀貨を、影蔵へ収納する。
買取人の視線が手元で止まる。
「高位の収納魔導具をお持ちなのですね」
「影蔵」
「固有の術式でございましたか。失礼いたしました」
店を出る時には、入った時より深く頭を下げられた。
外へ出ると、レオンが横から私を見る。
「もう貴族の娘だと思われてるな」
「何で?」
「状態のいい素材を持ってる。値段を気にしない。高価に見える収納能力を使う。出所を話さない。それに」
レオンが私の外套の裾を見る。
「服が妙に上等だ」
「古い服を直しただけ」
「直し方が良すぎる。縫い目が見えない」
レムナの作業個体が修復した。
それは言えない。
「訂正した方がいい?」
「しなくていい。身分を隠した貴族だと思われてる方が、冒険者扱いされるより詮索されにくい」
「じゃあ、このまま」
「お前、そういうところは迷わないな」
「都合いいから」
---
市場へ入る。
最初に香辛料の店へ向かった。
木箱の中に、黒い粒、赤い粉、乾燥した葉、黄色い種が並んでいる。
一番手前の黒い粒を指す。
「これ、胡椒?」
店主が私とレオンを見比べる。
外套の下から見える、傷のない服。
手入れされた髪。
私の半歩後ろに立つレオン。
店主はすぐに背筋を伸ばした。
「はい。南方より運ばれた黒胡椒でございます、お嬢様」
「お嬢様じゃない」
「大変失礼いたしました」
「胡椒は買う」
「どれほどご用意いたしましょう」
木箱を見る。
必要な量は分からない。
「全部」
「駄目だ」
レオンがすぐに止めた。
「何で?」
「多すぎる」
「毎日使う」
「毎日使っても数年分ある」
店主も困ったように笑う。
「一般のご家庭であれば、こちらの一袋でも長くお使いいただけます」
「じゃあ十袋」
「二袋」
レオンが言う。
「少ない」
「初めて使うんだろ」
「串焼きにかかってる」
「自分でかけるのは初めてだ」
「五袋」
「三袋」
「分かった」
店主が三袋を包む。
「素直だな」
「レオンがずっと言うから」
「俺の言うことを聞いてくれるなら、一緒に来た意味があった」
「胡椒の量を減らすために来たの?」
「それだけじゃない」
レオンが私の方へ少し身を寄せる。
「一緒に歩きたかった」
「何で?」
「またそこからか」
「分からないから」
「好きだからだ」
店主の手が止まった。
私はレオンを見る。
「一回しか会ってない」
「知ってる」
「顔?」
「顔も好きだ」
「それだけ?」
「話し方も、考え方も。命を助けても、礼を求めないところも」
「治療しただけ」
「その“だけ”で何人助けた」
「覚えてない」
「そういうところもだ」
「何言ってるの?」
本当に分からなかった。
患者として会っただけ。
名前をつけたのはレオンだが、それだけで好きになる理由には足りないと思う。
「何で笑うの」
「いや。予想どおり過ぎて」
「変な人」
「それでもいい」
店主が咳払いをした。
「胡椒、三袋でよろしいでしょうか」
「うん」
「塩や香草もご覧になりますか」
「見る」
店主は何も聞かなかったことにして接客を続けた。
塩。
乾燥香草。
肉へ合う赤い実。
煮込みへ入れる葉。
店主の説明を聞き、必要そうなものを買う。
「お屋敷へお届けいたしましょうか」
「持って帰れる」
「ですが、この量をお一人で……」
「大丈夫」
包まれた香辛料を影蔵へ入れる。
店主は驚いたが、すぐに丁寧な笑顔へ戻った。
「大変優れた収納魔導具でございますね」
「便利」
店を離れてから、レオンが言う。
「お屋敷へ届けるって聞かれても、否定しないんだな」
「住所聞かれたら困る」
「正しい」
「あと、好きとか店の中で言わないで」
「嫌だったか」
「変な空気になった」
「二人だけなら言っていいのか」
「そういう意味じゃない」
「残念だ」
レオンは全く残念そうではなかった。
---
次は砂糖と蜂蜜の店へ入った。
白い砂糖は塩よりずっと高い。
それでも素材を売った金には余裕があった。
「砂糖、これ」
「どれほどお包みいたしましょうか」
「瓶五つ」
「五つでございますか」
「多い?」
レオンを見る。
「砂糖は保存できる。好きにしろ」
「胡椒と違う」
「舌が痛くならないからな」
砂糖を五瓶。
蜂蜜を二瓶。
三種類の茶葉。
乾燥果物。
焼き菓子。
試食として渡された菓子を口へ入れる。
柔らかい生地の中に、蜂蜜と潰した果物が練り込まれていた。
甘い。
保存食の糖分とは全く違う。
「もう一つ」
店員が笑う。
「お気に召しましたか?」
「たぶん」
「では、こちらもお包みいたしましょうか」
「三袋」
「二袋で十分だろ」
レオンが口を挟む。
「胡椒は減らした」
「菓子まで減らすとは言ってない」
「じゃあ三袋」
「好きにしろ」
「レオンも食べる?」
一袋から菓子を一つ取り出す。
「くれるのか」
「案内してるから」
レオンへ渡す。
一口食べたレオンが、少しだけ笑った。
「甘いな」
「おいしくない?」
「おいしい。お前からもらったから、余計に」
「同じ味だと思う」
「そういう返しをすると思った」
「なら言わなければいい」
「言いたいんだよ」
やはり変だった。
市場を歩くたび、買うものが増えていく。
小麦粉。
豆。
油。
酢。
乾燥肉。
保存用の瓶。
皿。
木の匙。
小さな鍋。
石鹸。
針と糸。
柔らかな布。
レオンは店の場所を知っているだけではなく、値段が高すぎれば止め、品質の悪いものは選ばせなかった。
「こっちは薄い。すぐ破れる」
「布に詳しい?」
「旅をしてれば嫌でも分かる」
「これなら?」
「いい。肌にも痛くない」
「触ったの?」
「布をな」
「私じゃなくて?」
レオンが固まった。
少し前まで、同じようなことを何度も言っていた。
今度は私が聞くと、急に黙る。
「触りたいけど、勝手には触らない」
「そう」
「それだけか」
「何て言えばいいの」
「もう少し動揺するとか」
「何で?」
「……もういい」
諦めたらしい。
衣服店では、丈夫な上着とズボンを何組か買った。
下着も必要な分を選ぶ。
レオンはその時だけ、
「外で待ってる」
と言って店の外へ出た。
意外だった。
ずっとついてくるつもりかと思っていた。
店員は私の外套の下へ一瞬だけ目を向け、すぐに丁寧な笑顔を作った。
「旅装をご希望でしょうか」
「動きやすい服」
「お色は」
「黒か濃い青」
数着選んだところで、店員が淡い青色のドレスを持ってくる。
「こちらも大変お似合いになると思います」
「動きにくい」
「外出着として仕立てを調整できます」
「いらない」
「お連れの殿方も、お喜びになると思いますが」
「何で?」
店員が少し困った。
「大切な方なのでは?」
「レオンが勝手に好きって言ってる」
「まあ」
「一回しか会ってないのに」
店員は何とも言えない顔になった。
「情熱的な方なのですね」
「変な人」
「ですが、ずっと店の外でお待ちになっています」
窓を見る。
レオンは入口の横に立ち、通りを眺めていた。
私が出てくるのを待っている。
「待つのは普通じゃない?」
「それは、相手によるかと」
よく分からない。
結局、ドレスは買わなかった。
代わりに簡素な服と予備の外套を影蔵へ入れる。
「お屋敷の方へ請求書をお回しする必要はございませんか」
「ない。今払う」
代金を渡す。
店を出ると、レオンがすぐにこちらを見た。
「終わったか」
「うん」
「変な奴に話しかけられなかったか」
「店の人だけ」
「何か勧められた?」
「ドレス」
「買ったのか」
「買ってない」
「見たかったな」
「動きにくい」
「見るだけならいいだろ」
「レオンのために服を買わない」
「俺のためじゃなくても、着たら褒める」
「何でそんなに褒めたいの?」
「好きだからだ」
「また言った」
「何度でも言う」
やはり変だった。
道の反対側から、小さな声が聞こえる。
「どちらの家のお嬢様かしら」
「紋章を隠しておられるのでしょう」
「あの剣士が護衛か?」
「護衛にしては距離が近いぞ」
「駆け落ちでは?」
「違う」
思わず声が出た。
噂していた二人が慌てて目を逸らす。
レオンが笑いを堪えている。
「何で笑うの」
「駆け落ちに見えるらしい」
「違う」
「今はな」
「今もあとも違うと思う」
「先のことは分からない」
「レオンだけが言ってる」
「まず俺が言わないと始まらないだろ」
「始めるつもりなの?」
「そのつもりだ」
何を始めるのかは分かる。
たぶん恋人とか、そういうもの。
でも、一度会っただけの相手と急にそうなる理由が分からない。
「私は、まだレオンのことよく知らない」
「だから今日、一緒にいる」
「知ったら嫌いになるかも」
「その時は、その時に考える」
「それでもいいの?」
「最初から好かれると思ってない」
「好きって言ってるのに?」
「俺が好きなのと、お前が俺を好きかは別だろ」
それは分かりやすかった。
「じゃあ、今はレオンだけ」
「そうだな」
「一人で頑張って」
「少しくらい手伝ってくれ」
「何を?」
「たまに会うとか、話すとか」
「買い物があれば」
「用事がなくてもだ」
「何するの?」
「飯を食う。町を見る。お前の話を聞く。俺の話もする」
「それで好きになる?」
「保証はない」
「効率悪い」
「恋愛に効率を求めるな」
恋愛。
はっきり言われても、実感はなかった。
前の身体だった頃なら、もう少し違う反応をしたのかもしれない。
今は自分の身体も、レオンとの距離も、まだよく分からない。
「考えておく」
レオンの顔が明るくなる。
「本当か」
「会うかどうかだけ」
「十分だ」
本当にそれでいいらしい。
---
市場の中央で、串に刺した肉が焼かれていた。
胡椒と香草の匂いがする。
二本買い、一本をレオンへ渡す。
「金は俺が払う」
「もう払った」
「早いな」
「案内のお礼」
「なら、ありがたくもらう」
その場で食べる。
塩だけの肉とは全く違った。
香りが強く、噛むたびに胡椒の辛味が広がる。
「おいしい」
「これくらいなら自分でも作れる」
「胡椒をかけるだけ?」
「かけすぎるなよ」
「分かった」
「本当に分かってるか?」
「レオンが止めた量を買った」
「使う量はもっと少ない」
「どれくらい?」
レオンは近くの食器店へ入り、小さな木の匙を一つ買った。
戻ってきて、私へ渡す。
「最初は、この半分」
「少ない」
「それ以上だと辛い」
「レオンも使ってる?」
「ああ」
「じゃあ信じる」
「俺のことを信じてくれるのか」
「胡椒だけ」
「少しずつ増やす」
「勝手に増やさないで」
「信頼の話だ」
「胡椒の量だけ聞いた」
レオンはまた笑った。
食べ終えた頃、砂糖を買った店の店主が追いかけてくる。
「お客様」
「何?」
「次回お越しになるまでに、王都から上等な茶菓子を取り寄せておきます」
「次も来るって分かるの?」
「お気に召されたご様子でしたので」
少し考える。
胡椒も砂糖も、すぐにはなくならない。
それでも、店にはまだ食べたことのない菓子があった。
「……来るかも」
「お待ちしております」
店主は深く頭を下げた。
歩き始めると、レオンが隣で言う。
「次に来る理由ができたな」
「菓子」
「俺じゃないのか」
「レオンは今日いた」
「次もいる」
「呼んでない」
「呼ばれなくても、連絡が来たら迎えに行く」
「何で?」
「会いたいからだ」
「しつこい」
「嫌ならやめる」
「嫌とは言ってない。よく分からないだけ」
レオンは少し驚いたあと、穏やかに笑った。
「なら、分かるまで待つ」
「どれくらい?」
「お前が決めろ」
「長いかも」
「構わない」
一度しか会っていない相手に、そこまで言う理由はやはり分からなかった。
ただ、嘘を言っているようにも見えなかった。
---
夕方になる前に、西門を出た。
転送地点の林まで、レオンが一緒についてくる。
《現地派遣継続可能時間――4時間06分》
時間には余裕があった。
影蔵の中には、朝にはなかったものが大量に入っている。
胡椒。
砂糖。
蜂蜜。
茶葉。
服。
布。
鍋。
食器。
菓子。
「買いすぎた?」
「最初にしてはな」
「金、残ってる」
「残ってればいいわけじゃない」
「また素材を売る」
「そういうところが貴族だと思われるんだ」
「貴族じゃない」
「知ってる」
林の奥で足を止める。
「ここから帰れる」
「そうか」
レオンは、少しだけ寂しそうな顔をした。
「何?」
「もう帰るんだなと思っただけだ」
「二十四時間ずっといる必要ない」
「そうだな」
「次は、菓子が来たら来る」
「店のためか」
「レオンもいる?」
「もちろん」
「なら、その時また話す」
レオンの表情が変わる。
今度は明らかに嬉しそうだった。
「約束だぞ」
「菓子が届いたら」
「それでもいい」
現地派遣の終了を指示する。
光が足元から立ち上がる。
レオンが最後に一歩近づいた。
「エルセリア」
「何?」
「今日は来てくれて嬉しかった」
「胡椒と砂糖、買えたから私もよかった」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
少しだけ。
全部ではない。
それでも、レオンが買い物そのものではなく、私と一緒にいたかったのだということくらいは分かった。
「でも、まだ変な人」
「次までに少しは普通になる」
「無理そう」
「酷いな」
光が視界を覆う。
レオンの笑う声を最後に、林の景色が消えた。
---
第七層へ戻る。
《管理者現地派遣――終了》
《登録済み接触地点の安全性を更新》
《奈落上部都市・西部郊外》
《再派遣可能》
《再充填完了予測――23時間58分後》
影蔵から買ったものを出す。
調味料の瓶を棚へ並べる。
新しい皿を洗う。
寝台へ柔らかな布を敷く。
服は生活区画の収納へ入れた。
夕食には肉を焼いた。
塩。
香草。
胡椒。
レオンからもらった匙を使う。
半分と言われた。
匙へ胡椒をすくう。
少なく見えたため、もう一度足した。
焼き上がった肉を口へ入れる。
すぐに咳が出た。
辛い。
鼻の奥まで痛い。
慌てて水を飲む。
《胡椒使用量――推奨値の約四・二倍》
「もっと早く言って」
《調理開始前に使用量の照会はありませんでした》
「次は半分」
《推奨します》
辛いが、不味くはなかった。
塩だけの肉より、ずっと味がある。
食後には茶を淹れ、砂糖と蜂蜜を入れた。
買った菓子も一つ食べる。
甘い。
静かな第七層で一人で食べても、おいしかった。
《居住環境の変化を確認》
《非任務用生活物資――増加》
《特定外部個体に由来する物品――保管》
《居住区画への帰属意識を検出》
《人間性残留値――上昇》
《管理判断への影響――現時点では許容範囲内》
「人間性?」
《生活行動、外部個体への関心および帰属意識を総合評価しています》
「悪いの?」
《現時点では是正を必要としません》
「ならいい」
表示を閉じる。
レオンからもらった匙は、そのまま別の場所へ置いておいた。
捨てる理由はない。
それだけだと今は思った。
夜、第六層へ向かう。
白夜へ八ミリリットルの血を渡す。
白い装甲の内側を、赤い光が一度だけ走った。
「胡椒と砂糖、買った」
白夜は動かない。
「レオンが好きって言ってきた」
巨大な循環が、ゆっくりと脈打つ。
「一回しか会ってないのに。変だよね」
返事はない。
格納庫の端では、搬送個体が六本の脚を折り畳んで眠っている。
「また来るね」
白夜も搬送個体も答えなかった。
第七層へ戻る。
棚には香辛料と砂糖の瓶が並び、寝台には新しい布が敷かれている。
レオンが渡してきた小さな匙だけは、調味料の瓶とは別の場所へ置いた。
捨てる理由はない。
第七層は、患者を治療するための場所だった。
それは今も変わらない。
けれど、食器や服、胡椒の匂いと甘い菓子が増えたことで、少しだけ私が暮らす家らしくなっていた。




